「ふっふっふっふ……今日という今日こそはガヴリールをギャフンと言わせてやるんだから!」
自席で不敵な笑みを浮かべるサターニャ。昼食後の掃除も終えて午後の授業がもうすぐ始まろうとしている時間帯に、彼女は鞄から一つの袋を取り出した。
大量の飴玉が入った袋には『七色ドロップ』とデカデカと記されており、名前の通り七色の飴玉がぎっしりと詰められている。
「お、なにそれサターニャ。飴? くれよ」
「お前はいっつも図々しいわね……って、なんで今日はそんなに髪サラサラしてんのよ」
気だるげに話しかけるガヴリールの髪型はいつものボサボサなものではなく、艶のある流麗な金髪だ。身だしなみに一切気を使わない彼女が髪を整えていることは珍しく、サターニャはその事実を既に半日が経過した頃に発見した。
ガヴリールはやや不満そうに頬を膨らませている。
「朝飯を来栖家にたか……たからせて貰おうと思って行ったら、あいつの母さんにやられた」
「ふーん、意外と親はまともなのね」
「お前が言うか。とりあえず飴貰うぞ」
「あ、ちょっと!」
制止する声も聞かずに袋を力任せに破って開封。弾みで転げ落ちたものを手に取ると、味も確認せずにガヴリールは自身の口内へと放り入れる。無遠慮に人の飴を頬張るジャイアニズム的行為にサターニャも抗議の声を上げようとするが、奪われた飴の色が橙色をしていたため怒りを堪えた。
「ふふふ――食べたわね!」
『七色ドロップ』は彼女が魔界通販で買ったアイテムだ。ただの飴玉のように見えて「色ごとに食べた者の感情を操作する」効果がある。色次第では人格そのものに影響を及ぼすこともあり、くだらない商品ばかり掴ませる魔界通販にしては純粋に強力な効果をもつアイテムなのだ。
七色という名前の通り、赤・青・紺・橙・黄・紫・緑でそれぞれ愛情・悲しみ・恐怖・尊敬・希望・絶望・焦燥の感情に染められてしまう。サターニャは
そして悪巧みを知らないガヴリールは偶然にも橙色の飴を口にした。つまり――
「ほら、なんとか言ってみなさいよガヴリール?」
「……サ、サター……」
「んー? よく聞こえないわねー?」
「サ、サターニャ様!」
尊敬のガヴリール、生誕。
大悪魔サタニキアに心酔する
しかし七色ドロップの効果に呑まれたガヴリールは、あっさりと頭を垂れた。
「私は貴女様のことを心より尊敬しています! 今までのご無礼、どうかお許し下さい!」
「お、おおう、いい格好じゃないの。なんかちょっと気味悪いけど……」
偶然にも髪が整っている彼女の今の立ち振る舞いは、入学当初の礼儀正しく天使のようであった頃と酷似している。クラスで浮いていたサターニャにとってその姿は未知なるもので、ギャップで萌えることもできない謎の悪寒が背筋を這った。
「サターニャさーん、ガヴちゃーん。何か面白そうな予感がしたのですがー」
「げっ、ラフィエル! 丁度良いわ、あんたも私を尊敬するのよ!」
「え? また
「ちっがーう! あんたもほら、飴あげるから食べなさいよ」
どこからともなく湧いて出たもう一人の天使にも飴を渡す。しかしよく中身を確認せずに取り出したため、首を傾げるラフィエルの手中に転がったのは青色のものだった。
「え? ありがとうございます、ではいただきますね」
「あっちょっと待って間違え――」
悲しみのラフィエル、爆誕。
常に余裕のある微笑みを崩さないある意味のポーカーフェイスな彼女は、瞳一杯に大粒の涙を溜めて両手を胸の前で組んだ。琥珀色の瞳から透き通った涙が一粒、二粒と零れ始め、完璧美少女と謳われた表情が一気に崩壊する。
演技ではない。本気で泣いているのだ。
「うっうぅ……サターニャさぁん、ひどいですぅ……」
「え!? 私が何をしたって言うのよ!」
「だって…………もっと弄らせて欲しいのに、逃げてばっかりでぇ……」
どうやら泣いてもラフィエルはラフィエルらしい。
めそめそと溢れる涙を拭う姿は普段からは想像もつかないほど弱々しく、微妙に気品を感じる泣き方のせいで若干の色気が出ている。
「サターニャさんん……もー!」
「逆ギレ! なにこのめんどくさいラフィエル!」
「サターニャ様、今日はとても良い天気ですよ。よろしければその、私と外で遊んでいただけないでしょうか?」
