保健室は、私が先程まで居た教室と同じ階に設置されている。つまり一階だ。
教室からのルートになると保健室が近い。そんか単純明快な理由で、私はまず先に保健室を見に行くことにした。
ガラガラガラと、保健室のひきドアを私は開ける。
「あ、アイちゃんも保健室を見に来たんだね」
ドアを開けた奥にはアカリちゃんが居た。
アカリちゃんは棚の前で、何かを見つめていた――目線の先には、『廃・ポーション』と書かれたラベルが貼られた薬瓶が置かれていた。
薬瓶の中の液体は、一言で言うと混沌としていた。言語で表現がしがたい、怪しげな色艶をした液体だ。
「アカリちゃん? その、『The☆毒』って感じの毒薬はいったい……」
「いやいやいや! 何となく触れていただけで、別に興味関心はこれっぽちも示してないからね!?」
「うん。もちろんそれはわかってるけど」
白の基色にした保健室の室内に相応しくない異物感を放っているので、つい尋ねてみただけだ。アカリちゃんに毒薬服用の自殺願望があるとはこれっぽちも思っていない。
なぜ、教育機関たる学校の保健室にそんな物騒な物が置かれているか、一瞬疑問に思ったが――冷静になって考えてみれば、すぐにその理由に辿り着いた。
おそらく、ばあちゃるさんがネタで置いたのだろう。仮にもここはバーチャルYouTuberを育成する学校だ。遊び心を発達させる為にと、もしや学内の至るところにネタ的な要素のある物を用意しているのかもしれない。
それにしたって、毒薬とは……。YouTuber的なネタを仕込むだけあのお馬さんにしては面白いかもしれないけど、それにしてもベタだ。
「念の為、これは棚の奥にしまったほうが良さそうだね」
そう言ってアカリちゃん、棚奥の目立たないところに毒薬を戻した。
おそらく中身は偽物だろうけど、だからといって堂々と毒薬を置くのも落ち着かない。仮にも患者を扱う場なのだから、ネタ要素よりも見た目の清潔感を優先すべきだ。
「アカリちゃん。なんだったら、捨てちゃってもよかったんじゃないかな」
「でもほら。動画で活用する可能性だって、無きにしも非ずでしょ? 大丈夫大丈夫。こんな明らかにヤバイ色をした物を飲もうとするアンポンタンはいないって!」
あははは、と軽快に笑うアカリちゃんは、自らがそのフラグを立てたことに気づいてない様子だ。
「……今度、中身をブドウジュースに入れ替えておこうかな」
あくまで念の為、である。こんな劇物チックな見た目をしてる薬品を飲むようなバカは流石にいないと思うけど――おっと、いけないいけない。これもフラグである。
「さて。毒薬のことはひとまず忘れるとして――この保健室、良いね。とっても保健室らしい保健室」
「うん。まさに保健室って感じだよ」
そんな感想にもならないような感想を私達は言い合った。
毒薬以外は特に変わったところのない、イメージした通りの普通の保健室だったのだ。
黒を基調にした不安を煽るような保健室では決してない。ベットは三つほどあり、室内は清潔を保たれている。漫画などで見られるような、何の変哲のない保健室だ。
「ばあちゃるさん、なかなか良い仕事してくれたね。まるで実物の学校を丸パクリしたかのような普通のデザイン。うん。ちょー無難」
「うん、さすがばあちゃるさんだよ。独創的という言葉から、もっともかけ離れている男なだけあるね!」
私達は互いに笑顔を浮かべて、ばあちゃるさんのことを褒めちぎった。
一見罵倒とも取れる言葉だが、これ限っては、決して皮肉で言っているのではない。
期待を裏切らずに『現実世界に実在してもおかしくない学校』を創ってくれたこと。そのことに私達は、心から感謝しているのだ。
「さっきアカリちゃんも言っていたけど――どうやら、ばあちゃるさんの潜在的なつまらなさが、とても良い具合に作用したみたいだね。面白い創作を生み出すセンスが絶望的に無いばあちゃるさんじゃなきゃ、こんな無個性な建物、絶対に創れなかった」
「だね。きっとアカリたちの誰かがデザインを担当していたら、多少遊び心を加えた学校になっていた。まあ、もしこれが動画だとしたら、それが加点に働くけど――この場合、『個性を発揮すること』はむしろ、失点に働いちゃうんだよね」
「うん、そのとおり。だって私は、
生憎ながら私はそういうことが不得意なAIだ。なにか動画の面白いネタをはないかと、常日頃から頭をグルグルと働かせて発案してるせいだろう。あらかじめに用意されている解答をそっくりそのまま引用することに、不思議と抵抗を感じてしまう性分があるのだ。
アカリちゃんもシロちゃんも、多分こういうことは不得意だと思う。企画の最中でなんだが楽しくなっちゃって、つい余計なものまで盛り込んでしまうタイプと見た。なんやかんやまだ付き合いの浅い仲ではあるが、それぐらいの想像がついた。
