魔法少女いろは☆マギカ 1部 Paradise Lost   作:hidon

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FILE #03 心の奥底で沈んだものは

 

 

 

 

 

 

 

 やるべき事が増えてしまった。

 

 そもそも神浜市に来たのは、『小さなキュゥべえを捕まえる』というたった一つの目的しか無かった筈だ。

 ところが、体力不足で『昼食』が必要になり……ソウルジェムの『調整』と、『保護申請書』の登録手続きが必要になり……いつの間にか、4つぐらいに増えているではないか。

 

 ――――どうしてこうなった。

 

 どこかで誰かが、そんな言葉をよく口にしていた気がするが……今の自分の心境とは正にそれだった。

 

「できたわよ」

 

「!! ありがとうございます」

 

 考えている矢先に、ピーターがカウンターの奥の厨房から現れた。筋肉山盛りの大柄の巨躯に、少女さながらのハート柄のエプロンを掛けているせいで違和感が半端ない。

 その両手にはお膳を携えており、いろはの前にそっと置いた。

 

(仕方ない、か……)

 

 腹が減っては、戦ができぬ、と言うじゃないか。

 ならば、まずは、この『昼食』から済ませるとしよう。一つずつ、やれることから、こなしていくしかない。

 いろはは、思考をそこで一旦リセットさせると、目線を下に向けて、お膳の内容を確認する。

 お店さながらの定食御膳が、そこに有った。

 16穀米のご飯に、ナメコとネギが入った味噌汁、焼き鮭、豚肉入りの野菜溜めに、大根の漬物……色とりどりの料理が並べられている。

 特にこんがりと表面に焦げ目が付いた鮭と、野菜炒めに掛けられた醤油ダレの匂いが鼻腔を刺激して、唾液腺を活性化させてくる。

 

「うわあ……!」

 

 いろはが感嘆の声を挙げる。

 自分もよく料理はするし、「和食」も作れるが、ここまで見事にはできない。それも10分という短時間で。

 

「ピーターさん、凄い……!」

 

 ゴクリとツバを飲み込みながら、いろはが褒め称えると、ピーターがカウンター越しにフフン、と微笑する。

 

「昔、花嫁(・・)修業してた時期があってね、バイト先の料亭で女将からいろいろ叩き込んでもらったのよ」

 

「へ~、はなよm…………え?」

 

 奇妙な単語が混じっていた気がするが空耳だろうか?

 

 ――――いや、きっとそうだろう。確認しない方が良い。絶対に。

 

「隣、失礼するわね」

 

 困惑に目を泳がせていると、隣に圧迫感。

 チラリと見ると、いつの間にか、ピーターが座っていた。彼の手元には、自分と同じ和食御膳が置かれている。

 

(……!)

 

 真近で見る色黒の巨体は、インパクトが凄まじい。圧倒されて、いろはは思わず息を飲んだ。

 座る丸椅子も、料理も、何もかもが小さく見える。

 

「それでは」

 

 そんないろはの驚愕の視線を一切気にせず、ピーターは手を合わせる。

 いろはも慌てて、それに傚った。

 

「「いただきます」」

 

 バリトンとソプラノが綺麗に合わさった。

 二人は、ご飯茶碗を左手に持ち、右手で掴んだ箸を、副菜に伸ばそうとするが――――

 

 

「うふふふふ~~♪」

 

 

「っ!!」

 

 いろは、箸で野菜炒めの人参を捉える寸前に――――硬直ッ!

 耳に聞こえてきたのは、不気味な鼻歌。そして、誰かに見られている様な感覚が、恐怖を齎した!

 咄嗟にバッと顔を上げると、そこには――――!!

 

「うふふふふぅ~~♪♪」

 

「あの、何してるんですか……?」

 

 カウンターから上半身を乗り出して、自分を見下ろすみたまがいるではないか! それも、心底嬉しそうに、ニコニコと笑みを携えて!

