◇◇◇◇◇
「これは……あまり参考にはならなさそうですね……」
一つ溜め息を吐いたルキナは読んでいた本を閉じ、それを本棚へと戻した。
何度目かの夜が過ぎた辺りから、剰りにも拙いルキナの語りに思う所でもあったのか、邪竜はルキナに図書館を与えていた。
それだけではなく、ルキナがあの部屋から出歩く自由もある程度は与えていて。
しかし、部屋から出歩ける様になったからと言って、ルキナが逃げ出せる様な隙は何処にも無かった。
だからこそ、ルキナは未だに虜囚の身のままだ。
邪竜の方からルキナに接触してくるのは、夜毎の“賭け”の時だけで。
それ以外の時間は邪竜はルキナの自由にさせていた。
毎日好きな時間に入浴をする自由が与えられているし、食事は食べる食べないに関わらず三食欠かさず運ばれてくる。
食事の内容も、世界が滅びに向かい始めてからルキナが口にしていたモノとは比較にもならない程にしっかりとしたモノであった。
邪竜の戯れでしかない事は分かっているが、腹が減っては戦は出来ぬとよく言うし、ちゃんと衣食住を保証してくれている事に関しては有り難くはある。
そして邪竜が戯れに与えている日中の自由な時間の殆どを、ルキナは与えられた図書館で過ごしていた。
かつてのイーリス王城にあった図書館にも引けを取らない程の蔵書を誇るその図書館には、世界各地の神話や民間伝承などの物語の本も納められていて。
そう言った知識に乏しかったルキナにとってはそれらの本はとても参考になるのだけれども、もしあの邪竜がここの蔵書に目を通していたのなら、ここにある本の内容に似たモノを語った所で意味は無いのだろうとも思う。
どうすれば良いのか、何を話せばあの邪竜の気を引けるのか、と。
そればかりを考えているのに、何一つとして良い考えが思い付かない。
……いや、そもそもの話、ルキナは邪竜について殆ど良く知らないのだ。
邪竜ギムレー。
千年前に初代聖王に討たれ、そして再び現代に甦り世界を滅ぼさんとする存在。
神竜ナーガとは相容れない存在。
……ルキナは、それ位しかあの邪竜について知らなかった。
敵として奴を討とうとしていた時はそれ以上の情報など必要無かったし、そもそもあの邪竜自身について知れる機会などほぼ無かったのだ。
だが今は、ルキナはあの邪竜を『改心』させなくてはならない。
ならば、あの邪竜の内面も知る必要があるのではないだろうか……?
邪竜について調べようと図書館中の書物を探し回ったが、驚く程にあの邪竜についての記述は存在しなかった。
千年以上前から確かに存在していた筈なのに。
ギムレー教に関する本を読み解いても、殆どと言って良い程にあの邪竜に関して何も書かれていないのだ。
どう言った“神”であるのかとは記載されていても、その人格の部分については何も触れられてはいない。
“千年前に現れて世界を破滅の淵に追いやり、初代聖王に討たれた。”と言うイーリスにも伝えられている以上の記述が、何処にも無かった。
いっそ不自然な程である。
しかし、あの邪竜を知る為の手掛かりすらも無いと言うのは、かなり厄介な事であった。
しかも、そうこうする内に窓の外の陽は傾き始めていて、“賭け”の時間まであまり猶予はない。
何時もの様に、何かの物語を語って聞かせるべきなのだろうか。
だが、そんな事を続けていても徒に時間が過ぎていくだけである。
ともすれば、戯れに飽きた邪竜が今夜でルキナを殺すかもしれないのだ。
何時までも期限があると考えているのは危険だ。
どうすれば……と焦るルキナの頭に、一つの無謀な賭けの様な……しかし、もしかしたら現状を少しでも打開出来るかもしれない案が閃いた。
その案を果たして実行して良いのだろうか……、と悩んでいる内に。
今宵の“賭け”の時間が訪れてしまったのであった。
◇◇◇◇◇
すっかり“賭け”の間の定位置となった椅子に腰掛けた邪竜は、相変わらずの嗜虐的な眼差しでルキナを見据えている。
良くも悪くも邪竜からそんな視線を受ける事に慣れてしまったルキナが、その視線で動揺する事は最早無い。
何時もの様に向かいの椅子に腰掛けて、邪竜の開始の合図を待つ。
「さて、ルキナ。
今夜も改めて訊くけれど、“賭け”を諦めるつもりは無いんだね?」
何時も通りの形式的な質問にルキナは勿論だと頷く。
その返答に満足そうに嗤った邪竜は開始の合図を出そうとするが、ルキナはそれに待ったを掛けた。
「ん? どうしたんだい?
