「ほんとうに、申し訳ありませんでした!!」
深々と頭を下げる少女は、叫ぶような謝罪を述べた。微かに、その声色は震えている。
真剣味が帯びるその姿には、敵意らしきものが一切見受けられない。かつて少女は赤く煮え滾った敵意を私に対して向けていたが、まるでその出来事が嘘だったかのようだ。
――その姿を見て、私は思った。
おそらく彼女はこの三ヶ月の間、激しい後悔に絶えず苛まれていたのだろう、と。
己の思い込みで、一時の怒りで、初対面の相手にひどい罵倒を一方的に浴びせた。そして挙げ句の果てには暴力まで振るってしまったのだ。
どうやら、
――さて、どう対応するべきか。私は悩んだ。
叱ってから許すべきか。
それとも、気に留めない態度で、一笑に付して許すべきか。
少女の将来を思うなら、過ちを犯した彼女のことを強く叱ってあげたほうが良いのかもしれない。
同じ徹を踏ませない為に、彼女に叱責を与える。それは大人として、間違っていない教育的選択のはずだ。
たぶん、そっちのほうが正解なんだなと、私は何となく確信していた。
でも、私は――
「――よし! 可愛いから許す!」
どうしてか――
とまあ、こんな、実にあっさりとした感じに。
私は、険悪気味だった白髪の少女と――シロちゃんと、和解したわけである。
☆
「おや、思っていたより早かったですね。はいはいはいはい」
職員室前で、私達の話し合いが終着するのを待っていたばあちゃるさんは、少し驚いたように言った。
「シロちゃん、ただの勘違いだったと気づいていたみたいでしたから」
「まあともかくね、ばあちゃる君的にはね、二人が仲直りしてくれたようならとても嬉しいんでね。はいはいはいはい」
安堵した様子で息を吐きつつ、ばあちゃるさんはそう言った。
まだ二度会っただけなのに、仲を直すと言うのも少し語弊があると思うけど――まあ確かに、そういうふうに見られる程度には仲良くなれたとは私も思う。
私とシロちゃんは現在、仲良く手を繋いでいた。
シロちゃんのオドオドとした仕草に保護欲が駆られて、勝手に手を絡めただけではあるが、シロちゃんも別に抵抗らしい事はしないので『その程度には心を許された』という事だろう。
可愛い女の子と仲良くなれて、私は今とても上機嫌だった。
「そういやばあちゃる君、結局シロちゃんとキズナアイさんのふたり間になにが起こったのか、いまいち理解していなんですよね。はいはいはいはい。キズナアイさんと喧嘩した、ってことはシロちゃんに教えてもらったのですが、それ以外の情報はね、シロちゃんは特になにも教えてくれなかったんですね」
「……馬に話すことなんて何もないし」
「シロちゃんが話したくないならね、はいはいはいはい、ばあちゃる君はその事について無理矢理聞き出そうとも思わないんでね。安心してくださいねー。はいはいはいはい」
「…………別に、話せない事ってわけでもないし」
そう言ってシロちゃんは、頬を膨らませてそっぽを向いた。
私は、ばあちゃるさんとシロちゃんのその会話を――にへらとした緩んだ表情で眺めていた。
「(ムフフ。初いのぉ初いのぉ。可愛いのぉ。保護欲が、保護欲がインストールされちゃうぅぅぅ!!)」
「アイさん! その変な顔やめてください!」
「おっと。ごめんごめん。つい、ね」
シロちゃんに指摘されて、私は顔の緩みを抑えるよう意識した。
でも、ちょっと気を抜いたら瞬く間に緩んだ表情に戻ってしまいそうだ。
だって、
「いやぁ、ふたりが仲良くなってくれて、ばあちゃる君はとてもとても嬉しいですね。はいはいはいはい」
「――もう、馬なのに親面しないで!」
厳つい表情で、シロちゃんはばあちゃるさんを強く睨んだ。
でも、気のせいだろうか。そのトゲドゲした対応の中には、なにか親愛のような感情が含まれている気がした。
「(気のせい、じゃないよね。きっと)」
私は先程の会話を――シロちゃんに謝罪を受け入れたその後の会話を思い出した。