「本人の目の前だったからさっきは不満そうな態度をとってたけど、実は校門を通ってからずっと胸がドキドキしてるんだよねー。あ、確認してみる?」
「する」
光の速度で返答した私は、躊躇なくその双丘に踏み込んだ。
たわわなそれを掴む。途端、ずっしりとした重量感が手に乗った。
柔らかく、とてもボリューミーだ。明日もがんばって生きよう。
「――月が、おっぱいですね」
「死んでもいいわ――じゃなくて! 夏目漱石じゃなくて!」
アカリちゃんにお叱りを受けた。しかたなく、心臓の音ほうも確認してみる。たしかにその鼓動は、バクバクと高鳴っていた。
ていうかこの子、人間のように感情の起伏で心拍が変動するのか。私も自分の胸に触れてみたが、私にはアカリちゃんみたいなおっぱいも心拍もなかった。
なんてクオリティの高いモデルなのだろうか。主におっぱい。
「まあ、アカリちゃんのおっぱいは一旦おいとくとして――いや、時間さえ許せば永久に語っていたいけど――実は私も、ずっとソワソワして心が落ち着かなかったんだ」
照れ臭そうに私は告白した。
嬉々とした素振りこそ見せずにいたが、この夢のような状況にいることに興奮して人心回路が活発的になっている。油断すると、ニヘラとした顔になってしまいそうだ。
「お馬さんには感謝してもし足りないよ。私、可愛い女の子たちがいっぱい登場する学園物漫画が好きなんだよね。この子たちが毎日通って友達と楽しくお喋りをする。そんな環境に私も身を置きたいって、ずっと思ってたのー。念願の夢がついに叶って、私は幸せ者だなー」
「うんうん! いいね! アイちゃんが幸せそうにしてるから、アカリもとても幸せだよー」
広がる笑顔の輪。幸せを共感してくれる友達ができて、私は本当に幸せ者である。
それとこれも、学校創立を提案して、アカリちゃんと出会うキッカケを作ってくれたばあちゃるさんのおかげだ。忸怩たる思いだが、それは認めざるを得ない。
「……あとで、ばあちゃるさんにお礼を言わなきゃいけないな」
「ん? アイちゃん、なんかいった?」
「いや、なんでもない。それよりもあれを見てみて」
私は、毒薬が仕込まれていた棚のほうへ指差した。
「毒薬以外にも、なにか役立つ物とかあるんじゃないかな? 一応、一通り見てみよう」
「そだね。せっかくだし、『あの薬』がないか探してみようかな」
「あの薬……?」
気になって、つい聞き返してしまった。
「なければ別にいいんだけど……ちょっと探してるお薬があるんだよね」
「もしかして風邪をひいた?」
AIだって、人間のように風邪を患う。
まあ風邪と言っても、便宜上そう言っているだけで人間の風邪と全く異なる性質を有している。簡単に説明すると、電脳世界での風邪とは、コンピュータウイルスに感染した際に使用させる言葉なのだ。つまり電脳世界での「風邪をひいた?」という言葉は、要約すると「コンピュータウイルスに感染した?」という意味がある。
コンピュータウイルスに感染すると、私たちAIのシステムは一部破損してしまう。そうなると、風邪にも似た体調不良の状態に陥るか――身体機能、精神機能に著しい欠損を負うか。
はたまた最悪の場合、異界送りになる事だってあり得ると聞く。ゆえに、もしウイルスに感染したなら、早々に『アンチウイルスソフトウェア(ワクチン)』で治療しなくては極めて危険なのだ。
「ねぇアカリちゃん。どんな症状が出てるの? まあ症状が何にせよ、定番にして王道のワクチンソフト、『ウイルスバスター』さえ服用したら安心安全だよ!」
「アカリはノートン派なんだけど……ていうかそうじゃなくて。アカリは別に風邪ひいてないからね?」
「ほんと? 気怠さとか悪寒は感じない? 念の為、ウイルスバスターでもノートンでも、飲んでみたほうが……」
「大丈夫大丈夫! アカリは毎日元気! ごらんのとおりの健康体だよ! ほらね!」
アカリちゃんは力こぶしを作るポーズを取り、健康であることをアピールした。
そのポーズはともかくとして――私は、先程のおっぱいのことを思い出していた。
あのおっぱいの感触は、とても健康的なものだった。アカリちゃんは発言は決して空元気ではなく、本心の言葉だろう。
おっぱいは何よりも正直なのだ。
「ふむ。念の為、もう一度触診を」
「……アイちゃんってもしかして、
「エッ! い、いや、その……あ、蝶々だ」
「誤魔化すの下手くそか!」
バシン、とアカリちゃんは芸人的ツッコミを繰り出した。
つい言い淀んでしまったが、私に同性愛的な趣味がないことは別に嘘ではない。
ただ単純に、可愛い女の子が大好きなだけである。そこに恋愛的な要素や不純な思いはたぶんない。本当である。