ここに来てやっぱり“賭け”を降りるつもりかい?」
「いいえ、“賭け”は今夜も続行します。
ですが、一つだけ質問を」
そう答えたルキナに、邪竜は何時もよりも愉しそうに目を細める。
「へぇ、珍しいね。
うん、質問を許そう。
それで、何を聞きたいんだい?」
「あなたは“賭け”の最初に言いましたよね。
“私の好きな事を好きな様に話せばいい。私が何を話してもあなたはそれに耳を傾ける”、と。
今日は何時もと少し趣向を変えて対話形式で話そうと思うのですが、それは“賭け”の対象として成立させられますか?」
ルキナのその言葉は邪竜にとっては予想外であったのか、邪竜は紅いその瞳を軽く見開いて幾度か瞬いた。
僅かに驚いた様な邪竜のその表情に、ルキナもまた意表を突かれる。
常に超然として在るこの存在も、この様な表情をするのかと。
まるで人間の様なその反応を見て、ルキナの心に小さな細波が生まれた。
そんなルキナの心中を知ってか知らずしてか、邪竜は一瞬後にはまた何時もの様に邪悪そのものの様な表情を浮かべ、先程のあの反応はまるで幻であったかの様に振る舞う。
それでも、ルキナの心に生まれた小さな波紋は、静かに静かに胸の奥へと広がっていく。
「対話?
ふーん……僕と話したい事でもあるのかい?
まあ、良いよ。
僕との会話も、“賭け”の中に入れてあげよう。
ああ勿論……君との会話を詰まらないと感じたら君を殺すけれど、それでも良いんだね?」
「ええ、構いません」
それは元より承知の上だ、それで今更臆する様な事はない。
それよりも、ルキナにとっては一かばちかの提案であったが、ルキナは邪竜の反応に確かな手応えを感じていた。
邪竜は人間とは違う感性を持っているのかもしれないが、その精神構造の何もかもが違うと言う訳でもないのではないだろうか。
不意を突かれれば驚きもするし、何か愉快に感じる事があれば嗤いもする。
邪竜の内面をルキナが正しく理解出来るのかは未知数ではあるが、それでも全く理解しようが無い程に心の在り様が違っている訳でも無いのだろうとルキナは踏んでいた。
ならば、ルキナが彼の邪竜を理解しようと歩み寄る事を努める事を躊躇わなければ、僅かであろうともその内面を理解出来る可能性は生まれる筈だ。
世界を滅ぼす絶対的な悪。
聖王の血に連なる者としてルキナが討ち滅ぼさねばならぬ存在。
敬愛していた父の敵。
ルキナが邪竜に抗う為の意志の力を支え続けてきたそれらの認識は、邪竜を理解しようと歩み寄ろうとした今、逆にそれを阻む柵となってしまう。
だから今はそれらを一旦忘れよう。
相手を理解しようと歩み寄る為には、先入観などは不要だ。
心から言葉を交わし、それらの中から相手の心の欠片を探すべきなのだから。
相手は千年以上も存在し続けた、強大な竜だ。
ファルシオンを持たぬルキナなど、一捻りで如何様にも殺してしまえる。
だが、恐れるな、怯むな。
絶対的な存在に相対する恐怖に怯み震えてしまうのなら、その感情には鍵を掛け心の奥底に沈めてみせよう。
今のルキナに必要なのは、相手を理解しようと想う心。
そしてその為の言葉だ。
その覚悟は既に決まっている。
ルキナは大きく息を一つ吸い、鼓動を鎮める様にゆっくりと吐き出す。
そして、邪竜を……ギムレーを、しかと見据えた。
「それでは──」
◇◇◇◇◇
ルキナがギムレーに対して知っている事は少ない。
終わりの見えぬ戦いの日々に明け暮れている時は、それでも良かったし寧ろそんな事について一々考えている余裕もなかった。
神竜ナーガより与えられたファルシオンの真の力を以てすれば彼の存在を討てるのだと……、その事実だけで十分であったからだ。
知りたい事があるとすれば、ギムレーの弱点などと言った、ギムレーを討つ為の情報であって。
ギムレーは何処から来たのか、何故世界を滅ぼそうとしているのか……等と言った、ギムレー自身の内面に触れる様な事を知りたいと思った事は一度も無かったし、そんな事は考えた所で無駄な事だとも割り切っていた。
