烏天狗の森。
此処はそう呼ばれる他に、数々の異名に溢れる森である。
何故異名に溢れているのかと言えば、昔から沢山の修験者が此処に入って行くのを見た者達が、帰って来る修験者の少なさに恐怖し、人喰い鬼が居るからだとか天狗が居るからだとか怨霊が居るからだとかで沢山の噂話しを広めたからだと言われている。
恐らく、その帰って来なかった修験者の多くは鬼門に殺されたのか、はたまた妙神山の管理人である小竜姫の課した試練で死んでしまったのだろう。
或いは、単純に森の中で迷った挙げ句、野垂れ死にしたのかもしれない。
しかし、昔にそういった死に方をした者が居たとしても、現在はコンパスという便利な物が存在するので、深い森の中で野垂れ死ぬなどという最後を迎える心配は皆無だろうと思う。
実際、俺はそれを見越して準備して来ているし、心配はしていなかった。
そう、していなかった、という過去形の話しだ。
つまり、今の俺は絶賛迷子中である。
「まさか磁場が狂った特異点という場所が、この日本にあるとは思わなかった………。俺の考えが甘かったな」
俺は敢えて冷静な口調を意識して呟いたが、これは自分自身の心を落ち着ける為である。
こうでもしないと、パニックを起こしかねないのだ。
それぐらいこの烏天狗の森という場所は恐怖を駆り立ててくるし、異常な程に暗いせいで無駄に精神と体力をゴリゴリ削ってくる。
念の為にと用意していた懐中電灯を片手に、俺は足元を頻りに確かめつつ進んで行く。
とは言え、今進んでいる方向で良いのかは判然としないが。
そうやって不安感に苛まれながらの進み具合では、当然なかなか足の進みは悪く、森を抜けてから野宿しようと考えていたのだが、完全な漆黒に包まれる事で仕方なく此処で野宿する事を決意せざるを得なかった。
「……何れくらい進めたんだろうか?」
空に浮かぶ星や月の明かりさえ、鬱蒼と生い茂る木々のせいで俺の居る場所には届かない。
その為、辺り一帯本当に真っ暗闇だ。
こんな中で野宿というのは、正真正銘初体験である。
もっとも、暗かろうが明るかろうが、野宿自体初体験なのだが。
テントは流石に重いので持って来ていないが、寝袋は確りと準備していた俺は、カロリーメイトを胃に入れると体を寝袋に押し込む。
まだ秋というには少し早いくらいの季節な為、少々肌寒いくらいにか感じられず、寝袋にくるまれれば丁度良い暖かさだ。
フゥと小さく息を吐き、明日になれば事態も好転するだろうと自身を内心で励ました。
そして目を瞑れば、この漆黒の闇の中でも意外な程にすんなりと眠りに就く事が出来た。
翌朝、腕時計のG-SHOCKから、ピピピピピ、というアラーム音が鳴り響き、それによって目を覚ます。
寝袋から飛び出し、俺はチャチャッと素早く歯磨きをすると昨夜と同じくカロリーメイトを食べる。
別にカロリーメイトが好きだからこればかり食べている訳ではなく、荷物として嵩張らないし重くもならない物を選んだ結果、このカロリーメイトになったから持っているだけで、これ以外に食糧は持っていない。
因みに、今の時代のカロリーメイトは、チョコを始めとした他の味は存在せず、オーソドックスなノーマルタイプしかない。
是非、別の味も出来るだけ早く販売して欲しいものだ。
それは兎も角、寝袋を畳みリュックに詰め込んでいて気付いたのだが………
「どの方向から来たんだったっけ………?」
致命的なミスをしてしまったようだ。
昨夜、眠る前にせめて目印のような物を残していれば、こんな風に方向を見失う事も無かっただろうに。
いや、既に磁場のせいでコンパスも狂っているのだから、迷子には変わらないのだが。
大きく溜め息を吐いた俺は、朝起きたばかりだという事に気付いて、慌てて吐いた溜め息を吸い込む。
別に、溜め息と共に幸せが出て行くなどという迷信を信じている訳じゃないが、自分でも分からないが何故か咄嗟にやってしまったのだ。
まぁ、一度溜め息を吐いた後に、再び吸い込んだからと言って、最初に吐いた溜め息がチャラになるかどうかは知らないけど。
「……どうするべきか、それが問題だ」
前後左右、どの方向も妙神山へは繋がっていないような気がする。
勿論、そんな訳はないし、どの方角かは判然としないが、ちゃんと正解はある筈だ。
