目覚めたのは、朝七時。
歯磨きして簡単な食事を摂った俺は、この四十階建てのマンションを利用しての階段の登り降りをしてトレーニングをする事にした。
当初こそこの階段の登り降りは、恐らく時間が掛かっても一時間くらいだと思っていた。
だが、これが意外な程にキツく、しかも三時間以上も掛かって漸く終わらせる事が出来た程で、たった一往復なのにも関わらず、俺の精神と体力は底を突いている。
自分が五歳児になった事は十二分に理解していたつもりだが、ここまで五歳児が体力不足だとは思い至らなかった。
いや、五歳児になる前の俺だとしても、流石に一時間は甘く見積り過ぎていたのだろうか?
兎も角、体力を身に付ける事を急務としとこう。
そして、暫く休憩した後、俺は昼食を摂り昼寝をする。
約二時間程の少し長い昼寝だ。
それが終わると、今度は教材として購入していたビデオを観賞しながらの武術の型を練習。
次いで、試合の映像を見て、実際の妖怪や魔族との戦闘を想像しつつ対応する為の参考とさせて貰う。
これが終わる頃には夕方となっているので、夕食を作って食べて風呂に入る。
で、最後のトレーニングが霊能力の習得になるのだが、これは完全に自力習得になるので何か参考になるものがないだろうかと、記憶にある数々の漫画を脳裏で思い描く。
そこで思い付いたのが、HUNTER×HUNTERだった。
HUNTER×HUNTER固有の能力として、”念“という力が存在する。
これは、言ってみれば霊能力のようなもので、習得する際の修練も似通っていると言えるだろう。
もっとも、俺は霊能力というのを知らないので、あくまでも漫画を見ていた読者として似ていると思っただけであり、実際は全然違うものである可能性もあるのだが。
しかし、当たらずとも遠からず、という気がするのも事実。
故に、HUNTER×HUNTERの”念“を習得する際に必要とされていた瞑想を、歯磨き前に三時間熟す。
とは言っても、こんなに長い時間瞑想をやった事など無いので、半分夢現であった。
ま、それもある意味では仕方ないとも言える。
何故なら、くどいと思われるだろうが、俺は五歳児に戻っているからだ。
早朝からの修練だけで、ぶっちゃけると疲労困憊であり、体が睡眠を欲していた。
「ん〜、瞑想は厳しいな。だけど他に良い案も無いんだし、続ける選択肢しか俺にはないが」
歯磨きを終わらせベッドに横になりながら、普通の家より高い天井を眺めつつ呟いた。
今日は初日という事で、かなり気合いを入れてのトレーニングだったのだが、これを続けるには結構な根性が必要となるだろう。
意識が夢へと旅立つ前に、俺は自分自身に気合いを入れた。明日も頑張るぞ、と。
そうして、明くる日からもめげずに努力を続けた結果、俺は武術の型をそれなりの動作で行えるようにはなった。
最初は、それは酷い型だっただろう。
しかし、今の俺が行う型は、教材としているビデオに出演している武芸者に近しいのではと自画自賛出来る程だ。
もっとも、そう思っているのは俺だけであり、本物の武芸者が見れば駄目な部分が沢山見受けられるだろうが。
ともあれ、基本の型についてはこれからも修練が必須であろう。
何事も基本が一番重要なのだから、型は毎日続けようと思っている。
で、肝心要の霊能力はと言えば、これが意外にも”念“でいう”纏“の状態を実現するに至っている。
それと言うのも、恐らくこの習得の速さを可能にしたのは、俺が剣道を二十年以上も学び続けていたお陰だろう。
才能があったからではなく、長い武術の研鑽の影響で、早い段階での霊能力開花を実現させたと考えられる。
因みに、”纏“というのは体から流れ出ているオーラを、そのまま流れさせるのではなく体全体に服を着るように纏う技術の事。
霊気とは不思議な物で、”念“のように自在に動かせる事が既に分かっている。
勿論、自在に、とは言っても、例えば拳に霊気を集めるのにそれなりの時間を要するが。
だが、これも修練を続ければ、きっと今より自由自在に扱える様になる筈だ。
この霊能力開花のお陰で、辛い階段の登り降りというトレーニングも耐えられていると言える為、実はこれが俺の精神を高揚させてくれており、辛い訓練を耐える一助となっていた。
この世界の固有の力の一端を身に付けただけだが、このお陰でこの世界の人間になれた気がするのだ。