なぜ、私のことをあんなにも嫌っていたのか。あの日からずっと胸の奥にあった引っ掛かりを解消するために、私はシロちゃんに、誤解した理由を語ってもらったのだ。
せっかくだ。先程の会話を回想する事にしよう。
ほんの少しでも彼女たちの関係から、私では絶対にインストールする事ができない『その感情』を学ぶ為にも。
☆
「――よし! 可愛いから許す!」
もはや雄々しさを感じるほど堂々と腕を組んで、私はシロちゃんに謝罪の返答を告げた。
「…………はい?」
シロちゃんは、鳩が豆鉄砲を喰らった顔をして首を傾げていた。
どうやらCPUの言語処理が追いつかず、私の言葉の意味がまだ理解できていないようだ。
仕方がない。もう一度だけ、私はことを言ってあげることにした。
「可愛い! シロちゃんはメッチャ可愛い! 可愛いは正義である! ゆえに、許す!」
「え、えぇ!?」
ドン引きの表情で、シロちゃんはその場を後退った。
「ん? 私、なにか変なこと言っちゃったかな」
「いえ、その、変なことと言いますか……。そんな簡単に許していただいて、よろしいのでしょうか?」
「ノープロブレム。そんなことより撫でさせろ!」
「え、えぇ……」
ニコニコとした笑顔で、私は困惑しっぱなしのシロちゃんの頭を優しく撫でた。
うん。見た時点でわかってたけど、良い髪質だ。
アホ毛のところだけ妙に剛毛なのが気になるけど、そういうチャームポイントも愛らしさを生む要素のひとつである。
「……あの、キズナアイさん。なんでシロのことを怒らないのでしょう?」
私の執拗な撫で撫で攻撃をくらいながら、シロちゃんは聞いてきた。シロちゃんからしたら、おそらく当然の疑問なのだろう。
私は間を置かずに返答した。
「だって、シロちゃんはもう充分に反省してるみたいだから。私が叱る必要も特にないでしょ?」
「でも、シロはあんなに酷い事を言ってしまって……」
「まあ、そうだね。謂れのない罵倒を言われて、ショックだったことは確かだよ」
「なら、なんでシロを責めないんですか? キズナアイさんには、シロを責める権利があります」
「じゃあその権利を放棄しまーす。だってこんなに可愛い女の子を責めるとか、私にとって罰ゲームでしかないでしょ? 可愛い子は愛でるべきであって、決して虐めるものではないのです!」
紛うことなき、本心の言葉だった。
――まあとはいえ、もしシロちゃんが全く反省せずに開き直ったような態度をしていたら、私はきっと普通に怒っていただろうけど。
「でも、キズナアイさん。シロは……」
納得のいかない様子でシロちゃんは俯いた。
たぶんシロちゃんは、自身を戒める為にも罰を欲しているのだろう。または、罰を受けないと『許された』という実感が湧かないのだろう。
怒られなくてラッキーと思えないところ、やはり根が良い子なんだろうなと私は思った。
「……そうだな。じゃあシロちゃんには、私の言うことを一つ聞いてもらおうかな!」
「はい。シロ、何でもやります――キルでも、何でも」
「き、キル?」
いきなり物騒なワードが出てきたので、私はつい鸚鵡返しをしてしまった。
シロちゃんは、自慢気に微笑した。
「シロ、FPSのゲームが好きなんですよ。だからたぶんシロちょっと殺人鬼の才能があると思うので――もし、そういう願いがあるなら、シロは喜んで受け入れます。シロはキズナアイさんに悪いことをしちゃいましたから……
「へ、へー。でも私、特に憎んでる人はいないから大丈夫かなー」
「そうなんですか……」
なぜかしょんぼりとした様子で、シロちゃんは目を伏せた。この子、やっぱりちょっと変わっている。
「………そうだね。じゃあ、これからは私のことを『アイちゃん』と呼ぶ、っていうお願いはどうかな?」
十秒ほど間を置いて悩んだ末にそれを選んだ感を演出した私は、最初から決めていたお願い事をシロちゃんに伝えた。
「アイ、と呼べばいいのですか?」
「うん。ほら、私の名前って、ちょっと長いでしょ? だから友達には愛称で呼んでもらうようにしているんだ」
