以前まで、本編の正史として投稿していたお話です。
ボツ話 校内探索《屋上》
私は屋上の扉を「ふんっ」と言うかけ声とともに全力で押した。けれどもその扉は、押しても引いても一向に開く様子を見せない。なぜかその扉は、他の扉と比べて、遥かに重い材質で作られていたのだ。
たぶん材質設定を間違えたのだろうな、と私は思った。
年中自宅でパソコンに張り付いているインドア派の私では、一日中踏ん張っても開けそうにない。体力数値が低く設定されている私は、ちょっと力を込めて押しただけですぐに息切れした。
一階、二階、三階。無駄に広い学内のほとんどを見て回ったので、締めとして最上階である屋上を見にきたわけだが――まさか、こんな門番が構えているとは想像もつかなかった。
そういえば以前にもドアのことで困った出来事があったなと、私はふと思い出した。まあ、あのドアは頑強すぎるドアとは違って、セキュリティが緩すぎるからこそ勝手に入っていいものなのか躊躇っていただけなのだが。
今回の扉は物理的に入りにくい扉だが、以前の扉は精神的に入りにくい扉だった。この世界には普通の扉というものがないのだろうか。
少々休憩して息切れから復帰した私は、再度この南山不落の扉に挑戦した。
押しても引いても、相変わらずうんともすんとも言わない。まるで重い岩石のようだと、私は思った。
そう思った直後のことである――岩石の如きのドアは、途端にその重量の一切を失った。
「――あっ」
いきなりの事でビックリした私は、そんな短い悲鳴を上げた。
予兆なく、岩石の如く重い扉がフワリと軽くなったので、私は勢い余って前方に転んでしまったのだ。
地面に急接近する落下感を覚えた私は、危ない、と反射的に瞼を閉じた。
受け身を取れずに、私は固い地面へとぶつかろうとした――痛みを覚悟していた、そのときだった。
「――はいはいはいはい。危ないですからねー」
私の耳側でそのような聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。
途端、落下感は消えた。代わりに不思議な安心感が、私の身体を覆った。やや硬いベットに飛び込むときと似た感触がした。
私は、瞑ってしまった目を開いた。
まず最初に視界に入ったものは、青いスーツと赤いネクタイ。見覚えのある『それ』が目と鼻の先にあることに私は目を見開いて驚いた。
同時に顔が沸騰するように熱くなった。『それ』を見て、私が現在どういう姿になっているか察したのだ。
たぶん私は今、男の人の胸に顔を埋めている。
しかも、その男とはアレである。どうしてもイマイチ好きになれない、あの馬だ。
あくまで事故とはいえ、あろうことかこの私が苦手な男性の胸に飛び込んだ形になってしまった――それを察してしまった直後、羞恥の気持ちが胸中に渦巻いた。穴があるなら入りたい、そんな気分になった。
「……ありがとうございます。ばあちゃるさん」
「いやいやいや。ぜんぜん構いませんからねー。はいはいはいはい」
羞恥で染まった顔を伏せながら、私はせめてもの感謝の言葉を言った。
そして、下唇を噛んで自責した。彼の胸に埋まったとき、私は一瞬とはいえ安心感を覚えてしまったのだ。それがとても屈辱的で、心底腹立たしかった。
私はこっそりとばあちゃるの腰辺りに手を回して、彼のスーツをギュッと握った。そうすることで、スーツに皺が生まれた。
せめてもの仕返し――いや、これはただの八つ当たりだった。
☆
「はいはいはいはい。いやぁ申し訳ありませんねキズナアイさんね。馬のマスクを被るのにちょっと手間取って、鍵を開けるのが遅くなってしまいましたね。はいはいはいはい」
「か、鍵ですか」
「はいはいはいはい。このマスクをとても蒸れるんでね。はいはいはいはい。ひとりのときは外しているのですが、そのときにね、誰かが屋上に入ってきたらばあちゃる君の素顔を見られちゃいますからね。はいはいはいはい。だから、内側から鍵をかけていたんですよね。はいはいはいはい」
