保健室の窓から見れる景色には、一際大きい広葉樹が聳え立っていた。
自然豊かな景観だ。
保健室から木々を眺めていた少女はそう思った。
まるで『風立ちぬ -美しい村-』のサナトリウムに居るようだ。空気が美味しさが、嗅覚と視覚で味わえた。ひとたび深呼吸するだけで肺が洗われる心地だった。
――まあ実際はそんなことはない、と少女は知っていたけど。
別にこの場所は、田舎ではない。
ひとたび保健室の反対方向を振り向くと、廊下の窓からは多くの人工の建物が建並んでいた。
ただ単純に、この『私立ばあちゃる学園』なる場所が、田舎と都会の中間線にある立地というだけだ。特別、自然が豊んでいるわけでは無かった。
――まあ、その自然も、所詮は紛い物ですけどね。
自然の景色なんて、本当は見えていない。
建物も自然も、全てがもれなく人工物である。
否、それも違う。
全てが
「それにしても、最近のVR技術は凄いですね」
少女は独白した。
そう。
此処は、電脳世界だ。
ここにある全ての物が現実の再現として作られた、ただのバーチャル。
つまるところ、偽物だった。
「自分でアバターをデザインして、ゲームの中に入れるなんて――まるで『ソードアートオンライン』の世界みたいです」
少女は保健室の鏡を見て、自分の今の姿を確認した。
黒衣のナース服を着た、憂い気の瞳をした少女。
この少女の身体も含めて、現実性を帯びた物体は一つもなかった。
「時代の進歩、ですかね」
実感を抱きながら独白すると、少女はティーカップの中に入った珈琲を口に流し込んだ。
――美味しい。
――偽物とは、到底思えませんね。
現実顔負けの味わい深さに、私は驚愕した。
「味覚も、触覚も――全て五感が、ほぼ現実と相違ない」
その事実を改めて噛み締めて、今更ながら少女の心に一松の恐怖と不安が過ぎった。
少女はこの『VR_World』というゲームを遊ぶにあたって、一つの装置を頭に装着している。
HMDに酷似したハードだ。そのハードは『バーチャル』と安直な名前らしく、ある日突然、匿名で家に送られてきた胡散臭さが漂う機械だ。
その変な装置を頭に着けて、電源をオンに切替えて、意識が落ちるように眠って――そして今、少女はこの電脳世界に居るのだ。
――実はこれって、かなり危険な装置なのでは?
そう不審がるのも無理はない。なにせ、意識をゲーム内に飛ばしているのだ。脳への悪影響の懸念に行き着くのが、普通の思考だろう。
客観的に見てこの状況は、如何なものか。
――私は、考えるのを止めた。
ティーカップを机に置いて、私は胸の中の懸念を切り離した。
思考の着地先は、いつも通り思考放棄。
VR_Worldにログインする度に、少女はその不安をひしひしと感じているが、しかしそれでも『止める』という選択肢は浮かび上がってこなかった。
このゲームは、とても楽しい。
嫌な自分を脱ぎ捨て、『理想の自分の姿』でバーチャルの世界を歩むことができる。
自己肯定感が低い少女にとって、このゲームは現実逃避の場としても最適だった。
「……ま、あまり杞憂する必要は無いですよね。
私の他にもプレイヤーはいるんですし」
少女はこの間出会った『ばあちゃる』という人物の姿を思い出した。
このゲームにログインした少女が、始めて出会ったプレイヤー。馬マスクを被ったスーツ姿の男性。
そしてそのばあちゃる曰く、プレイヤーは他にも居るらしい。
「キズナアイ」
名前を教えてもらったプレイヤーの中で、最も印象深かった人の名前を呟いた。
キズナアイは、YouTubeの中で最近有名になりつつあるYouTuber――もといバーチャルYouTuberであり、昨今のYouTuberとはまるで一線を画した『二次元のキャラクター』として動画投稿している方だ。
そんな有名人すら、この胡散臭いゲームで遊んでいる。
というか、この私立ばあちゃる学園の何処かに、今あのキズナアイが居るらしいのだ。
「保健室で待機していたら、キズナアイさんにお会いできる。そう言われて、ずっと待ってますけど……。なかなか来ませんね」