例え世界を滅ぼそうとする事にギムレーが何らかの確固たる理由や事情を抱えているのだとしても、だからと言ってルキナ達人間が唯々諾々と滅ぼされてやって良い理由にはならないのだから。
ギムレーは人間達に何らかの要求をした訳でもなく、ただただ人々や世界を絶望の淵に引きずり込み滅ぼそうとしているのだ。
そんな相手の事情を斟酌するなど無駄な行為であり、交渉して落とし所を探す事など実質的に不可能な事である。
だからこそ、ギムレーにも“心”があるだなんて事を考えてみようと、その内面を知ろうとなんて考えた事は、一度たりとも無かった。
だが、こうしてギムレーに捕らえられ、“賭け”の相手となってからは……。
考える時間だけは幾らでもあった事もあって、ルキナはかつての自分なら考える事すら馬鹿馬鹿しいと切って捨てていたであろう事を考える様になっていった。
彼は何処から来たのか、何者なのか、何を望んでいるのか……。
イーリスの国教であるナーガ教からすれば、ギムレーは滅びの化身であり災厄その物だ。
だが、ペレジアの国教であったギムレー教にとっては彼の存在は“神”である。
万物を産み出したる存在と言う訳ではなくとも。
その力を破壊にばかり使うのだとしても。
人智を超越した力を持ち、討たれても再び甦り、人では幾ら束になろうとも神竜ナーガの力添え無くしては到底及ばぬ彼の竜はまさしく“神”と呼んでも良いのだろう。
しかし、そもそも何故、ギムレーは“神”と成ったのか。
基本的に人間は滅ぼす対象程度にしか見ていない彼の竜が、自らを“神”と信仰する様に人々に要求するとは考えにくい。
恐らくは、人々の方からギムレーを“神”へと祀りあげたのだろう。
荒ぶるギムレーを祀る事で鎮めると言う……そう言う信仰から始まった宗教であったのかもしれないし、或いは圧倒的なその破壊の力に魅せられたのかもしれないし、もしかしたら単純に依る辺がそこにしか無かったのかもしれない。
それは、今となっては確かめる事は出来ない事なのかもしれないが。
ギムレー教を忌み嫌いペレジアを敵国と定め続けていたイーリスで生まれ育ったルキナには、その信仰の出発点が何だったのかなど知る機会などある筈も無かった。
宗教同士の諍いが国同士の不和を作ったのか、国同士の不和があるからこそ両者の宗教が互いを不倶戴天の敵と目しあっていたのか、それに関してはルキナにも分からないが……。
何にせよ、ギムレーが聖王に討たれてから甦るまでの千年の間に、ペレジアとイーリスが血生臭い戦争を幾度となく繰り返してきたのは事実である。
両国の溝は深く、文化的・宗教的には二つの国は断絶していると言っても過言では無かったのかもしれない。
だからこそルキナにペレジアの内情や文化的背景を教えてくれる人などおらず、ギムレー教は邪竜なぞを奉っている狂人の宗教だと言う程度の認識でしかなかった。
いや、今でも正直に言うと、何れ程説明されようともそこにどんな事情があろうとも、現に甦ったギムレーによって世界の全てが蹂躙され今にも滅びようとしている中では、ギムレー教の存在を好意的に肯定する事はルキナには不可能だろう。
ギムレーを奉る事にどんな意味があり教徒達がどんな意味を見出だしていたのであろうが、甦ったギムレーはイーリスもペレジアも見境無しに蹂躙し滅ぼしていっているのだから、どんなに好意的に見てもギムレー教は世界全てを巻き込んで無理心中をしようとしていた様にしか思えない。
そもそも、ギムレーを甦らせてどうしようとしていたと言うのだ。
イーリスに対する復讐の為だとしても、その代償が自分達をも含めた生きとし生ける者達全ての滅びとはあまりにも大き過ぎるのではないだろうか。
いや、そんな馬鹿げた……自分達にすら何の利益にもならない様な代償を払ってでも、その復讐を成し遂げたかったのだろうか?
