ゾンビになったけれど、私は元気です   作:トクサン

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 ごめんなさい18000字あります。
 二つか三つに分けようと思ったのですが寝床から起き上がるのも億劫で、あまりモニタも見ていられません。なので書き溜めを纏めて一話に投稿します。
 インフルに打ち勝ったらまた投稿するのでお待ち下さ


迷彩

 男児三日会わざれば括目して見よ、という言葉があるが女児の場合は何と言ったものか。

 美香のコミュニティが崩壊し、彼女が連合のヘリに救助されてから一月と一週間。人を変えるには十分な時間だと思いもするけれど、それにしては変わり過ぎではないかとも思う。

 

 美香は少しだけ大きめの隊服に身を包み、水筒やら発煙筒が括りつけられた背嚢を背負っていた。そして細く柔らかった腕周りは引き締まった筋肉が覆っていて全体的に体格が良くなった。白かった肌も浅く焼けて顔つきもどこか大人びている様に見える。

 あの学校の制服を着ていた彼女の面影は欠片も見えなかった。

 

「えっと、信じて貰えるかな……?」

「…………」

 

 場所はドラッグストアの中、流石に茹だる様な暑さの中で話す事は拙いと会話の場を涼しい室内に移した。店内にあるレジカウンターに腰掛けた美香、その正面にはセツナが立っている。私は彼女を見た衝撃が未だに抜けきっておらず、纏まらない思考で二人のやり取りを見守っていた。

 

 セツナは美香に対して「私は悪いゾンビじゃないよ」の自己紹介を再度行った。彼女も人間との邂逅は二度目である、一度目は激情に駆られ酷く先走ってしまったが今回は冷静に対処していた。私に受け入れられたという現実からある程度自信はあったのだろう。

 

 しかし美香が彼女を見る目はどこか厳しげだった。現実的な見方をすれば悪くないゾンビなど居る筈が無い――けれど美香という存在は既に一人、【優しいゾンビ】の存在を知っていた。故に彼女は厳し気な視線を一度切ると、ゆっくりと頷いて見せる。

 

「……まぁ、信じますよ」

「えっ、良いの?」

「人間は襲わないと言ったのは貴女じゃないですか、それに……もう一人知っているんです、貴女みたいなゾンビの事」

 

 美香は手に持った水筒を弄りながらそう口にした。私はその言葉に思わずぴくりと反応し、セツナは自分以外に理性を持ったゾンビが居るのかと驚きの声を上げた。

 

「セツナさん、でしたよね、凄く大きなゾンビをこの辺で見かけませんでしたか?」

「えっ、大きなゾンビ?」

「えぇ、二メートル超えの……目は三つで、腕は六本あります」

「二メートル、目が三つで腕が――あっ!」

 

 美香の淡々とした口調、挙げられていく要素を繰り返したセツナは声を上げる。彼女には憶えがあった、今の今まで忘れていた事が信じられない程の邂逅だ。尤も彼女からすればその後のジョンとの邂逅の方が衝撃的だったのだけれど。故に今の今までその存在を失念していた。

 

「私、逢った事あるよ、そのゾンビ!」

「本当?」

「えぇ、目が三つで身長がとても大きくて……腕も確か沢山、六本くらいはあったと思う」

 

 セツナが声を上げ、美香は意外そうに目を瞬かせる。私は居心地が悪くなった、間違いなく私の事である。コンビニで不躾にもセツナを追い詰めてしまった時の事だ。彼女と同棲してからというものその話題を振られことがなかったのですっかり忘れたか、若しくは思い出さない様にしていたとばかり思っていたが。彼女の表情を見るにそういう訳でもなさそうだった。

 

 憶えがあると言い放ったセツナに対して、美香は懐かしそうに目を細めながらポツポツと事情を話し始めた。

 

「その大きなゾンビはね、私の恩人なんです」

「えっ、あ……あのゾンビが?」

「はい、ずっと前にコミュニティが崩壊した時、最後の生き残りだった私を体を張って助けてくれた、命の恩人」

 

 ゾンビが恩人という言葉にセツナは困惑する。しかし今の私と彼女の関係性を踏まえ、あり得ない話では無いと思ったのだろう。ましてや理性を持つゾンビならば尚更、セツナは困惑から一転、納得したような表情で頷いた。美香は水筒を握り締めると、一つ息を吐いてから淡々と言葉を綴る。

 

「私、そのゾンビに逢うためにこの街に戻って来たんです、そのゾンビと……その人と、一緒に暮らしたくて」

「!」

「本当はもっと早くこの街に来たかったのだけれど、私は一人で外の力を生きていくだけの力も技術も、知恵もなかったから、コミュニティの調達班に志願して色々勉強したんです、勿論体も鍛えました、もうあんな悲しい思いをしなくて良いようにって、守って貰ってばかりじゃなくて、自分の事は自分で出来る様にって……今思えば本当におんぶに抱っこだったから」

 

 彼女はどこか恥ずかしそうな、けれど誇らしそうな表情でそう言った。

 私はそれを見て凄まじく大きな罪悪感に包まれた。無数の刃物で心臓を貫かれた気分だった。その衝撃は如何ほどか、きっと私以外には分かるまい。彼女は私に逢う為、遥々この街に戻って来たのだ。恐らく最も安全であろう連合のコミュニティすら切り捨てて。死に物狂いで努力したのだ、私に逢う為に、私の為だけに。

 

 その彼女が努力した一ヵ月を自分は何をして過ごしていた?

 ただ失意に呑まれ、無気力の内に日々を食い潰していただけだった。

 

 私は急に自分が恥ずかしくなった、久しく忘れていた羞恥の感情だった。自分の事ばかり考えてその後の彼女の事を考える事を疎かにしていた。そうだ、私は彼女に『逢いに行く』という選択肢を考えすらしなかった。何故なら自分はゾンビだから、人のコミュニティに飛び込むのは危険が過ぎると保身ばかり気にして、彼女への感情と身の安全を秤にかけた上で動かなかったのだ。

 

 彼女は人外である己の為にその身の安全を投げ捨てたというのに、自分は逆に動かずに居た。それが自分と美香の違いだと、そう突き付けられたような気分だった。

 

 何という――何と言う愚物。

 

 ましてや高校生の少女とも言える年齢の美香が、こうして命を擲ってまで逢いに来てくれたというのに、私は……!

