『FE覚醒短編集』   作:OKAMEPON

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カニバリズム要素が含まれます。ご注意ください。


『魂の慟哭』※

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「君達人間は事有る毎に、やれ『人の誇り』だの、『人の矜持』だのと嘯いては、無意味に戦い無意味に死ぬ。

 どうせ絶望の内に死ぬ事に変わらないのなら、さっさと諦めるなりして、自らの首を掻き切って死んだ方が、屍兵どもに嬲られ生きながらにして食い散らかされるよりは、余程楽な死に方だと僕は思うけれどもね。

 じゃあそうやって戦うなら何かに『希望』を見出すなりしているのかと思えば別段そう言う訳でもなく、唯々無意味に無価値に命を散らし、骸の山を築き上げていく。

 全く以て不可思議でしょうがないよ。

 君達にとって『ヒト』である事は、そしてそこにある誇りだの矜持だのと……僕からすれば何の意味も無く役にも立たぬ曖昧な概念如きには、その個体としての生存や安寧を投げ捨ててまで貫き通す価値があるものなのだろうか? 

 それは、人々の『最後の希望』……人間どもの無責任な『願望』の矛先たる君にとってもそうなのかな?」

 

 

 そう言いながら、くつくつと喉の奥を鳴らす様にして。

 目の前の男──邪竜ギムレーは、囚われ鎖に戒められ身動きすらままならぬルキナを、蔑む様に見下ろした。

 

 本来は命溢れ希望に満ちていた筈のこの世界を、死と絶望と恐怖だけが支配する荒廃した、命果て行く世界へと変えてしまった全ての元凶。

 この世を嫌悪し、命を憎悪し、希望を唾棄し、死と絶望と滅びのみを『是』とする、狂い果てた邪悪なる、神にも比肩する力を持つ神話の化け物の如き竜。

 伝説の中より再びこの世に甦ったその竜は、こうして見るとまるでヒトの様にも見える。

 だが、この姿は所詮は仮初めのものでしかなく。

 邪竜の本性とも呼ぶべき竜としての姿は、連なる山々すらもその翼の端にすら届かぬ、まさに見上げた天を覆い尽くす程に巨大な異形の怪物の様な竜だ。

 ルキナがその姿を直接目にした事があるのはただ一度だけだが、成る程あの強大な姿からすれば、人など本当に塵の様な大きさにしか映らぬであろう。

 ヒトが、足元を這う蟻を気にも留めずに踏み潰し、そして踏み潰した事すら気付かぬ様に。

 この邪竜からすれば、自らの行為でヒトが幾ら死に絶えようが、それはヒトの感覚の尺度で当て嵌めるならば、精々蟻を列を踏んでしまった程度のものでしかないのかもしれない。

 尤も、ヒトは蟻の存在に対して何も気を払わぬからこそ、道理の分からぬ無邪気で残酷な幼子でもなければ一々蟻の巣に熱湯を掛けて無闇に蟻達を虐殺しようなぞとはしないけれども、この邪竜は寧ろ……人々を絶望の内に死に至らしめる事こそを喜びとし目的としているのだ。

 その本質は邪悪にして、ヒト……否この世のありとあらゆる命にとっては、決して相容れる筈も無い、そんな滅びと死の化身の如きもの。

 父である聖王クロムの死とほぼ時を同じくしてこの世に蘇ったこの邪竜と、ルキナ達人間は戦い続けてきた。

 ……とは言え実際の所は、邪竜が戯れの様に世界に解き放ち、命巡る大地を蹂躙しながら蠢き人々を襲う怪物……ヒトの屍の成れの果てである屍兵達の侵攻を何とか押し留めるだけでも既に精一杯で。

 時折姿を見せては戯れの様に人々を蹂躙し鏖殺していく邪竜の侵攻によって、人々の生存圏は削り取られていき……もう今となっては、かつてと比べればほんの一握りしか残っていない僅かな土地に、辛うじて生き延びている人々が身を寄せ合いながら生きているのみだ。

 食料も何もかも足りないこの世界では、人々は徐々に戦う力もその術も喪っていって……。

 この世で唯一邪竜を討ち倒す力を持つ神竜の牙──神剣ファルシオンを振るう事の出来るルキナを『希望』の旗頭としてどうにか物資を搔き集められているイーリス軍程度しか、最早この世界には組織だった戦力は存在しない。 

 点在する村や町は、各自で傭兵を雇うなりしてどうにか屍兵の襲撃に対処しているのが現状である。

 

 ギムレーを討つには神竜の真なる力をファルシオンに蘇らせる必要があるが、その『覚醒の儀』の為に必要な『炎の紋章』──それを構成する『炎の台座』と五つの『宝玉』。

 そのどれもが、聖王クロムの時代よりも随分と前からイーリスより散逸してしまっていて。

 唯一イーリスが保有していた『炎の台座』と『白炎』も、かつて先々代聖王エメリナが暗殺された際の混乱の最中に何者かによって奪われてしまっていてそれ以降杳としてその行方は知れないままとなっている。

 ただでさえ世界各地に散ってしまっていたそれを探し出すのは難しい事であったと言うのに、更には世界がこうなってしまっていては記録を辿って捜索する事すら儘ならない。

『宝玉』探索へと旅立った仲間達はその消息すら知れず、そして刻一刻と人々は滅びゆこうとしていた。

 仲間達が目的を達してイーリスへと帰還するのが先か、或いはイーリスが陥ちてこの世全ての命が滅び去るのが先か。

 最終防衛線の維持すらままならぬ程に、人々は追い詰められていた。

 

 そもそもの話、もし邪竜が屍兵を主戦力とした人々を長く苦しめる為の戦いを止めて、自らが表に出てその圧倒的な力を思うがままに奮い始めれば、半月も耐える事無くこの世から邪竜以外の命ある者は全て消し飛ばされてしまうだろう。

 皮肉にも、邪竜の暇潰しの様な戯れによって、人々は辛うじて生かされていると言っても良かった。

 

 人々が邪竜に敵う余地があるとするならばその慢心を突いて一気に攻勢を掛ける事ではあるけれど、最早世界の滅びすら暇潰し程度にしか思っていない邪竜であっても、人々の動向には常に目を光らせていて。

 万が一にも自分を脅かす事が無い様にとしている為、邪竜に気取られずそれを準備する事はほぼ不可能だろう。

『炎の紋章』を完成させたとして、儀式を行う為の『虹の降る山』に向かうまでに邪竜本人に襲撃されればルキナ達が生き延びる術はなく、またそうでなくても『虹の降る山』を落とすなりして儀式を妨害する手段は幾らでもある。

 

 結局、この戦いは圧倒的なまでに邪竜の勝利に終わる様になっているのだ。

 答えの見えきった戯れは詰まらないとばかりに、邪竜は幾つかはわざと穴を残してはいるけれども。

 しかしその穴すら、全て邪竜の掌の上である。

 

 そんな状態でどうやって邪竜を討ち倒せと言うのだろうか。

 人々は『最後の希望』としてルキナを縋るけれども、ルキナの方こそ『希望』とやらを指し示して欲しかった。

『神の奇跡』とやらを愚直に信じ祈り続けられる程にルキナは愚鈍でも純粋でもなく、しかし幾千億の可能性の果てからたった一つの『希望』を見付け出せる程に卓越した天賦の頭脳を持ち合わせている訳でもない。

 

『希望』を託されながらも、それに最も見放され絶望し押し潰されているのが他でもないルキナであった。

 

 奇跡的に邪竜を討ち倒した処で、ここまで徹底的に文明も環境も破壊され尽くした人類に、果たして復興することなど可能なのだろうかと……そうも頭の片隅で思ってしまう。

 無論そんな事、口が裂けても言葉に出来る筈がない。

 この世で一番、他でもないルキナだけは決して口にしてはならぬ言葉だからだ。

 しかし現実とは何処までも非情であり、如何に目を反らしていようとも、最早不可逆な状態にまで人の世が滅びてしまっているのには変わらない。

 