 ――――呆気に取られつつも、おそるおそる尋ねるいろは。

 

「私ねぇ、女の子が食べるところを見るのがぁ、けっこー好きなのよぉ~♪」

 

「は、はあ……」

 

「……だったら鏡でも見て一人で食べてなさいよ。食べづらいったらありゃしない」

 

 慄くいろはの隣で、ピーターが冷ややかにツッコミを入れると、みたまはジト目で睨み返す。

 

「あなたは眼中に無いわよ」

 

「! ……そういえば、みたまさんのお昼は?」

 

 職員のピーターが此処で昼食を取っているのだから、当然みたまも、食事休憩の筈だろう。

 そう思って、尋ねてみると――――みたまは「よくぞ聞いてくれましたぁ!」と得意気な笑みを浮かべて、あるものをカウンター裏から取り出した。

 

「私のお昼はこれよぉ!」

 

 ドンッ! と鈍重な音を立てて、カウンターに置かれたのは、ジョッキ大のグラスだった。白いドロドロとした液体が一杯に入っている。

 目を丸くするいろはだが、

 

「これって……スムージーですか?」

 

 バナナに似た甘ったるい匂いが鼻をくすぐってきて、もしやと思った。

 尋ねると、みたまの笑顔が一層光り輝く。

 

「ご明察。名付けて『みたまスペシャル』! 午後に消費するカロリー量と栄養素を緻密に計算して作り上げたオリジナルスムージーよ!」

 

「料理はてんでダメなのに、それを作るのだけはほんっと天才的よねぇ……」 

 

「えっ、でも私達と一緒のご飯じゃないんですか? ちゃんと食べないと、力が……」

 

 自分とピーターは和食なのに、彼女は飲み物一杯だけ。

 カロリーを計算していると言ったが、それだけで、午後をもたせるつもりだろうか。

 働く人というのは、概ね大変だ。

 自分の父親は、昼の12時にお弁当を食べて、それから夜の19時~21時まで何も食べずに仕事をすることだってある。

 毎日多忙を極める父親を見てきたからこそ、いろははみたまの身体のことが心配になった。

 しかし――――

 

<……いろはちゃん>

 

 隣のピーターが小声で話しかけてくる。

 

<こいつね、味覚がダメなのよ>

 

「あ……っ!!」

 

 そういえばみたまが先程自分で言っていたのを思い出した。申し訳ない感情が瞬時に沸いてくる。

 

「ご、ごめんなさい!!」

 

 咄嗟に、頭を下げて謝るいろはだったが、みたまはなんてことない、という風に笑っていた。

 

「いいのよ。もう慣れた(・・・)から」

 

「……」

 

 そう言って首を小さく振るみたま。

 相変わらず屈託の無い笑顔だったが――――その水面の様な瞳の奥で、僅かに寂しそう(・・・・)な色が浮かんでいるのを、いろはは見逃さなかった。

 

(みたまさん……)

 

 いろはは直感する。辛い過去が有ったに違いない。

 自分が想像すらできない、壮絶な過去が。

 でも、彼女は受け入れて、乗り越えている。

 だからこそ、今の彼女は、笑っていられる。

 

(みたまさんって……)

 

 ――――凄くカッコいい人なのかもしれない。

 

 彼女の笑顔が、なんだか眩しく見えて、そう思った矢先だった。

 

 

 グビグビグビグビグビグビグビグビ……

 

 

「プッハァ――――――――――ッ!!!」

 

 幻想とは脆く儚いものである。

 理想とは呆気なく打ち砕かれるものである。

 腰に手を当てて、スムージーを一気飲みする姿は――――正に中年オヤジさながらであった。

 

(あ――――……)

 

 いろはが、彼女への憧憬を即座に脳の隅に追いやったのは言うまでもない……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――昼食を終えて一休みした三人が次に向かった先は、『施術室』と呼ばれるところであった。

 部屋自体は、先程の広大な空間と比べると、かなり小さい。

 シングルベッドと、脇に――みたまが施術中に座るのだろう――丸椅子が置かれているだけの簡素な部屋を、天井のライトが青白く照らしている。

 

「ここが施術室よぉ♪」

 

 そう言って準備するみたまは、実に愉しそうだ。鼻歌まで歌って、そんなに仕事が好きなんだろうか。

 

「あの、『調整』って、どうやるんですか?」

 