 

 今すぐにでもゾンビ形態に切り替えたかった、いや、きっとそうするべきだったのだ。けれど今の私は人間のジョンであり、ジョン・ドゥではない。それに今更どんな顔をして彼女の前に現れれば良いのか分からなかった。恥の上塗りだ、それは自覚していた。こんな事なら最初からセツナと逢った時に全て打ち明けていれば良かった、そうすればきっとセツナの方から変身を促してくれたに違いない。

 

 いや、こんな事を考えている時点で駄目なのだ。

 私は口を噤んで俯いた、早急にこの場から消えて無くなりたかった。

 

「えっと、それでこの人は?」

「あぁ、彼はジョン君って言うの、一週間位前に知り合ったというか、遭遇したというか……美香ちゃんと同じで感染していない、れっきとした人間さんだよ」

 

 私が己の感情に苦悩している間にも話は進んでいたらしい、見れば美香とセツナの二人が此方を見ていた。私はバクンと心臓が一際強く鳴り響くのを感じ、しかし努めて何でもないように振る舞った。

 

「えっと、ジョンって言います、恐らく同年代になるんですかね……? よろしくお願いします」

「ジョン……ジョン・ドゥ?」

「――いえ、スミスです」

 

 ぴくりと肩眉が動いた美香。私はそんな彼女に対して表情を凝り固めながら淡々と偽名を述べる。有り触れた名前だ、受け取り方によっては偽名と思われるかもしれない。けれど此処は日本だ、そんな違和は日々の中で感じようがない。

 

「生まれは外国で育ちが日本なんだって、日本語凄い上手だよね」

「えぇ、そうですね……初めて見た時は驚きました、とても綺麗な顔立ちをしているので」

 

 表情を変えずに淡々とそう口にする美香。恐らく疑っている訳では無いのだろう、ただ彼を連想させる名前に反応してしまっただけだ。そもそも、こんな優男からあんな悍ましい怪物が生まれるなど想像も出来まい。

 

「生存者と逢えた事は僥倖でした、もし【彼】を見つけたら知らせてくれると嬉しいです、先程彼の家を見て来たのですが留守だった様なので」

「――!」

「勿論良いよ、けれど一体どうやって連絡をすれば?」

 

 家を見て来た? それは拙い。

 私はどうやって連絡を取るか話し始める二人を尻目に冷汗を流した。無論この体に汗を掻く機能など存在しないので実際に流れているわけではないが、そんな気分であった。ジョン・ドゥとして彼女と接していた頃から彼女達は何度も私の家に通っている。つまり今現在の家と同じ、ジョン・ドゥの家に私という人間が住んでいる。その事実は誰の目から見てもおかしい事であった。

 

 何とか誤魔化さなければならない――いや、もう全て打ち明けた方が良いんじゃないか? 私の中で二つの想いがぶつかる、誠実であるべきだと思う感情と単純な恐怖。

 

 何故私はゾンビ形態と人間形態の変化を隠すのか。

 

 最初は単純だった。美香や小苗に人間の姿を見せなかったのは変質した己の内面を悟られない様にするためだった。私は人間だという自負がある、けれど同時にゾンビであるという自覚もあった。つまり彼女達からすれば私やセツナは【元人間】なのだ。

 

 今を生きる彼女達を前にすると、自分の人間形態が出来の悪い人形のように感じられた。実際そうだろう、汗も掻かなければ睡眠も必要ない、排泄もしなければ食事も不要。人によっては便利だというかもしれない、理想とする機能だと喜ぶかもしれない。けれど私からすればその肉体はどうしようもない欠陥品で、その欠陥品の肉体には欠陥品の精神が付随していた。即ち、私の人間として側面である。

 

 結局はその精神も模造品でしかないのだ、セツナに対して人間の姿を晒せたのはそういった理由からだった。彼女は限りなく私に近い存在だ、変質した精神は異常を異常と認めない。けれどもし美香を含めた三人で暮らす事になれば、きっとセツナは美香と私を比べるだろう、そしていずれ不信感を抱くのだ。私の人間としての生き方は所詮贋作、擬態に過ぎない。突けばすぐに直ぐに剥がれてしまう様な鍍金だった。

 私は何より、人と比べられた上で自分の人間性を否定される事を恐れた。

 

「取り敢えず、ジョン君の家で話さない? ここだと落ち着けないし、良いかなジョン君?」

「それは有難いですけれど……良いんですか?」

 

 二人の視線が私に向けられる。此処で駄目だと言える奴は居ないだろう、美香を大切に思う気持ちは私とて持ち合わせている、だから心情的にも断れない。私は穏やかな笑みを浮かべつつ頷いた。内心で必死に言い訳を考えつつも。

 

 

 ☆

 

 

 道中は正に地獄の様な時間であった。じくじくと痛む胸と激しくなる動悸、横を歩く美香の表情が変化していく。最初は偶然で済ませられる程度だった、けれど近付くにつれ疑念の方が強くなる。今向かっているのはジョン・スミスという人間の家、けれど彼女にとっては通い慣れた道だった。何せジョン・ドゥの住んでいる場所と全く同じルートを辿っているのだから。

 

「あの、ジョン君の家はこっちの方なんですか?」

「ん? そうだよ、此処をずーっと真っ直ぐ行った所、私のマンションからも色々持ち込んでいるから、多分便利だと思うよ」

 

 どこか焦燥した様な色を滲ませる美香の声に飄々と答えるセツナ。ずっと真っ直ぐ、その言葉を繰り返し呟く美香は俯いて顔を見せない。私はそんな彼女の姿を横目に見ながらぐっと唇を噛む。

