◇◇◇◇◇
時の扉を潜ったルキナは。
底の無い穴を無限に落ちて行くかの様な、激しい濁流の中に押し流されていく様な、或いは無限に自分の感覚が引き伸ばされていくかの様な……そんな異常な感覚に翻弄された。
時の扉の先、無限に交差し渦を巻く時の流れの中で、ルキナは、ただただ何処かへと辿り着く事を待つ事しか出来なくて。
目指すそこ……世界の滅びを回避する為に変えなければならない「過去」に辿り着けるよう、必死にナーガに祈って。
時の濁流の中に翻弄される小さな木の葉の様に、ルキナは成す術も無く何処かへと押し流されていく。そんな時間が、永劫に等しい一瞬、或いは刹那の永遠に続いた。
そして──
時の流れの先に、突如ルキナは放り出された。
中空に開かれた時の扉から落ちる様に放り出されたが、咄嗟に受け身を取って扉の下に広がっていた地面へと着地する。
ルキナを放り出した時の扉は、まるで幻であったかの様に跡形も無く消え失せて。もうそこに戻る術はない。
着地した直後に、状況を把握しようとルキナは周囲を見回す。
森か、林の中なのか。周囲にはあの世界にはもう存在しない程青々とした木々が立ち並び、人が近くにいる気配もない。
恐らくは、ルキナが時の扉を潜って現れたその姿を目にした者は居ない。過去への干渉は最低限に留めるべきなので、余計な騒ぎの元になりそうな事は避けられた事は良い事だ。
問題は、ここが『何処』で今が『何時』なのかと言う事だ。
見上げた空は、雲が少ないよく晴れた青空で。昼時なのか、太陽は中天に輝いている。……時の扉を潜る前の「世界」では、有り得ない光景だ。ギムレーが蘇ってからは、世界は何時も分厚い雲に覆われた不気味な夕焼けの様な空だけだった。
ならば……少なくともここは、ギムレーが復活するよりも前の世界……であるのだろう。きっと、「過去」に遡る事自体には成功したのだ。この時点で少なくとも「最悪」は回避した。
しかし、ギムレーが復活するよりも「前」であろう事は間違いなさそうでも、「今」が何れ程「前」なのかは分からない。
あの「未来」から何百何千年と遡ってしまっていても、それはそれで変えなければならない「過去」に辿り着けないのだ。
だから、今は何より、今が一体『何時』なのか……そして今ルキナが居る場所が『何処』なのかを調べる必要がある。
とにかく一旦、近くに村や町がないかを探してみなくては。
そうルキナが考え、どちらに歩き出そうか考え始めたその時。
ルキナの鼻は、嗅ぎ慣れた……人などの大きな『生き物』と、そして建造物などが燃える臭いを嗅ぎ取った。
近くの村で火事でも起きているのだろうかと、そう判断したルキナは、咄嗟にその臭いが漂ってくる方向へと駆け出す。
「過去」に深く干渉するべきではないなどと言う考えは、駆け出したその時のルキナの頭からはすっかり抜け落ちていた。
ルキナは、世界を救うと言う『使命』がある。その為には切り捨てなければならないものも多くある。
だけれども、全てを切り捨てて何もしないままに何もかもを見殺しにする様な行為は、ルキナの矜持が赦さなかった。
『最後の希望』を背負う者の責務としても、一人の人間として培ってきた倫理観や良心としても、それを肯定出来ない。
だからこそルキナは走った。
もしかしたら救えるかもしれない誰かを救う為に、自分に出来るかもしれない事をする為に。
だが、しかし。ルキナが駆け付けたそこに在ったのは。
ルキナの想像を遥かに超えた。あの「世界」のそれと同じか……それ以上の、『地獄』であった。
人が、燃えている。家が、村が、そこに在った数多の営みが、全て燃え尽き灰になろうとしている。
それは、ルキナの想像にもあった。だが、違ったのだ。
そこに在ったのは。『殺戮』としか呼べない狂気であった。
人が燃えている、生きながらに燃やされている。