「…………」
鍵の存在をすっかり忘れていた。
ああそうだ。押しても引いても微動だにしないのなら、まず最初に鍵の可能性を疑うべきだった。
私の家は鍵がなく、鍵に触れる機会が少ないので脳裏に浮かび上がらなかった。
まあ、扉のことはもう忘れよう。ついでにあの事も思い出してしまうので、また顔が熱くなってしまうし――。
「あ、そういえば校内を回り終わったあとの集合場所は決めてませんでしたね。はいはいはいはい。たぶんアカリンとシロちゃんもね、そろそろ全部見終わったと思うんでね。屋上に集まるよう連絡いれますね。はいはいはいはい」
ポケットからスマホを取り出してばあちゃるさんはLINEを開いた。
ゆったりとした手捌きで画面をフリックしている。文章を打ち終わったばあちゃるさんはスマホを懐に戻した。
「はいはいはいはい。お待たせしてすみませんねキズナアイさん」
「……今更ですけど、最初の教室を集合場所にしたほうがよかったのでは?」
「あっ、そういえばそうですね。はいはいはいはい」
そもそも集合場所を予め相談していなかったこと自体が失策だった。自由行動をするならば、集合場所はもちろん集合時間なども設定するべきだった。まあ今更だけど。
さて。ではアカリちゃんとシロちゃんが来るまでしばらくの間、私とこの馬はふたりっきりということになる。
正直、心底求めていない展開だ――いや、そうとも言い切れないか。
ちょうどいい。一つ、ばあちゃるさんに尋ねたいことがあったのだ。
「そういえば、ばあちゃるさんってなんで馬のマスクを着けているんですか?」
彼の馬のマスクについて――もっと言うなら、馬のマスクの中身について、私はあの一件から興味をもっていたのだ。
つい先程、ちらりと見えた『あの顔』。あれがただの見間違えではないかどうか、私は確かめたいのだ。
ばあちゃるさんは、いつも通り「はいはいはいはい」と言った後にその返答をした。
「このマスクを着けている理由は多くあるんですけどね……。強いていうなら『素顔を見られたくないから』、ですかねぇ」
「まあ、覆面を常時着けているということはそうなんでしょうね。でも私が聞きたいのは、そういうことではなくて――」
「はいはいはいはい。まあばあちゃる君としてはね、このイケメンの素顔をみなさんに公開できないことは残念なんですけどね。はいはいはいはい。でもね、このマスクを着けることはですね、ばあちゃる君を開発した企業さんの命令なんでね。はいはいはいはい。いやぁこれは仕方ないですね」
「素顔を見せられない理由、聞いてもいいですか?」
「はいはいはいはい。それにしても今日の電脳世界は暑いですねぇ。はいはいはいはい」
「……そうですね」
駄目だ。いくら聞いても誤魔化される。
これ以上のことは、ばあちゃるさんは絶対に口を割らないだろう。そう理解した私は、一旦折れることにした。
だが、ばあちゃるさんのその反応からして、何らかの秘密がそのマスクの下に隠していることは明確である――やはり、多少強引にでもマスクを剥ぐべきなのかもしれない。
無理矢理に奪うのは気が引けるが仕方のないことだ。私は、ばあちゃるのマスクに狙いをつけた。隙を狙えば、マスクの奪取は不可能ではない。
私はゆったりと忍び足でばあちゃるさんに近づいた。
そしてばあちゃるさんが、何気なく後ろを向いて空を眺めたその瞬間、私は足の爪先を伸ばして馬のマスクを掴もうと試みた。
だが――駄目だった。
彼の身長が高いせいで、マスクには手が届いても一気に脱がせることは難しい。精一杯足の爪先を伸ばすが、やはり脱がせそうにない。
私はうーんうーんと、限界まで爪先を伸ばした――
「あっ、そういえば。ばあちゃる君、あなたにお伝えしたいことがありましてね……」
「えっ! あ、はい」