 いろはの脳裏には、かなり前に、ある魔法少女が言っていた事が浮かんでいた。

 

 ――――「魔法少女の『魔力』は全身に漲っている」と。

 

 なので、もしかしたら身体中を弄られるんじゃないか、という不安が強かった。

 

「大したことじゃないわ。ソウルジェムをちょこっといじるだけよ」

 

「あ、それだけなんですね」

 

 ピーターの説明にホッと安堵の息を吐くいろは。

 

「じゃあ、ソウルジェムを出して」

 

 準備を終えたらしいみたまが、いろはに指示を出す。

 

「あ、はい」

 

 いろはは、右手を伸ばすと、人差し指に付けられた銀の輪が桃色に発光。卵の形をした小さな宝石に、変化する。

 

「そして……服を脱ぎます」

 

「えっ」

 

 まさかの要求に目を丸くするいろは。

 

(!! やっぱり、身体を触る必要があるんだ……!)

 

 恥ずかしさで顔を紅潮させるいろは。だが、それは予想していた事。何より、この試練(?)を乗り越えなければ、自分の目的は果たせない。

 

「わかりました……!」

 

 いろはの覚悟は決まった! 意を決した表情で上着の裾に両手を掛ける!

 

「ストップ」

 

 ――――が、ピーターが咄嗟に静止。危ない領域に踏み込むのを寸手で阻止できた。

 

「何市長のお膝元で、堂々とセクハラやらかそうとしてんのよアンタは?」

 

「うふふ~♪」

 

 そして、じっとみたまを睨みつけて叱るが、彼女は全く悪びれる様子も無く……寧ろイタズラが成功した子供の様に、無邪気に笑っていた。

 

「あの、どういうことですか?」

 

 みたまがみたまなら、いろはもいろはであった。

 なんの疑いも抱かなかったのだろう。

 全く理解できてない様子で、頭に疑問符を浮かべながら、純度100%の澄んだ瞳を向けてくるいろはの今後が、心配になった。

 

(この子……悪いやつに騙されやしないかしら?)

 

 ピーターはハア、と溜息を付くと、片膝を付いていろはと目線を合わせる。そして、両肩をぐっと掴んだ。

 

「落ち着いて考えなさい……服を脱ぐ必要、ある?」

 

「えっ……あ!」

 

 ピーターの言ったことを理解するのに数秒掛かった。

 ――――そうだ、彼が言ってたじゃないか。「ソウルジェムをちょこっといじるだけ」だって。

 ようやくそこで、まんまと騙されたことを悟ったいろはは、頬を膨らまして、みたまをキッと睨みつける。

 

「ふふ、嘘でした~☆」

 

 しかし、整った顔立ちのせいで迫力は無きに等しい。みたまには全く通用せず、笑顔を返された。

 

「前に本当に裸になった子がいてね……後でその子の親御さんが役所にクレームを訴えて大変なことになったんだから」

 

 ピーターの弱々しい声。

 振り向くと、頭がガックリとうなだれていた。心無しか、ドロドロと暗いオーラが漂っている様に見える。

 

「すごかったのよ……。マジで……。『家の娘の身体に何をした!? 児童性的虐待で告訴するぞ!!』って責め立てられて、納得して頂くのに5時間は掛かったわ。当然その間は、他の業務が滞っちゃってね……。翌朝まで残業するハメになったんだから……っ!」

 

 ピーターの言葉が次第に震えだす。よっぽど辛い状況に立たされたのだろう。彼は太い腕で両眼を覆うと、オイオイと泣き始める。

 

「ああ、あの時は大変だったわねぇ……首が飛ぶかと思ったわ」

 

「もしもし? 対応したのは私よ。貴女はクレーム処理を押し付けてとっとと帰ったでしょう」

 

 やれやれと言って溜息を付くみたまだったが、ピーターが泣くのを止めて、すかさず睨みつけた。

 

「まあ、過去の話は置いとくとして……施術を始めましょうか」

 

「置かないでよ」

 

「まあまあ……」

 

 涙目で目蓋を赤く腫らしたピーターをいろはが宥める。

 そして、みたまはいろはにベッドで横になり、ソウルジェムを胸の上に置くよう促した。

 ピーターは何もツッコまなかったので、今度こそ真面目にやるつもりらしい。言われた通りにするいろは。

 