まるで家畜を追い込む様に一つの建物に追い立てられて、外から油を撒かれ、その末期の悲鳴ごと燃やされている。
積み上がった死体は、肥溜めの中に投げ捨てられて。
命乞いをした者も、乳飲み子を抱えた女も、足腰立たぬ老爺も、その命に一切区別を付けず、全て等しく。そんな武器も持たぬただの村人たちを、まるで流れ作業であるかの様に淡々と殺していく者達が居る。だがそれは賊ではなかった。
その装備は、「正規」の軍のものであり。そして。
そんな彼らが掲げている旗は、ルキナがよく知る。
【イーリス聖王国】の象徴たる、聖痕を象ったもの。
彼らが、その名を騙る紛い物でもない限り、あの「未来」に広がっていた地獄絵図にも等しいそれを生み出しているのは。
ルキナにとっての祖国である、イーリスなのだ。
それを認識したルキナは、思いもよらぬそれに動揺し、正常に判断出来なくなる。どうすればいいのか、この状況でどうするべきなのか。混乱した思考は無意味に廻り続ける。
しかし、そんなルキナの視界の中で。
幼い少女が、兵士たちに追い立てられていた。
少女は必死に逃げていたが、大人の足に敵う筈も無く。
終にはその足を縺れさせてしまい、転んでしまう。
そんな、何の武器も持たない、何の抵抗も出来ない、何の罪もないであろう幼い少女に向かって。
兵士は、血と油にぎらついた剣を振り下ろそうとする。
何れ程の人をここで切ったのかは分からないが、一人や二人ではないだろう人の命を吸ったその剣の切れ味はそう鋭くはないだろうけれども。剣で殴るだけでも、人間などあっさり殺せてしまうのだ。況してや、こんな幼い子供なら尚更に。
その光景を目にした瞬間。ルキナは考えるよりも先にその場を飛び出して、無慈悲に振り下ろされたその剣をファルシオンで受け止める。決して折れぬ神竜の牙は見事その凶刃を止め、そしてルキナは勢いをつけてその剣を振り払った。
「何故だ! 何故この様な殺戮を行う!
この者達は、武器など持たぬただの村人だろう!
それを、何故!!」
そう叫んだルキナに、兵士は僅かに怪訝そうな顔をして。
いっそ淡々とした、感情の伴わない声音で答えた。
「何故……? この者たちが、【ペレジア】の民だからだ。
邪竜を奉じる邪教の民を鏖殺する。それが我らが使命。
この世界を遍く神竜の威光で照らす為の『聖戦』だ。
妙な格好をしているが、ペレジア人ではないのだろう?
何故そこのペレジア人を庇うんだ」
『聖戦』。その言葉に、ルキナは幽かに聞き覚えがあった。
ルキナが生まれるよりも……二十年近く昔に起こった、ペレジアとイーリスの戦争。……否、イーリスによる大虐殺。
誰もがそれについて口を閉ざし、そして当時を語る文献はルキナの目に届く場所からは隠されていた為詳しくは知らない。
だが、とても言葉には出来ぬ程の悍ましい行いがあったのだと……そう僅かに耳にした事がある出来事だった。
ルキナにとっては、三十年以上も昔の事である筈のそれ。
ルキナは、三十年以上もの時間を跳び越えて、『聖戦』のその只中にあった時代に辿り着いてしまったのだ。
その事実を理解してしまった衝撃と同時に、話に伝え聞いてぼんやりと想像していた「聖戦」とは比べ物にならぬ程の凄惨たる「現実」に、ルキナは言葉も無くして打ちのめされる。
「ペレジア人」だから。
……そんな理由で。たったそれだけの理由で。
何の抵抗らしい抵抗も出来なかっただろう、無辜の民を、ここまで惨殺出来るのかと。ここまで惨い行いを平然と出来てしまえるのかと。「命」を、踏み躙ってしまえるのかと。
賊たちの略奪の為の殺戮よりも、一層酸鼻極まる……相手を「人」とすら認めぬ様な虐殺を行えるのか、と。
しかもそれを、ルキナにとっては祖国であり守るべき国であり、そして「希望」や「正義」の象徴の様にすら思っていたイーリスが。その旗を掲げて行っているのである。
