魔法少女いろは☆マギカ 1部 Paradise Lost 作:hidon
――――長い夢を見ていた。
楽しい夢だった。
家族みんなでピクニックに行ったこと。娘がハンバーグを作りたいと言ったので、手伝ってあげたこと。妻の誕生日に娘とサプライズパーティを企画して、喜ばせた事。
これまで経験してきた楽しい思い出が、走馬灯のように走り去っては、消えていく。
だが、所詮夢は夢でしかない。いつかは覚めて、現実に引き戻される。
目が覚めた瞬間視界が捉えた景色に、彼はそう思わざるを得なかった。
どこを見回しても黒、黒、黒――――延々と続く漆黒に息が詰まりそうになる。
現世で悪行の限りを尽くし、死んだ後に、閻魔大王から奈落の底に突き落とされた罪人とは、こういう感じだろうか。彼はそんな突拍子も無い事を考えた後に、ふっ、と――――自嘲気味に笑みを零した。
――――自分には、この《深淵》こそが居場所に相応しいのかもしれない。
だが、妻は関係無い筈だ。そう思うと、急に苛立ちが頭の天辺まで噴き上げてきた。
彼女は光の当たる世界で、いつまでも笑顔のままで居てほしい。娘も同じだった。自分達がいなくなった事を知れば、悲しみに暮れるだろう。
影を背負うのは、自分一人で十分だ。
「
――――返事をしてくれ。
そう願いながら彼は懸命に声を張り上げた。
だが、何度叫んでも、返事が来る事は無かった。
声量は、目の前の漆黒に吸い込まれて、虚しく消えていく。
「……っ!」
歩いて探そうと試みたが、それも叶わなかった。足を前に動かした瞬間、ピンッ、と引っ張られて元に戻された。
忌々しさに舌打ちを鳴らす。四肢を鎖のような何かで繋がれているようだ。
「……耀……」
声が届かないのであれば、せめて、無事で居てほしい。
自分の無力さに打ちのめされた彼にできる事は、そう願うだけであった。
「久しぶりだね。
――――ようやく、何者かの声が聞こえてきた。
奈落の底に住む悪鬼ではなく、正しく、生きた人の声だった。
彼――――環 輝一はゆっくりと顔を上げて、前方を見つめる。すると天井から突然、光がスポットライトのように降り注いだ。
「人道派として名高い日秀会長にしては、随分卑劣ですね」
光の下に現れたのは、電動式車椅子に乗った厳つい顔つきの老人だった。
輝一にとってはよく見知った顔だ。ふっ、と微笑を浮かべて皮肉めいた事を言ってのける。
「残念ながら、これは私の指示ではないよ」
源道は、輝一の言葉を冗談と受け取るまでも無く、獲物を捉えた鷹の様に冷たく見据えながら、威厳に満ち溢れた声でそう返した。
「彼女の意思だ」
そして、真面目ぶった顔を左に向ける。
彼より少し離れた位置に、新たなスポットライトが降り注いだ。
「…………ッ!!」
『彼女』の姿を捉えた瞬間、輝一の背筋がゾクリと粟だった。
もう一つの光の下に現れたのは、豪著な玉座に座った、幼い少女だ。見たところ年齢は二桁になったばかりであろうか。
「ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの『インビクタス』……!」
だが、輝一は知っていた。目の前の少女が本当は“何者”であるのかを。
特徴的な声で、軽やかに口ずさんだ詩を聞いた途端、嫌悪感が満面に顕れた。
あらゆる負の感情が一気に噴き上がって、胃の中をグズグズに煮立たせていく。
――――ああ、忘れもしない。お前の事を、決して忘れてなるものか。
この詩を自己紹介代わりに使うような人間は――自分の知る限り――世界に一人しかいないのだから。
「やはり、貴様の仕業か……!!」
殺気にも等しい憎悪を孕んだ瞳が、朗らかに笑う小さな少女を、強く睨みつけた。
深淵を統べる王。
奈落の底で蠢く蟲達から『プロフェッサー・マギウス』と崇められし幼女は、愉快そうな笑みを携えながら、血の様な紅蓮に瞬く瞳を輝一に向けた。
「ようこそ。“マギウスの翼”へ♪」
楽しそうな様な声を聞いてるだけで吐き気が催してきそうだった。
輝一は波立つ胃酸をどうにか堪えながらも、敵意を剥き出しにした瞳で、睨みつける。
「……まだ、あの計画は進行中か」
「ごもっともー」
輝一の問いに、灯花は満面の笑みで答える。
「馬鹿げているな」
「くふっ」
嘲るような、含み笑い。灯花はピョンと玉座から飛び降りると、スポットライトと共に輝一の目の前まで歩み寄る。
「それは、どっちの台詞かにゃー?」
「…………」
おどけた笑みと声色が、どうにか押し込めた筈の胃液を再び喉元まで押し上げてきた。輝一は不快に顔を顰めるものの、睨みつけるのを止めない。
「一度奈落の底に落ちた者は、二度と日溜まりに戻ることはできない。過去の過ちを忘れて、贖罪も辞めて、平穏な人生を送ろうとした貴方達こそ、馬鹿げていると思うけど……違うのかにゃー?」
輝一の沸点が、限界を超えた。
「黙れ。悪魔の子が……!!」
瞬間、灯花の瞳に暗い妖気が宿る。
「貴様の存在が、あの人を最期まで苦しめた……!」
底冷えするような冷たい眼光に震えながらも、懸命に訴える。
「私達は静かに暮らしたかっただけだ! 地獄だったあの頃を忘れて、普通の家族みたいに幸せな毎日を取り戻したかった! それなのに……!!」
輝一の中で何かが切れた。鬼の様に怒り狂った形相で、喚き散らす。
「何故だッ!? 何故お前が存在しているッ!? お前みたいな人間が生きている事を、神が許すと思うのかッ!!? 大人しく奈落の底で引き篭もっていろ!! それが出来ないならば醜く死ねッ!!!」
「おしゃべりは、そこまでだよ」
灯花が小さく呟くと、輝一がうっ、と呻き声を挙げた。
自分では確認できないが、首にも何かが巻かれているらしい。締め付けられる様な圧迫感が襲った。
「!!……僕のことは好きにしても構わない。だが、耀とあの子には手を出すな!」
「それはできない相談だねー」
「馬鹿な!?」
ヘラヘラと笑って無情に告げる灯花に、輝一は愕然となる。
「二人は関係無い筈だろう!!」
必死に叫ぶも、灯花はどこ吹く風だ。
暗い妖気を携えた瞳のまま、彼女は、輝一の耳元に唇を寄せると、赤子を慰める母親の様に、優しく囁いた。
「わたくしにとっての大事な目的の為にねー、その二人は必要なんだよー?」
「何が望みだ……? “解放”か?」
「それもあるけど、もう一つはねー……」
灯花はそこで一呼吸置くと、ニタリと口の端を吊り上げた。
「!!?」
輝一の頭の中が驚愕の余り真っ白に染まった。
「好きにしても構わないって言ったよね? 思う存分活用させてもらうよ♪ 輝一さん」
無邪気で無垢な幼子の声とは酷く不釣り合いな、残忍に歪んだ悪魔の微笑みが、かろうじて保たれていた輝一の精神に留めを刺した。
――――残された家族の無事を願う間も無く、輝一の意識は、そこで落ちた。