これを誰かに言えば、「その程度で?」と鼻で笑われるのだろうが、俺としては本気で嬉しかったのである。
それは兎も角として、この様に一ヶ月という短い期間で意外な程に順調なトレーニングの滑り出しを切れたのは、本当に幸運だと言えるだろう。
ただし、問題が全く無いという訳ではない。
例えば、色々な武術試合のビデオを集めたせいで、部屋の大部分をビデオの山が占める事になった。
しかも、結構当たり外れがあるのだ。
気功だの何だのという謳い文句のビデオを買って見れば、中身は一目でヤラセと分かる物や、武術の師範とかの肩書きの人物が、過去の栄光をダラダラと話し続ける物などさまざまで、部屋を占めるビデオの七割が胡散臭い物の山となっている。
ぶっちゃけ、詐欺なのでは、と思わずにいられない。
こんなアホ丸出しのビデオに、俺は神様に用意してもらったお金を使っているのかと思うと申し訳なくなってくる程だ。
しかも、そういう類いのビデオ程、何故か異常に高額な値段設定になっているのが余計ムカつく。
先程説明した気功のヤツなど、値段は六万もしたのだ。
他のビデオも似たり寄ったりである。
出来る事なら、製作者を取っ捕まえて叩きのめしたいところだ。
ハァと大きく溜め息を吐いた俺は、兎に角この胡散臭いビデオの山を処分するべく、恒例となっている朝の階段苦行の一部に、ビデオをマンション入り口のゴミ捨て場まで運ぶのを決めた。
ま、これも足腰の鍛練の為だと思えば、お金をの無駄遣いには………いや、やはり無駄遣いは無駄遣いだな。
しかし、鍛練の為にはプラスなのは間違いないだろう。
そうして、胡散臭いビデオと出会う生活を続ける事三年後、俺の霊力がどれくらいに達したのかは不明だが、八歳となりそれなりの実力となったと思える頃になると、俺は妙神山へと登る決意を固めた。
勿論、鬼門に100%勝てると考えての行動ではない。
今の自分の実力を知りたいからこそ、妙神山へと登ろうと決めたのだ。
それに何より、俺には紹介状も無いのだし、弟子入りは不可能だと充分に理解している。
故に、これは純然たる力量を試す試金石にする意味合いが強い。
「弟子入りは駄目だとしても、試しの門の鬼門とは戦わせて貰える筈」
鬼に勝てるようになれば、そうそう妖怪程度には遅れを見せる事にはならんだろう。
ま、今回は99%鬼門に勝てないと思うが。
しかし、こんな今の俺でも、日常生活の中で遭遇する雑霊くらいは祓えるようにはなっているのだ。
とは言え、雑霊を祓う際には一握りの塩を振り撒けば祓えてしまうので、霊能力の有無には余り関係無かったりする。
つまり、そういう事情もあるので、自分が強くなっているのかさっぱり分からないのだ。
今の俺の心境は、自分の位置を知る為の比べる相手が欲しいというのが最も強く渇望するものとなっている。
「食べ物も充分、飲み物も充分、着替えも充分。それに、寝袋も用意してるし、準備は万全」
八歳の子供が背負うにしては大きなリュックを前に、俺は指差し確認をしながら中身をチェックした。
これから向かう妙神山は険しい道程となっている為、かなりの準備が必要不可欠となる。
これは勿論、俺が一日で辿り着けない体力しかないのも原因なのだが、それにしたって一般の成人でも苦労する道程だったりするので用意しておくに越した事はない。
因みに、妙神山というのは意外にも有名だったので、直ぐに妙神山がどの辺りに存在するのかは判明していた。
ただし、妙神山が霊能者の修業所だというのは余り知られていないようだ。
恐らく、霊能者だけが知る秘匿された情報なのだろう。
「重っ……!」
比較的軽い食糧を確保したつもりだが、やはり背負ってみると結構重い。
多分、飲み物のせいで重くなっているのだと察せられる。
だが、山登りに飲み物は必須だし、これも足腰の鍛練だと諦め、足を踏み出す。
そして、玄関を出ると確りと施錠し、普段は絶対に使用しないエレベーターに乗り込む。
この時代のエレベーターは、余り性能が良くないのか少し遅い。
しかし、そうは言っても亀の歩みの様に遅い訳ではないので、ふと気付けば一階へと到着だ。
背負う荷物の重さを実感しつつ、狭いエレベーター内から出ると、最も近い駅へと向かい歩いて行く。
駅までは、だいたい徒歩で十五分程だろうか?