 だが……邪竜を討った先にあるのが、ヒトの世の果てなき黄昏となるのだとしても、このまま何もかもを邪竜に滅ぼさせる訳にはいかない。

 例え種が上手く芽吹かない事は分かっていたとしても、その種すら邪竜によって消し飛ばされていては、何も生まれず何も残せないのだ。

 だからこそルキナは剣を手に、終わりの見えない……救いを差し伸べる手など無く、託された願いと祈りを胸にファルシオンのみを支えとしなければならない……そんな戦いを続けてきた。

 

 しかし、一体何の戯れであったのか。

 それとも、何とも無慈悲な程の偶然であったのか。

 

 ルキナ達が屍兵の討伐に赴いたその地に、ギムレーが現れたのだ。

 それまでルキナが居る地には意図しているのか否かは不明だが、ギムレーが直接に侵攻をかける事はなく。

 それを、ルキナを『最後の希望』と担ぐ人々は『神竜の加護』だなんて言っていたけれども……。

 それはきっと……いや恐らく、全く以て違うのだろうとルキナは半ば確信している。

 結局の所、邪竜にとっては全ては戯れでしかなかったのだ。

 世界を滅ぼす事も、そして自らに対抗する旗頭として……まるで人身御供であるかの様に祀り上げられた無力な少女が人々の『希望』によって磨り潰されながら戦い続けている事ですら、邪竜にとっての退屈凌ぎでしかなかった。

 ヒトの苦しみや絶望の感情を何よりもの愉悦とする邪竜にとって、ルキナはさぞ愉しい観察対象であったのだろう。

 邪竜から見たルキナは、戦う理由も意志も力も覚悟も持ちながら……それでいて恐らくはこの世の誰よりも『希望』を持っていない者だっただろうから。

 

 しかしその戯れにも厭きたのか何なのか。

 邪竜はルキナ達を襲い、そしてあっさりと……それはもうあまりにも呆気なさ過ぎてともすれば乾いた笑いが込み上げてしまいかねない程に、最早比べる意味すらない程のその力の格差に絶望すら感じる暇すら与えられる事もなく、滅び行くこの世界では間違いなく最強の……精鋭中の精鋭だった筈のイーリス軍本隊が、邪竜のただの一息で文字通り灰塵に帰してしまった。

 

 ルキナが彼等と同じ運命を辿る事が無かったのは、邪竜の気紛れの様な偶然の結果でしかなくて。

 そこに、『神の加護』やら『奇跡』やらの様なものが介在する余地は欠片程も存在し得なかった。

 しかし、あの場で死ななかった事が果たして喜ぶべき事であるのかは、ルキナには分からない。

 こうして、邪竜の手に囚われたルキナの手には当然の如くファルシオンは無い。

 邪竜が何れ程退屈に飽いているのだとしても、わざわざ一度自らの手に堕ちたルキナを解放し、その手にファルシオンを与える程の酔狂はしないだろうし、そんな事を期待出来る程ルキナは楽観的でも無い。

 現にルキナの手足は軽い見た目からは考えられぬ程に頑丈な枷によって戒められ、鎖で壁と床に縫い留められている。

 この状態から邪竜の目を掻い潜って逃げ出すのは、全く以て不可能な事であり、最早ルキナには何も打てる手は無い。

 

 ここで邪竜に戯れ同然に嬲り殺されるか、或いは自らの手に堕ちたルキナに飽いた邪竜から放逐され水も食料も得られぬまま餓死するか……或いは何かの気紛れで虜囚の身として監禁されながらも辛うじて生かされるか……。 

 まぁ、その程度の未来しかないだろう。

 ならばこそ、せめて。

 最早何も出来ないのだとしても、それならば最後まで、この『意志』を、『ヒトとしての誇り』を持ち続け、せめてその心と魂だけは邪竜に屈しなかったのだと……。

 その事をせめての誉れとしてこの命を終えようと、そう思っていたのだけれども。

 

 しかし死への覚悟は、邪竜の問いかける様なその言葉によって僅かに水を差された。

 邪竜の問いかけに、ルキナは半ば反射的に言葉を探す。

 ここで何を答えようが答えまいがルキナのこの状況が好転すると言う事は無い。

 ヒトを絶望に突き落とす事を何よりもの悦びとするこの邪竜との問答など、本来するべきでは無いのだけれども。

 それでも答えようとしてしまったのは、まだ諦めたくないと……そう思う心の深層が突き動かしたからであろうか。

 

 

「『誇り』があるから、人は最後まで人として生きていける。

 それさえ失くしてしまったら、生ける屍と同じです……」

 

「ふぅん? ヒトとして生きるも、『誇り』とやらを喪いただの動く肉塊同然に生きるも、僕からすれば大差が無いものであるとしか思えないけれども……。

 どうやら君達にはそうではないのだね。

 虫けらの『誇り』なんて、僕が僅かに息を吹きかけるだけでも消し飛んでいくようなものだろうにね。

 いや逆に虫けら同然だからこそ、そんなものに縋らないと自分達として在る自信すら持てないのかもしれないか……。

 成る程哀れな程に脆く醜いと言うのも、色々大変なんだね。

 しかしまあ、『誇り』と君達は皆そう口にするけれども、それはあまりにも実体のない……ともすれば一個体毎にその定義は違うモノの様に僕には思えるのだけれども。

 ならば君にとっての『誇り』とやらは、君がヒトとして生きる為のそれは、一体何なんだい?」

 

 

 邪竜はその紅い瞳に好奇心の様な輝きを混ぜ込み、そしてルキナのその心を見透かすかの様に問い掛ける。

 

 ルキナにとっての『誇り』とは、ヒトである事のその根源とでも言うべきものとは……。

 父と母、そして仲間達、ルキナにとって大切な人達の顔が思い浮かび、そして彼らと過ごした大切な時間……幸せだった日々の事が思い起こされる。

 しかしそれは、ルキナの『誇り』を……その根源を支えるものであれど、それそのものと言われればやはり違う。

 自分である事の証、『それ』を以て自らであると胸を張れるもの……それは……。

 

 

「私にとっての『誇り』とは……。

 私自身のこの『心』……『魂』です。

 そこに『心』が、『魂』があるからこそ、ヒトはヒトとして生きていける……、それこそが、ヒトの根源だから」

 

 

 ルキナがそう答えると、邪竜は一瞬呆気に取られたように目を僅かに見開いて沈黙し。

 そしてその直後に、全てを嘲笑い貶める様な……そんな哄笑を上げて、身を捩る様にして腹を抱えた。

 この世の全てを蔑む様なその哄笑は、止まる所を知らない。

 

 

「成る程! 『心』と『魂』! そうきたか! 

 いやはや、やはり君と言う存在は退屈しないね。

 ああ……、別に君のその答えを貶しているつもりは毛頭ないので気に障ったらすまないね。

 成る程それで? 

 君にとって、ヒトをヒト足らしめるのは、『魂』であり『心』であると言う訳だ」

 

 

 爆笑していた邪竜は何とか笑いを抑えて、その口元を歪めながらそう言う。

 そして、禍々しいと感じる程に歪な笑みを浮かべて。

 ルキナを戒めていた鎖を手に取る。

 

 

「ならば君のその主張に則れば、『心』と『魂』さえ君の物であるならば、君はヒトであるという事になるね? 