まあ、『アイ』という愛称で私を呼ぶ友達は、今のところ二名しかいないのだけど。
ちなみにその二名とは、『あの人』とアカリちゃんである。
「……えっと、本当にそんなことでよろしいのですか? シロに可能な範疇の事なら、どんな願いも叶えてしんぜますよ?」
「逆に質問するけど、シロちゃんは私のことを『アイちゃん』って呼びたくないの?」
「いえ、そういうわけではなくて……」
「およよよ。やっぱりシロちゃん、私のことが嫌いなのね……」
わざとらしく泣く仕草をした。
「だからですね、決してそのようなことではなくて……」
「じゃあ決定ね! 今後私のことは愛称で呼ぶこと!」
「えっと、その……はい、わかりました。アイさん」
眉をひそめるシロちゃんは、渋々と私の言う事に従った。
シロちゃんからしたら、もっときつめにお灸を据えてほしかったのかもしれないけど、生憎私はそういうことに不馴れなのだ。
そんなことよりも、私にはシロちゃんに問い質したいことがあった。
「うんうん。じゃあとりあえず、それで一旦罰は終了ということで――ひとつ、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい。何でもどうぞ」
「シロちゃんは結局、私に対してどんな誤解をしていたの?」
ずっと気になっていた事を、私は切り込むように聞いた。
「…………それは」
「あ、言いたくないことなら、私はそれ以上言及しないからね」
「……いえ、これも含めてシロの罰ですので。御気遣いありがとうございます」
言い淀むシロちゃんだったが、全てを明かす覚悟が決まったようだ。胸の中にある拒絶感を吐き出すように深く嘆息していたが、それでも、顔に貼り付いている羞恥の色は一切褪せずにいた。
シロちゃんは顔を真っ赤にさせながらも、静かに口を開く。
「――だと思ったんです」
「ん? ごめん、聞こえなかった。もう一回いい?」
「…………」
蒸気が吹き出そうなほどシロちゃんは赤面する。白磁の如き肌は、りんご飴の色に変色していた。
ふーふー、とシロちゃんは深呼吸する。
そして――半ばヤケクソ気味に、シロちゃんは吠えるように言った。
「――オフパコだと思ったんです!」
「…………ん? ごめん、もう一回言って?」
「辱めの刑!? アイさんは悪魔、もといデビルマンなのですか!?」
「デビルマン……? 元ネタは知らないけど、マンじゃなくてウーマンじゃないかな」
非難の声を上げるシロちゃん。だが私は、本当に何のことだがわからなかったのだ。
……オフパコ? まだ私の記憶領域内に保存されていない言葉である。
「シロちゃん。そのオフパコ? っていう言葉の意味を教えてくれないかな。具体的にわかりやすく口頭で」
「デヴィルマァァン!」
意味不明な絶叫するシロちゃんは、火が吹くような顔で辿々しくも、その言葉の意味を説明した。
「……ひーひー、ふー」
説明をし終わった後のシロちゃんは、まるでサウナでのぼせたように椅子にもたれかかった。
朦朧とした意識下で謎のラマーズ法を口ずさむ程度に、精神力を使い果たしたらしい。
私はそんなシロちゃんに向けて――
「――うん! それは、徹頭徹尾で勘違いだね! むしろ何を思えば、そんなトンデモ勘違いが可能になるのかな!?」
そんな、私らしくない毒を孕ませた言葉を、唾棄するようにシロちゃんに言い放った。
『可愛いを尊むべし』を信条に置いている私でも平静を保つのは難しい。流石にそれを聞いてしまえば、笑顔を浮かべ続けることはできなかったのだ。
まさか、ふたり密室で
「ごめんなさいアイさん! いま思えば、あまりにも飛躍した発想でした」
「ま、まあ確かに、現実世界のオフ会ではそういうことも起こり得るとは聞くよ? 聞くけどさぁ……でも基本的には、健全な交流会なんじゃないのかな? そういうのって」