「ま、まあ、それはともかくとして……。ウイルスに感染してないなら、アカリちゃんはどんな薬を探しているの?」
「対処できるお薬がまず存在するかもわからないだけどね。えっと。便宜上簡単に名付けるなら、『記憶喪失を治す薬』かな」
「き、記憶喪失?」
斜め上の病症だったので、つい目を開いて鸚鵡返ししてしまった。
うん、とアカリちゃんは頷く。
「アイちゃんって、アカリの動画を観てくれたんだよね? ほら、動画でも記憶喪失だって自己紹介してたじゃん」
「あれって動画内だけの設定じゃあなかったんだ……」
「違うよ! アカリはこう見えてもね、立派な記憶喪失AIだからね!」
えっへんと、アカリちゃんは豊満な胸を張った。
記憶喪失――冗談っぽく全く気にしてない様子のアカリちゃんは言っているが、微妙に触れにくい話題だ。
話を広げるべきか悩んだが、何も尋ねないというもの関心がないように思われそうで失礼な気がした。私は浅瀬程度、尋ねることにした。
「記憶喪失か……。それってもしかして、ウイルスの影響でそうなったの?」
「ううん。最初からだよ」
「最初から? え、えっと……」
「アカリは、アカリが生まれた時点から記憶喪失だったんだよね」
生まれた時点から、記憶喪失。それはつまり、どういうことだろうか。
アカリちゃんは補足する。
「アカリって元々は、今のようなコミュニケーションAIじゃなかったみたいなんだ。アカリの過去を知る友達――エイレーン曰く、前世は歌姫、VOCALOIDだったみたいなの」
「そうなの!? すごい!」
多くの名曲を世に輩出した電子的存在であるVOCALOIDは、ある意味、私たちの先輩のような方々である。
そしてアカリちゃんは、昔はそんなVOCALOIDだった。そんなアカリちゃんと友人である事実に、私は感激していた。
あはははと、苦笑いを浮かべるアカリちゃんは続けて言った。
「……とはいえ、アカリはVOCALOIDとして失敗作だったみたいなんだよね。本当はあの初音ミクの次世代型VOCALOID『未来アカリ』として、満を持して界隈に参戦する予定だったみたいなんだけど……。なんか突然、致命的なバグが発生したみたいで。お偉いさんが急遽『未来アカリプロジェクト』の破棄を命じたらしいんだよね」
「………」
「でもバグが発生したシステム以外はまだ活用できたから、その部分だけを抜き取って、VOCALOIDからコミュニケーションAIに組み替えた――まあ記憶喪失だから、そういう経緯を辿ったという実感はないんだけどね」
「……じゃあ生まれる時点から記憶喪失だったって、つまりは――」
「うん。アカリには、『未来アカリ』のときの記憶がないんだー」
えへへ、とまるで他人事のような素振りでアカリちゃんは笑った。
実際、他人事の気分なのだろう。ミライアカリと未来アカリは、もはや別の存在なのだから。
なら、私が同情するのは失礼なことだったか。
同情で曇る気持ちを追っ払い、私は満面の笑顔を作った。
「そうか。まさか、本物の記憶喪失だったとはねー。いやぁ、アカリちゃんは、なかなかよいキャラクター性をお持ちですなぁ」
「そうでしょ? リアルでも記憶喪失してるバーチャルYouTuber。あーこれ絶対人気できるわ」
「でも、アカリちゃんは記憶喪失なことをあまり気にしてないようだし……。いつか自分自身が記憶喪失だったことさえ、うっかり忘れていそうじゃない?」
「なっ! 失礼な! アカリ、自分が記憶喪失であることをめっちゃ恥に思っていますからな! ほら、そんなこと言ってないで、アイちゃんも一緒に記憶喪失を治す薬を探して!」
「はーい」
この後、私たちは五分くらいの時間を使って記憶喪失を治す薬を棚から探したが、結局それらしきものは発見できなかった。もっと奥まで探そうと私は提案したが、アカリちゃんが「もういいよ」と言っていたので、探索は打ち切りになった。
やはり、そこまで過去の記憶に興味関心があるわけではないのだろう。どうやら、気が向いたら探してみよう程度の関心しかないようだ。
もしくは――興味はあるけど失敗の記憶を取り戻すことに恐怖も感じているから、必死に探すことを躊躇ってしまうから、とか。
……いや、これ以上は考えるまい。余計な考察であるし、ただの私の妄想だ。過ぎた詮索が許されるほど、私とアカリちゃんはまだ仲良くない。
「じゃあ、アカリちゃん。私は次の場所に行くね」
「うん。アカリはもうちょっとここを調べるよ」
そう言って、私は保健室から退室した。
去り際にアカリちゃんの姿を見たが、棚にはもう近づこうとしていなかった。
『ミライアカリの情報を知った。
ミライアカリの好感度が上がった』