帰って来た瞬間、見知らぬ者が弟子である俺と居て胡乱げな表情を浮かべていた師匠だが、その見知らぬ者が突然土下座すると心底不思議そうに首を傾げていた。
そんな師匠は、何が何やら意味が分からない様子で、俺へと事態の説明を求める様に視線を向けて来る。
それを受けて、どこから説明するべきかと考えていると、キバさんが土下座したまま改めて口を開く事で説明する必要が無くなった。
「
それ故に、天狗殿の所有する薬を所望して此処に来たのでござる!」
「ふむ。……薬、をのう」
「何卒、何卒! 天狗殿の薬を
キバさんの必死の嘆願は、切羽詰まる様な、それでいて見につまらされる様なものだった。
だが、師匠には届いていない様に見えた。
何故なら、師匠はキバさんの話す内容には微塵の興味も無いらしく、しかし、キバさん本人の姿を見ながら何やら考え込んでいたように見えたからだ。
キバさんを見て何を考えているのかは俺に知る由も無いのだが、何やら俺自身に不都合な事が起こりそうな気がする。
暫くキバさんの姿を見ていた師匠は、一瞬だけニヤリと口元を弧に描き、俺へと視線を移す。
「護よ、御主の修業の仕上げに、その辺に居る妖怪と死合ってもらおうと思っておったのだが、なかなか都合良く見つからなんだ」
「そう、ですか。それで……いや、その悪そうな顔を見ればだいたい察しは付きますけど、一応聞かせて貰います。………何をお考えで?」
「悪そうな顔とはなんじゃ、御主も言う様になったのう」
「あの、それで?」
「此処に居るではないか。死合うに相応しい侍が」
不敵な笑みで、予想していた通りの言葉を述べる師匠。
俺は本当に予想の範囲内だったので、それほど困惑する程ではなかったのだが、話しの流れが理解出来ていないキバさんは違った。
俺と師匠の間で忙しなく視線を右往左往させて、事の状況の説明を求めている。
俺の実力は、この二年間で飛躍的に高いものになったと自負しているが、それでもキバさんに勝てる程に強くなっているとは思えない。第一、俺はまだ10歳の子供だし。
なので、師匠の提案に項垂れる俺は、キバさんに説明をするのが億劫で………
「えぇと、キバさん。少し待っててください、事情を説明しますので」
「う、うむ。薬が貰えるのであれば、
一旦自分の心を落ち着ける為、俺はキバさんへの説明を後回しにして、キバさんの姿を改めて見詰めた。
自らを武士だと断言したキバさんは、やはり相当の剣術家だと察せられる。
立ち居振舞いから、その武術の研鑽につぎ込んだ時間が俺にでも読み取れる程だし、とても俺が勝てるレベルでないのは容易に理解出来た。
この目の前の御仁と死合いか………。
ぶっちゃけ、無謀以外の何物でも無いだろうと思う。
普通に考えて、俺がキバさんに勝てる見込みは”三割“くらいだろう。
勝てる道筋が明らかに細い事を理解した俺は、項垂れるしかなかった。
「キバさん、師匠は………いえ、天狗様は、薬が欲しければ俺と死合えと申せです」
「ぅん?! は………? あ、いや、そなたと刀を交えれば、薬をくれるというのは真か!?」
「はい、相違無いと思いますよ。ですよね、師匠?」
激しく動揺するキバさんに頷き、次いで師匠へと視線を移せば、満面の笑みで頷く師匠が居た。
その不敵さと、子供の様に眩しく、悪戯っ子の様な笑みには、弟子という立場の俺ですら流石に殺意が湧く。
この二年間の指導は本当に有り難かったが、最後の最後にこれ程の試練を出されたら、誰でも怒るだろ?