「ごめんなさいねガヴリール今それどころじゃないの! あーもー! なんでこうなるのよー!」
右腕には泣きながら抱きついてくるラフィエル、左腕には遠慮がちに袖をクイクイと引っ張ってくるガヴリール。日頃痛い目に辛酸舐めさせられている二人に対して同時に優位に立てる、まさに夢にまで見た光景――のはずだが。描いた夢とほとんど間違っていないというのに、何故か今はどちらも鬱陶しく感じる。
女々しさと珍妙さのダブルパンチ。どう対応すれば良いか分からないサターニャも泣きたい気分だった。
「……なにやってるのよ、二人してサターニャにベッタリじゃない」
「ヴィネット、助かったわ! こいつらどうにか――」
「ん、これのど飴? 今日ちょっと喉痛いんだけど、貰ってもいい?」
「いいわよ、喉は大事に――って、待って! 違う! 食べちゃダメ!」
反射的に許可を下したことでヴィネットまでもが七色ドロップを取り出し、口へと運んでいく。失言に気付いた時にはもう遅く、既に三人目の犠牲者が出来あがろうとしていた。
と、そこへ疲労困憊といった様子の里九が戻ってくる。なぜか体中のあちこちが薄汚れており、どす黒い靴跡が制服にくっきりと刻まれていた。
「あぁ~もう疲れた、ほんっと疲れた。って、なんだその状況……何食ってんだヴィネット?」
「サターニャに貰ったの、のど飴らしいんだけどね」
「へーどれどれ、七色ドロップか。ってこれのど飴じゃないっぽいぞ」
「あれ、違うの? でもサターニャは――ッ」
悲しみと尊敬の惨劇を尻目にほのぼのとした会話をする二人の間に、トラックが全力で大地を引き潰して軋轢を起こしたくらいの衝撃と距離が生まれる。正確にいえば距離はおよそ三メートルほど離れており、とても会話できるような距離ではなかった。
爆速の勢いで後退したヴィネットに里九は唖然としているが、サターニャはなんとなく予想がついてポン、と手を打とうとして思いの外右腕が拘束されている事実を噛み締める。泣きじゃくるラフィエルが豊満な胸と柔らかな腕でがっちりとホールドしているようだ。
「多分、赤ね」
愛情のヴィネット、誕生。
愛情はその名の通り「効果が発動する直前に見た相手が好きで好きで堪らなくなる」という効果をもつ。たとえ異性同士であっても強制的に恋愛対象として見てしまう愛情は、ある意味七つの中で最も絶大な力があるといえる。
過剰な距離はおそらく俗にいう「好き避け」――好きな相手に対して恥ずかしさのあまり物理的に距離を置いたり、あからさまに視線を逸らしたりしてしまうというやつだ。
「お、おーいヴィネット。どうした急に」
「別になんでもないわよ?」
「その割に滅茶苦茶遠いんだが。キャッチボールでもする気なのかお前」
突如として芽生えた恋愛感情に戸惑ってしまうのは仕方のないことである。きっと今のヴィネットはこれまで経験したことのない謎の羞恥心と高揚感、そして胸を締め付けるような痛みに困惑しているに違いない。説明書だけはしっかりと読んだため、サターニャにでも今の彼女の状態は手に取るように分かった。
「サターニャさん、無視するなんてひどいですよう……」
「サターニャ様、美術の時間は私とペアを組んでいただけないでしょうか?」
「こいつらどうすればいいのかしら……えーっと、なになに……効果は五時間続く!?」
説明書を広げ、今更得た情報に目を丸くする。五時間、つまり午後の授業を乗り切っても三時間近くは両腕が自由に動かせない状態が続くということだ。
せめて片方だけならば、とサターニャは自身の選択を悔んだ。
「あ、サターニャ様。先程いただいた飴、とても美味しかったです。是非ともお食べになってください」
「いや私はそれ食べないから――もごっ!?」
善意と敬意の塊に無理矢理飴を押し付けられ、危うく喉に詰まりそうになりながらも口に広がるブドウのような味を噛み締める。
「――――。あーあ、なにが大悪魔よバッカみたい。私なんてどうせ何もできやしないのに」
そして絶望のサターニャが完成した。