余りの「現実」に、ルキナは思わず眩暈すら感じた。
ルキナは、『聖戦』と言う「過去」があった事は知っていた。
だが、それは知っていただけで。そこにどんな地獄が、どんな凄惨な殺戮があったのかなど、露とも考えた事が無かった。
そこに思考を及ばせた事など無かったし、そんな事を考えている余裕などあの「未来」である筈も無く。
幼い頃に、ペレジアからの深い怨恨から始まったと言う、ルキナが生まれる少し前程に起こった戦争の話を聞いた時になど、「武力を持たぬイーリスに、何と非道な事をするのだろう!」などと幼いながらに憤った事すらあった。
憤って、しまったのだ。……ルキナは、自らの国の「正義」を、幼心に無邪気に信じてしまっていた。ルキナの周りにいた両親やその仲間達は皆「善い人」だったから……。
それを責める事は出来ないのであろう。だが、それは余りも「傲慢」に過ぎる事であり、無知であるが故の恥だった。
ルキナは、愚かではなかった。だからこそ、自分にとっては遠い「昔」、そして今ここに存在する自分にとっては「今」。
イーリスと言う国が、何れ程の「地獄」をこの世に作り出してしまったのかを、理解してしまった。
この村の、この凄惨な光景を、ペレジア全土で作り出すのだ。……これからも。
一体幾百万幾千万の人々の骸を、積み上げたのか……積み上げるのか。その悍ましさにルキナは思わず吐き気すら覚える。
あの「未来」でも、夥しい程の人々の骸が積み上げられた。
誰もが「希望」も「気力」も何もかも喪い、「死」の群れに貪り食われていった……。だが、しかし。
屍兵は、人間では無い。元は人の死体であっても、そこに生前の意思や人格は殆どと言ってもいい程に反映されない。
肉の器だけが動くモノ、醜悪な人間の紛い物だ。だからこそ、あの「未来」は「死」だけが膨れ上がる地獄と化した。
その結末を変える為に、ルキナは過去へと遡ったのだ。
だが……だが。目の前に広がるそれもまた、最悪の地獄だ。
少なくとも「今」こうしてイーリス軍に虐殺されていくペレジアの人々にとっては、この現実はルキナが経験したあの「未来」と何の遜色も無い「地獄」だろう。
一体、彼らが何をしたと言うのだ。この様に殺され、人間としての扱いすらされずその「死」すらも貶められるかの様な。
それに見合う様な罪など、何も犯してはいないだろうに。
ただただ、「ペレジアの民」であると言う、それだけで。
そして、たったそれだけで。イーリス軍は、無抵抗の無辜の民であっても、塵の様な扱いでその命を刈ってしまえる。
それは、そんな事が、赦されて良い筈などある訳が……。
ルキナの経験した事の無い、考えた事も想像した事すらも無い、そのケダモノ以下の所業が生み出す、この世の地獄。
それを目の前にしたルキナは、思考が凍り付いてしまう。
そんなルキナへと、兵士は剣を振り上げようとする。
防がねば、とそう思考する一方で。その身体は指先まで鉄に固められたかの様に重たく、思う様に動かせず。
思考だけが無意味に加速した世界の中で、振り下ろされた切っ先が自身に迫ってくる瞬間を見詰めるしか出来なくて。
だが、ルキナの意識の外から突如轟く様な雷鳴と共に走った閃光が、ルキナの目前に迫った凶刃を直前で吹き飛ばした。
◇◇◇◇◇
「──っ!? 何が……」
剣を弾き飛ばされた兵士が状況を把握しようと周囲に目を向けようとした瞬間に再び走った先程よりも強烈な閃光が、今度は兵士の身体を大きく吹き飛ばす。
吹き飛ばされた兵士はそのまま地に叩き付けられる様に転がっていき、近くにあった家の壁にぶつかり動かなくなった。
一体、何が。と。ルキナもまた状況を把握出来ずに居たが。