「じゃあ、始めるわよ……」

 

 みたまは微笑を浮かべるが、その瞳は細められて真剣な色合いが映り込んでいた。

 やがて、彼女の細い指先が、いろはのソウルジェムに、そっと触れる。

 

 

――――そうリラックスして、深呼吸ー。

 

 

――――ゆったりぃ身を任せて……大地に沈んでいく……。

 

 

――――しずかにー……しずかにー……。

 

 

――――力を抜いてぇ……もう少し……ふかーく……。

 

 

 みたまの声が段々遠のいていく。

 視界が薄くボヤけていく。

 そして――――全てが、黒に染められた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――ああ、まただ。

 

 目に見えたのは、いつも夢で見る世界。

 林檎の甘酸っぱい匂いがどこからともなく漂っていて、『あの子』が優しく迎えてくれる。

 でも、今回は少し違った。

 病室にある三台のベッドには、いつものあの子の他に、もう二人の女の子が存在していた。

 

「アドルフ・ヒトラーはね」

 

 最初に口を開いた女の子の声を聞いた時、いろははアッと口を声をあげそうになった。

 長い茶髪に、ころころ変わる表情。一度聞くとずっと耳に残るぐらいの凄く特徴的な声色をする彼女を、良く知っていた。

 

「官使であった父親を脳溢血で亡くして、父が残してくれた少ない遺産を母の看病に費やしたの。やがて、母も亡くなり、私産も底を付きたヒトラーは、孤児年金だけじゃあ到底生きていくことができなくって、日々一切れのパンを得るのに必死だったそうよ」

 

 ――――政治家になるまで、地を這って泥を啜るような努力を重ねてきたの、立派よね。

 

 そう付け加えて、虚空を見上げる少女の目は、キラキラと羨望の光が瞬いていた。

 

「それは嘘っぱちだよ」

 

 が、ピシャリと上から叩く様な指摘が入った。

 声の方へと目を向ける。茶髪の少女の対面側のベッドに、赤いフレームのメガネを掛けた同じ年ぐらいの女の子が上半身を起こしていた。

 どこか機械のように無機質な声色をする彼女のことも、いろはは良く知っていた。

 

「ヒトラーは父親の孤児年金と遺産収入で当時の大学卒よりも良い暮らしをしていた事が明らかになっている。1908年2月にヴィーンへ来てからは、確かに浮浪者収容所や、独身者合宿所に住んでいたこともあったが、日々の暮らしは贅沢三昧だったそうだ。嵩む食費と趣味の劇場通いで次第に生活が困窮していったとさえ言われている」

 

 彼女は茶髪の少女とは対照的に、憮然としたまま淡々と解説すると、最後に目を細めてこう締めくくった。

 

「青年時代の彼は、とんだ自堕落者だ。親の仕送りや、生活保護頼りのニートと同義だよ」

 

 彼女のぶっきらぼうな物言いに、ムスッと顔を顰める茶髪の少女。

 

「どうしてそう思うの? 本人が自著で言っているじゃない」

 

「第三者の目線で明らかになっている方が事実さ。主観混じりの人生なんて、信用に値しない」

 

 僅かに語気を荒げて訴えるも、メガネの少女は冷徹さを崩さない。

 

「私は、本人が自分で、伝えてることが真実だと思うけどな。ねむのいう第三者なんて、どうせナチス政権崩壊後に、ドイツを分断占領した連合国軍が広めた中傷でしょうに」

 

 茶髪の少女はそう言って睨みつける。

 ――――二人の視線が激しくぶつかり合い、宙空でバチバチと火花が弾けた。

 

(この二人は――――)

 

 そんな二人の一部始終のやりとりを眺めながら、いろはは二人のことを思い出していた。

 

 ――――まず、一人目の、茶髪の少女の名は『里見(さとみ)灯花(とうか)』。

 母親は科学者、父親は東京の有名大学で教授をしているらしく、その血を受け継いだ本人も、相当に頭が良かった。曰く、幼い頃に行ったIQテストで「200」もの数値を叩き出し、講師達を唖然とさせてやった、と豪語していた。