 

 ずっと考えていた、これ以上嘘を吐き続けるべきか、それとも一切合切打ち明けるべきか。打ち明けた場合は当然、セツナに対してもこれまで人間のフリをしていた事が露呈してしまう。同時に、美香に対しては人間形態になれた事を隠していた事を知られる。交流を欲して人間のフリをしていたのだ、きっと失望し激怒するに違いない。何せ人間だと思って良くしていたら全く違う存在なのだから。自分のして来た事の大半が徒労に終わるというのは如何ともしがたいだろう。

 

 私は嫌われたくなかった、臆病者で小心者故に。

 同時に嘘を吐きたくなかった、人間がどうしようもなく好きだから。

 

「……なんで」

 

 三人の足が止まる。家に着いた時、美香が呟いた。道中歩く時もどんどん訝し気な表情になっていった彼女であるが目的地に到着すると同時に爆発した。その視線は鋭く私の住居を見つめている。前を歩くセツナは振り返り、「あれ、どうかした?」と呑気に首を傾げる。

 

「あれがジョン君の家だよ、私も住まわせて貰っているだけどね、もしかして来た事あった?」

「――ジョン君、此処には大きなゾンビが住んでいた筈です」

 

 セツナの言葉を無視して美香は言った。発電機に濾過装置、人が住む環境としては整っている。そしてそれらは全て大きなゾンビが一人で調達し、作り上げたものだった。美香の脳裏にどんな想像が駆け巡っているのかは分からない、けれど想像は出来た。彼女の手が足のホルスターに伸びるのが見えた。

 

 かつて大型のゾンビが住んでいた場所には見知らぬ人間が一人とゾンビが一人、我がもの顔で住み込んでいる。そして当の本人は何処にいるかも分かららず――帰って来る気配はない。

 

「彼を、彼をどうしたんですか? あの人は人間が好きでした、何だかんだ言ってコミュニティを手助けしてくれた位です、そんな彼の事です、もし人間が騙そうと近付けば簡単に騙されてくれるでしょう――貴方は彼を知っていますね?」

 

 いいえ、とは言えない雰囲気であった。美香の纏う空気は剣吞だ、恐らく受け答えを間違えれば彼女の銃口は私に向くだろう。人間同士で殺し合う、不毛と言えばそれまでだが協力的な人間ばかりではない事を私は知っていた。

 

 まだ心は決まっていない。

 大切な人間の危機とあらば迷わず動けるというのに、自分の事となると途端に心が鈍った。

 

「……えぇ、知っています」

「えっ?」

 

 驚いたのはセツナだった。突然切り替わった空気に戸惑いつつも、パチン! と音が鳴り響く。彼女がホルスターの留め具を外した音だった。美香は拳銃を抜き放ち両手で確りと掴む。その銃口は私に向いていた。

 その眼には明確な怒り、そして疑念が渦巻いている。

 

「ちょ、ちょっと!? 美香ちゃん、何やってんの!」

「答えて下さい、私が此処に来た理由は先程言いましたよね? 彼をどうしましたか」

 

 美香は微塵も揺らがない。私に向けられた銃口にセツナが声を上げ、私は真っ直ぐ彼女を見つめながら口を噤んだ。心は決まらない、けれど時間は平等に過ぎていく。周囲を取り巻く不穏な空気にセツナは慌てて私の前に飛び出し、美香の前に立ち塞がった。

 

「美香ちゃん、危ないって! そんなモノ仕舞ってよ!」

「退いて下さいセツナさん、私はジョン君に話があるんです」

「銃なんて物騒なモノ持ち出さなくても話位出来るでしょ!?」

「いいえ、これは話す為に必要なものではありません、もしジョン君が彼をどうにかしていたら――仇討ちをしなければなりません」

 

 カチリと美香の指が引き金に掛る。彼女の目は本気だった、数少ない人間を撃ち殺す事に何一つ躊躇いを覚えていなかった。その覚悟を感じ取ったのだろう、セツナの体が緊張で硬直する。それでも私を守ろうと何かを口にしようとして――その肩を掴み、私は前へと踏み出した。

 

 握った左手が脈打っていた。知らず知らずのうちに管が顔を覗かせていた、ゾンビ形態へと切り替わる前の予兆。私はそれを必死に抑え込みながら美香の前に立つ。体が危機を察していた、【人間のままではマズイ】と本能が叫んでいた。気を抜くと生存欲求が首をもたげゾンビになりそうだ。それ程までに彼女は本気だった。

 

「ジョン君……!」

「大丈夫ですセツナさん――美香さん、貴方は一つ思い違いをしている、私は彼には危害を加えていません、だって……」

 

 私がジョン・ドゥなのですから。

 

 そう言えたらどれ程良いか。現実はそれに続く言葉を口にしようとして、けれど肺から空気ばかりが抜けていく。私は間抜けにも口ばかり開け、そこから言葉を発する事無く停止してしまう。そんな私を美香は油断なく見据え、その銃口で額を狙い続けていた。

 

 言い出せない、恐ろしい、次の瞬間にも二人が私に失望と悲しみの視線を向けると考えると足が竦む。

 

 言え、言え、言え、此処で言わなければきっと私は一生彼女達に正体を明かせなくなる。そんな予感と確信があった、此処が分水嶺だった、私がすべてを彼女達に晒し生きていけるかの。

 

「……だって?」

「―――――」

 

 美香が言葉の続きを促す。私は息を吸い込む、言うんだ! 再び心の中で私が叫んだ。ぐっと喉に力を籠める、腹に力を籠める、そのまま一息に私がジョン・ドゥだと言い放とうとして。

 

 初めて美香と出会った時の怯えた顔が脳裏に掠めた。

 