もう一時間ほど待機している。その間ずっと保健室でぼんやりと外の景観を眺めながら珈琲を飲んで時間を潰していた。
ばあちゃるさんは「待ってる間は学内見学していてくださいねー!」と言っていたが、生憎と少女はあまり学内見学の意欲が沸かず、すぐに保健室に落ち着いてしまった。ちなみに保健室を選んだ理由は「ナースのロールプレイングが捗るから」である。
「……暇ですね」
溜息と共に、呟いた。
保健室の先生を気取り『白紙のカルテ』に筆先を向けてみたが、特筆して書き残すような事もなかった。
「怪我人か、病人でも来てくれたらいいのに」
そんなナースらしからぬ事を思ってしまったことに、少女は声に出してから気づいた。
――あくまでなりきりとはいえ、今の私はナースさん。
――軽症の治療くらいしか出来ないけど、それでも心だけはナースでいなくちゃ。
愚かな思考に叱咤を与えた。甘い心構えの己を恥じる。
カルテは白紙であるべき。
カルテの記述は、全て患者の血文字だと思え。
心の中で何度もそう唱えて、少女は漸く『理想の自分』を自覚を始めた。
――私の名前は『■■■■■』じゃない。
――そう。私は、私じゃありません。
――『僕』の名前は。
少女は、己の名を塗り潰す。
嫌な己を自戒する。私ではない、僕としての己を『自己』として定める。
その瞬間から、少女は現実性を失った。
もはや少女はナースのなりきりをしているのではなく。
少女の魂は真の意味で『バーチャルナース』に成り切った。
そして、その時だった。
「――うわっ! いてッ!!」
呆然と眺めていた窓の先から、一人の男が落下してきた。
突然の出来事。少女の頭は真っ白になっていた。
「痛たたっ! ヤベーよ超痛いよ! 絶対これ背骨パキン折れた! ヤベー絶対折れたよこれ! ヤベーよ絶対ヤベーよ! もう死んだわオレ!」
男は混乱して、語彙が著しく低下していた。
否、彼は元々語彙が弱いのかもしれない。
それはともかく――男性の自己申告の通り、ヤバイ状況なのは間違いない。
少女は慌てて、窓の外に顔を出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫じゃねぇ!! オレは今から死ぬぞ!」
カッと目を見開き、男はそう断言した。
絶叫を上げるほど苦しみ藻掻いている癖に、おふざけの入った口調でそう言うものだから、少女はつい「ふっ」と笑ってしまった。
――いけないいけない。早く助けないと。
「わかりました! 今、治療を!」
少女は湿布薬を探す為に、踵を返した。
すると視界の端に、白紙のカルテが映った。
――そうだ。
――確か学校の養護教諭は、治療の前にまずカルテに名前を記入しないといけないんでしたっけ。
少女は机に置いてあるカルテを掴んだ。
再び踵を返し、窓の外に顔を出す。
「すみません。貴方の名前を教えてください」
「ハッ!? この状況で!?」
「お願いします」
真摯に目で訴えて、少女は懇願した。
男は激痛に悶えて芝生の上を転がりつつも、少女の要求に答えて叫んだ。
「俺の名前は瀬戸あさひ! ですけど!!」
白紙のカルテに、漸く一人の名前が刻まれた。
――おぉ。瀬戸あさひさん。
――僕の始めての患者です。
バーチャルナースとして始めてのお勤めだ。
技術的に拙い少女では、満足のいく治療は不可能に等しいだろう。
しかし素人なりに最善は尽くすべし。そう少女は決意を固めていた。
――優先事項は、痛みの緩和。
――ナースとして早急に取り掛かからきゃ。
「待ってください。僕が今、助けます!」
「ありがとうぉぉぉ!!
でも絶対、今の名前のくだり要らなかったよね!?
もっと早く助けに来てよぉぉぉ!!」
「……ぁ。す、すみま」
「ごめんねぇぇ! オレが辛抱弱いだけだったねぇぇ! だから泣かないでぇぇぇ!!」
男は謝意を込めて合掌した。地面を転がり激痛に悶え苦しみながら。
――まだ意外と余裕そうだ。よかった。
少女はホッと一息付いた。