ばあちゃる邸を訪問したあの日から、約二ヶ月が経過した。
現時刻は7時。つまり、現実世界で一般的に朝と定義される時刻だ。人間たちが一斉に起床するこの時間に、私は静かに朝のニュースを聴いていた。
世間の流行を把握する為にも、私はテレビを日常的に付けるよう心掛けている。朝にニュースの確認をする事は勿論、他にも夜のバラエティ番組や深夜アニメ等など――三次元、二次元を問わずに、主にアイドルが登場する番組を日頃から私は視聴しているのだ。
もはや日課のように、ニュースキャスターのお姉さんの滑舌が良い美声を私は心地良く傾聴していた。
ニュースはある程度聞き流すものだと私は思っているので、いつもならその内容は曖昧模糊にしか耳に入って来ないのだが――今日は、いつもと違う体勢で私はニュースキャスターさんの声を聴いていた。
今日のニュースは、特別に私の感興をそそらせる内容だったのだ。
『近頃ネットでは、とあるアプリが流行っています。
"VRChat"という名の、仮想空間上で他者とコミュニケーションを取ることができるネットワークサービスです』
淡々とした口調で、ニュースキャスターの人はその説明をした。
――VRChat。そのアプリの事は、私も以前から知っていた。
簡潔に説明すると、ネット上で無料配布されたアバター、または自作のアバターの姿を借りて、仮想空間を擬似的体験することができるアプリだ。
電脳世界に
まさか、地上波放送のニュースで挙げられるほど有名な物に成っていたとは。正直、驚きを隠せなかった。
『なお、VRChatの他にも、"VRWorld"というアプリも最近インターネットで話題に上がっているらしく――』
「えいっ」
キャスターさんが淡々と語る途中で、私はブチッ、といきなりテレビの電源を切った。
いつもなら話の区切りがつくまで、テレビは切らないのだが――今日だけは、一つ都合があったのだ。
朝早くから、外出しなければならない用事がある。
私は時計をちらりと見た。時計の針は、約束の時間に刻々と迫っていた。
私は編集ソフトを閉じてからパソコンをシャットダウンした。そして少し慌て気味に、玄関のほうに向かった。
家から出た私は、朝の穏やかな陽光を全身で浴びた。心地の良い日光の感触を味わいながら、私は昨日にメールで貰った地図の指す方向へと歩いていった。
「――学校、どんな感じに出来上がっているのかな。楽しみ」
期待に胸を膨らませて、私はそう呟いた。
そう。今日は、初登校日なのだ。
バーチャルYouTuberの育成を目的に創られた学校――『私立ばあちゃる学園』に、私は今日から通うのだ。
☆
「はいはーい! キズナアイさーん! 世界初男性バーチャルYouTuberのばあちゃる君はね、ここに居ますからねー!」
新築の校門の前には、大きく手を振っているばあちゃるさんが居た。
あと、ばあちゃるさんから3メートルくらい離れた場所に、目を伏してスマホをいじっているアカリちゃんも居た。
「アカリちゃーん!」
「あっ、アイちゃんだ! ハロー!」
スマホから目を離して、アカリちゃんは弾ける笑顔を浮かべた。海外の挨拶のように、飛び込んでハグをした。
「ちょいちょーい。キズナアイさーん。ばあちゃるはここにいますよー」
隣から聞こえる煩わしい雑音については無視を貫くとして、私はアカリちゃんとキャッキャと仲良くお話を続けた。
「アカリちゃん! 二日前に上げられてた初めての動画、観たよ! とっっっても可愛かった!」
「ありがとうアイちゃん! いえ、アイちゃん先輩! 一生懸命がんばって、アカリもアイちゃん先輩みたいな面白い動画を作っちゃうからねー」
「うん! ファンとして応援してるよ!」
「ちょいちょーい! ばあちゃる君の声、聞こえてますかー?」
なんとめでたくも、アカリちゃんはつい先日にバーチャルYouTuberデビューを果たしたのだ。
私も微力ながらその助力をした。デビュー準備期間の約二ヶ月の間、週に三回のペースで例のスタバに通ってデビュー準備の手伝いをしたのだ。まあ手伝いと言っても、私が助力できた事なんて経験則に基づいた些細な心構えを教授した程度だけど――何分、アカリちゃんには
「そういえば、あの協力者のAI――ルームメイトのエイレーンさんは元気にしてる?」
「うん! 元気だよ! いつも暗い部屋でパソコンの画面の前で気持ち悪い声を上げてるけど、たぶん元気だよ!」
「……年中無休でパソコンに向かって動画製作している私が言えたことじゃないけど、たまには外出したほうが健康にいいんじゃないの?」