千年の間にイーリスとペレジアが積み重ねてきた怨嗟と憎悪は、それ程までにペレジアの人々の心を蝕み続けてきたのだろうか。
或いは、甦ったギムレーが彼を奉り信仰し続けてきた自分達を救ってくれるとでも思っていたのだろうか?
人々が制御出来る様な存在だとでも錯覚していたのだろうか?
あんな破壊と絶望の化身の様な存在に対して……?
考えた所で、ギムレーに隷属する事を誓い生かされている極一部の信徒以外はギムレー教自体はほぼ壊滅してしまった今となっては、最早そんな事情は調べ様がない事だ。
どんな目的を、どんな事情を抱えていたにせよ、ギムレー教の手によってギムレーが甦った事だけが、確かな事実である。
事実と“真実”は決して同じではないけれども。
全知の神ならぬルキナには結局自分が見た主観的な事実しか認知しようが無いのだから、最早自分の手には届かぬ“真実”を探して妄想を繰り返しても無益でしかない。
それは分かっている。けれども……。
千年の眠りから甦った時、ギムレーは何を思ったのだろう。
千年前と変わらぬ破壊への欲望なのか、人々への悪意なのか、それとも…………。
いや、そもそも何故ギムレーは世界を滅ぼそうとするのだろうか。
各地の神話や伝承を紐解けば、竜や神と言った強大な存在が人々に禍を成した事は数多くあった。
しかし、結局はそう言った行為の裏には何かしらの目的があったのだ。
少なくともギムレーの様に、全てを根刮ぎ破壊して滅ぼそうなどとする様な者は彼を除いては存在しない。
ギムレーのやっている事は、最終的には自分以外の世界中の全てを文字通り灰塵に帰す行為である。
だが、そんな事をして一体何になると言うのだ。
それで何が得られるのだ。
それではまるで、“破壊する事”こそがギムレーの目的であり動機であり全てであるかの様ではないか。
もしそうだとするのならば、ギムレーはまさしく狂った竜であり狂った“神”であるのだろう。
自分以外の何もかもが消え去った世界など、望む意味などあるのだろうか。
何れ程考えようとも、分からない。
そう、それは結局の所ルキナが自分一人で考えて結論を出せる様なものでもないのだから。
相手を理解する為には、先ずはその相手の内面に触れようとしてみる事が必要である。
言葉であれ何であれ、全ては相手に関わろうとする事から始まるものなのだ。
何れ程言葉を交わそうとも、何れ程の時を過ごそうとも、ギムレーを理解出来ない事は当然有り得る。
だが、理解出来ない事と、理解しようともしない事は全く別の問題であるのだ。
だからこそ、ルキナは言葉を一つ一つ慎重に紡いで、ギムレーへと言の葉を投げ掛けていく。
貴方は何者なのか、何を望み、何を目指しているのか……。
ギムレーと言う“存在”そのものを、理解する為に。
◆◆◆◆◆
捕らえた聖王の末裔……忌々しきナーガの力を秘めし者。
最早全ての趨勢は決し、人々がギムレーに抗い敵う可能性など潰えたと言うのにも関わらず、ナーガの牙──ファルシオンを扱えると言うただそれだけで人間どもに“希望”の象徴として奉りあげられた……ギムレーですら愉悦と同時に一片の“憐れみ”の様なモノを感じてしまう様な、そんな人々の“希望”の生け贄。
そんなルキナを、殺さずに捕らえた事には別に然したる理由は無かった。
ただ……その場で食い殺してしまうよりも、思う存分嬲って絶望を味わせてから殺す方が愉しいだろうと思ったのと。
ちょっとした退屈しのぎにはなるだろうと、考えていた。
『退屈』……。
そう、ギムレーは知性ある者達が時に陥る、心の死へと至る病の様な感情を覚えつつあった。