 ――――確か、彼女は、自分の事を『エゴイスト』だって言ってたっけ。

 自分の事が極端に好きであり、自分の言うことは一切間違っていないという。だから、自分の発言の理論立ては一切妥協しなかったし、他の人が意見を挟むのを決して許そうとはしなかった。

 

 ――――もう一人の赤いフレームのメガネの少女の名は『柊ねむ』。

 母親は小説家、父親は生物学者をしている彼女もまた、灯火に匹敵する知性の持ち主だった。小説を書くのが好きで、小学校低学年の頃から、趣味半分で書いた物語をネットで投稿していたのだという。

 7歳の頃に書いたという処女作を読ませてもらったところ、難解な文章塗れで何が書いてあるのかサッパリだったが、サイトのランキングでは一位を象徴する黄金の冠マークがキラキラと輝いていたのは、はっきりと思い出せる。

 

 彼女は自分の事を『ラショナリスト』と自負していた。

 (聞き覚えのない言葉だったので、本人に確認した所、『合理的主義者』という意味らしい)

 高すぎる夢や理想を望まず、今現在の自分の能力、周囲の環境、人間関係を熟慮し、その全てを用いて勝ち取れそうなものが有れば、挑戦するという思考で、冷徹に物事を判断する姿勢は、一般的な女の子からは掛け離れていた。

 

 確か、この時読み合っていたのはアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』――自分は彼のこともその書物のことも全く知らないが――だったか。

 二人は、偉人や著名人の書物を読み回して口々に感想を言い合っていた。

 そこで、お互いの考え方の違いや価値観、信念が垣間見れるのが面白かった。特に『自伝』を読んだ時は、棘でチクチクと相手の神経をつっつき合ってるな、と思ってたら――――いつの間にか、ズバズバと相手を斬りつけ合う口論に発展していた。

 灯花は『著者が自分の目で見て、耳で聞いて、身体で経験したことなのだから信憑性がある』と主張すれば、ねむは『近しい者や後世の人間による客観的な評価こそ真実だ』と意見して、ぶつかり合った。

 

(あの子と、同じ病室に居たんだっけ――――)

 

 二人もまた、なんらかの重い病気を患っており、一日の大半を病室で送るしか無かった。『あの子』と同じだ。

 

(そうだ、あの子は――――)

 

 振り向く。あの子は、ベッドの上で上半身だけ起こして、何かを読んでいる。

 表紙を遠目で伺うと、『我が闘争』と書かれていた。恐らく、あの二人のいずれかに回されてきたのだろう。

 『あの子』は二人と違って(・・・・・・)普通だった。本の内容は難しいのだろう、眉間に皺を寄せて、一文一文睨みつけている様に凝視していて、「ムムムム……」と唸り声を漏らしていた。

 そんな姿を眺めていると、自然と顔が綻んだ。今の自分は、とてもニコニコしているに違いない。

 それもそうだ。未だ、口から火や雷を吹きつつ争っている灯花とねむと比べると、なんだか微笑ましくって――――

 

(!! そうだ、名前――――!!)

 

 そこでいろははハッと、顔を上げた。

 灯花とねむのことだって思い出した。この子の事だって、今度こそ思い出せるかもしれない!

 いろはの足は自然と動いた。駆け足で、ベッドの下へと――――

 

 

 

 

 

 

 誰かに腕を、グッと掴まれた。

 

 

 

 

 

 

 ――――瞬間、世界が様相を一変させる。

 

「っ!!」

 

 そこが病院の通路だと、いろはが理解したのは――――直後のことだった。

 白いコンクリートによって一切の光が遮られた無機質で薄暗い通路は、先の「あの子達がいた」病室と同じ建物の中にあるとは信じ難いぐらい、別世界に感じた。

 前方に目を向けると、無限の闇が広がっている。

 一度足を踏み入れたら、二度と抜け出さえない――――直感でそう思ってしまうぐらいの、濁りの無い、深い漆黒。

 だが、いろはは怖じけ付く事無く、一歩を踏み出した。

 あの闇の中から、気配がする。『あの子』と、灯花とねむがいる。そして、僅かに……林檎の匂いが漂っている。

 間違いない、と確信した。三人がいる病室は、すぐ近くにある。

 