きっと俺だけではない筈だ。
「はぁぁ………仕方ないですね。では、真剣勝負を御願い申し上げます」
「うむ、此方こそ宜しく御願い申し上げる!」
薬が貰えるとあって、キバさんの気合いは全開のようだ。
それを見て、俺は理解せざるを得なかった。普通の状態のキバさんと殺り合った場合の勝率は”三割“でも、今のキバさんと殺り合った場合だと”一割“も勝てる見込みが無い事を。
その現実を理解して、俺は再び溜め息を吐きそうになるものの、目の前の御仁が刀を抜くのを見て必死に我慢した。
「双方、構えるのじゃ」
師匠が不敵な笑みを携えたまま、右手を天高く掲げる。
そして、その手を一気に振り下ろしながら………
「………始めっ!!」
開始の合図と共に、キバさんが上段に構えた刀を振り下ろしながら異常な速度で間合いを一気に潰して来た。
俺はそれを冷静に目にして、右斜め前方へと踏み込みながら”抜き胴“を放つ。
”抜き胴“とは、”抜き技“と呼ばれる技術の一つであり、相手の刀を受ける事はせず、相手の攻撃を避けると共に自身から攻撃する技の事である。
その”抜き胴“のタイミングは、自分でいうのもなんだが最高のタイミングだった。普通なら避けるのは不可能な程の。
だが、キバさんは自身の腹を斬り裂かれるのを素早く察知したらしく、踏み込んだ右足で後方へと勢い良く飛び退く事で躱す。
信じられない動作だ。
普通なら全力で斬り込んでいる最中に………いや、より分かり易く説明すると、前方へと向かって全力で走っている最中に、いきなり後方へと運動エネルギーを転じる事など不可能である。
なのにも関わらず、そんな挙動を可能にしているとなると、考えられるのは………全力で斬り込んで来た訳じゃなかったという事。
俺には異常な速度に感じられたのだが、キバさんからしたら手加減されたものだったのだろう。
その事実を理解して、空を斬った刀を構え直しながら背筋が冷たくなるのを感じた。
(これはヤバい………予想以上に強過ぎる!)
驚愕の強さに総毛立つ俺に対して、後方へと飛び退いていたキバさんが中段へと構え直していた。
だが、先程の様に無防備に攻撃してこようとする気配は窺えず、何やら警戒しているように見える。
俺の実力を過小評価していて、それが違った事に驚いているのか、はたまた何らかの作戦故なのか。
それは分からないが、相手が油断していないというのは事実。
俺には分が悪い状況と言えるだろう。
暫し互いに睨み合いを続けていると、意を決した様に再びキバさんがズイッと一歩前進して間合いを縮めて来た。
互いに剣先が触れ合う事で、キンッと甲高い音が森の中に木霊する。
そして、また睨み合いになった。
互いに相手の動きを窺っているのだ。
迂闊に動けない………いや、両者共に自身から敢えて動かない時間が過ぎる。
一分か二分か、何れだけの時間が経過したのか自分でも判然としない程になった瞬間、俺はキバさんの動く気配を事前に察知して逸早く動く。
相手の刀の上から添える様に自身の刀を乗せて、そこから一気に下へと力を加える。
そして、相手の剣先が地面に向いた直後、大きく右足を踏み込みながら胸元目掛けて突きを放った。
これも自画自賛になるが、”抜き胴“を放った時と同様に素晴らしいタイミングでの突きだったと思う。
実際、機先を制されたキバさんの表情は、驚愕に彩られていたのだから、最高の一撃だと言えるだろう。
しかし、その一撃を半身になる事で躱す事に成功したキバさんは、御返しとばかりに”逆胴斬り“を放って来た。
”逆胴斬り“とは、左から右へと薙ぎはらう様に放つ通常の胴斬りとは正反対に、右の胴とは反対の左の胴を斬り付ける技の名であり、通常の胴斬りより高い技術が必要とされるので、”逆胴斬り“で致命傷を与えるのは非常に難しい技の事。