 果たしてそうであるのか……一つ証明させてあげよう」

 

 

 邪竜の手が、ルキナの目を覆い隠す様に当てられ、邪竜の力によってなのか、ルキナは急速に意識を喪う。

 途切れ行く意識に最後まで残っていたのは、まるでそこに焼き付いてしまったかの様な邪竜の歪んだ笑みであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 意識はゆっくりと浮上するが、完全に覚醒に至る前に何かの力で留め置かれたかの様に、その意識はぼんやりとしたままで、自分の身体である筈のそれは上手く動かせないまま。

 そんな中で、邪竜の声だけが響く。

 

 

「少し、面白い趣向を思い付いてね。

 あぁ……安心すると良い、僕は君の姿形を変えただけだ。

 君の思考、君の『心』、君の『魂』……君の『根源』たるそれらは紛れもなく君自身のものさ。

 それだけは、誓って真実であるとも。

 さて……君の主義主張に則るのであれば、その『心』と『魂』は紛れもなく君自身のものである今の君は、『ヒト』に他ならない……と言う事になるけれども……。

 果たして今の君が本当に正しく『ヒト』であるのと言えるのか……確かめて来ると良い」

 

 

 そこで言葉を切った邪竜は、嗜虐的な昏い光にその瞳を紅く輝かせ、まるで三日月の様にその口元を歪に歪めた。

 そして、再び身動き出来ぬままのルキナへとその手を翳す。

 途端にルキナの身を包んだ余りに眩しい光に、未だ覚醒途中のルキナは思わずその目を閉ざす。

 邪竜の嘲笑は次第に遠くなっていき、そして──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 再びルキナが目を開けると、辺りの景色は一変していた。

 見上げたそこにあったのは薄暗い天井では無く、分厚い雲によって薄暗く夕焼けよりも不気味に赤く染まった空だった。

 辺りを見回しても、ルキナには全く見覚えの無い荒涼とした、砂漠と荒野の境の様な景色が広がるばかりである。

 そこには、あの邪竜の姿など、影も形も見えはしない。

 何処までも何処までも……ともすれば距離感が狂ってしまいそうになる程に延々と、命無き荒野が広がり続けている。

 

 ここは……一体何処なのだろうか。

 少なくとも、つい先程までルキナが囚われていた邪竜の居城では無い事だけは確かなのだろう。

 先程の強烈な光は、転移魔法のものだったのだろうか。

 そうであるのだとしても、何故……? 

 困惑しながらもルキナは咄嗟に立ち上がろうとして、だがそれは上手く行かずにルキナは両手を地に着けてしまう。

 何度やってもそれは変わらず、ルキナはどう頑張っても上手く立てなくなっていた。

 自らの身を戒めていた枷や鎖の感触はもう無いのに。

 

 何故? と、そう思い自らの身を振り返ったそこには。

 ある筈の、足や背は見えず。

 

 代わりにそこにあったのは。

 硬く冷たい……黒みがかった蒼い鱗に覆われている、大地を踏み締める事に特化した……ルキナ本来の引き締まりながらもほっそりとしている筈のそれとは似ても似つかない、怪物染みた後ろ足と。

 骨格からして全く違う背から長く続く、しなやかで強靭な鱗に覆われた尾で。

 

 事態を何も呑み込めず狼狽える様にして動いたその途端に、奇妙な……少なくとも前は絶対に存在しなかった感覚と共に、バサッと何かかが広がる音がして地には大きな影が落ちた。

 混乱しながら見回して目に入ったのは、飛竜のそれよりも大きく頑丈そうな、蒼の皮膜と鱗に覆われた翼であった。

 自らのものである筈のないその翼は、しかしながらルキナの意志に従って羽ばたく。

 翼が起こした風を感じながら混乱の中に目を落としたその手は、とてもでは無いが手とは呼べぬ……骨格からして元の形を止めぬ程に変形しその指の大半が鋭い鉤爪に覆われたそれは、竜の前足としか表現しようがないものであった。

 そして、その前足も、ルキナの意のままに動いてしまう。

 ここに来ては、この前足も、尾も翼も、それはルキナ自身の身体のものなのだと、認めざるを得なかった。

 

 だがそれでも全てを受け入れる事など出来なくて。

 変形に伴って関節の可動域が狭まったのか自由に回す事が出来ぬその前足を、恐る恐る顔の方へと動かす。

 すると、本来ならば絶対に触れる筈の無い程の前方で、口先に手が触れたような感覚が走る。

 最早恐慌状態になりながらも、ルキナはそのままその前足を滑らせていくと、太く硬いものが額から側頭部辺りからかけて生えていて、それは随分と長く後ろまで伸びている様で。

 

 混乱と恐怖のまま「何がどうなっているのっ⁉」と叫んだ、……叫んだつもりであった。

 だが、己の喉から出てきたのは、まるで飛竜の咆哮の様な……少なくともヒトの言葉とは全く以て掛け離れたもので。

 

 咄嗟に喉に前足の様な手を当てるが、そこに反ってきたのは嫌に長い……まるで蛇が鎌首を擡げているかの様な長さの、整然と並ぶ硬い鱗に覆われた首で。

 首に何かが触れていると言う感覚は反って来るのに、そこに触れるその手も触れられているその首も。

 到底己のものであるとは到底思えない触感だった。

 

 ヒトとは全く違う『何か』に、この身は変じている……。

 それをはっきりと自覚せざるを得なくなった時、ルキナの理性の糸は切れた。

 半狂乱になって叫び、目に見える範囲の鱗を掻き毟る。

 しかし、何れ程叫ぼうと何を言おうとしても、その喉から出るのはただの獣の咆哮で。

 鱗を掻き毟った処で、身を引き裂く様な痛みと共に、確かにそれが自らの身から生えている事を強く認識させるだけにしかならなかった。

 地を踏み締める事に特化した四肢では、後足だけで立ち上がる事すら儘ならず、関節の可動域の関係上無理をしてもほんの僅かな間しか前足を地から離せない。

 一体今の自分はどうなってしまっているのだろう。

 こんな荒野に姿見がある筈もなく、ルキナにはただ、自分の身がヒトとは掛け離れた姿の……鱗に覆われた、飛竜ともマムクートのそれとも言い難い『竜』の様な何かに変じている事しか分からない。

 

 自分の変貌を受け入れる事が出来ず、狂った様に吼え壊れた様に自らの身体を傷付け、のたうち回る様にして暴れていたルキナではあったけれども。

 何れ程自らの身を傷付けようとも、寧ろその痛みはそれが現実である事を鮮明に示すばかりで。

 獣の咆哮にしかならぬ叫びは、何時しか力無い譫言の様な呻き声と鳴き声になっていった。

 

 ヒトの姿を奪われ、屍兵ですらない怪物に変えられて。

 何処であるのかすら分からぬ荒野に放逐され。

 まさに、最早どうにもならぬ絶望と諦めばかりがこの身を支配するけれども。

 このまま何もせず死を選ぶと言う事も出来なくて。

 行く宛など何も無いままに、ルキナはのろのろと何処かへと歩き出し始める。

 

 これからどうなるのかと言う不安と恐怖に心を圧し潰されそうになりながらルキナは独り荒野を行くのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 日が沈みそして、決して晴れる事なき曇天であるけれど、再び夜明けが訪れた頃。

 宛も無く歩き続けていたルキナの前に、荒野の終わりを告げる様に小さな泉が現れた。

 付近に住む人々の水源として用いられているのか、泉の端にはそこから水を引く為の設備が備え付けられていて。

 泉から続く水路は、やや遠方の方に小さく見える村へと続いている様であった。

 

 一昼夜、何も飲まず何も食べずに歩き続けていたルキナは、既にそろそろ限界であった。

『竜』へと変えられていても、生きている以上はヒトであった頃と全く変わり無く喉は乾くし腹は減るものなのだ。

 こんなご時世ではとても貴重な澄んだ水を湛えたその泉を目にした時、喉の渇きが限界に達していたルキナは思わず無我夢中で泉へと駆け寄ってしまった。

 しかし、泉の畔に辿り着いた時、その水面に映る恐ろしい『竜』の姿にルキナは雷に撃たれたかの様に硬直してしまう。

 