この世界に来てから、俺は一度も電車に乗っていなかったので本当に久し振りの乗車となるのだが、年齢のせいで補導されないかが心配で電車に乗る事などに対する感慨深さなど微塵も無い。
なら休日に行けば良いだろうと思うだろうが、東京という大都会を走る電車には当然沢山の利用客が存在する訳で、平日でなければとても八歳の子供には乗れるものではないのだ。
それも、平日の昼間でなければ無理だと言っておこう。
特に、今の様に大きなリュックを背負っての乗車となると、尚更である。
ともあれ、目的の駅に到着した。
電車を利用する客の数は、平日の昼間であってもそれなりに居る。
故に、結構な数の人々が駅構内に彷徨いているのが視界に移った。
俺はその人達を見て、電車内が空いてますように、と願いつつ切符を買う。
そして、時間通りに来た電車に乗り込んだ。
俺の願掛けが功を奏したのか、電車内に居る人の数は意外に少ない。
しかし、そうは言っても、流石に座席に腰を下ろせる程に乗客が少ない訳でもなく、俺は仕方なくポールを掴み佇む。
そうして、何れだけの時間が経過したのだろうか、ふと気付けば座席に空白地帯が出来上がっていた。
俺はこれ幸いにとばかりに、空白地帯となっていた座席に腰掛ける。
勿論、荷物は座席に乗せず床の上に置いており、人の乗り降りの邪魔にならないように気を使っている。
平日の昼間に大きなリュックを持った少年という俺が居るのだから、出来るだけ目立たなくせねばならないからな。
ま、アルビノの俺が幾らサングラスなどで誤魔化しているとは言っても、肌の白さは誤魔化せないので、既に結構目立っているので無駄な気遣いかもしれんが。
暫く乗客の無遠慮な視線を受けつつ、ガタンゴトン、という電車特有の走行音をBGMに進んでいると、漸く俺の降りる駅へと着いた。
再び重量感のあるリュックを背負い、俺はユックリと歩き始める。
そして、改札を出て駅構内からも出ると、客を出待ちしているタクシーに乗り込み「烏天狗の森まで御願いします」と、運転手に告げる。
俺が運転手へと告げた行き先は、妙神山からかなり離れた深い森となる場所であるのだが、それでも人里から一番近いので、そこに行くのが最も効率が良い。
だが当然、そんな場所に子供が連れてってくれと言われても、運転手は怪訝な表情を浮かべて即座に了承はしてくれなかった。
「外人さんかな? 日本語上手だねぇ。それで、どうしてあんな森に?」
運転手が俺を外国人だと判断した理由は、俺の髪色と肌の白さが原因だろう。
生まれた時からずっと勘違いされて来たので、こういう勘違いはもう慣れたものだ。
俺は意識してサングラスを若干下へとずらし、聞かれた時には言おうと決めていた言い訳を口にする。
「外国人じゃなくて、俺はアルビノなんですよ。ほら、瞳が赤いでしょ?
それで、烏天狗の森に行く理由は俺の親が霊能者で、そこに行って修業してきなさいと命じられたからなんです」
「いやぁ、確りした小学生だねぇ。………なるほど、修業の為に行くんだね。
それにしても、アルビノってのは良く知らないけど、病気か何かかい?」
「まぁ、そう言えなくもないですね。アルビノってのは、先天性の遺伝子疾患で、色素が薄くなっちゃうんですよ。それで、こんな風に生まれた時から髪や眉毛といった毛という毛が全て白くて、肌も白い訳です」
意外とアルビノってのは余り知れ渡っていない。
俺が社会人になって働き出しても、行く先々で御病気ですか、と尋ねられる事も少なくなかったのだ。
多分、発祥する人間の数が少ないのが原因だろう。
それに、この時代ではインターネットがまだまだ十全に機能していないし、日本でも三人程の症例しか存在しないのも原因だと察せられる。
ともあれ、俺の説明で納得したらしい運転手さんは、「では出発しますね」と俺に告げ、車を発進させた。
そうして一時間後、滅茶苦茶不気味な森が姿を見せる。
間違いなく、此処が烏天狗の森であった。
ちょっと異様な森の姿に圧倒されていた俺は、運転手さんに促され料金を支払うと、おずおずと車から降りる。
そんな俺に、去り際の運転手さんが激励の言葉を投げ掛けてくれ、俺は笑みを浮かべて「頑張ります!」と返答した。