しかし、正解はある筈なのだが、不思議と正解が無いかのような気持ちが湧き上がる。
「不安に思うせいで、そんな風に感じるのかもしれないな」
俺はリュックを背負うと、「ええい、ままよ!」と叫んで進み始めた。
道筋が判然としないのなら、勘で道を選ぶしか俺には選択肢がなく、ならば勢いに任せてみようという訳だ。
不確かな足元に注意しつつ、懐中電灯の明かりを頼りに歩を進める。
木、木、木、木、木、木。
この時代の日本に、こんな巨大な木が一切伐採されず残っているのを不思議に思いつつ進んで行く。
その途中では、木の実を沢山付けた実り豊かな木々なども見受けられた。
まるで、ゲームや映画などで見られるような不思議な光景である。
そんな光景に遭遇しつつ進んでいると、暫くして何者かに睨まれているかのような鋭い視線を感じ、足を止めた。
そして、その視線を感じる左側へと勢い良く顔を向けるものの、別段何かが存在するという訳ではなく、肩透かしを食らった様な気分を味わわされただけに終わる。
だが、確かに何者かの気配を感じたような気がするのも事実。
俺は気配を明確に感じられる様な達人という訳ではないが、第六感とも言える何かを感じたのは間違いない。
「絶賛迷子中故の、恐怖による錯覚か………?」
気のせいと言われればそうかもしれない。
が、しかし、やはり何かの気配を感じた筈。
だが、今はその何者かの気配は一切感じられない。
「ふむ、気になるな」
普通ならば、気のせいにしろ何にしろ、そんな不穏な気配を感じたなら逆方向へと進むだろう。
或いは、逆方向じゃなくとも、少なくとも気配がした方角以外へと進む筈。
だが、俺は敢えてその気配がする方角へと進路を変えた。
そして、10メートル程度進んだ瞬間、「止まれ」と何者かの制止の声が森の中に木霊する。
「ッ………!?」
ただ制止の声を掛けられた訳ではない。
まるで、身を刺すかのようなピリピリとしたプレッシャーを感じさせつつの制止だ。
これが殺気というものなのだろうか?
俺が初体験の感覚に身を竦ませていると、再び声が森の中に木霊する。
「何故じゃ? どうして御主の様な
姿は見えぬども、確かに俺に向けて発されている問い掛けに答える為、俺は恐怖を飲み下す様に生唾を飲み込み、静かに口を開く。
「……妙神山へ行きたいんです」
俺の返答を耳にした声の主は、面白そうに朗らかに笑う。
先程まで感じていたプレッシャー(殺気?)が無くなった事を察した俺は、続けて言葉を紡ぐ。
「道をお教え願います。御存知でしょうか?」
「知っておる。しかし、それは教えられん」
「何故ですか?」
「この森を抜けるのも、妙神山へと向かう修験者の試練。故に、教えられん」
「貴方は、小竜姫様の臣下なのですか?」
俺が小竜姫という名を口にした刹那、再びプレッシャー(殺気?)が放たれた。
しかも、先程よりもそのピリピリと身を刺すような感覚は、より強く感じられる。
ピリピリ、ではなく、ビリビリ、と形容した方が正しいだろう。
「以前に此処を通り抜けた者の中で、今も生きているであろう人間は、儂の知る限り神父しか居らなんだ。………つまり、小竜姫殿の名を知っておるという事は、その神父の弟子か?」
声の主が言葉を発する度に、身を刺す様なプレッシャー(殺気?)が強くなる。ドクンドクン、と脈打つ心臓の様に。
俺はその圧力に負けぬ様に、体から霊気を迸らせる事で抵抗する。
「答えよ。神父の弟子か?」
圧力に負けぬ様にする事で精一杯だったので、俺が無視している、はたまた黙秘している、と勘違いしたらしく、更に強烈なプレッシャー(殺気?)を放ちながら問い質して来た。
俺はこのままでは不味いと感じ、慌てて口を開く。
「違います」
「ならば何故知っておるのじゃ?」
「……古文書に小竜姫様の名が記されてあったのです」
「ふむ、古文書とな? 有り得ぬ話しではないのう」
俺の返答に満足したらしく、放たれていた圧力が一気に霧散した。
それを察してホッと胸を撫で下ろしていると、声の主が続けて言葉を発する。
「しかし、なかなか驚かされたぞ、
「お褒めの言葉、有り難う御座います」
「じゃが、まだ妙神山へ行くのは早い。御主では死ぬのが関の山じゃろうな」