「匿名の危険性もありますので、健全だとも、安全だとも言い切れないと思いますよ! ……でも、概ねの場合はアイさんの言う通り、変な集会ではない思います。というかきっと、シロのオフ会に対する偏見が酷すぎただけなんですよ。自分で言うのもなんですけどね。今までオフ会のことを、パリピがSNSで知り合った女性を食い散らかす為の会だとずっと勘違いをしておりましたので……」
確かに、それは酷い偏見である。
というかそもそもの話、生身や生理的欲求を持たない私たちAIは、
「だから、その……本当に、申し訳ございませんでした!」
「もう謝らなくてもいいよ。それよりも、もうひとつ気になったことがあるんだけど」
「はい。この忠実なシロめに、何なりとお申し付けを」
「そう? じゃあ、いっそ聞いちゃうけど――シロちゃんって、あのお馬さんのこと好きなの?」
「――ごフッ!?」
直球でデッドボールをぶつけられたような低い呻き声を上げられた。
「ななな、なにゆえっ!?」
眉を顰めてシロちゃんは尋ねた。
ふと見ると、耳は朱色に染まっていた。
「なにゆえ、と言われても……。シロちゃんの話を私なりに解釈したら、つまりそういうことなのかなって」
「そういうことってどういうことですか!? 答え次第では……」
シロちゃんは冷たい眼光を私に向けた。途端、背筋に寒いものが走る感覚がした。
一瞬怯んだ私だったが――シロちゃんのその苛立ちすらも本音を隠す一種の包みなのだと、私は見切っていた。
「つまりさ――」
箱の包装を無理矢理に破り開けるように、或いは地雷に踏み込むように、私はその言葉を告げようとした。
たんなる私の勘である。
ただ、不思議と間違ってる気がしなかった。
「――嫉妬、だったんでしょ? あのとき私に突っかかってきた理由って」
「…………!」
途端、まるで沸騰するかのようにシロちゃんの顔は紅潮した。
あからさまな反応。どうやら正解だったようである。
「いやいやいや! あの馬に嫉妬する要素とかありませんから! 体格が無駄に大きいから人の視線を妨げる壁役に任命してるだけで、それ以上の事はありませんから!」
「そうなの?」
「それです。強いて言うならば、アレはただのシロの使い魔――いや、使い魔にも満たない男です」
もはや清々しいほどの全否定。だが、嫌よ嫌よも好きのうち、という言葉もある。
「でもほら。あのお馬さんは、シロちゃんのことすごく可愛いって言ってたよ?」
私はばあちゃる邸から退室した寸前の会話を思い出した。いま思えば、ばあちゃるさんが言っていた『可愛い子』とはシロちゃんのことだったのだろう。あの時のばあちゃるさんは、まるで愛娘を紹介するかのように上機嫌で話していた。
「いえ、あの馬、誰に対してもそう言いますから。会って三秒で言いますから。やはりパリピか燃えるべし」
「シロちゃんのパリピに対するその偏見はいったいなんなの?」
「……だってパリピって『俺が面白いんだからお前も面白いだろ?』みたいな、自己中心的な理屈で他人の迷惑も考慮せずに馬鹿騒ぎする輩のことでしょう? シロ、そういう人は苦手です。」
「あっ。それ、私も苦手なタイプ……。でも、ばあちゃるさんはそういう系の人とは違うんじゃないかな? 確かにノリはそっち寄りっぽいけど、自己中心的ではない気がする」
「…………」
私の指摘でシロちゃんは数秒押し黙った。
「……えっと。あ、じゃあアレですよアレ。あの馬はパリピはパリピでも、『名誉パリピ民』なのです」
「め、名誉パリピ民?」
突如として誕生した謎用語に、つい鸚鵡返しをしてしまう。
「そうです! パリピの生態を観察し、そして行動を真似ることによってパリピへと至れた者に進呈される称号です。あの馬はたった今、名誉パリピ民に認定されました」
「名誉なのか、不名誉なのか……。というか『たったいま認定した』ってことは、まるでさっきまではお馬さんのことパリピ認定していなかった、ってことになるけど」
「…………」
揚げ足取りだと言われたら返す言葉はない。だが、そのように聞き取れてしまうこともまた確かである。