 そこに映るのは、『竜』としか言えぬ生き物であった。

 飛竜達とも……そしてマムクート達とも異なるが、その全体的な特徴を挙げていくならばやはり『竜』としか言えないのだろう。

 ヒトの面影など、何処にもない。

 よくよく見てみれば、その瞳の色だけはかつてのルキナと同じ色をしていたけれど、それ以外には、この『竜』とヒトであるルキナとに重なる部分は何一つとしていない。

 

 自分の身体が全く別のものへと変貌している事はもう理解していたが、こうして改めてそれを突き付けられると、絶望感だけがこの胸を支配する。

 別に、ヒトとしての自分を絶世の美女だとか何だとかと思っていた訳ではないけれど。

 当然の様に、ヒトとしての自分に愛着があったし、何か別の生き物になってみたいだのと夢想した事すらも無い。

 この様な、化け物やケダモノとしか呼べぬ姿へと無理矢理に変えられる事など、想定した事すら全く無かったのだ。

 

 そもそもヒトが全く別の存在へと変わってしまうなど……。

 ヒトと竜の二つの姿を持つマムクートと言う存在を知ってはいるが、彼等はそもそも生まれながらにそう言う風に在るのが当然の存在なのだ。

 ルキナは、聖王家と言う特殊な家系の血を引いてはいるけれどもあくまでも普通の人間であり、当然ながらヒト以外の姿に成れる筈もない。

 

 しかし邪竜はあっさりとルキナの姿を捩じ曲げて、この様な姿に変えてしまった。

 ルキナの姿を元に戻す事が出来るのは、当然ながら邪竜だけであろう。

 だが、あの邪竜がルキナを態々元の姿に戻そうとするなど、到底考えられる事ではない。

 ルキナが元の……ヒトの姿に戻る事は、絶望的と言っても過言ではなかった。

 

 ……それとも、或いは。

 邪竜と同程度の力を持つとされる、神竜ナーガならば。

 

 そう思い浮かぶけれども。

 しかし『炎の紋章』も無しに彼の竜へと呼び掛けた所でその声に応えてくれるのだろうか、と半ば諦めた心の声がその考えに水を差す。

 

 ギムレーが甦り、そして世界が絶望に沈み行く中で。

 一体何れ程の人々が神竜へと祈りを捧げた事だろう。

 ルキナも、幾度と無く神竜へ祈りを捧げている。

 しかし、何れ程祈ろうとも、神竜がその声に、その祈りに、応える事はなかった。

 聖王の末裔であるルキナですら神竜の声らしきものを聴いた事すらない。

 況してや、直接的に何かしらの救いの手が神竜から差し伸べられる事なんて、一度たりともなかった。

 神竜がこの世界を既に見棄ててしまったのか、或いは見守りはしているものの何らかの要因から手を出す事が出来ていないのかは、ルキナには分からない。

 何れにせよ、『炎の紋章』を携えて『覚醒の儀』を行わない限りは、彼の竜へとこの声を、その望みを、直接的に届けるのは叶わないだろう。

 

 竜へと変えられたルキナが、例え『虹の降る山』の祭壇へと行きその窮状を言葉にならぬ鳴き声で何れ程訴えた所で。

『炎の紋章』を持たぬ限りは、彼の神竜が応えてくれる事は無いと考えた方が良い。

 

 ならば『炎の紋章』を手に出来れば、となるが。

 そんな簡単に手に入るものであるならば、とっくの昔にファルシオンは本来の力を取り戻せていたであろう。

 竜へと変えられ、言葉もヒトとしての何もかもを奪われたルキナでは、『宝玉』に関する僅かな手懸かりすら得る事すら不可能に近い。

 そして、『宝玉』探索へと向かった仲間達が見事それを成し遂げてくれるのを待った所で、この姿のルキナを彼等がルキナだと気付いてくれる可能性は限り無く低いであろう。

 ルキナですら、この竜の身が自分自身の姿であるのだと未だに信じられない位なのだから。

 そうであるならルキナが『炎の紋章』を手にするには、仲間達から完成したそれを奪うしかないのではあるけれども。

 それだけは、ルキナには出来なかった。

 そんな事をすれば、本当にこの身ならずこの心までもが怪物のそれに変じてしまいそうで。

 何より、仲間達がやっとの思いで完成させた『炎の紋章』を手放す筈もないので、奪おうとするならば間違いなく殺し合いになってしまう。

 故に、そればかりはどうしてもルキナには出来ないのだ。

 

 しかし、ならば一体どうすれば良いと言うのだろう。

 

 その身がどの様な怪物へと堕とされたとしても、命あるならばこの世界を救う為に戦うべきであるのかもしれない。

 しかし、邪竜の手に堕ちた時よりこの手からファルシオンは喪われていて。

 縦しんば目の前にファルシオンがあったとしても、最早手とは呼べぬこの竜の前足では物を掴む事は儘ならない。

 この前足に出来るのは、地を踏み締め駆ける事と、獲物をその鋭い鉤爪で引き裂く事位であろう。

 ヒトらしい指先を喪ったこの手には、最早世界を救う力は無かった。

 仮にこの竜の身で単身邪竜に挑んだとしても、それはただの自殺にしかならぬであろう。

 ヒトであった頃よりもこの身は遥かに大きく、そして頑丈にはなっているのだろうけれども。

 例えヒトの身体など容易く一呑みにする事が出来る程の大きさであっても、あの邪竜と比べればそれは砂粒が蟻程度の大きさになった程度の差にしかならない。

 

 元の姿に戻りたいと言う願望はあるけれども、それを叶える術はルキナの手には無く。

 まさに八方塞がりと言っても良い状況であった。

 

 しかし、そうやってどうにも出来ぬ現実と先の見えぬ現状に何れ程絶望しても、喉の渇きが無くなると言う事も無い。

 生きるとはそう言う事であるし、故に目の前に飲める水があると言う状況で、餓え乾いて死ぬ事を選ぶつもりもないのにその欲求を無視すると言う事もルキナには出来なかった。

 だがいざ水を飲もうとして、そこでどうすれば良いのかルキナは困ってしまう。

 片前足だけで水を掬おうとしても上手くは出来ないし、尾を使ってバランスを取って両方とも前足を使える様にした処でやはり水を掬えない。

 そもそも手首を自由に回せない為、無理に前足で水を掬おうとしてもその殆どが零れてしまう。

 どうやってみても結果として獣と同様に直接水面に口を付けて飲むしかなく、しかもそれですら口が慣れぬ形状に変化しているが故に今一つ上手くいかなかった。

 

 不格好ながらも何とか水を飲めた為、耐え難い渇きからは解放されて。

 一昼夜歩き通しであった事もあり、どうにも疲れが出てきてしまったルキナは、その場で横になる。

 丸くなる様にして横になると楽である事に気付いたルキナは、獣同然のその姿勢に抵抗感を覚えつつも丸くなった。

 そして、うとうとと目を閉じかけたその時。

 

 何やら騒がしくなり、怒号すら聞こえてくる。

 すわ誰かが屍兵に襲われでもしているのかと、ルキナは慌てて飛び起きて辺りを見回す。

 しかし屍兵の姿など何処にも無くて。

 その変わり、近場の村の村人だろうか? 