尽きぬ破壊衝動のままに、身の内に絶える事無く燃え続ける憎悪のままに、嗜虐に愉悦を感じる心の有り様のままに、決して満たされる事なき心の虚が求めるままに……世界を滅びへと導いてきたギムレーではあるが。
……最早、人もナーガですらもギムレーに抗う事など出来ぬ今となっては、全てギムレーの思うがまま描いたままに世界が滅びていく。
それは、ギムレーにとっては望み続けていたものである筈なのに……。
ナーガや聖王に阻まれ千年前に滅ぼしきれなかった世界を、漸く滅ぼせる時が来たと言うのに。
ふと気が付けば、虚しさの様な、『退屈』としか表現しようが無い感情を抱いてしまう。
破壊衝動のままに人々を虫けらの様に蹂躙すれば一時はその気も紛れるし、人々が絶望と怨嗟の中に死に行くのを見れば愉悦を感じるのだけれども。
しかし、その気持ちすらも直ぐ様褪せて、後には虚しさの様なモノだけが残る。
満たされぬ心の虚はますます広がり、何時かは『退屈』以外の感情が死んでしまう様な予感すらギムレーは感じていた。
人間如きに産み出され忌まれたその時より抱き続けた憎悪も破壊衝動すらも、底が割れた砂時計の様に、心の虚の中へと静かに消えて薄れ行く様ですらあるのだ。
それは、最早ギムレーにとってこの世の全てが滅び迄の予定調和の出来事でしかなくなったが故なのだろうか?
この世に産み出されて幾千の時を経、そしてこれから先も永劫に近い時を生き続ける事も出来るギムレーにとっては、何時しか芽生えてしまった『退屈』と言う心の病は何よりもの大敵であった。
この虚は、何時かギムレーの心を殺し、そしてギムレー自身すらも殺すのだろう。
世界を等しく絶望の泥濘へと沈め、生きとし生けるモノ全てに平らかに滅びを与え、何も無くなった永久の静寂世界で……ただ独りとなれば、この虚に心を喰われたギムレーは自らの生にも何にも意味を見出だせずに、死を選んでしまう可能性がある。
世界に対する憎悪と破壊衝動が、ギムレーの根源でありその全てであるからこそ……それを向ける先を喪えば、遠からずギムレーもまた……。
数多ある異界と数多ある可能性、限り無く無限に等しい数程に存在するそれら全てに対して憎悪や破壊衝動を向け、異界へと侵攻する道もまたあるのかも知れないが……。
それでも、一度懐いてしまった虚は決して消えはしない。
全ての異界を滅ぼそうが滅ぼせまいが……どの道ギムレーには己の虚に喰われる未来しか最早残ってはいなかった。
後は、それが早いか遅いかだけの違いである。
それは理解していても、それでもギムレーは己の生には執着があった。
例え自分を含めたこの世の全てを呪っていても、だ。
だからこそ、『退屈』がその執着すらも塗り潰してしまう事を、ギムレーは恐れていた。
そんな中で自らの手の内に捕らえたルキナは『退屈』を紛らわすには格好の獲物であった。
だからこそ、何時もの様にただ殺すのではなくて、戯れの様な“賭け”を吹っ掛けて生かしてあるのだ。
ギムレー自身、ルキナが何を話そうがそれで自分の“心”が変わる事など無く況してや『改心』されるなど有り得無いと高を括っていた。
だが、『改心』される事は無いのだとしても、ほんの一時でもこの『退屈』が紛れるならば、それだけでも“賭け”を続ける意味があるし、ルキナを生かしておく価値はある。
実際、ルキナとの“賭け”は、ギムレーにとってはここ最近の唯一の“楽しみ”になっていた。
勿論、ルキナが語る物語がギムレーに感銘を与えているとかそんな事は無い。
約束通りその言葉にはちゃんと耳を傾けてはいるものの、その語る内容自体にはギムレーとしては大して興味を惹かれないのだから、彼女のやっている事は無駄骨も良いところである。
だが、ルキナの語る言葉自体には特には意味も価値も見出だせなくても。