 セツナだけなら明かせた、明かそうと思えばここまで苦悩しなかった。彼女とはこう言っては何だが一週間程度の関係だ。けれど美香は違う、彼女との重みはそんなものではない。時間は重しだ、そして一度築いた関係というのは容易に変えられない。

 浅い関係ならば傷も浅い、深ければ当然――受ける傷も深くなる。

 

「ぁ………」

 

 膝が震えた。他の有象無象の人間に嫌われたくない、恐れられたくない、その感情は未だ存在する。けれどそれ以上に、何よりも――彼女に失望し畏れられるのが何よりも怖かった。

 

 

「私も――私も、彼に助けられたんです」

 

 

 言えなかった。

 

 私の口をついたのは急造の嘘、その言葉を口にした途端ドッと私の体が虚脱感に襲われる。結局私は私自身の期待に応える事が出来なかった。どこまでいっても臆病で、小心者で、度胸が無くて、腑抜けで――その癖、欲張り。

 

 私の言葉を聞いた美香はピクリと肩眉を上げ、そのまま「どういう事ですか」と続きを促す。

 

「私の家がゾンビの襲撃にあって、物凄い大群で、這う這うの体で逃げ惑っていた所を助けて頂いたんです……本当は家に帰るつもりだったんですが、彼が家に置いてくれて、暫くは此処に居て良いと」

「それを何故、先程言わなかったのですか」

「すみません、貴女の様な人が居ると思わなくて、少し驚いてしまって」

「……………」

 

 彼女は未だに鋭い目で此方を見つめている。私は腰に差していた警棒を抜くと、力なくその場に転がした。私にはこの位の武器しかありませんと、銃すら持たないこんな優男がどうやってあの巨人を倒せるモノかと。

 

 私は淡々とした口調でそう言い放った。何せゾンビの群衆を蹴散らすような怪物である、そんな奴を人間が素手で倒せる筈がない。その言葉には彼女も説得力を感じた様だった、あのジョン・ドゥが殺される光景など思い浮かべられない。

 

 ゆっくりとした動作で銃を下ろした美香は、そのまま一言「すみません、少し考えれば分かる事でしたね……気が逸ってしまいました」と謝罪を口にした。セイフティを弾いた彼女はそのまま拳銃をホルスターに収める。

 同時に私の左腕、その表面を覆っていた管がすっと音もなく消え去った。

 

「いえ、こちらこそすみません……貴女のように全てを投げ捨ててまで彼に逢いに来る人がいるとは思わなくて、自分が図々しく思えてしまったんです、本当にごめんなさい」

「まさか、寧ろ彼が変わっていない様で安心しました、人が良いところは相変わらずな様で」

 

 先程とは打って変わって柔らかい笑みを浮かべる美香。この一ヵ月で彼女は見違えるほどに成長していた。私が家に籠って悲観していた時間を糧としたのだ。私にはその姿が酷く眩しく見えた。

 

 そのやり取りを見ていたセツナは「はっ!」と体を跳ねさせ、そのまま私の方へと飛びついて来る。まるで私の盾になる様に密着し、美香に対して早口で捲し立てた。

 

「み、美香ちゃん駄目だよ! 人間同士で争いとか不毛だから! 突然銃とか抜かないで、私凄く心臓弱いんだからね!? 死んじゃうよ私、いいの!?」

「状態としてはもう死んでいると思うんですけれど……すみません、もう銃を向けたりしません、私の早とちりでした」

 

 そう言って素直に頭を下げる美香。それでも尚警戒心――というか単純に落ち着かないだけなのだろう、セツナは私から離れない。彼女からすれば同じ人間、けれど少しでも長く居た方を守りたいのか。単純に彼女が銃を向けたかもしれないけれど。

 

「セツナさん、セツナさん、もう大丈夫ですよ」

「ほ、本当に本当? 本当にもうやめてよ? 折角同じ人間同士が出逢えたんだから、仲よくしよう? ね?」

「えぇ、勿論です」

「はい」

 

 どこか懇願する様な形で口走るセツナ、その言葉には心から賛成した。私とて目の前で人間同士が争い始めたら全力で仲裁するだろう。勿論私自身の命に害が及ばない範囲ではあるけれど。

 

「取り敢えず家に入りましょう、食料と水の備蓄もありますから」

 

 

 ☆

 

 

 美香を納得させるのにそれ程労力は必要なかった。

 

 私が助けられたのが凡そ半月前、そして其処から彼は必要なモノを揃えるのに遠出すると言った旨を伝え、未だ帰って来ていないとも伝えた。

 

 どれくらいの帰還遠出するのかと言われ、私は咄嗟に「一ヵ月」と答えた。分からないと答えなかったのは彼女が彼を探しに旅立つ事を阻止する為だった。期間を設ければ彼女も安易に動けないという予想があったのだ。事実彼女は暫く考え込み、彼が戻って来るまでの一ヵ月をこの街で過ごすと答えた。

 

 前に滞在していたコミュニティは良いのかと聞けば、どうやら彼女はコミュニティを離脱する旨を予め伝えていたらしい。かなり引き留められたらしいが、それでも彼女の意思は変わらず自分の【家族】に逢いに行くと頑なに譲らなかったそうだ。

 

 恐らく家族とは(ジョン・ドゥ)の事ではなく小苗だろう、こんな世界なのだ、どれ程大規模なコミュニティだろうと必ず平穏無事に過ごせるかと言われれば違う。人として何処で死ぬか、どうやって死ぬかくらいの自由はあって然るべきだ。

 そう考える人も一定数居たらしい、それもまた一つの人権なのだろう。そういった人の後押しもあり彼女はコミュニティを抜け、この街までやって来たらしい。餞別として幾つかの食糧と水、そしてスクーターも渡されたのだとか。

 

 尤もこの街に来る途中でガソリンが切れ、途中補給できる場所も無かった為に泣く泣く手放したとの事だが。

 