 十人程の男達が手に武器を持ってこちらに駆けて来てくる。

 そして泉へと辿り着いた男たちは、手に武器を持ったまま、殺気立った様子でルキナを取り囲んだ。

 一体何事かと、一瞬ルキナは戸惑うが、直ぐ様今の自分の姿がヒトのそれでは無く、誰がどう見ても竜にしか見えぬ事に思い至り、今の自分は事情を何も知らぬ者にとっては、貴重な水源に居座る凶暴そうな獣にしか見えぬ事に気付く。

 勿論ルキナには幾ら武器を向けられているとは言え、村人達に何らかの害を加えるつもりは毛頭ない。

 しかし、そんな事が村人達に分かる筈も無く。

 彼等にとってルキナは、困惑した様に辺りを見回しながらも凶悪そうな唸り声を零す怪物でしかない。

 これで、竜と化したルキナの大きさがそこらの獣と大差ない程度ならまだ良かったかもしれないが、今のルキナの大きさは飛竜の成竜よりも大きく、大人の男であろうと一呑みに出来てしまいそうな程である。

 ただでさえ日々困窮していく生活の中で、この水源を喪う事は村人たちにとっては死活問題であり、故に彼らは決死の覚悟でルキナを討伐しようと武器を握っていた。

 

 

『待って下さい、私はここに長居するつもりなど無いのです。

 ほんの少しだけ休んでいただけで……』

 

 

 何とかこちらに敵意は無い事を伝えようとしても、ヒトの言葉を喪ったルキナの喉から零れるのは凶暴そうな唸り声でしかなくて、何れ程何とかして意思疎通を図ろうと努めても、それは余計に村人達に恐怖の感情を与えるだけであった。

 

 そして終には。

 

 村人達がルキナに向けて槍を突き出し、弓を引き絞り矢を放ってくる。

 殺意を持ったそれらは、ルキナの身体を隙間なく覆う硬い鱗によって尽く阻まれ、鱗に掠り傷を付ける事すらない。

 しかし、肉体的には何のダメージにもなってはいないとは言え、本来は同族であり守るべき対象である筈の人々から武器を向けられ、更には殺傷しようと敵意を向けられた事は、ルキナの心には浅からぬ傷を付けた。

 理屈では、その反応も仕方ない事であるのは理解している。

 しかし、感情と言うものは、時に理屈や合理的な理解と言うモノではどうにもならぬものであるのだ。

 だが心が如何に傷付いたからと言って、反撃して自分へと今も攻撃を加える村人達を傷付けるつもりは無い。

 彼等の武器が自分には何ら傷を与えぬものであるのだとしても、自分の爪は彼等の命を容易く奪ってしまう。

 それ程までに、今のルキナと村人たちとの間には圧倒的な力の差があった。

 全く攻撃してこないルキナに、村人たちは益々勢い付いて攻撃を加えてくる。

 その鱗に弾かれた槍の一撃が、比較的柔らかな翼ですら傷つけられなかった一本の矢が、ルキナの心の柔らかい部分に爪を立ててそこを抉るかの様だった。

 このままでは、もしかしたら何かの弾みで彼等を傷付けてしまいかねなかった。

 そうしてしまえば、もう二度と歯止めが利かぬであろう。

 

 だからこそ、ルキナは。

 この場から離れる為に、咄嗟に使った事など一度も無い翼を大きく広げた。

 飛び方など知る筈も無いのだけれども。

 本能的な何かなのか、翼が大きく羽ばたくと共に身体は浮き上がり、地上はグングンと遠くなる。

 

 空を翔ける翼があろうが、ルキナには行く場所も無い。

 この姿では、何処に行っても人々に追われる事になる。

 自分がルキナであると証明する術はなく、誰もそれをルキナに問い掛ける事も無いのでそもそもその機会すらない。

 ルキナが戦い続け守ってきた人の世界にはルキナの生きる場所は無く、ルキナを受け入れる人も居ない。

 その事が、どうしようもなく辛くて。

 

 空を翔けながらルキナは涙を零し続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 何処に行っても、ルキナの姿を見た人々の行動は、怯えて悲鳴を上げながら逃げ出すか、或いは武器を手にルキナを追い立てるか……そのどちらかでしかなかった。

 何れ程ルキナが、決して人々の害になる様な行為はしていないのだとしても。

 異形であると……凶暴そうな見た目の竜であるからと言うただそれだけで、人々はルキナを恐れ殺そうと追い立てる。

 そんな事がもう幾度も続いていて。

 ルキナはもう、人里には極力近寄らない様にしていた。

 どうせ、誰にも自分がルキナであると分からないのだし、何れ程ルキナが友好的な態度であっても人々はルキナを恐れ疎みそして害獣の様に扱う。

 

 無論、それが仕方の無い事であると、ルキナ自身誰よりも分かっているのだ。

 ルキナとて、人里近くにこの様な大きな竜が現れたとなれば、その竜が何れ程無害そうに見える竜であっても、もしもの事を考えて駆除する様に命じていたであろうから。

 それを、いざ自分がその立場になった時に、理不尽であると怒るのは幾ら何でも虫が良過ぎる話である。

 

 だからこそルキナは、人と関わる事を諦めた。

 住処など無く、宛なく彷徨っては、漸く辿り着いた水場の近くで力尽きた様に眠る……その繰り返しであった。

 しかし、ルキナには人と関われなくなった事、人に忌避される様になった事以上に深刻な問題が発生していた。

 ……食料が、殆ど無いのだ。

 

 邪竜の力によって常に空は厚い雲に覆われ、陽の光は十分には地上に届かず。

 それによって多くの植物が枯れ果て、新たに芽吹く事すら儘ならない。

 その結果として食料が大幅に減った事と、餓えた人々によって狩られた事で野の獣たちもその多くが姿を消していた。

 一日に腹の足しにもならぬ痩せ衰えた野鼠を数匹捕まえられれば良い方で、何日も水以外は何も口に出来ない日も多い。

 時折、運が極めて良ければ猪や鹿や熊と言った大物を狩る事が出来るので、それで何とか空腹を誤魔化していた。

 しかしルキナが慢性的に酷い飢餓状態にある事には変わらず、大物を狩れる事など滅多としてない。

 ルキナがヒトであった時も、食糧事情は酷い物であったし、思う存分食べる事が出来た事なんて、例え王族であるルキナですら世界が絶望に沈む前の……まだ父も母も健在だった幼い頃の事でしか無い。

 

 だからこそ、空腹と言うモノにはもう慣れていると思っていたのだけれど、『空腹』と『飢餓』は全くの別物であるのだと、ルキナは身に沁みて理解した。

 

 そもそも、ルキナは人々にとって『最後の希望』であり、食糧を初めとした諸々にはかなり融通されていたのだ。

 融通されていたとしても食料が足る事は一度も無かったのではあるが、それは今のこの世界では有り得ない贅沢である。

 しかし、竜の身となったルキナは日々の糧を得るには自力で獲物を狩らねばならないのだ。

 ルキナが邪竜によって竜に変えられて、既にもう三月……一々日にちを数える事はしていないのでもしかしたらもっと時間が経っているのかもしれないけれど、まあ何にせよそれなりの時間が経った今、ルキナはこの竜の身を生来竜であったかの様に動かす事が出来ていた。

 飛竜にも負けない速さで空を翔ける事が出来るし、まるでマムクートたちの様にブレスを吐く事も出来る。

 だけれども、幾らルキナがこの身体に慣れた処で、獲物となる獣の数自体が圧倒的に不足している中では、何かを狩ろうにもどうする事も出来ないのであった。

 だからこそ、ルキナは常に飢え続け、時折獲物にあり付けた時には、その骨まで齧り尽くす勢いで食べてしまうのだ。

 まさに獣のよう……としか言えぬ食事風景ではあろうけれども、とにかく少しでも腹を満たす事の方が重要で。

 そもそも手が使えぬ時点でヒトらしい食べ方など出来ない。

 そして、……ルキナは『餓え』を恐れていた。

 飢餓が酷く続いた時、時折ルキナの意識は飛んでしまう。

 まるでただの凶暴な竜である様に、目に付くもの全てに襲い掛かってしまいそうになっているのだ。

 尤も、そんな酷い飢餓状態に在る時は、目に付く場所には何の生き物も居ない事が多いのだけれども。

 