そんな技を放って来るとは思わず、俺は少し反応に遅れてしまう。
しかも、全力での突きを放った直後なのだから、二重の意味で余計に遅れてしまった。
だが、キバさんの足下にあった………
「ぬおっ!? 落とし穴っ!?」
事前に用意していた罠が、俺の命を繋ぎ止めた。
俺はその事にホッと胸を撫で下ろしつつ、戸惑うキバさんの刀を力一杯に自身の刀で弾く。
それで一際甲高く、大きな金属音が森の中に響き、次いでキバさんの刀が弧を描いて宙を舞う。
好機。
これ以上ない最高の好機だと判断し、下段から力一杯に斬り上げて刀を弾き飛ばしていた姿勢を制御して、キバさんに向かって刀を振り下ろす。
だが、キバさんは小太刀を素早く抜くと、それで俺の一撃を受け止めてしまう。
しかし、それは予想していた。
流石に自身の身体能力を遥かに上回る事は理解せざるを得なかったのだし、防御されるだろうと予想出来ていた。
俺は戸惑う事もなく、即座に右手を刀から放すと腰に差す小太刀を抜き、その切っ先をキバさんの喉元で寸止めする。
シーン、と静寂に包まれる中、師匠の「止めっ!!」という言葉が不思議な程に俺の耳に響いた。まるで、聞いた事の無い、第三の言語かの様に。
「………参りました」
「有り難う御座いました」
キバさんの礼を受けて、俺も頭を下げながら礼を述べる。
すると、師匠が盛大に笑いながら拍手をし、一頻り笑った後で満足そうに口を開く。
「うむ、うむ。まさか罠を仕込んでいようとは、儂も予想すらせなんだ。何時の間に仕込んだのじゃ?」
「朝に師匠が、今日は完全休息とする、と言い残して立ち去った後です。きっと修業の総仕上げとして、妖怪とかと死合えとか言うだろうと思っていたので」
「ほっほっほっ! 儂の考えは見破られておったか!
実に見事、天晴れじゃな。そして、犬塚キバとか申したな、御主も見事な腕前じゃった。恐らく、真剣勝負ではなく普通の試合ならば、十中八九御主の勝ちであろうの」
師匠の言葉通り、互いに力を試す事を目的とした試合ならば100%俺の負けが決まっていただろう。
それだけ俺とキバさんの間の力量の差は、大きく開いているのだから当然である。
だが、それで今回俺が勝てたのは、偏に真剣勝負だったからだ。
卑怯な事など存在せず、生き残った者が正義とさえ言える真剣勝負。
その真剣勝負だったからこそ、俺は勝てたのだ。
落とし穴を準備しておいて良かった。
心底そう思いながら太刀と小太刀を納刀していると、キバさんが地面に突き刺さっていた刀を抜き取っているのが視界に映った。
そして、その太刀を俺と同じく納刀すると、朗らかに笑みを浮かべながら俺へと視線を向けて来た。
「本田殿、そなたはその年齢に見合わぬ力量をお持ちの様だ。立ち合い当初に、
「いえいえ。剣術の差は歴然ですし、試合なら絶対に敵いません。ですから、キバさんが俺に抱いた印象は適切なものだと思います」
「いや、そなたは自分自身でも気付いて居らぬ様だが、そなたの剣術からは長い研鑽の緻密さが見てとれ、まるで二十年、三十年もの期間を修業しておる様に感じられた。
本田護殿、
二十年、三十年、と言われた時はドキッとしたが、その後の誉め殺しと思える言葉には、正直言って嬉しく思うし照れてしまう。
面映ゆい思いに堪えられなくなり、俺がキバさんから視線を逸らすと、師匠がキバさんに向かって近付いて行き何やら手渡していた。
何を渡したのだろうかと疑問に思っていたら、俺と先程まで普通に会話していたキバさんがいきなり五体投地(仏教における土下座みたいなもの。高僧などに対して礼拝する時に行う)した事で、シロの病気を治す薬なのだろうと察した。