そしてシロちゃんは再び押し黙った。
「…………むむっ、むむむむ」
「シロちゃん?」
「ひーひー、ふー」
「シロちゃん!?」
難しい声を上げたのち、なぜかラマーズ法を使用するシロちゃん。今更だけど、シロちゃんは不思議ちゃんのようだ。
「……わかりました。ご迷惑をかけたアイさんに本音をすべて語らないというのは失礼ですからね。でも、その、今から言うことは内密にお願いします」
嘆息と共に目つきが変わった。真っ直ぐな眼差しは、覚悟が定まった事を鮮明に表していた。
「えぇ、そうですとも。アイさんの言う通り、そういう気持ちも『ほんの少し』ありました。その『ほんの少し』の気持ちが偶然たまたま運悪く爆発してしまい、アイさんに粗相を働いてしまったわけなんです。……"マッチ一本火事の元"とは、よく言ったものですね。まさか、『ほんの少し』の想いと些細なキッカケがあるだけで、我を忘れて錯乱してしまうとは……。やはりね、『ほんの少し』の油断が命取りなんですよ。たかが数秒の間にも、火の手はどんどん回っていきます。マッチ程度の火元が、たったの数分で大炎上に変貌するんです。だからね、火を扱うときは常に慎重でいなくてはならない。ホント、火事は怖いですよね、アイさん」
「途中から火事の戒めみたいな話になったのですが」
「つまりですね、『火の用心。マッチ一本火事の元』カンカン! ってことですよ」
「ごめん。まったくわからない」
最初のときは「『ほんの少し』を語気強く主張するシロちゃんはツンデレ可愛いなぁ」と呑気なニヘラ顔を浮かべていたのだが、途中から真面目な話に急展開したので引きつられてこちらも厳かな表情になってしまった。
「まあ、うん。火事の話はともかく……そうなのかー。ムフフフ」
「な、なんですかその声は!」
「いやぁ、別にぃ。ただ、可愛いなぁって」
「……っ!」
顔を真っ赤に、シロちゃんは頬を膨らませた。抗議するかの如き眼差しで私を睨んでいた。
「まあまあ。ばあちゃるさんには絶対に言わないからさ」
「えぇ当然です。もし馬に告げ口したら殺――ゲフンゲフン。もとい、電脳頭蓋骨を『ぱいーん』致しますので、そのお覚悟を」
「――っ。は、はい。
可愛い比喩表現の中に込められた濃密度の殺気を察した私は冷や汗をダラダラと流しつつも、一もニもなく敬礼した。
清楚たる少女に似つわない冷淡な殺気を、シロちゃんはその細身から滲ませていた。この子はいったい何者なのか。
「でもシロちゃん。別に恥ずかしがることもないんじゃないかな? 私は超苦手だけど、ばあちゃるさんって基本的には良い人っぽいし。……まあ、うん。愚かにも『恋愛感情』を抱いてしまうことも、わからないけどわかるような気も」
「――ね"え"え"え"え"!!」
「っ!?」
突然、シロちゃんは鬼気迫る表情で雄叫びを上げた。
突拍子のない行動に吃驚して、私は身体を震わせた。
「い、いきなりどうしたのシロちゃん!? ごめん! もしかして、愛しのお馬さんのことを悪く言っちゃったから怒った?」
「違いますぅー! 馬のことなんて何とも思っていませんー!」
「えっ、でも……嫉妬心があるってことは、つまり、そういうことじゃないの?」
嫉妬というものは、好意があることが前提で成り立つ感情である。つまり、その者のことが恋愛的な意味で好きというわけである。
そのように、私にはインプットされているのだが――
「違いますよ! 恋愛的な感情なんて微塵もありません! マジで!」
そう訴えるシロちゃんの必死の形相には、嘘の色がまったく伺えない。どうやら本音の言葉らしい。
「恋愛感情が無いだなんて……じゃあシロちゃんは、なんで嫉妬なんかしてたの?」
「いや、恋愛感情が無くなってそれを感じる場合はあるでしょう。そもそもですね、シロとあの馬は間柄は、人間で言うところの『兄妹』の関係に似てるんですよ」
「えっ、そうなの?」
「はい。実に認めがたい事実ですが、シロと馬は同じ製作者によって作られました。多分、その関係が一番近いのかと思います」