 ――――急いで戻らないと。私は今度こそ、あの子に聞かなきゃいけない。

 

 もう片方の足にグッと力を込めると、飛び出すように駆け出した。漆黒の闇の先に、光り輝く世界があると信じて。

 しかし――――

 

「ッ!!」

 

 上腕部に生じた痛みに、いろはが呻いた。 

 

 ――――さっきと同じだ。誰か(・・)が自分を止めようとしている。

 

 駆け出した際に後ろに振った右腕が、ゴツゴツとした大きな手で強く握り締められている。

 苦痛で顔が歪むが、いろはは堪えながらも、その人物の顔を確認するべく、バッと後ろを振り向き、

 

「――――!?」

 

 硬直した。白衣を纏った男性が、佇んでいた。

 伸び切った前髪が顔の上半分を覆っており、表情は伺えない。

 しかし、両顎をキツく噛み締めており、零れ出る荒い息づかいが、鬼気迫る迫力を感じさせた。

 

(誰なの、この人――――!?)

 

 一つの困惑が、頭の中に垂らされた。それは、思考の海を荒々しい波濤へと急変させて頭蓋を内側から叩きつけてくる。

 この病院の医者(せんせい)だろうか。でも、見たことも無い人だった。

 

 …………いや――――灯花とねむのこともすっかり忘れていたのだ。

 もしかしたら、彼も以前お世話になっていながら、忘れているのかもしれない。

 荒れ狂う思考の海の中で、必死に記憶を探ろうとするが――――残念ながら、彼に関する記憶は一片も見当たらなかった。

 自分を握りしめる彼の手は、熱が籠もっている。

 そして、全身から発せられる必死な感情――――彼が(・・)自分の事を知っているのは明らかだったし、何としても自分を止めなければならない事情が有るように感じた。

 

 

「環、いろは」

 

 

 開かれた彼の口から、自分の名前が呟かれて、目を丸くした。慌てて言葉を返そうと口を開く。

 

 

あなたは(・・・・)何をしているんだ(・・・・・・・・)

 

 

 あなたは、誰?――――と、彼に問おうとした、その矢先だった。

 彼の怒りに満ちた声が、耳に突き刺さる。

 

 

「なんで、そっちに(・・・・)行こうとする?」

 

 

 嵐で荒みきった波の様に声を大きく震わせながら、訴えてくる。

 困惑、憤怒、嫉妬、悲嘆――――全ての負の激情が複雑に混じり合って形成された言葉の剣が、胸に突き立てられた。

 だが、いろはは怯まない。

 

 ――――灯花とねむのことを思い出せたのだから、あの子の事だって……!

 

 どうして彼は邪魔をするんだろう。自分の欲しいものが直ぐ近くにあるのに。その為に、自分はここまできた(・・・・・・)のに!

 頭の中で荒れていた思考の水面が、収まった。同時に、沸々と滾ってきて、頭頂部が熱くなる。キッと眉間にしわを寄せて、目を鋭くする。質問の答えでは無く、怒りの形相を彼に返してやった。

 

「離してよっ!」

 

 力任せに大きく腕を振るうと、彼の手が祓われた。

 彼の顔に浮かぶ複雑な感情に、僅かな驚きが混じった。

 

「どうして、止めるの!? あの向こうに、大事な場所があるのに……!」

 

 彼はどこか呆気に取られた様子で、黙して聞いていた。

 

「灯花ちゃんと、ねむちゃんと、『あの子』が、私を待ってるのに……!」

 

 しかし、そこまで叫ぶと、反応が見られた。

 自分を止めようと伸ばされていた腕が、力を失ったかのようにガクリと垂れる。

 表情は歪ませたままであったが、そこから伺える感情は一つに整理されているように見えた。

 

 

「あなたは、こっち(・・・)へ来るんだ」

 

 

 深い悲しみで顔を青く照らしながら――――彼は、静かに言う。

 ゆったりとした動作で再び手を上げると、いろはを手招きする。

 

「三人が待ってるんだよ!? 私の求めているものがあそこにあるのに……どうして……!?」

 

 彼は間違い無く、自分に対して特別な思いを抱いている。しかし、自分はあの場所へ戻りたい。どうしても、取り戻さなきゃいけないものが、あるから――――!!