……その姿を見ていて思ったのだが、もしかして俺は原作を変えてやしないかと気付いた。
本当なら、犬塚キバさんは天狗様と戦って重症を負う事になり、その傷のせいで満足に戦えず犬飼ポチに斬り殺される筈。
だが、キバさんが無傷で薬を手にしたという事は、つまり犬飼ポチに殺られる可能性が無くなると言えるだろう。
或いは、少なくとも殺される確率が低くなるのは間違いないと言える。
何故なら、犬飼ポチより犬塚キバの方が剣術家として上だからだ。
俺はもしかしたら、やってはいけない事をしたかもしれない。
驚愕の事実に独り戦慄していると、嬉し涙を流しながら満面の笑みを浮かべるキバさんが師匠に礼を言った後に、俺に向けて「本田殿の様に強き侍に子供を育てみせるでござる! さらば!」と言い放ち、走りながら立ち去って行った。
その後ろ姿を見つつ、俺は頭を抱え込む。
しかし、もうやってしまった事なんだから致し方ない。
ま、まぁ、なんとかなるだろう。
悲劇が事前に止められたので、良い事をしたのだと自分の心に言い聞かせるしかなかった。
それは兎も角、何時もと同じく二人に戻ると、師匠が俺に向かって真面目な様子で口を開く。
「二年間という短い間であったが、今や御主の実力は退魔師の中でも上位になるだろうの。子供の実力では有り得ぬ程じゃし、大人の中でも相当のものじゃろう」
「あ、いえ、その、有り難う御座います?」
「なんじゃ御主、どうしたのじゃ?」
原作を変えてしまった事に戸惑っていた俺は、師匠の言葉に即座に反応できず、何故か疑問げに返答してしまった。
当然、そんな返答をした俺を見て不思議そうに首を傾げる師匠だったが、「すみません、何でもありません」と言うと、一応納得はしてくれたらしく続けて言葉を紡ぐ。
「して、御主は儂の下から去って何処に行くのじゃ? やはり帰るのかのう?」
「そう、ですねぇ。……いや、どうせですから、このまま妙神山へ行こうかと思ってます。紹介状が無いので妙神山での修業は受けられないでしょうが、鬼門様とは立ち合う事が可能でしょうし」
「ん? 紹介状も無しに行こうとしておったのか?」
「はい。当初は鬼門様と立ち合って、自分の力量が如何程か知りたかっただけでしたので」
「そう言えばそう言っておったのう。……ふむ、ならば儂が紹介状を書いてやる。
儂は天狗という妖怪に過ぎんのじゃが、悪さをする訳でもなく、延々と武術を極めんと修業を続ける存在じゃったから、何度か武の頂きを目指す小竜姫殿に会って手合わせした事もあるでの。儂が紹介状を書けば、無下にされる事も無かろう」
「それは有り難いんですけど、本当に良いんですか!?」
「うむ、御主の実力なら構わんじゃろう。何せ、儂から免許皆伝された人間など存在せんのだし、紹介状を書くに御主以上の相応しい存在は居らん。
ま、弟子は御主しか居らんが」
「ぅん?! え、免許皆伝!?」
「そうじゃ。そして、紹介状と共にその貸しておった霊刀烏丸も御主にやる。免許皆伝の餞別じゃ」
「……あ、あの……いえ、有り難う御座います! 弟子にしてくれただけではなく、この様に強力な霊刀も頂き、しかも紹介状まで! 感謝してもしたりません!」
俺が地面に膝を付けて頭を下げると、師匠は朗らかに笑いながら紹介状をサラサラと書き手渡して来た。
俺は自分でも驚く程に感謝していたようで、信じられないくらいに涙を流しつつ恭しく受け取る。
そして、師匠にポンッポンッと軽く頭を叩かれ、「さぁ、行ってこい。更なる武術の高みを目指すのじゃ」と告げられた。
俺はこの二年間の色々な事を思い出し、感謝の言葉を再度述べながら一歩を踏み出した。