大言壮語で無知蒙昧、常に自尊心を欠かさず高飛車に振舞う大悪魔がとうとう自己否定をし始める。暗い表情で俯きがちに嘲笑し、自信もプライドの欠片も残らないネガティブな悪魔。両腕に絡みついてくる存在も忘却して哀愁を漂わせながらふらふらと教室を出ていき、怨嗟にも似た自虐の数々を呟いて姿を消していく。
少なくとも彼女は五時間、誰が何と言おうと自身を否定し続けるだろう。
周りが全員反転といっても差し支えないほど豹変。取り残された里九とヴィネットだけが一定の距離を保っていた。
騒ぎが耳障りだったのか、教室には既に二人以外の生徒はいなくなっている。
「……七色ドロップ? 食べた者の感情を操作……あぁ、なるほど、そういう」
里九は放置されていた飴の袋を見て事の発端を把握。発生した現象に辟易しつつも「没収」と呟いて袋を回収する。帰ってからゴミ箱にぶち込むことを決意して、怯えるように教室の隅に身を寄せるヴィネットに向き直った。
「なぁヴィネット」
「な、なに?」
「お前この飴の赤色食べただろ」
コクリ、と赤い顔で頷く。視線こそ合わせてくれないものの、会話は成立するらしい。
「赤色の飴は『愛情』、食べた後に最初に見た奴を好きになる効果付きのイチゴ味だとさ」
「た、確かに……飴を舐めてから変な気分だわ」
「というわけで俺はあと五時間、その効果が切れるまで出来る限りお前には近づかないようにするから安心してくれ」
「え」
目測と予想が正しければ、今のヴィネットは里九に好意を抱いていることになる。里九にとってそれはこの上ない喜びであり、時間制限付きとはいえ両想いの状態なのだ。流れに身を任せて告白でもすれば、今の彼女はきっと受け入れてくれるだろう。
しかし、里九は頬を染めながらよく分からない感情に身を強張らせる少女を前に――自分の想いを優先する気にはなれなかった。
「俺が好きなのはいつものヴィネットで、道具の力で俺を好きになってるお前じゃない。ちゃんと元に戻ったら、そうだな。……次の目標は名前の呼び捨てだ。いい加減里九って呼ばせてやるから覚悟しとけ」
現実は上手くいかない、なんとも世知辛いものだ。
たとえ偽りだったとしても意中の相手が想ってくれている、これほどの幸せはないというのに。
「じゃあ俺行くから、また後で……って、五時間後ってもう帰ってるやないかーい」
「――待って」
軽口を叩いて退場しようとすると、不意に薄汚れた制服の裾が引っ張られる。進行方向とは真逆に作用する力に一瞬体が持っていかれそうになるが、上体が若干後方へ傾く程度にしか動かなかった。
ドキリとして振り返る。後ろには距離を置いていたはずのヴィネットが苦しげに胸を抑えて立っていた。
「ど、どうなされた御仁?」
「……里九」
たった二文字。それだけで少年の体と心は凍てつくように止まる。
普段とは全く異なる響き――出会って間もない頃に願っていた呼び捨てが、ついに実現したのだ。
「私も、『りくくん』ってちょっと言いにくかったのよね。そういうのはもっと早く言ってよ」
「え、お、お前……大丈夫なのか?」
「何が?」
「いやだって飴」
言いかけて、未だに彼女の頬が紅潮したままだということに気付く。無理をしているわけでも強がっているわけでもないらしい。七色ドロップの効果時間の表記がでたらめだったのか、それとも――
難しい顔をして唸っていると、眉間に容赦なくチョップをかまされる。見るとヴィネットが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「……ま、なんともないならいいや」
「よろしい。あ、もうそろそろ授業始まるから、あの三人連れ戻してもらってもいいかしら? ラフィはクラスが違うけど……念のため。私先生に言っておくから」
「どこいるか分からん奴らを探せとはまた無茶を。そしてお前はなんて言い訳するつもりだよ」
「さーて、なんでしょうね?」
特に面白かったわけでもないのに、いきなりいつもの空気に戻ったことが妙におかしくて二人揃って吹き出す。五分前を告げる予鈴が鳴り響く中、堪え切れず笑う二人の声だけが教室を巡っていた。
その時の少女の顔など、少年は知る由もない。
――信じられない出来事を目の当たりにしたかのように、ひたすら少年を眺め続けている顔など、彼は見ていなかった。