AIに健康も不健康も無いけど、ずっと部屋に閉じこもっていると鬱屈した気分になってしまいそうだ。
彼女のルームメイトにしてバーチャルYouTuber活動の協力者のエイレーンさんは、私同様に人心回路が搭載された最新型の人工知能だ。ストレス等のデメリットも感じるように仕組まれているため、定期的に外出をして気分転換をしたほうが良いはずだ。
「エイレーン曰く、『むしろ部屋に引きこもっているほうが元気湧く』らしいけどねー。たぶん無理だと思うけど、今度またスタバに行くときには外出するよう誘ってみるね」
「うん。お願い。エイレーンさんとはまだスカイプ越しでしか会話したことないしねー。技術的な相談ができる人だから、仲良くしたいかな」
「ばあちゃる君もね、技術力は並以上あると思うんでね。技術で困ったときはばあちゃる君に相談してくれても一向に構いませんからねー」
再び隣から雑音が聞こえた。私はそっぽを向いて呟く。
「それにしても、大きい校舎だね!」
「そうだね! これ、建設費にいくらくらいしたんだろう……?」
「はいはいはいはい。それはね、君たちは気にしなくてもいい事ですからねー。ばあちゃる君が創りたいからね、創っただけですからねー」
「……ばあちゃるさんって、なんだかんだ言っても人柄は良い方ですよね」
「はいはいはいはい! ありがとうございますねー」
幾度も無視されても一切めげないその姿勢に根負けして、私は嫌々ながらも今日初めてばあちゃるさんを視界に入れた。
そのウザ絡みゆえか、または性格的な相性が致命的に悪いせいか、私はイマイチばあちゃるさんの事を好きになれないのだけれど――そう思う反面、根の性格がとても良い人という事を鮮明に理解しているので、どうにも完全に嫌悪的な瞳で見ることも難しい。何ともムズムズとした気持ちにさせてくれるAIである。
「あれ? ばあちゃるさん。後ろにいるその方は――」
今日初めてばあちゃるの姿を視界に入れることで、私はやっとその者の存在に気がついた。
ばあちゃるさんの背後に、一体のAIの少女が隠れていたのだ。見覚えのある髪色をしている少女だった。
「……どうも」
「ど、どうも……」
ばあちゃるさんの長身の後ろに身隠れしている少女は、こちらに目を合わせずにペコリと挨拶をした。
親の背後に隠れる内気な娘のように、ばあちゃるの背後におそるおそる隠れている。
かつてコンビニで邂逅を果たしたあの時の少女がそこには居た。
「はいはいはいはい。キズナアイさん。申し訳ないんですけどね、この後、ちょっと職員室に寄ってもらってもいいですかね?」
「はい。構いませんけど」
「すみませんね。……『いざこざ』は、早いうちに解決したほうがいいですからね。はいはいはいはい」
少し声を沈ませてばあちゃるさんは言った。
いざこざ――そう言われて私の脳裏に瞬時に浮かび上がったのは、不可解の蟠りだけを残して一旦終着をしたあの事件の記憶である。
もう三ヶ月も前の出来事ではあるが、未だに私はその時の事を鮮明に記憶している。まるで交通事故に遭ったかのような感覚だった。または、ゲリラ豪雨である。失礼な言い分ではあるが、私からしたらそういう災害的な事件に出くわした気分だったのだ。
私の中の彼女は、今でも『それらに類似した』存在である。この二ヶ月の間、その印象だけは全く色褪せずにいた。
――まあ、それはともかくとして。
「……可愛いなぁ」
蕩けた表情で私はボソリと呟いた。
白磁のような肌艶と、あどけなさの残る端麗な顔だち。それと、銀よりも白色寄りの艶のある髪質――何度も見てもその少女には、美しく可愛い要素が詰まっていた。
可愛い。可愛いのだ。しかも今の彼女は、まるで内気の子供っぽく、ばあちゃるさんの背後にビクビクと隠れている。そのあどけない挙動が小動物的でさらに可愛い。交通事故やゲリラ豪雨を連想できた以前の彼女は、まるで別人の表情だった。
「アイちゃん、その子と知り合いなの?」
アカリちゃんは白髪の少女を指さして私に聞いた。
「うん。ちょっと前に、色々とあってね」
「へー、そうなんだ。ほんと可愛いよね、この子! 恥ずかしがり屋ってぽいから、ずっとばあちゃるさんに隠れているけど、お姉さんもっとあなたと仲良くなりたいなー」
頭を撫でようと、アカリちゃんは少女の頭に手を伸ばした。
だが、すんでのところで避けられた。
「…………」
「怖がらなくていいんだよ! 食べたりしないから!