 その後も美香と私達は話し合いを重ね、彼女もこの家で過ごす事になった。セツナは睡眠の必要もないし寝ずの番は任せてと胸を叩き、彼女も「良いんでしょうか」と遠慮がちではあったが他に住処の候補となる場所も無く、自然な流れで三人共に過ごす事となった。私としては恐れていた事態がまたもや訪れたと言った所。けれどこうなる事は予想出来たし、私自身危険な外に美香を放り出すような真似は死んでもしたくなかった。

 

 祈るとすれば自身の人としての擬態が上手くなっている事だろう、精々不審がられない程度に頑張りたい。問題は私が人間形態で美香という本当の人間と過ごす上で刺激されるコンプレックスだった。

 

 部屋は幾つか余裕があったので、元々私――ジョン・ドゥ――が使っていた寝室が私の部屋、客間として使用していた部屋がセツナの私室、そして妻だった女性の部屋を美香に振り当てた。どうせ使っていない部屋である、彼女は勝手に部屋を使う事にかなり抵抗があった様だけれど、私が「予め許可は貰っている、この家は好きに使っていいと言われた」と伝えれば彼女も渋々頷いてくれた。

 

「これでは前と変わりませんね、帰って来たら沢山恩返ししないと」

 

 美香はそう言って微笑む。その笑みはとても美しい物に感じ、私はその言葉だけで十分だと思った。同時にそんな彼女を騙している事に多大な罪悪感を抱く。

 一ヵ月、それが私に残された時間。その間に何とかこの状況を切り抜ける策を考えるか――それとも。

 

 姿を明かす事を考える、けれど多分自力で明かすのは無理だという確信があった。一度駄目だった事を繰り返そうとしても、上手くいくビジョンが全く見えない。

 ゾンビ形態であれば正に巨人と言える巨躯の癖に、内面はこれ程繊細で小さい。

 

「情けない男だ」

 

 寝室で寝転がって呟く。自己嫌悪此処に極まり、けれど寂しくはなかった。

 私にとってはそれが唯一の救いだった。

 

 

 ☆

 

 

 美香の存在は私達にとって大きな変化だった、まず自分が居なくても誰かの話し声が聞こえると言うのは私の心を大いに慰めた。たった三人しか居ないけれど、此処は私の所属する【コミュニティ】なのだと実感できた。その内の二人がゾンビだとしても、だ。

 

 それに彼女のサバイバル知識、コミュニティではどういう風に多人数の人口を養っていたのか、多少傷んだ食材の調理法やちょっとした廃材をバリケードに利用する工夫、ゾンビに見つからない様に移動する方法。全てゾンビを危険として認識していなかった私にとっては真新しいものばかり。

 

 彼女のお蔭で物資調達がぐっと楽になる、一度に多くの荷物を運ぶ方法なんかもあった。ましてや此方はセツナのお蔭でゾンビが寄ってこない、一度に多くの成果物を得られるのは万々歳であった。

 

「ジョン君、これの他に鍋ってありませんでしたか? 多少小さくても良いんですけれど」

「あー……っと、確かこの辺にあった気が」

 

 特に料理なんてものは考えもしなかった、大抵食べられそうなもの、保存食なんかをそのままボリボリ食べるのが常だった。だから多少傷んだものを料理して食べるなんて発想は驚きであり、新鮮だった。生前自分で調理なんてせずに大抵外食が買い食いで済ませていたのが理由だろう。

 

 現在、私と美香はキッチンに立って消費期限の過ぎた食材を焼いたり炒めたりしている。流石にカビやら何やらが生えた食材は捨てるしかないけれど、その手前の食材は調理次第では食えるというのが彼女の弁。何でもこれは駅コミュニティに居た頃から実践していた事らしい、食料は貴重だ、どうにかして食える状態にしたいというのは分かる。私には考えもつかない事だった。

 

「? 何か良い事でもありましたか」

 

 香ばしい匂いを漂わせるフライパンを掻き混ぜながら私を見る美香、「えっ」と私が聞き返せば「笑っていたので」と口元を指差す。私が口に手を当てると唇が微笑んでいた事に気付いた。

 

「あ……あぁ、えっと、すみません、ただ良いなって思って」

「……?」

「こうやって誰かと料理をした事が無かったので、新鮮なんです」

 

 私がそう言うと数秒沈黙した彼女は、「そうですか」と言って目を伏せた。私は小さく頷きながら水を張った鍋にスープの素を入れる。コーンスープだ、湯に入れるだけで出来上がる簡単なもの。けれどそんなモノですら今は貴重だった、量を増やす為に薄味になるけれど贅沢は言わない。

 

 二袋入れた所で掻き混ぜ、湯に溶かす。そうこうしているとリビングのソファに膝立ちになって此方を覗き込んでいるセツナが声を上げた。

 

「いいなぁ~、私も手伝いたいなぁ~」

「ウィルスが入るかもしれないから私は手伝えない、ごめんね、って言ったのはセツナさんですよね」

「そうなんだけど……何か楽しそうで疎外感が凄いの、お姉さん凄くさびしー」

「本でも読んでいて下さい、そっちの携帯テレビでなら何か見ても良いですから」

「人肌が恋しいんですぅ」

「なんて言っていますけれど、美香さん」

「自分の手でも握っていて下さい」

 

 言われた通り自分の手で握手をするセツナ、程なくして「冷たい……」と呟いた。まぁ、そうだろうな。

 

 仕方ないので十二分に溶けたコーンスープをマグカップに注ぐ。そこそこ量を作った為三人分くらいならあるだろう。カップの八分目位まで入れたコーンスープを持ってセツナの傍に行き、これでも飲んで待っていて下さいと言った。

 

 彼女は差し出されたソレを見て驚き、「飲んで良いの? 二人の分無くならない?」と聞いた。

 

「大丈夫です、大目に作りましたし、その分薄味ですけれど……気にせず飲んで下さい」

 