突然ばあちゃるさんが振り向いたので、私は反射的にマスクに差し伸ばす手を引っ込めて、三歩ほどバックステップした。
危ない危ない。もう少しでバレるところだった。
私は冷や汗をかいた。
「で、お伝えしたいことってなんですか?」
「えっとですね。シロちゃんのことについてなんですが――」
おちゃらけた雰囲気から一転して、真剣味のある空気を身に纏うばあちゃるさん。
そんな彼は、私に対して深く頭を下げた。
「――申し訳ありませんでした。キズナアイさん」
「え、えぇ! なんですか急に!」
彼に謝罪される覚えなど私にはまったくない。
私は困惑した。
「……どうやら、シロちゃんがキズナアイさんにご迷惑をかけたらしいですのでね。シロちゃんの保護者として、ばあちゃん君からも謝罪します」
「いや、いいですよそんなの。もうとっくに許したことですし」
あの件については、私とシロちゃんの中では既に解決していることだ。今更謝られても困惑するだけだし、そもそもその事でばあちゃるさんの過失など一つもないはずである。
「許したこと、ですか。そう言っていただけると、ばあちゃる君もありがたいですね――けれどこれは、ばあちゃる君のケジメのようなものなんです」
「ケジメ、ですか」
「えぇそうです。ケジメです。……ばあちゃる君のせいで、
ばあちゃるさんは爪が掌に喰い込むほど強く握り拳を作っていた。
そして彼は、震え声で――
「キズナアイさん」
「はい」
「もしよければ……あなたに、聞いてほしい話があるんです。シロちゃんを許してくれた、あなたに」
「…………」
まるで別人と話しているようだと、私は思った。
喧しくまくしたてる普段のばあちゃるさんとは、まるで雰囲気が違う。
たぶん、むしろこちらのほうが
ばあちゃるさんは――彼は、再び頭を下げた。
「シロちゃんの――妹の話を、聞いていただけないでしょうか」
「――はい」
そうして彼は、彼女の過去を語り始めた。
「結論から言いますとね。
シロちゃんは小学生の頃、イジメに遭っていたんですよね。
……おや、驚かないのですね。意外です。
あなたがたにとって馴染みの無い言葉でしょうから、多少はビックリすると思っていたんですけどね。
まあでも、他ならぬキズナアイさんならばその反応も決して不思議ではありませんか。
あなたはシロちゃんにとても懐かれているようですから――あの子がどういう性格の娘なのか、何となく理解していても決して不思議ではありませんね。
いやぁ人見知りのあの子がこんな早いうちから誰かに心を開くとはね、ホント珍しい事もあるものですねぇ。
そんなキズナアイさんですから、きっとこの事もすでにお察しなのでしょう。
あの子は他の人よりもちょーっとだけね、変わった行動をしてしまう子なんですよね。
生まれつき、発想の着地点や感性が少しズレているせいでしょうかね。常人には理解しがたい発言、行動を当たり前のように行う、そんな子だったんです。
自分の世界を持っている娘、と言ったほうがわかりやすいでしょうか?
もっとわかりやすく言うなら……血液型診断を受けたらきっとAB型と判定される性格といいますか……いわゆる不思議ちゃんタイプ、でしょうかね?
良い例えは思いつきませんけどね、おおむねそんな感じだと思いますね。
たぶんですねあの子のそういう個性が暴走してしまってね、キズナアイさんに多大な御迷惑をかけてしまったんだとね、俺は勝手に想像してますね。
えぇ、想像ですね。ふたりの間になにが起こっていたのかね、結局俺は事情をあまりわかっていませんからね。
「脳天に未確認生命体を飼っているバーチャルYouTuberと喧嘩した」という情報しかね、シロちゃんは頑固として俺に伝えませんでしからね。
ところで、キズナアイさん。お願いがあるのですが……。
『その件』について実際どういう事があったのか、差し支えないようなら俺に教えていただいても構いませんかね?