 そう言えば、初めて獲物を狩ってそれを貪った時も、ルキナは酷い飢餓に襲われていた。

 あれは……何度となく人里近くに近付いては、人に追われてその場から逃げると言う事を繰り返していた時の事。

 竜に変じてから何も口にしていなかったと言う事で、ルキナはもう限界を迎えていた。

 何か獣を狩ると言う発想すら頭からすっかり抜けていて。

 何より、野の獣の血肉をそのまま貪り食うなど、『ヒト』の行いでは無いと、役に立たぬ常識が咎めていたのが大きい。

 あのままでは極度の飢餓で意識を喪って死んでいた可能性も高かったと、後になって思う程度には酷い有様であった。

 そんな中、人に追われて辿り着いた山奥で、ルキナはもう一歩も動けなくなっていて。

 飢餓の中で朦朧とした意識の中、ぼんやりとした意識の片隅で、野兎が近くで跳ねたのを目にした。

 

 その瞬間の記憶は、ルキナには無い。

 

 気が付けば、ルキナの口の中には鉄臭い血肉の匂いが噎せ返る程に充満していて。

 そしてその足元には、周囲に撒き散らされた血の付いた兎の毛と、肉と骨を噛み砕かれ無惨な姿に変わり果てた野兎の成れの果てが転がっていた。

 自分が兎を捕らえ、そのまま貪り食ったのだと理解したのは、我に返ったその一瞬後の事で。

 余りにも獣染みたその行いに恐ろしくなり、とうとうこの心まで獣に成り果てたのかと震え上がったけれども。

 

 結局その後も飢餓には耐えられず、獲物を狩ってそれを貪る事には、もう何の忌避感も懐けなくなってしまっていた。

 時折それを思い返して、今の自分は随分と変わり果ててしまったものだと自己嫌悪に陥りそうになるけれど。

 かと言って飢餓の中で死ぬ勇気は無い。

 ……もし極限の飢餓の中で自我を喪ったら、今のルキナは人里を襲って人を喰らってしまうかもしれないと、その最悪を恐れてしまっているからだ。

 

 だからこそ、少ない獲物を狩りながら、どうにか致命的な極限の飢餓状態に陥る事だけは避けようとしていたのであるけれども……。

 しかし、ルキナではどうにも出来ぬ獲物不足と言う現状は、確実にルキナを追い詰めていて。

 最早破綻は目前へと迫っているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 もう二週間近くも、野鼠一匹すら見付けられない状況が続いていた。

 今居る一帯がもう野の獣達が死滅してしまった後なのかもしれないけれど。

 何にせよ久しく何も口にしていないが故に限界であった。

 飛ぶ事すらままならず、休み休みでないともう長距離を飛ぶ事が出来なくなっていた。

 朦朧とした意識の中、獲物を求めてルキナは、決して近付かぬようにと避けていた人里へと近付いて行ってしまう。

 竜の優れた視力が、その人里で飼われている牛や豚といった家畜たちを捉てしまった。

 途端に湧き上がる食欲に、辛うじて理性の声はそれを押し留めようとする。

 あれは、あの里の人々にとっての大切な家畜であり食料なのだ、それを襲うなど、『ヒト』として断じてしてはならないのだ、と……ルキナのヒトとしての理性の部分はそう訴え、何とか人里から離れさせようとするけれども。

 最早本能的な……『竜』の部分には、そんな制止は何の意味も効力も持たぬものであった。

 このままでは、飢えて死ぬのだ、と。

 自らの生存を優先しようとする本能に、理性は逆らえない。

 そして──

 

 

 …………………………………………

 ……………………………………

 ………………………………

 …………………………

 ……………………

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 ルキナが再び気が付いた時には。

 辺りは屠殺場よりも凄惨な血の宴の様相を呈していた。

 貪り食われた牛や豚の血塗れの蹄や角が転がり、鶏のものであろう羽毛が辺りに散乱している。

 家畜たちの放牧地を襲い、そこに隣接していた鶏など家禽たちの飼育小屋をその前足と尾で破壊して。

 そこに居た家畜を、理性を喪ったルキナは襲い貪り食っていたのだ。

 ふと周囲に目を向けると、家畜を食われ怒り狂いながらも恐怖から腰を抜かす村人や、理性を喪い血肉に狂ったかの様なルキナの有様に、追い払おうにも恐怖が先に立って武器を構えてはいるもののその場から動けなくなっている村人たちの姿があった。

 

 あれ程までにルキナの身を蝕み苦しめていた酷い飢餓感はもう何処にも無くて。

 それどころか、腹が満たされた時の得も言われぬ充足感を感じてしまっている。

 

 自分の行いを自覚したルキナは、その惨い行為と、理性すら無くした獣としての自分に恐怖を感じ、言葉にならぬと分かっている筈なのに、恐ろしい怪物を見る目で自分を見詰める村人たちに、何かを言おうとして……結局やはりそれは言葉にはならない。

 そして、村人の一人が手にしていた棒を取り落としてルキナに背を向けて逃げ出したのを切っ掛けとして、次々と村人たちは我先にとその場を逃げ出した。

 到底敵いようがない外敵を前にした時、多くの人は立ち向かうのではなくその脅威から逃げ出そうとするものなのだ。

 ルキナがヒトを襲い食い殺す……少なくともそう言う存在であると、村人達は判断したのである。

 逃げ出す寸前の人々のその目が、人では到底敵う筈の無い悍ましい化け物を見る様な、そしてどうにもならぬ絶望から神に縋ろうとするかの様な、そんな恐怖と絶望に彩られたその眼差しが、ルキナの心に深く突き刺さり、心を削り取る。

 

 違う! 私は怪物なんかじゃない……! 

 

 と、叫び返したくても、その声が言葉として届く事は無い。

 最早彼等にとって自分は、家畜たちを惨殺し貪り食う、血に飢えた残虐で凶暴な……人では到底敵わない怪物なのだ。

 それを理解して、そして……彼等のそんな認識通り、餓えれば理性すら無くす怪物へと堕ちてしまった事を自覚して、ルキナは声を上げて泣いた。

 しかしその泣き声すら、人々に恐怖を与える唸り声と咆哮にしかならない。

 

 その場に留まる事も出来なくて、ルキナは逃げる様にして翼を広げて飛び立つ。

 

 そして、人の居ない場所を目指してやっと辿り着いた山奥で、そこにあった洞窟へと身を隠す様にして、ルキナは身体を丸める様に横になった。

 

 今はただ、眠ってしまいたかった。

 眠れば、余計な事を考えずに、これ以上絶望する事も、人々を怯えさせる事も無い筈だから。

 

 しかし夢の中ですら、ルキナはもうヒトではない、人々から忌み嫌われ追われる怪物でしかなかったのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 家畜を狙ってとは言え人里を襲ってしまってから、ルキナの中で何かの箍が外れてしまった様な感覚があった。

 理性以上に、竜の本能が強く出る瞬間が明らかに増えて。

 段々と、『ヒト』としての……変わらぬ筈であった心が変質していってしまっているのを、感じている。

 それでも、ルキナには何も出来ない。

 

 一度、『虹の降る山』まで飛んで行った事があった。

 しかし、祭壇へと赴いても、そしてそこでどんなに声を上げても、神竜がルキナの声に応えてくれる事はなくて。

 失意のままに、ルキナは『虹の降る山』を去り、それ以来、一度たりとも近付こうとはしていなかった。

 