「その子を抱えてこっちに来なさい! 騒ぎに直ぐ様イーリス軍が集まってくるわ!! 死にたくなければ、早く!!」
混乱したルキナの思考を一喝する様な凛とした声に、ルキナは現状を把握し直す。そうだ、今はこの子を守らなくては。
兵士から庇ったばかりの幼い少女は恐怖でその身を震わせていたが。その身体を抱き締めて背を撫でてやればルキナへとしがみつく様に抱き着いてきたので、そのまま抱き抱えて、先程の声が聞こえてきた方へとルキナは駆け出した。
「こっちよ」、と誘導する声を今は信じて、ルキナは少女を抱えたまま森の中を駆ける。
何れ程森の中を走ったのだろうか。気が付くと、ルキナは森の中を流れる川の岸辺に辿り着いていた。
そこには、あの村から逃げ延びたのだろうと思われる十数人程の非武装の人々が、着の身着の侭と言って良い様な格好で、力無く座り込んだり、或いは呆然とした表情で村があった方向を見ていたりとしている。その異様な雰囲気に、ルキナは思わずたじろぐが。ふと、腕の中の少女が喜びの声を上げた。
すると、一組の男女がルキナの方へと……その腕の中の少女へと駆け寄ってくる。どうやら、少女の両親であるらしい。
彼等はルキナへと涙を流しながら何度も何度も感謝の言葉を述べて、娘をその手に抱き締めて滂沱の涙を流す。
ルキナは少女の名も知らないが……しかし、こうして一つの『家族』を助ける事が出来た事には、僅かながらも安堵した。
だが、そう言えば先程ルキナ達を導いた声は一体、とルキナが周囲を見回すと。少し離れた場所に居た、不思議な意匠のコートを纏った女性が目に付いた。
周囲の人々が呆然としたり或いは騒然としながら混乱している中で、その女性は静かにそこに立ってルキナを見ている。
まるでルキナを見定めようとしている様なその目に、ルキナは思わず仮面を被っている事も忘れ目を逸らしそうになる。
「……あの子を助けてくれてありがとう。
所で、あなたは誰かしら? この辺りでは見ない顔だけど」
女性のその声は、間違いなくルキナ達をここまで導いてくれた声であった。ルキナは一瞬、どう答えるべきかと迷った。
「僕は……偶然あの場に通り掛かった旅の者だ。
それと、僕の方こそ、あなたに助けて貰った。ありがとう」
「…………そう。まあ、私も偶然の様なものだけどね。
村が突然襲撃されて、一旦逃げ延びたはいいけど、途中までは一緒だった筈のあの子が何処かで逸れてしまった様だったから、助けに戻った所だったわ。あなた、運が良かったわね。
それで? あなたはこれからどうするのかしら」
そう問われ、ルキナは言葉に詰まる。
これから、自分がどうするのか。どうすればいいのか。
それが何も、見えてこないのだ。
『ギムレー』の復活を阻止し、「未来」を変える『使命』はある。
だが、当初の自分が想定していた、「未来」を変える為に干渉する出来事は、未だ遠い未来の事になる。
干渉する予定の事象の一つである『聖王エメリナの暗殺』は、今から少なくとも十五年以上は後の事になる。
ここが『聖戦』の只中の時代であるのなら、そもそも今代の聖王はエメリナではなく……ルキナにとっては祖父に当たる人物だ。
……ルキナは、「過去」の出来事に関してそう詳しくはない。
両親や周囲の人々からの伝聞でしか知らぬ事も多く、そしてそうやって伝え聞いた事の大半は、「今」から十五年以上後に起こる「ペレジア戦争」の前後以降の事ばかりで……。
更にその後に起こる「ヴァルム戦争」が終結して少ししてから『ギムレー』が蘇ったと言う事もあって、あの「未来」を回避する為に干渉しなければならない事は、「ペレジア戦争」や「ヴァルム戦争」の辺りにあるのではないかと考えていた。
それもあって、そこから更に十五年以上も過去に跳んでしまった今、どうすれば良いのか分からなくなっていたのだ。
十五年以上潜伏して、「その時」を待つ……と言う事も一つの手ではあるのだろう。