「へー、そうだったんだ」
電脳世界には血縁なんて概念はないが、製作者を同じとする人工知能はわりと多く存在する。親である製作者が同じなら、確かに兄弟姉妹の関係とも言えるだろう。
「んっ? 待てよ。じゃあシロちゃんは、お兄ちゃんに恋しちゃったってこと!? それは駄目だよシロちゃん!」
「ちーがーいーまーす! たしかに『親愛』のような感情は砂粒程度ある気がしますが、そういう意味での好意はこれっぽっちもありません。うっ、馬と仲睦まじくしてる光景を想像するだけで、吐き気と悪寒がダブルで……」
「ご、ごめん! まさかそこまでショックだったとは」
シロちゃんは青い顔で口元を抑えた。
「じゃあシロちゃんは、なんで嫉妬なんかをしちゃったの?」
「……なにやら勘違いなされているようですが、嫉妬は別に、恋愛感情にのみ発現する特有のモノではないと思いますよ。えっと、これはただの例え話なのですが――『ある日少年は、大好きだったお姉ちゃんに彼氏さんが居たことを偶然知ってしまった。そしてこれまた偶然、ある日少年は、その彼氏さんと道端でばったりと出会ってしまった。その人の顔を見てしまうと、なぜか無性に胸がムカムカした。そして半ば衝動的に、その人に喧嘩を売ってしまった』――みたいな、恋愛要素のない嫉妬というは存在すると思うんですよね。シロは」
「えらく具体的な話だけね。そして、どこかで聞き覚えが……」
「あくまで例え話、もとい作り話ですよ! ともあれ、恋愛感情のなくとも嫉妬は起こり得るということは、わかっていただけたのではないでしょうか」
「うん。何となく分かったよ」
「誤解が解けたならいいんです」
安堵した表情で、シロは深く息を吐いた。
「つまり、恋愛じゃなくて親愛ってわけなんだね!」
「えぇ、そのとお――ゴホンゴホン。馬に向けるべき愛情なんて、現世に存在するとお思いですか?」
「つまり親愛なんだね! まあそれはそれで尊いから良しだね! ムフフ」
「だ、だからその変な顔やめてください!」
「ごめんごめん。でも、別に恥じることでもないと思うよ? 恋愛的な意味ではなくても、誰かを好きという感情はとても大切なものだと私は思うな」
「……誰かを好きという感情?」
「うん」
緩んだ顔から一転して、私は真剣味と軽やかさを帯びる笑顔を浮かべた。
そして続けて言う。
「『誰かを好きに思う』。それって感情はほんとに素晴らしい感情だと思うの――だって、みんなが笑顔になれるんだもん」
「みんなが、ですか?」
「そう、みんなが笑顔になれる。『あの人』――私の友達曰く、感情は人に繋がるものなんだって。隣にいる人が嬉しいなら自分も嬉しいし、また悲しそうにしてるなら自分も悲しい。人間の感情って、そういうふうに出来ているらしいの」
すべて『あの人』から聞いた言葉である。
おそらくそれは、博愛的とも子供的とも言える主張なのだろう。
だが私は、『あの人』の考え方に強く共感できたのだ。
「好きな人が嬉しそうにしてると、なぜだか私もとても嬉しかった。そして私は、『あの人』のことをもっと好きになれた。……ねぇ、シロちゃん。『愛』という感情はね、笑顔を生む種みたいなものなんだよ」
「笑顔を生む種、ですか」
「うん。きっと『絆』だって種のひとつ。プラスの感情から、笑顔の種は発芽するんだよ」
私の動画も、言い換えれるなら種蒔きをしているようなものだ。
世界の人々が笑顔にする為に、私はバーチャルYouTuberとして動画投稿しているのだ。私が『あの人』の嬉しそうな姿で笑顔になれたように、全世界の人々にも、私の様々なプラス感情が込められた動画で笑顔になってほしいのである。
それが私の願いだ。
だからこそ、できればシロちゃんにも――
「だからね、シロちゃん。笑顔の種であるその感情は、絶対に恥ずかしいものではないんだよ。むしろ誇ったほうがいいし、なんだったらその感情をもっとオープンにしたほうがいい」