不可能に近い事であると自身も理解しながらもそれでも抱いた矜持か意地故にか決して諦められないその姿が、生殺与奪の全てをギムレーに握られている事の恐怖を押し殺してギムレーに相対するその姿が、だが一夜毎に生き延びられた喜びに微かに身を震わせてしまうその姿が。
ギムレーにとっては何よりも面白く、見ているだけで『退屈』を忘れられるのだ。
それは、ギムレーが久しく忘れていた“楽しい”と言う感情であった。
だからこそ、“賭け”の度に『詰まらなかったら殺す』とは口では言っているものの、例え何れ程退屈な話をされたのだとしてもギムレーにはルキナを殺すつもりなどは微塵もありはしなかった。
ルキナを殺してしまえば、また『退屈』に殺される日々が来る事をギムレーはよく理解しているのだから。
思えば、ギムレーはギムレーなりにルキナを気に入っているのだろう。
……それがルキナにとって“良い事”であるのかはまた別の話にはなるが。
だからこそ、ルキナが今夜の“賭け”でギムレーとの対話を望んだ事には、然しものギムレーも驚いた。
そして、ギムレーは自身が“驚いた”と言う事に、より大きく心を動かされたのだ。
ルキナと“賭け”を始めてから、ギムレーは『退屈』から解放され、“楽しい”と言う気持ちを久々に味わう事が出来ていた。
だが、それに加えて『驚き』すらをも味わえるなんて……。
久しく忘れていた『驚き』と言う感情に、思わずギムレーの心は弾む。
ルキナとの“賭け”は確かにギムレーにとっては“楽しい”ものであり、退屈から逃れられる大切な時間ではあったけれども。
しかし、それがギムレーにとってはある種の“予定調和”の様なモノであり、心を擽る様な真新しさはそこには無かったのだ。
それはそれで悪くはなかったが、やはり生には細やかであってもある程度の『驚き』はあった方が良い。
“予定調和”なぞ、『退屈』を招くだけなのだから。
故に、ギムレーは俄然と“ルキナ”自身に対しての興味が湧いた。
それまでも、ルキナが気に入らなかったとかそんな訳ではなかった無かったけれども。
あくまでも『退屈』を紛らわせてくれるからこそ、ギムレーはルキナに価値を見出だしていた。
例えばそれが“ルキナ”でなかったとしても、同じ様にギムレーの『退屈』を紛らわせてくれるのなら、同等の価値をギムレーはそれに見出だすであろう。
……尤も、今のこの世界でルキナを上回る獲物は、ギムレーでさえもそう簡単には思い付けないけれども。
だけれども、今は違う。
“ルキナ”自身に対して、ギムレーは初めて興味と共に価値を感じ始めていた。
何故、突然ギムレーとの“対話”なぞを望んだのか。
親の仇であり世界を滅ぼす仇敵である筈なのに。
決して相容れぬのだと、ギムレーを“邪竜”として切り捨ててきていた筈なのに。
何故、ギムレーを揺るぐ事無く真っ直ぐに見据えてくるのか。
ギムレーの気紛れ一つで何時でも殺されるのだと知っている筈なのに。
ルキナにとってギムレーは“死”そのものの様なものである筈なのに。
後から後から、ルキナに対して疑問が湧き上がってくる。
そもそも、ギムレーとてルキナに関してそう詳しい訳でもない。
特に、その内面なんて、知ろうとも思った事すらない。
虫けら一人一人の心の内など、一々知る事に意味はなく。
圧倒的な滅びを見せ付けて、人々が絶望に沈みさえすればそれで満足だしそれ以上の事を求めようと思った事もない。
元より人々自身がギムレーに求めた“邪竜”の役割自体が『破滅と絶望』の装置であるのだし、それもあってギムレーは人を識ろうとは思わなかったのだ。
人間など、所詮は動く肉袋に過ぎず。