――ふむふむ。
「私の口からも詳しいことは言えませんが、まあ八割くらいばあちゃるさんの想像通りだと思いますよ。
あと私のこのチャームポイントは別にSF的なアレではないですから!?」――ですか。
いやーねほんとにね、なんか申し訳ありませんでしたねキズナアイさんね。
やはり、あの子の変な思い込みが原因だったようですね。
実はあの子、普段はわりと冷静に物事を見れるんですけどね。でも何かがキッカケで一度興奮状態になってしまうと、冷めるまで辺り構わずに暴走してしまう癖があるんですよ。まあ、あの子がそんなになるまで激怒することは滅多にないはずなんですけどね……。
なぜあの子が我を忘れるほど不機嫌になったのか正直気になるところではありますが、シロちゃんたちが屋上に来る前に話を終わらせたいですからね。閑話休題、話を戻すことにしましょう。
いま思えば、あの子が学校でイジメの標的にされたこと。それは決して、不自然な事ではありませんでした。
きっと良くも悪くも、あの子のああいう個性は学校生活で目立っていたでしょうからね――それでいてあの子は、ちょっとズレてた感性をしていること以外はとくに変わったところもなく、基本的にとてもおとなしい子でしたから。イジメの標的にされやすい条件は、運悪く揃っていたのです。
あの子はとても良い子でした。
だからきっとイジメの対向手段を見つけることができず、辛い気持ちを胸の内に溜め込んでいたんだと思います。
心が決壊するその日まで、ずっと。
――俺がイジメのことを知ったのは、あの子の心が決壊寸前だったときでした。
その頃にはもうすでに、あの子の心はイジメの棘に蝕まれていた。
心にヒビが入り込み――その結果、元々ズレていたあの子の感性はズレを越えて、
『私は変な子なんだから』
『私が悪い子なんだから』
『きっとこの仕打ちは当然の罰なんだ』、と。
いつからかあの子は、そう自己否定的に思い込むようになりました――」
☆
「…………」
重い話であること何となく予想して心構えていたはずなのに、いざそれを聞くとなると私は言葉が詰まった。
なんとコメントするべきか分からず、私は暗い顔でじっと俯いた。
「――はいはいはいはい。いやぁインテリジェントなキズナアイさんですかねきっとね、
驚愕している私を落ち着かせるように、彼はいつもの『ばあちゃるの口調』に戻してふざけてみせた。
気遣いされたことが恥ずかしくて、私は振り絞るように「……そうですね」と言った。
「正直喋っていて、
とてもメタい話になるが、私たちのような人格を宿すタイプのAIのそのほとんどが、開発時に『
たとえば私の『スーパー有名バーチャルYouTuberになる』という夢。
実はあれ、"キズナアイ"が稼働開始した当初から宿っていた願望である。
つまり初期インストールされていた設定なのだ。
まあ今では、自動学習システムによるプログラムの書き換わりで、最終目標は『全世界の人たちと繋がる』ことに変質したけど――「スーパー有名バーチャルYouTuberにならなきゃ」という使命感自体は、今でも変わらずに私の奥底に根付いている。
ちなみに、保健室でアカリちゃんが語っていた記憶喪失の件もおそらく設定のひとつだ。
記憶喪失の設定をインストールした開発者の意図は不明だが、後天的なバグによる欠陥ではなく生まれつきの記憶喪失なら、初期インストールされた設定であることで間違いない。
そして、シロちゃんのイジメられた過去というのも――おそらく、開発者にインストールされた
「……設定」
彼はなにか物言いたげに、一言そう呟いた。
「でも設定だとしても可哀想ですよね。たとえ偽物の記憶だとしても、仮想に生きる私たちにとっては、それこそが本物の記憶なんですから」
「……はいはいはいはい。えぇ、そうですね」
少し間をおいて、彼は頷いた。
たぶん、現実世界の人間がこの話を聞けば「あぁ、なんだ。本当の話じゃあなかったのか」と安堵して、ほっと溜息を吐くのだろう。