 そう思って彼を睨みつけた瞬間だった。

 

 彼の顔が、鬼の形相と化す。

 

 

「そこはあなたが居ていい場所じゃない(・・・・・・・・・・・・・・)からだよッ!!!」

 

 

 鼓膜を貫かんばかりの激昂が、巨大な杭となって、いろはの全身をその場に打ち付けた。

 

「――――っ!?」

 

 身体がビクリと震えて、固まる。

 頭の中で再び思考の海が荒れ狂い始めた。波状する混乱は、彼の顔を見てると余計に強まった。

 前髪の隙間から僅かに赤い光が瞬いている。よく見ると、その奥を、彼の瞳が確認できた。

 ずっと働き続けて、何日も睡眠を取っていない様な、疲れ切った目は、すっかり乾ききって、充血を起こしていた。

 

 ――――何かを諦めたけど、それでも強く求めている様な、複雑な情熱が籠もる瞳が、痛烈に心を射抜いてきた。

 

「………じゃあ」

 

 暫し沈黙して、白衣の男と静かに睨み合ういろはだったが――――静寂を破るように自分から口を開いた。

 

「あそこは、私にとっての何だっていうの?」

 

 恐らく彼は知っている。

 あそこが――――いつも夢で見るあの眩しくて、優しくて、甘い世界が、自分にとって何か意味を持つ場所で有ることを、よく知っている。

 

 真実を知らなければ。自分が前に進むためにはそうしなければ――――!!

 

 焼け付くように痛む胸を抑えながら問いかけると、彼は紅い目で強く凝視したまま、こう言った。

 

 

「“()”だ」

 

 

「えっ……?」

 

 思考の海が、液体窒素を豪快に流し込まれた様に、ピタリと冷えて固まった。

 ――――刹那、後ろで気配。

 だれかが、スタスタと、軽い靴音を響かせて近寄ってくる。

 林檎の匂いが鼻腔を刺激して、いろはは直感した。

 

 ――――『あの子』が、迎えに来てくれた。

 

 その時感じたのは、喜びだったのか、それとも困惑だったのか……頭が混乱しているせいで、判別が付かなかった。

 ただ、この時、反射的に後ろへ振り向いていた。

 思った通り、数歩ぐらい先に、病室で見たのと寸分違わぬ姿の『あの子』が居た。

 パジャマ服に腰まである桃色のふんわりとした質感の髪をフワフワと揺らし、腕に刺し込まれた点滴棒を押して、ゆっくりと近寄ってくる。

 後ろで白衣の男が、必死に何かを訴えているが、もう何を喋っているのか理解できなった。

 

「―――ちゃん」

 

 自分が駆け寄るよりも早く、あの子は一歩先まで近づくと、自分の名前を呼んだ。

 

 ――――ああ、終わり(・・・)が告げられる。

 

 緊張と興奮で、すっかり苦くなった唾液をゴクリと飲み込む。

 結局、この子の名前を聞くことはできなかった。

 後ろの男が邪魔さえしなければ、自分は一番大事なものを思い出せたかもしれなかったのに。

 

「私はね」

 

 穏やかに言葉が紡がれている。これ以上は何を言っても無駄だと分かりきっていた。だから、黙って待つことにする。

 最後に、この子の顔をしかと目に焼き付けようと、じっと見つめた。

 ――――しかし、場所が薄暗い通路だったせいか、彼女の首から上は、漆黒に覆われてしまって、表情が確認できなかった。

 

 

 

 

 

“死神”と会う約束があるの」

 

 

 

 

 

 視界が徐々に暗転していく。まるで闇に飲まれていくかのような、不思議な感覚。

 ――――でも、多分、あの子は笑って言ったのだろう。そうに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――三十分後。

 

 

 いろはの魔力の『調整』は、無事に完了した。

 目を覚ました彼女が次に向かうべくは、役所の2階にある治安維持部。そこの受付で、魔法少女であることを証明し、保護申請書を記入して、登録手続きを申し込まなければならない。