心などと目に見えぬものを語るにしても、誰も彼もが他者を妬み恨み蔑み傷付け奪い合う事しか考えぬ浅ましい本性をその内に抱え込んでいる。
その癖に自らの欲望に高尚な理由を付けて正当化したがり、その高尚な理由の下に同族の幾万の屍を積み上げようとも厭わない。
宗教の違い、住む場所の違い、育ちの違い、肌の違い、文化の違い、文明の違い……。
そんな、ギムレーからすれば僅かとしか言い様がない些末な『差違』を口実に、他者を排撃し命を奪う。
そして他者を殺したその手で、『差違』を拒んだその口で、“命の尊さ”とやらを唱えるのだ。
まさに、滑稽で愚かとしか言いようが無いであろう。
ギムレーがもたらす破壊など、人間どもが無数に積み重ねてきた悍ましい怨嗟の渦に比べれば、ほんの些細なものでしかないのかもしれない。
ギムレーが封じられていた千年の間も、飽きもせず変わりもせず只管に憎悪を重ね続けていたのだ。
それのお陰でギムレーは再び蘇る事が出来たのだが……。
人間の愚かしさを知っているが故に、千年前に忌々しい聖王に封じられた時にも必ずやそうなるだろうとは思ってはいたが、流石にナーガの封印が解ける千年後に間を置かずして蘇る事が出来た時には、喜びや解放感とか以上に、剰りにも愚かしい人間の有り様に然しものギムレーも呆れてしまったものである。
愚鈍で、脆弱で、力ある者に縋り利用する事しか出来ぬ生き物。
無力で、傲慢で、卑劣で、身勝手で、悍ましい。
ギムレーにとっては人間など等しく無価値であった。
そして、そんな無価値な人間どもの手によって、ギムレー自身が望んだ訳でもないのに歪な存在として造り出され、排斥され、忘れ去られるかの様に封じられ続けてきたのが、身勝手な人間どもに勝手に“邪竜”としての役割を押し付けられ望まれ期待されてきた事が。
ギムレーにとっては何よりも耐え難く、この身を絶えず駆け巡り続ける破壊衝動を燃え上がらせる。
“人間”は結局の所、自らがそう望んだからこそ絶望の内に滅びるのだ。
例えギムレーの手により息絶えた者自身がそれを望んだのではないのだとしても。
同じ世界に生きる誰かが、過去生きた誰かが、憎悪と滅びの連鎖を育て続けギムレーを再びこの世に招いたのだから。
それは即ち、“人間”と言う意志の総体が、“ギムレー”と言う滅びを望んだ事と同義であろう。
いっその事ギムレーは何一つとして手出しをせずに、人間どもが勝手に滅びへの道をひた走って死滅するその時を観測して、大いに嘲笑ってやるのも一興ではあったのかもしれないが。
身の内で暴れ狂う破壊衝動と憎悪がそれでは治まらなかっただろう。
故にギムレーは、世界を滅ぼすのだ。
しかし、人間に価値を見出だせないギムレーであったが、ルキナには初めて“価値”を感じた。
“知りたい”と言う、知性ある生き物のみが持ち得る衝動をルキナに対して抱き始めていたのだ。
人間と言う“群体”には相変わらず興味も関心も湧かないけれど、“ルキナ”と言う人間の“一個体”には紛れもなくギムレーは興味を抱いていた。
それは、ギムレーと言う存在がこの世に生まれ落ちて初めて得た衝動でもあって。
故に、ギムレーは些かその衝動を持て余しかけてもいた。
だが、その衝動は、『退屈』で色褪せたギムレーの世界に、初めて落とされた鮮やかな色彩であり、幾ら持て余し気味であるとは言えども、それをギムレーが厭う筈も無くて。
だからこそルキナのその望みは、ギムレーにとっても渡りに船であったのだ。
奇しくも互いに相手を“知る”為に対話を望んでいた事を、当の本人達は知る由もない事であった。
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