 縋る先など、ルキナには無くて。

 次第に自分が壊れていくのを、この心までもがヒトならざる獣へと堕ちて行く事を自覚しながら、その恐ろしさに震える事しか……それ以外にルキナに出来る事は無かった。

 人々がルキナを見るその眼差しが……恐ろしい怪物に怯えその脅威から逃れる為に神に縋らんとするその目が、ルキナの脳裏に焼き付き、そしてその心を追い詰めていく。

 いっそ自ら命を絶ってしまえば良いのかもしれないが、それだけはどうしても躊躇ってしまう。

『最後の希望』であるルキナを生かす為に、その命を散らしていった臣下達の事が、どうしても脳裏に過るのだ。

 最早ルキナ自身は、彼等がその未来を託していった『最後の希望』としては在れないのだけれども。

 しかし、彼等に託されたものをそのまま投げ棄てる様に、死を選んでしまって良いものなのかと。

 託されてきものをルキナもまた誰かに託すまで、自分には死を選ぶ事は許されないのではないかと、そう思ってしまう。

 もしくは、ただ単純に『死にたくない』と言う生き物の本能的な欲求によるものであるのかもしれない。

 何にせよ、このまま心まで獣に堕ちるのを防ぐ為であれど、自ら命を絶つ事はルキナには出来なかった。

 死ぬにしても、自害ではなくせめて邪竜に立ち向かって死ねれば……とも思うものの、邪竜が何処に居るのかなどルキナには分かる筈も無く、邪竜が気紛れにルキナの前に姿を現しでもしない限り、ルキナには奴と戦う事すら出来ない。

 そうして、死ぬ事も出来ずに、ルキナは次第に竜としての自分に呑み込まれて行ってしまっていた。

 

 一度家畜を襲ってしまったからか、飢餓状態が続くとルキナは自分の理性では止める事すら叶わずに、人里を襲っては家畜を食い荒らしてしまう。

 まだヒトを喰った事は無い事だけは唯一の救いではあるけれども、それでも獣同然に家畜を食い荒らす自分を、ルキナは何よりも嫌悪し悍ましいとすら思ってしまっていた。

 何時だってルキナが気付いた時には、家畜たちの血肉を貪った後の凄惨な状態で。

 ヒトとしての理性が完全に途切れていたのか、ルキナには家畜たちを襲いそれらを生きながらに貪り食っていた間の記憶は全く無く、思い出す事すら出来ない。

『自分』と言う意識が断絶していくその恐怖、そしてその断絶の間に、どんな凶行に及んでいるのかすら分からぬ事への強い忌避感と嫌悪感。

 ヒトの姿を喪い、言葉も文字も……ヒトとしての能力を凡そ喪い、それどころか今度は『心』まで喪いつつある。

 それを止める手立てすらない事に絶望し……そして、もし何らかの奇跡が起こってヒトの姿に戻れた処で、果たしてその自分は正しく元の『ヒト』のままで居られるのだろうか、と……そう恐ろしい事を考えてしまう。

 人里を襲い家畜たちを食い殺した事実とその経験や記憶は、例え元の姿に戻ろうと、烙印の様に消えないものであろう。

 その変化は身体を変えられた事よりも深刻なものであった。

 

 

 そんな絶望に心を侵されながら、空腹のまま人里離れた山奥でルキナが何時もの様に水辺で休息を取っていると。

 急に辺りが騒がしくなった。

 何事かと耳を欹てていると、それが武装した人々の立てる音である事に気が付く。

 

 貧相な装備の村人とは違い、しっかりとした武具に身を固めた彼らは、間違いなくイーリス軍の者達であった。

 ルキナが邪竜に囚われた際に本隊の多くが犠牲になったとは言え、各地に展開していた分隊は無事であったであろうし、そんな邪竜の襲撃からの生き残りの者であるのだろう。

 

 

「居たぞ! 報告に上がっていた竜だ!」

 

 

 そんな声と共に、無数の矢がルキナに降り注ぐ。

 彼らの狙いはルキナだ。

 ルキナが襲ってきた人里への被害は、かつかつの食料生産で何とか凌いでいた人類全体に打撃を与えていたのだろう。

 そうやって追われる事になるのも、当然の事であった。

 

 戦う事を避けようと、ルキナは飛び立とうとするけれど。

 翼を鋭い刃で鱗ごと切り裂かれ、ルキナは悲鳴を上げる。

 竜の硬い鱗を切り裂く事に特化した『ドラゴンキラー』の一撃は、今までどんな攻撃も通さなかったルキナの鱗をも切り裂いたのであった。

 それでも何とか逃げ出そうとするも、再び雨の様に矢が降り注ぎ、ルキナが飛び立つのを阻止してくる。

 訓練だった兵士たちの動きには無駄がなく、ルキナを狩る為の準備は既に入念になされていたのであろう。

 まだ人を攻撃しない理性は残っているルキナには、余りにも分が悪い状況であった。

 次第に鱗は砕かれ、矢傷が付き始め、辺りにはルキナの血が飛び散っていく。

 致命傷などにはまだまだ程遠いが、しかし抵抗せず逃げられないルキナが狩られるのも時間の問題であろう。

 

 ここが、自分の命の終わりなのだろうか。

 こんな竜の姿に変えられて、怪物の様に人々に恐れられ忌避されて、そしてこうして獣の様に人々に狩られる……。

 父や人々に託されてきた、『世界を救う』と言う使命を、何一つとして成し遂げる事の出来ぬままに。

 ならば、自分が生きた意味とは一体何だったのだろう。

 こんな結末になるのなら、どうしてヒトならざる竜の身に堕とされてまで、足掻く様に生きてきてしまったのだろう。

 答えなど無く、その疑問に意味も価値もありはしない。

 それでも、そう思わずには居られなかった。

 

 そうして、『生きなければ』とこの場から逃げ出そうとする本能の声に耳を塞ぎ、何もかも……自分の『生』すら諦めようとした、その時であった。

 偶然に、ルキナの鉤爪が兵士の足を掠め、その脛の辺りを大きく切り裂いてしまう。

 大怪我ではあるが、命には何の問題も無い様な傷であって。

 しかし何故か、ルキナの視線は、そこから流れ出る紅い雫に釘付けになり、そして自らの鉤爪に残る、野の獣とは違うモノを切り裂いた感覚に痺れていく。

 無意識の内に息が荒くなり、強い興奮状態にあるかの様に視界が歪んで見えた。

 急に、空腹感が強くなる。

 それはまるで、ルキナが理性を喪い人里を襲ってしまう直前のそれと同じで。

 しかしそれが危険な状態であると分かっている筈なのに、ルキナの思考は痺れたように、その抗い難い衝動を抵抗なく受け入れようとしてしまう。

 それを止める『理性』の手綱は、血の匂いに酔ってしまったかの様に上手く働かなくなっていた。

 

 

 目の前の『獲物』たちは、硬い鎧でその身を守っているものの、ルキナの鉤爪や牙の前では丸裸も同然で、その下にある柔らかな肉の味を想像すると思わず涎が溢れそうになる。

 野の獣よりも愚鈍そうなこの生き物は、ルキナにとっては格好の『獲物』であった。

 

 先ずは、煩わしい刃物を振り回す個体のその胴を、ルキナは軽く前足で薙ぐ。

 たったそれだけで、胴を覆っていた鉄板諸共にその身体は半分に引き裂かれ、その個体は一瞬で絶命した。

 すかさず肉塊と化したその身体へと喰らい付き、そのまま鎧ごと噛み砕いて咀嚼する。

 食べられない鎧の部分などはその辺りに適当に吐き出して、その場にいる他の個体を逃がさぬよう狩り始めた。

 先程までは無抵抗だったルキナが突如自分達を圧倒的な力で蹂躙し始めた事に、兵士たちは一瞬理解と判断が遅れた。

 そんな隙をルキナが逃す筈も無く、その鋭い鉤爪で切り裂かれ、鞭よりもしなやかで巨木すら一撃で圧し折る尾の一撃で跳ね飛ばされて全身の骨を砕かれ、咬み付かれ生きながらにして貪り喰われ、或いは骨まで瞬く間に焼き尽くされる程の高熱のブレスで身を焼かれて。