 よって、一息付く間も無かった。彼女はみたまに、別れの挨拶を告げると、足早に『MIRIOR(ミロワール)』から去っていく。みたまは笑顔で手を振って見送ってくれた。

 

「じゃ、私もそろそろ行くわね」

 

 治安維持部の職員は魔法少女で無くっても、癖が強い者が多い。みたま相手にあれだけ手古摺っていたのだから、間違い無く足止めされるであろうことは目に見えている。

 更に、施術中に失礼だと思いながらも、彼女の手荷物を確認させてもらったが……案の定だ。

 手続きに必要な、重大な書類が、欠けて(・・・)いる。

 

(あの子が、この街で起きている怪奇現象の原因を究明してくれるかもしれない。ここで、足を止めてもらったら、困るのよ……!)

 

 目を鋭くしながら、ピーターは思考を巡らす。事務手続きはスムーズに行ってもらおう。その為の知略を張り巡らす。

 無垢な少女を利用するなんて、なんとまあ意地汚い大人になったものか――――と、ピーターは自嘲する様にフッと笑った。

 しかし、だ。自分は本来、市の治安を守る職員である。仕方の無いことだ。その為ならあらゆる手を尽くさなければならなかった。

 

「いってらっしゃ~い」

 

 振り向くと、みたまがいろはに向けたのと同じく、眩しい笑顔で見送ってくれた。ピーターも手を振って返す。

 

 

 ――――瞬間、みたまの身体が、ガクリと崩れ落ちた。

 

 

「みたまっ!?」

 

 驚愕するのと同時に、ピーターが駆け寄った。慌てて彼女の身体を抱き起こそうとする。

 背中を触ってギョッとした。大量の発汗でビッショリと濡れている。

 

「…………! …………あの……子……は……!」

 

 みたまの目が震えている。

 上手く呼吸ができないのか、パクパクと口を動かしながら、言葉にならない声を発してた。

 

「……無理して話さなくていいわ。あの子の()を見たのか、それだけ教えて頂戴っ」

 

 みたまの能力――――魔法少女のソウルジェムに触れると、その人間の過去が垣間見れる。

 恐ろしい物を見たのだと、彼女の形相が必死に訴えていた。故に、余計な説明は不要。重要な部分をできるだけ簡潔に伝える様にピーターは促した。

 怯懦一色に染まりながらも、しかと、ピーターの目を見て、彼女は懸命に伝える。

 

 

 

「深淵」

 

 

 

 彼女が、ポツリと、消え入りそうにつぶやいたその一言に――――ピーターは言葉を失った。

 呆然と、みたまの顔を見つめている。だが、みたまは目を逸らす様に首を動かした。視線を向けたのは、ある一点。

 

 

 

「環、いろは……。あなたは、一体、何者なの……?」

 

 

 

 言葉の中の存在が、出ていった入り口をじっと見つめるその表情は――――複雑に歪んでいた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 以上、運命の第三話でした。


 もう、色々とごめんなさいとしか言いようが無い内容となってしまいました……。

 灯花嬢とねむ嬢に関しては、本編で未知の部分が多々有り、世界観と設定の都合上、多大な独自解釈と大幅な変更が加えられることと思います。
 よって、今後配信されるであろうメインストーリー7章以降で描かれる彼女達とは、食い違ってしまう可能性が高く、読者の皆様に混乱を与えてしまうかもしれませんが……ご了承頂ければ幸いです。


 以下、余談 

 今回を執筆するにあたり、ねむ嬢と灯花嬢が初登場する第二章を読み返しましたが……


☆柊ねむ→『ネットで書いた物語が本になるような子』


( ゚д゚) ・・・


☆里見灯花→『宇宙のお話を偉い人と議論するような、すっごく頭の良い子』

  _, ._
(;゚ Д゚) …!?

 どういうことだオイ……!? 序盤から一生掛かっても乗り越えられそうにない壁にブチ当たってんじゃねえか……!?orz

 ……という訳でオリジナルの議論を展開させてしまいました。本当に申し訳ありません……。

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