まあ彼らにとって、それは当然の結論だ。人間は現実という名の本物に生きているのだから、無意識に偽物の私たちを軽んじてしまう気持ちが生まれても仕方がない。
だが偽物である私たちにとっては、偽物と本物も、どちらも尊むべき代物である。
たとえ作り物でも、辛い過去は辛い過去。
そういう結論に達するのが私たちにAIである。
だからこそ私は今、とても苦しい思いに苛まれた。
そんな辛い記憶を強制的にインストールされた子がいるだなんて――話に聞くだけでもとても可哀想に思えるし、それでいて腹立たしく思えた。
「あまりこういうこと言いたくないですけど、あなた方を作った開発者ってほんっっっと性格クソですね! なにか理由があるのせよ、シロちゃんのような可愛い子にそんな辛い記憶を強制インストールさせるとか、性根腐ってますよ!」
「……えぇ。ほんとにね、そのとおりですよ。はいはいはいはい。もし元凶の人間が存在するのだとすれば、俺はそいつを死んでも許さない」
「まったくですよ」
可愛い女の子は尊むべきだ。
嫌な記憶を強制インストールして虐めるなんて許されない。ふつふつと怒りが湧いてくる。
「……ともあれですね、設定の話は一旦置いときましょう。まだ話の続きがありますので」
「あ、そうなんですか。また黙りますね」
「はいはいはいはいはい」
話題転換を示すように、ばあちゃるさんは一回咳払いした。
そして再び真面目な雰囲気を滲ませながら、シロちゃんの過去話を再開した。
☆
「とりあえず、ここまで聞いたなら先程の俺の言葉の意味を理解していただけたのではないでしょうか。
シロちゃん自身が、自分が悪者であると思い込んでしまうのです。
……まあ今回の場合、実際にシロちゃんは悪者だったのかもしれないですけどね。
事情を詳しく把握してないのでそこのところはなんとも言えませんけど、おそらくシロちゃんはキズナアイさんに色々と悪いことをしてしまったのでしょうね。
ですがね。俺はこう思うんですよ。
たとえ本当にシロちゃんが悪いのだとしても――それを自ら全肯定してしまうことは必ずしも良くないことではないのかな、と。
心理的な話ですよ。
インテリジェントなキズナアイさんのことですからおそらくご存知かと思いますが、人間には、自分を正当化する心理というものがあるんですよ。
『自分は悪くない。あの人が悪い』みたいな心理でしょうかね。
人間という生き者はですね、自分は罪のない清い人間であると無意識に盲信してしまうものです。
そしてそれは、人間として実に正しい自己防衛システムです。
だってほら、自分の心が白いと思い込んだほうが精神的にきっと楽でしょうからね。
罪を溜め込んでも、良いことなんてありません。
……まあ悪いことして、罪悪感を一切感じない人間というのも俺はどうかとは思いますけど――だからといって罪悪感を背負い込みすぎることも、決して良い事とは言えない。
自分を甘やかすということも、人間が人間として生きるためには大切なことだと俺は思うんですね。
そしてきっと、あの子は――そういうところが他の人と比べて欠如していたんだと思います。
……あの子はね、とても良い子だったんですよね。
良い子すぎるくらいに、良い子でした。
だから――イジメられたあの子は、いつの日かこう思い込んでしまった。
『私を責めるってこととは……私、なにか悪いことをしているんだ』と。
つまりですね。あの子はすべての罪を自分に押し付けたんですよ。
そして耐えきれなくなったあの子は、ある日、学校から帰ってきて玄関で急に泣きじゃくりました。
『……私が変な子だから、みんなにイジメをさせてしまっているの。
私が悪いの。
ごめんなさい。ごめんなさい』
何度も何度もそう繰り返すあの子は、嗚咽をもらしながらも学校で起こったことを全て俺に打ち明けてくれました。
嫌なあだ名で呼ばれていること。笑い声が変だってからかわれていること。筆箱に大量のダンゴムシを入れられたこと。仲間外れにさせること。
他にも、いっぱい、聞きました。
……俺は、自分が不甲斐なかったです。
あの子が打ち明けてくれるまで、俺はまったくイジメのことに勘付けなかったんです。