 兵士たちは殺戮の宴の肴と変わり果てる。

 

 ヒトの血肉に狂い酔ったルキナのその眼に、既に理性の光は無く、例えヒトであろうと最早『獲物』としか捉えない。

 最早、完全に獣に堕ちたと言っても過言ではないだろう。

 その内『ヒト』としての理性が戻る事はあるのかもしれないが、その時その『ヒトとしての心』が自身の凶行を受け止める事が出来るのかは……誰にも分からない。

 

 十数人居た兵士たちは、一人残らずルキナによって狩られ、ルキナは彼らの血肉を喜びと共に貪り尽くす。

 熊よりは柔らかく、猪などよりも食いでがあるこの『獲物』はルキナにとってはまさにご馳走であった。

 その血の一滴までも丁寧に舐め取り、骨もその髄まで啜る。

 

 空腹を満たされたルキナは、一つ大きな欠伸を零して、その場で丸くなって眠る。

 もう、ルキナが『悪い夢』を見る事は無かった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「いやはや、やっぱり、君は面白い存在だね、ルキナ。

 ここまで嗤ったのは、蘇ってきて初めての事だとも。

 腹が攀じ切れるとは、まさにこう言う事を言うのだろうね」

 

 

 自分以外には命ある者無き自らの居城にて、ギムレーは腹を抱えて大爆笑していた。

 いっそ声が枯れ腹が引き攣れてしまう程の愉悦を覚えたのは、蘇ってからどころかギムレーがこの世に生み出されて以来の事であるかもしれない。

 

 ルキナを捕らえ、ある『戯れ』を思い付き実行したその時は、ギムレーとてまさかここまで愉快なものを見る事が出来るとは思っていなかった。

 ルキナと言うその存在が……そしてその人生が、ギムレーにとって良い玩具であるのは確かなのだけれども。

 あの場であの『戯れ』を思い付いたのは、単純にあの場で潔く死にたがっていたルキナの思惑通りに彼女を殺すのは、どうにも面白くなかったからである。

『ヒト』の根源は『心』だの『魂』だのと綺麗事を垂れ流すそのおめでたい心に、本当の絶望と言うモノを……そして人間の心の脆さと醜さを刻み込んでみたくなったのだ。

 ヒトは、結局の所その容貌で呆気ない程にその心は左右されていくものなのだ。

 何れ程高潔な心と魂を持っていようとも、その容貌が『ヒト』にとって醜かったり、あるいは怪物然としたものであるならば、それだけでその者は間違いなく醜悪な『怪物』の様に扱われるだろう。

 その者の『心』やら『魂』など、ヒトには見えないし故にヒトが他者のそれを真に理解する事は無い。

 目に見える形で一度壁を作られ拒絶されてしまえば、そこを乗り越える事など不可能な事である。

 別に、ただ単に絶望させる為ならば、ルキナを『竜』の姿にする必要は特には無かったのだろう。

 それこそ、同じ『ヒト』の姿であっても元の姿の面影など何一つとして存在しない程の……『ヒト』の感性に従えば『醜い』とされる様な外見に変える事だってギムレーには容易い。

 または、野に生きる熊やら狼やら狐へと変えてしまう事も、ギムレーの力を以てすれば容易い。

 しかし、ギムレーは敢えてそうはしなかった。

 ヒトでも獣でもなく『竜』……それもマムクート達の様な『理性』があり言葉を交わせる様な化身としてのそれではなく、言葉すら奪った獣同然の『竜』へとルキナを堕としたのは、彼女に最大限の苦痛と地獄を味合わせる為であったのだ。

 他者と同じヒトの世に居場所を持てる『醜いヒト』の姿や、ヒトに狩られるかも知れぬ様な普通の獣では、結局の所ルキナには本当の絶望を味合わせる事は出来ない。

 人々の『最後の希望』でありその使命を胸にギムレーに抗い続けてきたルキナであるからこそ、自らが獣として血肉に狂い、本来は庇護し救うべきであった対象である筈の『同朋』をその手にかけ、その血肉を貪り食う事になれば、その絶望は、その他の方法では決して与えられない程に深く暗く狂い果てる程のものになり、当にルキナの末路に相応しいものだ。

 

 だからこそギムレーは、外界には『竜』と化したルキナを養い切れる程の……『ヒト』以外の食料は無い事を何よりも理解した上で、ルキナを放逐し……そしてその様子を遠視の魔法でずっと観察し続けてきた。

 

 ルキナの忍耐力はギムレーの想定以上で、幾度飢餓に襲われていても最後の一線だけは中々踏み越えないその姿には驚きすら感じたものだが、それももう終わりだ。

 獣の本能に呑み込まれても尚最後まで抗っていたその姿は実にギムレーにとって良い退屈凌ぎになったが、最早その『理性』も不可逆に擦り切れている。

 最後の一線を越え、『同朋』を殺し尽くしてはその血肉を貪り始める姿には、大いに笑わせて貰った。

 果たしてルキナに『理性』が戻り、自らの行いに絶望する瞬間があるのかは分からないが……。

 ここまで楽しませて貰った礼として、『理性』を取り戻させてやった上で、本能を抑えられずとも発狂出来ない様にしてやるのも良いかもしれないな、とギムレーは思い至る。

 まあ、折角この手に堕ちたお気に入りの玩具なのだ。

 このまま野に放しているのも悪くは無いが、そろそろ手元に戻すのも良いであろう。

 食料は思う存分人肉でも何でも用意してやれるし、ルキナの言葉なき声が通じるのはこの世で唯一ギムレーだけである。

 何れ程憎悪し厭おうとも、その言葉が通じるのがギムレーしかいないと悟れば、元より壊れかけてはいるが、『ヒト』であるが故に所詮『孤独』には耐えられぬルキナの心が完全に折れるのは時間の問題となるであろう。

 その後は、かつての仲間たちと殺し合わせるのも良いだろう、息絶える直前に彼等に目の前の『竜』が何者であるのか明かしてやるのはさぞかし楽しいだろう。

 何なら、『竜』として獣同然に飼うのではなく、伴侶として迎えて可愛がってやっても良い。

 今の『竜』となったルキナになら、邪竜の力に溢れた子供を孕ませる事もそう難しくはない筈だ。

 この世界は最早ギムレーの手に堕ちたが、異界にはまだまだギムレーが滅ぼすべき世界が広がっている。

 それらの世界に侵略していく為にも、自らの血と力を受け継ぐ子供と言う優秀な手駒はあった方が良い。

 十数もの邪竜達に侵略され、瞬く間に滅びていく世界と言うものを想像するだけで心が躍るかのようだ。

 何もかも壊し滅ぼし尽くしたら、自分達以外は何も存在しない静寂の世界で、『家族』で過ごすのも悪くは無い。

 

 

 

「ああ……こんなにも『楽しみ』と言う感情を覚えたのは何時以来だろう。

 全く、君は僕でさえ飽きない位に面白いね、ルキナ」

 

 

 

 何時、ルキナを手元に戻そうか。

 理性を取り戻し絶望したその時が良いだろうか。

 ああ……それとも。

 

 そんな事を考えながら、ギムレーはその口元を歪める。

 

 

 そんなギムレーの思惑を何も知らぬルキナは、人々の血肉と骨の欠片が散らばる凄惨な地で、腹を満たされてスヤスヤと安らかに眠っているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

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