 セツナは湯気を立てる温かいソレを恐る恐る受け取る。冷たい彼女の手のひらにじんとした熱が浸透した。両手で確りと持ったマグカップを口元に運んで一口、ぐっと通った薄いコーンスープの味、生前なら何とも思わなかった。仄かな甘みとまろやかさ、けれど今はその味がこれ以上なく美味しく感じた。

 

「……美味しい」

 

 ほぅ、と呟くセツナ。私は満面の笑みで「でしょう?」と言った。

 

 人間ではなくなった落差、そして今までゾンビでありながら人間で在ろうとした苦労、そう言った物が全て詰まった一口だ。そりゃあ美味しいだろう、例え味気なくても、どんな食べ物でも、一度口に含んで喉を通り、胃に入っていく瞬間。

 この瞬間、「あぁ、私は生きているんだ」と実感できる。

 

「良い機会ですからセツナさんもご飯食べるようにしましょうよ、美香さんのお蔭で備蓄にも余裕ができ始めましたし、何事にも楽しみは必要です」

「えぇ? いや、流石にそれは良いよ……ご飯は貴重だし、私は食べなくても」

「二人分も三人分も大して変わりません」

 

 マグカップを握り締めながらブンブン首を横に振るセツナ。そんな彼女に美香はフライパンを持ちながら食卓にやって来た。下に断熱シートを敷いて、その上にフライパンを載せる。持ち手を外すと長箸で掻き混ぜながら言った。

 

「食べられるお肉は貴重なんですから、一緒に食べましょう、ゾンビと言ってもご飯は食べられるんですよね? なら食べなきゃ損です」

「いや、でも……」

「美香さんもこう言ってるし、セツナさんも食べましょう、美味しいですよ?」

 

 これでもかという位に食事をプッシュする私。彼女も食べたくない訳では無いのだろう、現にマグカップを握り締めながらチラチラと食卓の方を見ている。食料は貴重であるという自制心と食べたいという欲求が競り合っているのだ。

 

 現に誰かと食卓を囲んで同じ物を食べると言うのはとてつもない幸福感を齎す。自分は独りではないという充足感と、人と同じ生活をしているという満足感だ。

 

 結局セツナは最後まで頑なに首を縦に振らなかった。

 けれど、美香さんが妥協案で私達よりも量を減らすと言えば渋々頷いて見せる。彼女のその優しさは生来のものだろう。

 

 私たちは三人で食卓を囲み和気藹々と食事を摂った。久々に食べた出来立ての料理はとても美味しかった、セツナも遠慮がちに料理を口に運び――そして咀嚼した途端ふわりと笑みを浮かべる。

 料理の味どうこうではない、それを越えた先の満たされる何かがあった。

 

「美味しいねぇ、ふふっ」

「えぇ、そうですね」

「……何か、凄く嬉しそうですね、セツナさん」

「そりゃあそうだよ」

 

 一口分をじっくりと咀嚼するセツナ、その表情は誰の目から見ても緩み切っていた。美香がその事を指摘すれば何度も頷いて肯定して見せる。

 

「こればっかりはゾンビにならないと分からないかなぁ……何て言うか、凄い暖かいんだよ、こうやって普通の人と食卓を囲んだり、温かいご飯が食べられたり、そういう何気ない事がさぁ――自分がもう人間じゃなくなったからかな、心の何処かで人の営み、その習慣に憧れているのかもね」

「良く、分かりません」

「それで良いんだよ! 分かったら寧ろ大変だ、人間じゃなくなっちゃう」

 

 セツナは笑ってそう言った、美香は特に何とも思っていない様だったが私は彼女の言葉に深く感じ入った。そうだ、これが分かるのは私達の様な半端者だけ。ゾンビでもあり人間でもある、そんな特異な存在。

 

 或はどちらかであれば、こんな想いはしなくて済んだだろうに。

 私は束の間の幸せを噛み締めながら提案した、こんな食卓をいつまでも囲っていられるように。私の人間としての側面が暴かれない様に。

 

「またお肉を探しに行きましょうか、もしかしたら電源が死んでない冷凍庫があったりするかもしれませんし」

「地下とか、比較的涼しい所に保存されている食品なら大丈夫かもしれません、若しくは直接狩りに行くか……私、狩りの経験とかはないんですけれど、ジョン君とセツナさんはありますか?」

「いやいや、私普通の勤め人ですから、狩りの経験なんてある訳ないでしょ! ……けどお肉また食べたいし、道具があれば……まぁ?」

 

 ともあれもう少し、私はこの空間に浸っていたい。

 此処はとても心地よいから。

 

 

 ☆

 

 

 真夏。

 

 青い空に白い雲が浮かび上がり、遠くの景色が歪んで見える程の熱気。じくじくと肌を刺す熱が室内にまで入り込む時期、夏と言うのは何故こうもノスタルジーな気分になるのか。世界の色が一割増濃く見える様な気がする、植物の緑と空の青、そして街のコントラストに雲の白が映える。蝉が煩い位に鳴いていて、けれどそれに風情を感じるくらいには未だ私に人間性が残っていた。

 

 私達がこの家で生活を共にして半月。

 

 我が家の冷蔵庫はフル稼働、本格的な夏が来る前にと方々を走り回って冷凍食品や生物回収に勤しんだ。大抵は駄目になってしまったものばかりだったけれど、場所によっては傷みだす前の食材なども見つかり何とか確保する事が出来た。保存食と合わせればこの夏を乗り来る程度の食糧は集まっただろう。

 

 発電機はあるがガソリンは無限ではない、最近ではセツナが独りでに外へ赴き廃車や乗り捨てられた車、若しくはガソリンスタンドから必要な燃料を調達してくれる。しかし節電を心掛けてはいるものの真夏となればある程度空調の使用も考えなければならない。電気の需要は尽きなかった。

 

 足りないならば調達するしかない、これ程日光が強いならば太陽光発電も考えてみようと一念発起、私は二人に掛け合って太陽光発電設備を整える事にした。

 