「それは……。はい、それはそうでしょうね。自分の事ですから、自覚して居ります」
「ならば何故妙神山へ? 死にたい訳では無かろう?」
心底疑問気な声音。
俺が心配という訳ではなく、本当に気になるからこそ発された質問なのだろう。
俺も子供が危険な事を承知していて行動しているのを見れば、同じように疑問に思うだろうし、だからこそ声の主の疑問も不思議には思わない。
「試したいからです」
「試す? 先程御主は、自分でまだ早いと自覚しておると申したではないか」
「いえ、試練を抜けられるとは思っておりませんし、鬼門様を倒せると思い上がっているという訳では無い、という意味です」
「ふむ、なるほどの。して、その真意は?」
「自分の力量が、今の自分が何れ程なのか知りたいのです」
「ほう。………ほっほっほっほっほっ! なかなか面白い
出会ってから一番楽しそうに笑う声の主は、一頻り盛大に笑い続ける。
その笑い声から察するに、俺を嘲笑しているのでは無いのは明確に感じられた。
そうして、暫く笑っていたと思ったら、自身の背後から物音がしたのを耳にして、ハッとした様に勢い良く振り向く。
すると、真っ赤な顔で真っ黒な翼を背中に生やした人物が居た。
良く見てみると日本刀を腰に差しており、修験者が着るような服を身に付けている。
そんな珍妙な人物が、これまた珍妙な程に長い鼻を揺らしながら口を開く。
「御主に興味が湧いた。そのように若い身空で、自身の力の座を確かめんと思い至るとは、誠に天晴れじゃ」
どこから見ても、目の前の人物は人間じゃないと俺にだって理解出来た。
どう見ても天狗である。
そこまで考えて、俺はふと気が付いた。此処に天狗が居るからこそ、この森の名称が”烏天狗の森“なのだろう、と。
ポカンとしながら、そんな取り留めの無い事を考えていた俺に、天狗様は言葉を続けて発する。
「儂が御主の腕を見てやろう。これでも千年以上も武術の研鑽を積んでいた身じゃ。小竜姫殿程の腕は持ち合わせて居らぬが、御主の力量の座を見極める力は有しておるぞ」
「え、あ、あの………」
「遠慮する事は無い。確かに儂は、修業の為に人を嫌って隠れ潜んで居る身じゃが、御主の様に向上心の高い者は嫌いでは無いからのう」
別に遠慮している訳ではなく、戸惑っているだけだ。
だが、天狗様は俺が遠慮していると勘違いしているらしい。
しかし、千年もの間を修業漬けの毎日だったというのなら、天狗様の提案は俺にとって最高の幸運と言っても過言では無かろう。
実際、武術の達人の技を間近で見られるし、何より俺の目的であった自分の力量を知る良い機会であると言えるからだ。
「御提案をお受けします。未熟者ですが、宜しく御願い致します」
「うむうむ。ほれ、掛かって来るが良い」
腰に帯刀している日本刀は抜かず、天狗様は徒手空拳で相手をしてくれるらしい。
俺に向かって右手で手招きをしている。
それを見て、俺は背負っていた大きなリュックを地面に下ろし、身軽になった状態で軽く数度だけその場で跳躍してリズムを作った。
これは自身の体調を調べる意味合いと、これから戦闘するぞ、というのを体に言い聞かせる意味の二つがある。
自身の体調は万全。体も唐突な戦闘にも関わらず、かなり乗り気。
良し、ならば全力で立ち向かう。
俺は、足場へとチラリと視線を向けた後、踏み易い足場を選んで駆け出す。
相手との距離が縮まり、天狗様の間合いへと入った。
だが、それは天狗様のリーチなら届く攻撃範囲内という意味であり、俺のリーチでは当然攻撃範囲内ではないという事。
更にグッと接近し、一際強く地面を蹴る事で高く跳躍し、とうとう俺の間合いとなる。
その瞬間、俺は空中で一回転して後ろ回し蹴りを放つ。
刃牙VSオリバ戦で解説されていた最強の蹴り技だ。
だが、如何せん俺の体重が軽過ぎたせいで、天狗様に片手で軽々とガードされてしまう。
しかし、それぐらい予想内だ。
地面に着地すると同時に、今度は天狗様の足を狙ってタックル。
これは決まった。掴んだらヒールホールドするぞ。
俺はタックルをしつつ、そう思った。
だが、ふと気付けば目の前から天狗様の右足が消えていた。
「え………?」
足が無い事に疑問を抱いた瞬間、頭上から風切り音がした。
そして、俺の意識は彼方へと消え去った。