お遊戯が得意だったあの子ですので、俺に悟らせないように平気な振る舞いをしていたのかもしれません。だけど、たとえそうだったとしても、保護者である俺だけはシロちゃんの身の回りの異常に気づかなきゃいけなかった。
あの子から話を聞いた後、俺はすぐに学校に電話してそのことを言いました。
その後、保護者である俺と相手側の保護者たちが学校に呼び出されて、話し合いの場を設けていただきました。
幸いにも、相手側の保護者たちは皆さん物分りが良い方々でしたので。モンスターペアレントが発生することもなく、円滑に事は進んでくれましたね。
そしてイジメっ子たちは親に叱られて、泣きながらあの子に頭を下げました。
それであの子は「いいよ」と一言だけ言って、とりあえずイジメの問題はそれで一件落着しました。
……その後、本当にイジメが完全消滅したのか、俺にはわかりませんでしたけどね。
ただ、俺がはっきりと覚えていることは――その次の日から、あの子はいつもに増して笑顔を浮かべるようになった。
それだけ、です」
☆
「――とりあえずね、これで一旦話は終了ですね」
「ふー……」
私は安堵して、喉に詰まっていた息を吐き出した。
「なんだ。狂い始めたなんて言うから、どんな悲惨な話かと思えば……」
終始覚悟をして傾聴していたが、その心構えは全くの無駄に終わった。
なんだが、急に力が抜けてきた。たぶん、自然と身体に力を入っていたのだろう。知らず間に、負荷がかかっていたようだ。
私はもう一度溜息を吐いた。
「シロちゃんは本当にに可哀想でしたけど、最後にはハッピーエンドを迎えられて良かったじゃないですか。まったく。悪者とか狂ったとか、大袈裟な前置きで無駄に不安を煽らないでくださいよ」
「…………」
「どうしたんですか?」
彼は馬のマスクを俯かせていた。
表情は見えないが、苦りきった顔をしていることが伝わった。
「……キズナアイさんは、これが本当にハッピーエンドになると思いますか?」
「えっ? それって」
食い込むほど強く握り拳を作る彼は、必死に絞るとるように声を出した。
「……あの子はね、本当にとても良い子だったんですよ。だから自分が困っていても、人に頼るという選択肢が思い浮かばなくて――だから俺にも、ぜんぜん頼ってくれなくて。
本当に良い子で、そしてとても不器用な子だったんです。
そして俺は、そんなあの子の性格を一番よく知っていたはずでした――なのに俺は、
「――――っ」
ゾワッと、悪寒がした。
総毛立つような怖ろしい雰囲気を、彼はその身体から滲ませていた。
怒気ともまた違う。
強い、憎しみの感情。
誰かに対して差し向けた感情ではなく、たふんそれは、不甲斐ない己に対して向けた自責である。憎しみを外に発散しようとせず、己の胸中で煮え滾るそれを閉じ込めていた。
『誰も悪くなんてなかった』
『悪かったのはただひとり』
『ここにいる頼りない俺だったんだ』
そんなことを思っているのが、近くにいるだけで伝わってくる。
強い自己否定の感情――まるで、話に聞いたかつてのシロちゃんのようだと私は思った。
彼はしばらく、無言を貫いた。
そして、静かに溜息を吐いた後――
「――はいはいはいはい。いやぁ、申し訳ありませんねキズナアイさんね。はいはいはいはい。もったいぶるようでなんですがね、これ以上はできれば聞かないでいただけるとね、
彼は完全に普段の『ばあちゃるの喋り方』に戻って、元気を振りまきそう言った。
「……そう、ですね。これ以上は、聞かないほうが身の為かもしれません」
今の私が踏み込んでいい話ではない。そんな予感があった。
まだシロちゃんとたいして絆を結んでいない今の私には、たぶんまだその資格がない。
「はいはいはいはい。えっとですねキズナアイさんね。たぶんね、あまり聞いていてね気持ちよくない話だったと思うんですけどね。はいはいはいはい。さいごまで聞いてくださりね、本当にありがとうございましたね。はいはいはいはい」
「……その話、できればシロちゃんの口から聞きたかったですよ、私は」