 必要なのは太陽電池、つまりモジュールであるパネルと接続箱、パワーコンディショナーだった。まず大掛かりなものは無理だ、重くて私達だけでは運ぶことが出来ない。それに太陽電池の設置には専門的な知識も必要だった、そちらの方面の知識に私は詳しくない。聞けばセツナと美香も知らないという、ある意味当然と言えば当然だった。

 

 だから私は付近の家から拝借する様な事はせず、ソーラーパネルを取り扱っている企業にお邪魔させて貰った、片道ニ十分の距離だ、往復で四十分も掛かる。後は便利で大好きホームセンター。狙うのは大掛かりな太陽電池ではなく簡易組み立てキットの様な太陽電池、つまり蓄電池キットだった。

 

 運が私に味方したのか、お邪魔した企業倉庫の中には陳列棚に並ぶ前のキットが六つほど見つかった。私達は何度か往復してそれらを持ち帰り、早速組み立て家の庭に設置した。

 

 ソーラーパネルにチャージャーコントローラー、インバーターと配線ケーブル。後は支えるためのフレーム、それらを組み立てながらバッテリーに繋げば完了。説明書が同封されていたのは助かった、結局は安価なお試しキットな為一枚一枚の発電量は大した事が無いけれど、ここまで大量に並べると中々どうして馬鹿にならない。

 

 昼間の内は太陽光発電で電力を取得し、夜間に蓄えた電力で冷蔵庫や空調を回す。これで消費するガソリンの量が減ってくれれば言う事無しだ。

 

 必要なものは沢山あった、それら一つ一つを解決していく内に私はいつしか本当に自分が人間になった様な気がした。正直生きるだけなら私は電力も食事も、水すら要らない存在だ。だから最悪無くても良いという余裕が常に私の心の底に張り付いていた。けれど今は違う、なければ本当に自分の死に直結するという緊張感があった。

 

 良くも悪くもサバイバル生活に馴染んだという事か、それとも長い間ゾンビ形態にならず、人の輪に馴染んだからこそ芽生えた感情か。幸いにも今の所セツナに勘付かれた様子はない。そもそも彼女は私と美香を比較する事すらしていない様に思えた。

 全ては私の杞憂だったのだ。

 

「ふぅ……この辺りは大体漁ったかな?」

「そうですね、少し休憩しますか」

 

 通い慣れたスーパー、そこから徒歩十分圏内にある倉庫一角。棚に並べられた箱を漁って飲み水の確保に性を出していた私達は汗ばみながらその場に腰かける。剥き出しのコンクリート、そのひんやりとした冷たさが今は心地よかった。私の体は汗を掻かない、帽子を深く被った私はそれに気付かれない様に時折飲み水を手に零し、それを首や頬に張り付けていた。

 

 汗を掻いている演出だ、水分補給は小まめにとセツナに言われている為特に不審がられる様子はなかった。美香はべったりと張り付いた髪を鬱陶しそうに払い、時折Tシャツを扇ぐ。本格的に暑いらしい、彼女の頬は赤く染まっている。

 

「倉庫の中はひんやりしていて比較的マシですけれど、やっぱり夏は凄いですね、地球温暖化って嘘だったんじゃないんですか? これだけ人が居なくなって植物が生い茂っているのにちっとも涼しくならない」

「私もそう思います、正直少しは涼しくなると思っていたのですけれど……こういう時はちょっとだけセツナさんが羨ましいです」

「いや、私も暑い事は暑いんだからね? 汗を掻けない分熱気籠りまくりで脳味噌溶けそうなんだから」

 

 項垂れた美香に対してセツナはぶんぶんと首を振る。その気持ちは分かる、汗が流れない分ゾンビは熱に弱い。何で映画やアニメでゾンビが燃やされているのか分かる気がした。いや、あれは普通に人間でも死ぬけれど。

 

 コンクリートに張り付きながら軽く水を口に含む。口内の熱を水で冷やしながら呑み込み一息、隣には開け放たれた段ボールにズラリと並んだペットボトル飲料水。500mlのそれは開封しなければボトリングから一年は飲めるという優れもの、2lタイプなら二年はもつ。

 

 正直これだけ纏まった飲み水が見つかったのは嬉しかった、何せ夏はただですら水の消費が激しい。風呂等の水は多少なりとも汚れていても問題無いけれど、飲み水はそうもいかない。しかしこれだけの量を持って帰るのは大変だった、帰り道を考えると憂鬱になる。

 

「これを持って帰るのは中々に骨ですねぇ……」

「んー、やっぱり車とか必要かな? あるだけで大分違うと思うけれど……お姉さん一応免許持ってるし、運転出来るよ? 万が一の脱出手段にもなるしさ」

「そうは言っても市内は乗り捨てられた車が多いですから、小回りが利く車両ならまだしも一般車両だと郊外位しか快適に走れないと思いますよ、ガソリンだって発電機の分を考えると無駄遣いはできませんし、人力で出来る範囲は全て人の手でやった方が……」

「そっかぁ……でも万が一の脱出手段は欲しいよねぇ……」

「それはまぁ、あるに越したことはありませんし」

 

 汗をタオルで拭いながら答える美香、車の無い生活に慣れて久しいがやはりあった方が便利と言うのはその通りだ。太陽電池をルーフに設置したソーラーカーがあったら良いなと私が言えば、「アレ、あんまり普及しなかったから、見つけるのは難しいと思うよ」とセツナ。いっその事電気自動車を改造してやろうかとも思ったけれど、そんな知識も技術も私達には無かった。

 

「ない物ねだりは出来ない、って事でしょうか」

「そういう事だね……さ、ぱっぱと物資を集めて帰ろう、私は涼しい部屋でのんびりしたいよ」

「同感です」

 