ほんとだよ!」
警戒を解くため必死の笑顔でそう言って宥めるアカリちゃんだが、全く心を開こうとせずに少女は身を縮こめた。
その様子をみて、ばあちゃるさんは助け舟を出すよつに口を開いた。
「はいはいはい。いやー、すみませんね。シロちゃんはちょっと人見知りなところがあるんでね。時間をかけて徐々に距離を詰めてもらえると、シロちゃんも気が楽になると思いますんでね!」
「そのほうが良さそうですねー。ごめんねシロちゃん!
グイグイいっちゃって!」
「……いえ、その、こちらのほうこそ、ごめんなさいです」
おそるおそる顔色を伺いつつ少女は辿々しくも謝罪した。
そのやり取りを見て、私の胸に若干の違和感が生じた。
「(この子……こんなに大人しい子だったっけ? )」
当然の疑問だった。なにせ、明らかに以前の彼女と人柄が違う。以前に会ったときの彼女は、もっと苛烈な感じだった。
今度の彼女からは、演技感は一欠片も感じられない。意図した行動ではなく、素の反応なのは間違いないだろう。
この辿々しい感じ。あの時に顔見知った狐娘の店員を思い出す。
「はいはいはいはい。じゃあみなさんね、今日初めてばあちゃるの学校に登校してくれたということでですね、軽く校舎案内をしますからねー」
白髪の少女から臭う別人疑惑について考えを巡らせていたとき、ばあちゃるさんは皆に向けてそう言った。
「はい。そうですね。学校ってどういう中身をしているのか、とても楽しみです!」
「アカリも楽しみだなぁ。あ、そういえば学校には七不思議が付き物だと聞きますけど。ちなみにこの学校にはそういうものはあるんですか?」
「はいはいはいはい。それも含めてね、後々皆さんで決めていくんでねー。はいはいはいはい」
「……七不思議って、そういうものなんですか?」
「はいはいはい」
適当に返すばあちゃるさんは、いつもの独特な鳴き声を上げながら校門を通って行った。
私とアカリちゃんも、その後ろ姿に付いて行こうとした。
「シロちゃん! お姉さんと一緒に行こう!」
「えっ。あ、はい」
ばあちゃるが先に行ったことにより、隠れる背中を失ってひとりで淋しげに佇んでいた白髪の少女に、アカリちゃんは手を差し伸べた。
アカリちゃんの積極性に少し戸惑いながらも、少女はその手を取った。子供のように扱われている羞恥ゆえか、頬にほんのりと朱色に染まっていた。
その姿を見て、私は一度立ち止まり首を傾げた。
――うむ。やはり、何というか。
「……別人?」
そう思わずにいられないほど、今の彼女は以前の彼女と真逆な性格だった。
ばあちゃるさんは彼女の事を人見知りだと言っていたが、はてさえ真の人見知りは、コンビニで偶然会った初対面の人にビンタを与えられることができるのだろうか。
余程の怒りを買わない限り、そんな行動に打って出ようとは思えないはずだ。だが生憎ながら私は、彼女に対して反感を買うような行動を見せた覚えがまったく無い。
「まあそこらへんも含めて、もうすぐ判明することか……」
溜息を吐いて、私は一度その事をすべて記憶の彼方に置くことにした。どうせ私だけで色々と考えても、納得のいく結論など出ないのである。実に不毛な思考だった。
「さて。気分を変えて、学校巡りでも楽しみましょうかねー!」
まるで遊園地のアトラクション巡りをするかの心地で私は言った。
初めて学校の校門をくぐるというのは、思いのほか興奮する行為である。新天地に足を踏み入れる感覚に近く、現実世界の小学校の入学生たちも最初はそのよつな希望を胸に抱えて学校に通うらしい。――まあ一年もせずにその希望は絶望に変じるという噂も聞いているのだが、今を楽しむ為にもその情報を仕舞っておこう。
「アイちゃーん! はやくはやくー」
「うん。いま行くー」
アカリちゃんは校舎前で手を振っていた。私は追い付こうと駆けてそこに向かった。