だが、十五年と言う月日は、ルキナにとっては余りにも長過ぎる。
思いもよらぬ形で変えてしまった小さな「過去」が、より大きな変化を巻き起こして、自分が知る「十五年後の過去」とは全く違う「過去」に変えてしまうかもしれない。
その危険性は、「過去」に居る時間が長ければ長い程大きく、そしてより深刻な問題になるだろう。
……それに、十五年後の自分は、果たして十全に戦える状態を保てているのかどうかと言う問題もある。
……あの「未来」を知り、「命」と言うモノの儚さも知るが故の懸念だ。
『使命』を果たす為には五体満足かつ万全の状態である事が望ましく、だがそれを十五年も維持し続ける事は困難である。
十五年……それは待つ事が全く不可能な時間ではないが、だが待ち続ける事はとても難しい時間であった。
更に問題があるとすれば、十五年後に辿り着いたからと言ってそれで終わりではない。
更にその後も、変えなければならないかもしれない「過去」は沢山ある。
そこまで自分がファルシオンを振るい続けられるのかは、全くの未知数であった。
……可能ならば、今直ぐにでも十五年後の「未来」へと再び時を渡ってしまいたい。
だが、過去へ遡る事もそうではあるけれども、未来へと向かって一息に時を跳び越える事もまた、ただの人に過ぎぬこの身には不可能な事である。
神竜の力を借りる事が出来るなら、とは思うのだけれども。
この時代の神竜に呼び掛ける為のモノを、ルキナは何一つとして持たない。
あの不完全な『炎の紋章』は、時の扉を開く為の「要」として使われた為、あの「未来」に置いてきた。
この手にあるのは、僅かに神竜の力を与えられたファルシオンだけなのだが……果たしてそれで彼の神竜がルキナの呼びかけに答えてくれる事などあるのだろうか。
あの「未来」が不可逆の破綻を来すまで、ルキナや人々の祈りや願いに応える事も言葉を届ける事も無かったのに……?
この時代の神竜がルキナに対して「特別に配慮」したりその力をルキナの為に揮ってくれるなどと、夢見がちで甘い考えは、あの「未来」を生き抜く中でとうに消え失せていた。
だからこそ、現状ルキナの取れる選択肢は「十五年以上の歳月を待つ」と言うそれしかないのであるけれども……。
なら、それを選ぶにしたって、それまでの十五年以上の歳月をどうやって生きていくのかと言う問題はある。
寝て起きたら十五年経っているなんて事は無くて、生きていく以上は何らかの手段で稼いだりして自分でどうにかしてその日の糊口を凌がなくてはならないのだ。
何処でどうやってどんな風に生活基盤を築くのか。
十五年を待つのだとしても、その問題は大きかった。
更にはこの『聖戦』の真っ只中と言う時代も状況も最悪だ。
『聖戦』の所為で、人心は荒れに荒れたと……そうルキナは聞いている。そして、その所為で伯母が味わった苦しみも。
そんな世界で、どうしていけば良いのか。道は見えない。
だからこそ、「これからどうするのか」と言う問い掛けに、何も答えられなかった。
黙り込んでしまったルキナを見て、女性は小さく溜息を吐く。
「……あなたがどうするにせよ、この辺りに留まり続ける事は危険ね。
……ここも、そう時間を置かずしてイーリス軍に見付かるわ。
……あなたはその恰好からしてペレジア人には見えないけれど。あいつ等は、ペレジア人だろうとそうじゃなかろうと、お構い無しに皆殺しにしようとしてくるわよ」
「イーリス軍」の事をそう語る彼女に、ルキナは思わず俯いてしまった。
……この時代の「イーリス軍」とルキナに直接の関係はないけれども、それでもルキナにとって自国の軍だ。
イーリス軍による虐殺が揺るぎ無い事実である事もあって、その被害者である彼女たちへとルキナは顔向け出来ない。
そこまで恥知らずには、なれなかった。