 セツナの声に賛同しコンクリートにへばりついた状態から起き上がる、そして詰め込めるだけの物資をリュックサックに詰め込んだ。飲料と食料あとは他の段ボールに詰めてあった新品のタオルや食器、日用品の類も忘れない。ティッシュ一枚すら不用意に使えない世の中、持てる分だけ兎に角集める。そうこうしていると塩素の入った段ボールを見つけた、何に使うつもりだったのか分からないけれど不意にそれを見て言葉が出る。

 

「何かあれですね、水浴びとかしたいです」

 

 じくじく熱が籠る中、私はふとそんな事を口走った。無論手は物資を搔き集めながらだ。

 私の言葉を聞いたセツナは作業を続けながら「あー、それ良いねぇ、プールとか行きたいなぁ」と呟く。

 

「そうですね、泳ぐ……と言うよりは涼む目的で賛成です」

「でもプールなんて何処も汚れちゃっているだろうしなぁ……海とかなら大丈夫かも」

「海ですか、少し遠いですね、それこそ車が無いと行けそうにない」

「水浴びの為に泊りがけの強行軍とか嫌ですよ、私」

「流石にそれはツライかも」

「ビニールプールとかならどうですか? 水溜めるだけなら割と簡単に出来ますよ、お風呂に再利用も出来ますし」

「んー……ちょっと子どもっぽい?」

「贅沢言わないで下さい」

 

 私が倉庫の端に収納されている大きい箱、子ども用のビニールプールを指差しながら言うとセツナは唇を尖らせながら首を傾げた。そこにズバッと美香が切り込む。良い案だとは思うのだけれど、それにこの時期なら風呂代わりに水浴びでも十分だ。

 

「いやー、でもなぁ……お姉さん最近ちょっと太り気味で、水着が」

「ゾンビになってまで何を言っているんですか、太らないでしょう、その体」

 

 どこか遠慮しがちな声色で自分の体を抱きしめるセツナ。美香の言う通りである、ゾンビになると体型に変化など無い、恐らく『成長』という概念がないのだ。ゾンビ形態は分からないが人間形態は諸々確認済みである。

 

「いやいやいや、そこはね、ほら、乙女的なパワーがあるんですよ、女子力?」

「女子力で脂肪を蓄えるんですか……?」

「そう言えば美香さん言っていましたよね、今日の別腹、明日の脇腹」

「ジョン君?」

「ごめんなさい」

 

 でも私は悪くない。

 

「いや、でもここだけの話、太れるなら太っていた方が良いと思いますよ、食料だっていつまであるか分からないんですから、これから先十年、二十年って経過したらモノを漁って食べるなんて事も出来なくなりますし……今の内に自給自足のノウハウを身に着けておかないと」

「自給自足かぁ、畑とか田んぼとか?」

「えぇ、後は狩猟なんかも出来れば良いのですけれど」

「銃器の扱いなら私が教えてあげられますよ、農業は……ちょっと分からないです、ごめんなさい」

「私もつま――母が小さな家庭菜園を昔していたのを見た事がある位で」

「ほうほうほう……なら此処はお姉さんの出番ですねぇ」

 

 私と美香が申し訳無さそうにそう言えば、セツナはにやりと笑って私達二人を見る。その自信満々な表情に私と美香は顔を見合わせ、「農業の経験があるんですか?」とセツナに問いかけた。

 

「経験があるもなにも、何を隠そう私の実家は農家なのです! じゃーん!」

「へぇ、それは初耳です、じゃあ畑とか田んぼの作り方もばっちり?」

「勿論! ――と言いたいところだけれど、イチから創るのは難しいと思うよ、やっぱり今ある田んぼとかを利用した方が良いかなぁ……畑位だったら大丈夫だろうけれど」

 

 土もそうだけれど水路とかも必要だし、そう言って難しい表情で唸るセツナさん。どうやら私達よりは農業に関しての知識がありそうだ。これは近々周辺で田んぼを見つける探索が必要になってくるかもしれない。ただ彼女曰く色々と機械、田んぼであれば田植えに収穫、脱穀、それを運ぶための運搬機等々も使うとの事。それらを揃えるのはとても大変そうに思えた。

 

「後は何より苗が無いと話にならないし」

「あー……」

 

 問題は山積みである。

 私はパンパンになったリュックサックにカバーを掛け、パチンとボタンを閉めた。一応詰め込める分だけは詰め込んだ、見ればセツナと美香の二人も大凡詰め込み作業は終わった様だ。

 

「まぁ将来的な事は色々不安ですけれど」

「それはそれ、これはこれ、今は兎に角暑いのが嫌」

「……じゃあ、決まりですね」

 

 三人顔を見合わせて破顔する。

 私達は示し合わせた様に倉庫の角、そこに鎮座するビニールプールを引っ張り出す。流石に箱をのまま持っていくのは嵩張るので中身だけを取り出し、美香とセツナが細長く纏めて脇に抱えた。因みに私はペットボトルの詰まった段ボールを抱える係である。

 

 まぁ偶には水浴びなんていう遊び心があっても良いのではないでしょうか。こんな息苦しい世界なのだ、せめて息抜き位しなければ窒息死してしまう。

 倉庫を出て炎天下の中を歩く。帰り道、ふとセツナが声を上げた。

 

「あ、そう言えば私水着持って来てない」

「まぁ、まず必要だとは思いませんからね、どうしますか、途中で服屋にでも寄ってみます? あるかどうかは分かりませんけれど」

「んー……いや、面倒だから下着で良いかな、どうせジョン君位しか見る人居ないし」

「先程まで乙女パワーやら女子力と言っていた人の発言とは思えませんね」

 

 賑やかな帰路、私はその中に混じって笑い声をあげる。

 皮膚に張り付いた雫がジュッと溶け、蒸気となる様を見つめながら。

 パキリと、私の指先が罅割れた。私はそれに気付いた瞬間に指を握り込み、ペットボトルの箱を片手で抱え込む。もう片方の手でリュックサックの肩掛けを掴み、さも何でもない風を装って。

 

「明日は涼しいと良いですね、ジョン君」

「えぇ、そうですね」

 

 

 


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