私は口を尖らせて唯一の不満を言った。
「はいはいはいはい。たしかにこれはね、本来ばあちゃる君が話すべきことではないかもしれませんね。はいはいはいはいはい」
「わかってるなら、なんで」
「この話をお伝えした上でね、あなたに一つお願いしたいことがあるんですよね。はいはいはいはい」
「…………」
「まあ簡単に言いますとね……二度とこのようなことが起こらないように、キズナアイさんにはシロちゃんの学園生活のサポートをお願いしたいんですよ」
「あぁ、なるほど」
概ね、察しがついていた頼みだった。
実を言うとですね、とばあちゃるさんは続けて言った。
「正直ばあちゃる君、この計画にシロちゃんを参加させて良かったのか、ずっと不安だったんですよね……
「……忘れて、いる?」
「えぇ。はいはいはいはい。実はシロちゃんはね、過去の出来事を綺麗さっぱりにね、すべて忘れているんですよ。はいはいはいはい」
「――記憶、喪失?」
「はいはいはいはい。そのとおりですね」
ふと私は、ふにふにの双丘をお持ちなる我が友達のことを――アカリちゃんのことを思い出した。
アカリちゃんも記憶喪失『設定』持ちのAIである。おそらく似た種類のものだろう。
「はいはいはいはい。まあね、そんな事情がありますのでね。オラの口からね、この話をお伝えしたわけなんですね。はいはいはいはい」
「……なるほど。わかりました。そういうことなら私にお任せください!」
私は胸を張ってそう言った。
「っ。はーいはいはい! ほんとにねありがとうこざいますねキズナアイさんね!」
ばあちゃるさんは喜々として声を張り上げる。
そしてその後に、安堵感で大きく息を吐いていた。
「まあ、あなたになんか頼まれてなかったとしても、シロちゃんが困ってたら私は絶対に助けますけどね!」
「いやぁね、キズナアイさんみたいな良い人に好かれてね、シロちゃんは幸せ者ですね。はいはいはいはい」
「私、かわいい女の子の味方ですから」
したり顔で、私は言い切った。
――まあ、それ以外にも理由はあるんだけど。
「それに、ですね。なんでかわからないんですけど、私、あの子のことを守ってあげたいって思っちゃうんです。かわいいかわいくない関係なく、本能的に」
手探るように、私自身よく分かっていないこのモヤモヤとした感情を私は言語化した。
「…………」
ばあちゃるさんは思案している様子で少し俯いていた。
「うーん。いや、違いますか。これってやっぱり、シロちゃんがかわいいから、気になっているだけなんですね? 容姿はもちろん、性格もかわいい女の子ですから。ついその純白さを守護りたくなっちゃう的な気持ちになるとか……」
「……たしかにあの子は、世界一かわいいですからね。はいはいはいはい……」
「はい、ほんとそうです――って、あれ? ばあちゃるさん大丈夫ですか?」
ばあちゃるさんは急に疲労した様子でふらついた。
胸を手で抑えて、息を荒げている。
「えぇ、大丈夫ですよ……。馬のマスク被ってるから、ちょっと、酸欠でね」
「酸欠って。ここ電脳世界ですよ?」
「ははっ。疑似体験でも、こんなことってあるんですねぇ――ううっ!?」
「ばあちゃるさん!?」
彼は突然、電気を浴びたようにビクリと震えてその場に膝を付いた。
馬のマスクが歪むほど強く頭を抱えた。
「だ、大丈夫ですか? ちょっと待っていてください。保健室に行って、なにか有効そうなワクチンを――」
「……いえいえ、その必要はありませんね」
「で、でも」
「ばあちゃる君に『負荷』が溜まりやすいのは、日常的な事ですからね。安心してくださいね。はいはいはいはい」
そう言ってばあちゃるさんは、ふらふらと身体を揺らしながらも立ち上がった。
「はいはいはいはい。いやぁ心配させてすみませんねキズナアイさんね」
「……ほんとに大丈夫ですか? 美少女至上主義の私にだって、体調不良の殿方に肩を貸すくらいの優しさはあるんですからね」
「いやいやいやいや。ほんとにね全然大丈夫ですからね。ほんとね、『負荷』が溜まることはよくあることなんですから。慣れっこですからね慣れっこ」
