それだけ言ってヨルはアリスの横を抜け、元来た道を戻っていく。
気付けば手の中には小さな紙片が握らされていた………彼のねぐらの住所らしい。
こんなものを用意しているということは、小遣い稼ぎに一商売やる気だったのだろうか?
とりあえずアリスはここで、小さな違和感となっていた彼の言葉の意味を理解した。
「ああ……処女と一緒に捨てたって………そういう……」
思春期と呼ぶべき時期をそういう風に過ごしたせいなのかしらね────
ヨルに指先で撫でられた内腿に触れながら、アリスはぽつりと呟いた。
その晩、彼は『誰が訪ねてきても「お腹がいたいから」と伝えて』と布団の中に籠城し、同居人の黒鉄珠雫を大いに困惑させたという。
《傭兵》ヨル。
辣腕の
一方その頃。
バキバキと硬質な音が連続して響く。
黒鉄珠雫の見えざる指揮に合わせて氷の柱が次々と一輝を襲い、一輝はそれらを避け、すかし、あるいは《隕鉄》で受け流していく。
───ヨルを意識した訓練と言っても、情報の少なさ故にやれる事は限られる。
『執拗に弱点を猛攻する』。
『不可視の打撃による手数』。
『圧倒的な姿勢の制御力』。
いま確定的な情報として挙げられるのはこの三点で、それを埋めるために一輝は珠雫に訓練の相手を頼んだのだ。
氷の柱は常に低空より襲いかかり、手数は他方向から複数発を同時に放つことで再現。
さらに姿勢の制御力による不意打ちは氷の柱からさらに氷の柱を放つことで、あたかも刀華戦でのヨルの戦い方を再現していた。
これはひとえに珠雫がずば抜けた魔法の技術と魔力制御を持っていたからできる訓練といえる。
訓練の手伝いをしてほしい、という兄の頼みを、珠雫は二つ返事で快諾した。
自分も新たな魔法を思い付くきっかけにもなるし、何より愛しい兄の為だからだ。
「ふっ!」
脚を粉砕しようと鮫のように伸びてくるような氷柱を、一輝は滑るようなフットワークで回避した。
その姿勢は低くまるで四足獣のよう。
足回りに集中する攻撃を立ったまま躱すのは容易ではない。重心を低く落とし、身体全体を使って動かねばならない。
左右から側頭と右胸を狙った攻撃を、一輝は下がるのではなく前にダッキングすることで回避。
直後、一輝は全力で身体を仰け反らせた。
ほぼ同時に下から突き上げられた氷の柱が、一瞬前に一輝の頭があった場所を貫いた。
「っっ……!」
───攻め方が厭らしくなってきている。
それでこそだと一輝は口元に笑みを浮かべ、伸びた上半身を狙うように放たれた三連の刺突を、後ろではなく前に進んで回避する。
(あのラッシュを前に後退するのはジリ貧になるだけだ。前に活路を切り開く!)
時に死角から襲い来る氷柱の尖端を予見したかのように回避し、まさにその刃の間合いに珠雫を捉えようとしたその時。
「────!!」
ゴガッッ!!と、氷柱どころではない、視界を覆うような氷の刃の群れが真正面から殺到してきた。
それはさながら樹が頂点から突っ込んできたかのような光景。
《隕鉄》を握る手に力が篭る。逃げろ、と本能がけたたましく警報を鳴らしていた。
しかし。
それでも一輝は、地面を強く後ろに蹴った。
「おおおおおおおっ!!」
屈み、捻り、反らし、切っ先の隙間に倒れ込むようにその身体を前へ前へと捩じ込んで。そして僅かに開けた氷刃の帳、その間隙に鴉の濡れ羽色が一分の乱れもなく滑り込み────
───ぴたり、と。
その刀身が珠雫の首の皮に触れた所で、その訓練は一先ずの区切りを迎えた。
「お見事です。お兄様」
「ありがとう、最後のは凄く良かったよ、本気で退がりそうになった。珠雫も何か掴めたかい?」
「はい。今のを煮詰めていけば、近距離戦に持ち込まれても得意分野で渡り合えそうです」
「むうう~……」
若干穏やかではないのは、それを横で見ているステラだ。
当初はステラが自身の攻撃を《
相手がステラなだけに、攻撃が見えずとも一輝は全て見切ってしまうのだ。最初からどこにどう来るか解ってしまっては意味がない。
ステラのやきもちはともかくとして、その点においても今まで剣を交えた事のない珠雫という人選は的を得ていたのだが、それだって有効なのは最初だけだ。
彼の照魔鏡の如き観察眼は、遠からず珠雫の思考も掌握する。そうなればもう、これは訓練の体を成さなくなる。
短いタイムリミットの中、一輝に課せられた課題は対ヨルに向けて体の使い方を
「あとどうしたんですかステラさん。ただでさえ太いのに今日は顔面まで太いですよ」
「ほっぺたよ!これは!ほっぺた!!膨らませてたの!!」
挨拶でもするようにステラを煽る珠雫に苦笑する一輝。綺麗に煽られるステラもステラだが、仲良しなのだ。