「僕は…………。
……そう言うあなたは、これからどうするんだい?」
結局答えられないまま、ルキナは彼女にそう尋ねる。
……彼女たちが住んでいたのであろう村は、もう火の海の中に沈み、跡形も無い。あそこに暮らす事は不可能だ。
ならば村を離れ、何処かへ逃げるしかないのだろうけれども。
しかし、突然に自らの生活の場を放棄しなくてはならなくても、それを受け入れられるのかはまた別の問題だ。
……あの「未来」でも、屍兵の襲撃に遭って廃墟同然となっても、住み慣れた村を離れられなかった者は少なくなかった。
ルキナに問われた彼女は、周囲の村人たちを見回して、そしてその行く末を憂う様にその瞳を曇らせる。
「そう、ね……。私達は、ここを離れるわ。
こんな国境に近い辺境の村にまでイーリス軍が押し寄せているのだもの……。もう、ペレジア国内に安全な場所は何処にも無いでしょうね。フェリアに逃げるのが、一番でしょう。
……他の人達がどうするかは、私が決める事ではないけど。
……私は、この子を守らなきゃいけない。
だから、ここで死ぬわけにはいかないわ」
「私達」とそう女性が口にした事でルキナは、女性のコートの陰に隠れる様に小さな影がその背後に居る事に気が付いた。
ルキナが先程助けた名も知らぬ少女程の大きさの小さな影は、そっとコートの陰からルキナを窺う様に覗いている。
その白銀に近い不思議な色合いの髪色に、その金と琥珀を混ぜた様な色合いの瞳に。ルキナは強烈な既視感を覚えた。
「おかあさん……」
不安そうにそう零す幼子の頭を女性は愛情を感じる優しい手付きで撫でてやり、幼子はそれに安堵した様に微笑む。
「大丈夫よ、ルフレ。お母さんが必ずあなたを守るから……」
愛しい存在を見詰める慈愛と母性愛に溢れた「母親」の目をする女性のその姿に、そして彼女に絶対の信頼を預ける様な……そんな幼い少年の姿に。ルキナは動揺を隠せなかった。
……『ルフレ』。
ルキナは、その名前をよく知っていた。
遠く幼いあの日々の記憶、優しくて大好きだった『あの人』。
ここがあの「未来」から三十年程度過去である以上、この世界の何処かには父や『あの人』が存在するのは当然で。
だが、まさかこんな場所で、幼き日の『あの人』に出逢う事になるとは全く思ってもみなかったのだ。
当然ながら、目の前の幼子はルキナの事など知る筈も無く。
見上げてくる無垢なその幼い瞳は、『あの人』のそれと色は同じでも、そこに映す心は全く異なるもので。
それがむず痒い様な落ち着かない様な……何とも言えない感覚を与える。
ここでこうしてルキナが『ルフレ』に出逢うだなんて一体何れ程の影響を「未来」に与えてしまうのか考えるだけで落ち着かなくなるし、またそれ以上に奇妙なモノを感じるのだ。
今のルキナは仮面で表情を隠し、そしてその装いも、言葉遣いも……本来の『ルキナ』のそれとは違うのだけれども……。
「えっと……あなたはだれですか?」
ルキナが仮面の奥から自分を見ている事に気付いたのか。
幼いルフレは、小さくその首を傾げて、舌足らずながらもしっかりとした言葉遣いでルキナに問う。
「僕は、……僕は『マルス』だ」
「『マルス』? まえにおかあさんがおはなししてくれたおはなしのえいゆうさんとおんなじなまえだ!」
「あ、あぁ……そうだね」
同じも何も、その偽名はその英雄王から取ったのだが。
だが幼いルフレにとっては、憧れの英雄と同じ名前であると事は、いたくその心の琴線に触れる事であったらしい。
キラキラとした眼差しがルキナに向けられる。
そう言えば、幼い日の自分も、『あの人』にお話を読み聞かせて貰った後にはよくこんな顔をしていたなと。
ふと、胸の奥がツンとなる様な懐かしさすら感じた。
「マルスは、さっきあのこをたすけてくれたんでしょ?