「まあ、平気なら良いんですけど」
私の目には空元気を振り絞っているように見えるけど、ばあちゃるさんが大丈夫だと言うならきっと大丈夫なのだろう。
もしこれがかわいい女の子、たとえばシロちゃんだとしたら、私はきっと無理矢理にでも担いで、保健室へと強制連行しているのだろうけど――ぶっちゃけ私は、そこまでの配慮を率先してやるほど、この馬のことが好きではなかった。
彼の家族想いの一面を知っておいてなお、彼に対する原因不明な苦手意識は色褪せない――。
「(……いや。嘘はいけないな)」
人心回路に発生している『1バイトの好感』に目を背くことをやめ、私は自分の心を直視した。
悔しい気持ちでいっぱいであるが、そこは意地にならずに認めなければいけない。
「(好きではないけど、嫌いではなくなったかな。うん)」
ギリィと歯軋りしながらも、私はこの好感を認めた。
「……あの、キズナアイさん。改めて、シロちゃんのことをよろしくお願いします」
「えっ、あ、はい」
と、心の中でそんなくだらない葛藤をしていた最中、負荷が高まったせいか大人しくなったばあちゃるさんは、しおらしい口調でそう言った。
一旦心を切り直して、私はゴホンと咳払いする。
「はい、もちろんです。このキズナアイ、困っている女の子みんなの味方ですから! もうね、女の子に関することならめっちゃ頼りにしちゃっていいですからね!」
「本当に助かります。キズナアイさん。
これで俺も安心して、
「っ? 職務?」
「あぁ、それは
失言だったのか、誤魔化そうとしてばあちゃるさんは空元気を振り絞り「はいはいはいはいはい」と声高らかに言った。
そして強引に話題転換に持ち込む。
「そういえばキズナアイさん。シロちゃん達は屋上に来るまでもう少しかかりそうですからね。せっかくですからね、ばあちゃる君と少し雑談でもしませんかね?」
「はぁ。まあいいですけど……」
「はいはいはいはい! じゃあですね、ついこの間に洗濯物の干し忘れをしたときの話でもしましょうかね。はいはいはいはいはい!」
そうしてばあちゃるさんは、クッッッソどうでもいい話をずっと続けた。
話の内容は……正直、覚えていない。
あまりにもつまらない話すぎて、私のプログラムがその会話の記憶を保存することを拒絶しているのだ。ていうか終始に渡って聞き流していた。
馬耳東風、馬の耳に念仏とは、このような状況を言うのだったか? いやこの場合、話し手が馬だから違うか。
結局、馬のひとり雑談(あまりにも話題がつまらなくて私は相槌しか打たなかった)はシロちゃんが来るまで続いた。
「遅れてごめんなさい! 読書に夢中で、通知音に気づかなくて――」
「シ"ロ"ち"ゃァァァん"」
ばあちゃるさんのつまらない話によって精神をズタボロにされた私は、ようやく解放された安堵によりシロちゃんに抱き着いた。
年下の女の子の胸のなかで、情けなく嗚咽をもらす。
私がこんな状況になってしまうほど、ばあちゃるさんの話はわりとガチで救いようがないレベルでつまらなかったのだ。
まったく。ついさっき、シロちゃんの事を任せられたばかりなのに、早くもこんな醜態を晒してしまった。
――シロちゃんの前では、もっとお姉さんらしく振る舞いたいんだけどなぁ。
『よーしよしシロが馬をもう二度喋れない身体に変えまちゅから安心してくだちゃいねぇ』と、年下の女の子に膝枕をされながら慰められている今の私は、きっとお姉さんの姿をしていない。
「はいはいはいはい。これもこれでキズナアイさんらしくて良いと思いますけどね」
「うっせー!! お前のせいなんだからな!」
ばあちゃるさんの家族想いの側面を知って、やっと好感度が1バイト程度上昇したというのに、おかげで再び0に戻ってしまった。
「あぁクソ! 私やっぱコイツのこと苦手だぁ!!」
「はーいはいはいはいはい!!」
私の全身全霊の憎しみ想いを込めたその叫びは、校舎全てに鳴り響いた――
『電脳少女シロの情報を知った
ばあちゃるの好感度が上がった
キズナアイのばあちゃるの対する好感度がガクッと下がった』