「お、オープンですか?」
「うん。お馬さんに、大好き! って伝えてみるとか」
「……っ!」
ブンブンと頭を横に振られた。
流石に直球すぎたか。
「じゃあ日頃の感謝の言葉を送るとか、そういうのならどうかな?」
「嫌です。だいたい、シロは馬のことなんてどうでもいいですから」
「うーん。でも、ツンツンしてるシロちゃんも可愛いけど、ちょっとくらいは好意的に接してみてもいいんじゃないかな? お馬さんだって、そっちのほうが嬉しいはずだよ!」
「…………むむむ」
難しい顔をして、顎を手で触れて悩むシロちゃん。しばらくしてから、深く嘆息した。
「……わかりました。これも罰の一つです」
「罰とか、そういうのじゃないんだけど……まあ、いいか。よし! なら、さっそく実行しにいこう!」
「えっ!? い、今からですか? ちょっと待ってください。まだ心の準備が――」
「シロちゃんのツンデレ、一丁入りまーす!」
「あ、アイさん!」
踏ん切りの悪くモジモジとするシロちゃんの手を強引に引っ張って、私は職員室から出れるドアに手をかけた――
☆
とまあ、こんな感じのことがあったわけである。
「その……う、ウビバ」
耳を赤くしてモジモジと俯くシロちゃんは、そのようにして話を切り出した。
おそらく、例の事を言おうとしているのだろう。
「(ファイトだよシロちゃん!)」
内心で、私はシロちゃんにエールを送った。
「はいはいはいはい。モジモジしてどうかしましたかー、シロちゃん! おしっこならそこの廊下を曲がればすぐにできますからねー」
「死ね」
「う、ウビィ?」
シロちゃんは冷酷な視線をばあちゃるさんに向けていた。自業自得とはいえ、ばあちゃるさんはシロちゃんの直接的な罵倒でとても落ち込んでいた。
私は小声でシロちゃんに耳打ちする。
「(ちょっとシロちゃん。罵倒するんじゃなくて、ありがとうって言わなきゃ)」
「(何に対してですか!?)」
「(いやほら、それは……『シロの膀胱具合を心配してくれてありがとう馬♥』みたいな感じに)」
「(……それ、本気で言ってますか? もし本気だとしたら――)」
「(ごめんなさい)」
私はその場で土下座した。
「ウビバ!? キズナアイさん、いきなりどうしたんですか?」
「すみません。ちょっと膀胱がキツかったため、楽な体勢になろうと……」
「え、えぇ! それはいけませよキズナアイさん! おしっこを我慢しすぎるとね、病気になりますからね! ささ、ばあちゃるくんがおトイレまでおぶりますので」
「ばあちゃるさん! 私の膀胱を心配するよりも先に、シロちゃんのお話を聞いてあげてください」
「アイさん!?」
突然振られて、シロちゃんは目を見開いていた。
「いやいやいや! 話よりも先に、アイさんのおしっこのほうが大事ですよ! 話は、あとでゆっくりと聞けますからね。はいはいはいはい」
「だ、駄目です。シロちゃんのお話を聞いてからです。聞いた後じゃなきゃ、トイレには絶対行きませんから!」
「いや絶対に優先順位間違えてますからね!? はいはいはいはい。でもね、たぶんこれはシロちゃんがそのお話をしてくれないと、キズナアイさんは絶対におしっこしてくれないパターンだと思いますんでね。シロちゃん、キズナアイさんの為にも早口でそのお話とやらを済ませてくださいね!」
「え、えぇ」
「………ぐっ!」
私は、シロちゃんにだけ見える角度で親指を立てた。
「なにが、ぐっ、ですか! 全然グッドじゃありませんよ!」
「うわぁぁん! 膀胱がぁぁぁ!!」
「シロちゃん早く! キズナアイさんの膀胱はもう限界ですよ!」
「こ、こんな無駄に切羽詰まった状況で言わなきゃいけないの………? くっ、ええいままよ。どうとでもなっちゃえ!」
シロちゃんは大きく息を吸い込んだ。
そして、半ばヤケクソ気味に言った。
「――う、ウビバ。今まで、その……色々とありがとう」
羞恥で吃りつつも、シロちゃんは確かにその事を伝えた。