すごい! ほんとうの『えいゆうさん』なんだね!」
……『本当の、英雄』。
……元々は、あの絶望に満ちた未来での「願掛け」の様な……己の心を支える為の「お呪い」の様なものから始まった、『英雄王マルス』のを模した装いと振る舞いだった。だからそう見えるのは、寧ろ意図通りで。
だけれども。ルフレの幼い瞳に残酷なまでに真っ直ぐ射抜かれてしまったルキナは、何も言えなくなった。
……ルキナは、それには成れなかった者だ。
結局自分の力では世界を救う事も出来なくて、だからこうやって「過去」にやって来て『過去改変』だなんて禁忌に手を染めようとしている。いや、染めてしまった。
自分は、この幼い『あの人』に、そんな眼差しで見詰められるに足る存在ではないのだ。それでも。
その輝いた瞳を前にして、それを否定する事も出来なかった。
だからこそ、ただただどうしようもなく居た堪れなくなる。
……「過去」に来てからずっと、想定外の事や衝撃的な事が多過ぎて、心が疲れてきてしまったのかもしれない。
考えねばならぬ事、成さねばならぬ事。
良い解決の糸口など見えぬままに、ただただそれらはグルグルと頭の中を無意味に回り続けて、ルキナを疲弊させるのだ。
そんなルキナの様子を黙って見ていたルフレの「母」は、小さくまた溜息を吐いて、ルキナに言葉を掛ける。
「何か色々と訳アリの様だけれど……。何処にも行く宛が無いのなら、私達と一緒にフェリアに行くのはどう?
……ペレジアを旅するのも、今のイーリスに向かうのも。どちらもとても無謀な事だもの。
あなた、色々と怪しいけれど、見ず知らずの子供を助ける為に飛び出す様な『良い人』みたいだしね。
ここで見捨てるのも寝覚めが悪いわ」
「フェリアに……?」
確かに、今が『聖戦』の只中であると言うのなら、この大陸で一番安全なのはフェリアであるのだろう。
あの国は元々難民などが各地から流入する国だ。
そう言う者達がフェリアで生き延びるには、腕っぷしの強さも大事になるが。……まあルキナの剣の腕なら傭兵としても何とかやっていけなくもないだろう。
今後どうするのかはまだ何も見通しが立っていない状態であるが、ならばこそフェリアに向かうのは良い選択と言える。
「僕があなた達と一緒に行っても大丈夫なのかい?」
「単純に、『幼い子供を連れた母親』よりは、『幼い子供も居る家族』とかの方が安全なのよね、色々と。
フェリアの東の王都に辿り着くまでで良いから、良かったらどうかしら? まあ無理にとは言わないけれどね」
成る程。元々が蛮族蔓延る流刑の地であったフェリアはその気風は今でも受け継がれていて何かと血気盛んな者が多く、食い扶持にあぶれた傭兵達が山賊や盗賊に変わって人々を襲う様になる事も珍しくはないと言う。
ならば確かに母子連れよりは、同行者は一人でも多い方が良いのであろう。
まあその肝心の同行者に、こんな会ったばかりの何の素性も分からぬ怪しい人物を選ぶのは本当に大丈夫なのかと思うが。
彼女が「良い」と言うのなら、どうせ行く宛など何も無いルキナがそれに大きく反対する理由も無かった。
「そうか……あなたがそれで良いのなら……」
「交渉成立ね。私はロビン。この子は息子のルフレよ」
そう言って、ロビンはルキナに微笑むのであった。
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