魔法少女いろは☆マギカ 1部 Paradise Lost   作:hidon

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FILE #16-S 『雉』の黄昏と、『鶴』の傷痕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつては腕利きの刑事だった彼は、定年退職してから8年間、退職金を当てに自堕落な生活を送っていた。たまに飲むしょぼい酒、たまに仲間とやるしょぼい博打を肴にして――――社会の役割を失った男というのは情けないものだ。死んだような毎日を送るしかない。

 このまま息絶えるまで無意味な日常を、暗闇の中に潜り込んだ蝙蝠の様にひっそりと生きていくのだろう――――そう考えていた彼だったが、

 

 

 ――――半年前に、光が差した。

 

 

 結果、彼は生き始めた。生きて、明日を向かなければならなくなった。

 それは、刑事の頃の自分が持っていた「活力」であった。

 

 

 ――――それにしても、水の音が煩わしい。

 

 

 男は不快に感じて、むくりと起き上がった。そこで彼は自身が布団で寝ていたことに気づく。

 そうだ確か――――昨日は珍しく浴びる様に飲んだんだっけか。記憶を失って、甥か、あいつ(・・・)が此処に運んでくれたのだろう。後で礼を言ってやるか。

 それにしても、水の音がさっきから激しい。音量からして、場所は恐らく脱衣場。

 

 ――――隼の野郎、出しっぱなしで寝やがったか。

 

 男はもうすぐ齢70になるが、身体で機能的に衰えている箇所は無かった。視力は両目ともに1.5はあるし、耳はハッキリと聞こえていた。

 脱衣場の近くにはトイレがあるので、夜中に起きて忘れたのだろう。そう断定し、頭の中で甥を名指しで叱ってやる。

 相変わらず、呑気でうっかりな奴だ。兄貴にこれっぽっちも似ていない。あの無神経振りを見てるとイライラする。

 男は舌打ちすると、枕の上に置いた時計を見て、時刻を確認する。

 現在、深夜2時13分――――仕方ない、止めてくるか、と思い、立ち上がろうとするが、

 

 

 ――――水の音に、違和を感じた。

 

 

 “ジャーッ”と、流れるだけ(・・)の音ならまだいい。“バシャバシャ”とは、どういう事(・・・・・)だ。

 

 ――――何だ? 誰かが、何かを「洗っている」のか……?

 

 男は奇妙に感じて、その場でじっと待つ。

 トイレから出て手を洗うにしては、長すぎる。

 

 ――――まさか、兄貴が化けて出てきたってのか?

 

 甥にしろあいつ(・・・)にしろ仕事以外の手洗いはサッと済ませる。念入りに洗う者といえば、自分と……家族の中ではあと一人しかいない。

 だが、確かそいつは、もうとっくに土の中にいる筈だ。

 刑事時代の彼は超常現象の類を全く信じていなかったが、『魔法少女』の存在を認知してからは、それを疑うようになっていた。あんなものが現実に万人も居るんだから、幽霊が十人や百人いたっておかしくはない。

 あれこれ考えている内に5分が経過していた。

 “バシャバシャ”という水音は未だ止まない。余程手に汚いものがこびりついていたのだろうか。

 

 ――――いや、待てよ。もしかしたら……

 

 自分かもしれないと、男は不意にそう思った。

 酔っぱらって、記憶を失って……何かに吐しゃ物をブチ撒けたのかもしれない。

 深夜に目が覚めたのに、二日酔いせず、頭がスッキリしてるのはそのせいだろうか。

 だとしたら、何かを洗っているのはあいつ(・・・)だ。途端に申し訳無い気持ちが、湧き上がる。

 

 

 男は足早に部屋を出て、階段を下りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一階に下りて脱衣場に辿り着いた男の目に飛び込んできたのは、あいつ(・・・)こと、甥の娘であった。

 兄貴の霊では無かったので、ひとまず安心する。

 

「電気ぐらい付けろ」

 

「…………」

 

 彼女から返事は無い。暗闇に閉ざされた脱衣場の洗面台で何かを真剣に洗っているようだった。男の声さえ聞こえない程に。

 男はスイッチをパチッと押して明かりを付ける。自分が汚したものだったら謝ろう。

 だが、甥の娘が洗っているのは、男が想像したものではなかった。衣類やシーツ類を抱えていない。

 では何を――――と思い、洗面台をじっと睨みつける。

 

「……ッ!」

 

 確認した途端、背中に冷たいものが走った。

 甥の娘が、一心不乱に洗っていたのは、自分の両手だった。

 

「おい鶴」

 

「…………」

 

 咄嗟に駆けよって、その腕を掴んだ。甥の娘――――鶴乃は、一切反応しない。無言のまま、顔を俯かせている。

 

「あかぎれになってるじゃねえか」

 

 季節は真冬だ。しかも時間は深夜。水道水は氷の様に冷たいはずだ。

 鶴乃の手は長時間冷水に浸りきっていたせいで、ふやけるどころか、全体が痛ましい程に罅割れを起こし、真っ赤に染まっていた。叩いたら割れて血漿を飛び散らせそうだ。

 

「…………」

 

 だが、鶴乃はその指摘を受けても一切振り向くことは無かった。寧ろ、彼の手を振り払い、再び両手を冷水に浸してこすり続ける。

 

「やめろ」

 

 男はもう見ていられないとばかりに、語気を強めにして叩きつけるようにそう言った。

 

「…………」

 

「てめぇがやってることは馬鹿のやることだ」

 

「…………」

 

 だが、鶴乃は無視して、バシャバシャと洗い続ける。

 男は疑わしそうに目を細めた。

 

「何が有った?」

 

 どうせ返ってこないだろうと分かりつつも、聞かない訳にはいかなかった。

 この娘だけは、意地でも守っていかなければならない。男にはその義務があった。

 

「……ち……い」

 

「は?」

 

 鶴乃が消え入りそうな声で、ゆっくりと呟いた。男は耳を傾ける。

 

「……落ちない」

 

「……っ!?」

 

 鶴乃が何を言っているのか、男にはわからなかった。

 

「……落ちない、落ちないよ……」

 

「?? 馬鹿言え、手には何もついてねぇぞ……!?」

 

 男は、寝ぼけているのか、とすら思ってしまった。

 だが、先程から背筋を虫の様に這い続けるこの冷たいものは、なんだ……!?

 嫌な予感がする。

 自分にとって、絶対悪い事が、今直ぐに起きるかもしれない。そう思い至ると、肩がグッと強張った。

 

「……ずっと洗ってるのに……こびりついちゃって……落ちないんだよ……っ!」

 

 鶴乃の声が震えてくる。冷水に打たれる両手は、いくら洗っても綺麗に浄化されるどころか、生々しい赤い罅割れを次々と形成していた。

 

「何が……手に付いてやがる?」

 

 それは尋ねてはならない質問だったのかもしれない。

 だが、男は自身が背負った強い義務感に背中を押された。尋ねずにはいられなかった。

 

 

「【痛み】」

 

 

「……!?」

 

 ボソッと、低い声で呟かれた一言に、男は息を飲んだ。

 悪い予感は、的中した。

 

 

 

「おんじ、わたしって……●●ってるのかな?」

 

 

 

 続けざまに放たれたその言葉は――――男の背筋がゾッと凍える程、虚しく響いていた。

 その問いに対する明確な答えを、当時の彼は持ってはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、一年と半年の月日が流れた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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