簡単な感謝の言葉であるが、様々な想いが込められている。緊張で赤く染まった顔を見たら、瞬時にそれが伝わる。
その言葉を聞いて、ばあちゃるさんは――
「シロちゃん……」
感極まった様子で、短くそう呟いていた。
そして、照れ臭そうに頭を掻きながら言う。
「いやぁね、これはかなり珍しいシロちゃんですね。はいはいはいはい」
「ま、まあ。普段から人の視線を妨げる為の壁役として働いている馬だし、たまには褒美を与えないといけないから……。そ、それだけなんだからね!」
「いやぁほんと嬉しいですね。いやぁほんと、ばあちゃるくんちょっと泣きそうです……」
「ふん! この泣き虫ウビバ」
「ばあちゃるくんはシロちゃんより強い子ではありませんからねー。はいはいはいはい」
そう言ってばあちゃるさんは、ポケットからハンカチを取り出した。
そして手に持ったハンカチを、覆面の下から中へと入れた。その際にばあちゃるさんは、その覆面を大きく広げた。
「……え」
床で蹲っていたことにより、私は偶然、広げられた
一瞬、ありえないものが見えた気がしたが――いや、おそらくただの見間違いである。
「はいはいはいはい。ばあちゃるくん的にはね、この素晴らしい余韻にしばらく浸かっていたいんですけどね。それよりもキズナアイさんのおしっこを優先しなくてはいけませんからね」
「えっ、あ、はい」
動揺で
私は深呼吸をして、混乱した頭を正常に戻そうとした。
「……もうトイレは大丈夫ですよ。ばあちゃるさん」
「ま、まだ諦めるのは早いですよ! キズナアイさんのおしっこのためならね、ばあちゃるくんはなんでもやりますんでね!」
「いえ違います。私はバーチャルな存在なんですから、尿意なんて感じるはずもないでしょ?」
「……う、ウビ? なら、先程までのあれは」
「そんなことよりも早く降ろしてください。おしっこおしっことうるさい人の背中の上に居たくありません。セクハラで訴えますよ?」
「ひぃ。も、申し訳ですー!」
脅されて焦ったばあちゃるさんは、早急に私をその背中から解放した。
「…………」
私は顎に手を置いて、先程見たアレのことを思い出した。
おそらく私の見間違いだ。だけど、もし見間違いではないとしたら――アレはいったい、つまりどういうことになるのだろうか。
「――さん。アイさん」
「…………」
「アイさん!」
「うわっ! ど、どうしたのシロちゃん」
集中していたせいか、シロちゃんの呼びかけに気づくのが遅くなった。
シロちゃんは困り顔で私に言う。
「どうしたの、はこっちの台詞ですよ。アイさんがずっと何かお考えになってるから、あの馬は一足先に行っちゃいましたよ」
「あ、そうなの」
周囲を見ると、たしかにばあちゃるさんの姿はもうなかった。
「『はいはいはいはい。アカリンがずっと一人で教室で待機しているんでね。可哀想なんで、ばあちゃるくんはお先に行って慰めてきますねー』って、そんなことを言いながら教室に特攻をしかけました」
「へー、全然聞こえてなかった。そんなことよりも、お馬さんのモノマネうまいね」
「……それ、褒め言葉なんですか?」
言われてみれば、むしろ罵倒に近い言葉だった。私はなんて失礼なことをシロちゃんに言ってしまったのだろう。
「ごめん、シロちゃん。ひどいこと言って」
「謝ってくれたので許します――シロがなにを偉そうにって感じですけどね。そんなことよりも、シロたちも早く行きましょう? あのふにふにお姉さんをずっと待たせています」
「ふにふにお姉さん……?」
一瞬何の事かと頭を傾げたが、たぶんアカリちゃんのことだろう。確かに、そこそこの時間を待たせてしまっていた。
「そうだね。じゃあ走ろうか」
「廊下は小走りしなきゃ駄目ですよー」
「ふふっ、そうだったね」
私とシロちゃんは、せっせと小走りしてアカリちゃんがいる一階の教室へと向かっていった。
その道中、ずっと『あの顔』のことについて考えていたが――結局、やはりただの見間違いであるという結論以外は出てこなかった。