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「幸せ」と言うものには様々な形が在るのだろうけれど、今の自分は間違いなく「幸せ」であると、そうルキナはそれを疑う事も無く思っていた。
誰よりも大切で愛しい夫と過ごす、慎ましくも穏やかに満ち足りた日々……。昨日と同じ様な今日が過ぎ、そして今日と同じ様な明日が来るのだと、そう信じられる毎日。
絶望も、悲嘆も、憤怒も、何もかもが今は遠い。
愛し愛されて、己の心の隙間や傷を過不足なく満たして、そうやって過ごせる日々を、「幸せ」と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。それに──……
ルキナは、少しずつ膨らんできている己の胎を、幸福に満ちた眼差しと共にゆっくりと撫でた。
新たな命が宿ったそこは、不思議と少し暖かく感じる。
まだ、外界からの刺激に明らかな反応を返せる程には育っていないからか、今はまだ少し膨らんだ胎だけがその存在の証拠であるけれど、もう少しすれば内側から胎を蹴ってきたりして何らかの反応を示す様になるのだろうか……?
かつては自分もその様にして産まれたのだとは知っているが、何せそんな頃の記憶は存在しない為に実感などは無い。
胎の中の子がこの世に生まれ落ちてくるまでにはまだ暫しの月日が必要であるが……、ルキナの心は既に母となる事への喜びと我が子への愛おしさが溢れていた。
この世で最も愛しい人との間に、望んで産まれる我が子であるのだ。愛しくない訳など無い。
最近のルキナは、まだ少し気が早いのかもしれないが、産まれてくる我が子の為に服を編む事に精を出していた。
産まれてくる我が子は、どんな子だろう。
ルキナに似るのか、それとも『ルフレ』に似るのか。
どちらに似ていても可愛い事には変わらないが、『ルフレ』に似ていると良いな、と。ルキナはそう思っている。
その為か、服を編む時に使っている毛糸も、『ルフレ』の髪色に似合うモノを自然と選んでしまっていた。
『ルフレ』も、産まれてくる我が子に贈るには、どんな名前が良いのか毎日悩んでいる。その様子が、堪らなく愛しい。
ああ、本当に……抱えきれるのか心配になる程に、「幸せ」な日々の中に居るのだと、そうルキナは何時も思う。
服を編み込みながら、ルキナはふと窓の外を見た。
そこにあるのは、何時もの様に穏やかな夕暮れ時の空だ。
そう、何時もと、同じ……。
そう言えば、最後に青空を見たのは何時だっただろうか?
随分と久しくそれを見ていない様な気がして、ルキナは何気なく己の記憶を探ろうとした。
そう、確かあれは……──
何かが意識の端に触れそうになったその時。
背後から、何かがそっと優しくルキナの目を覆った。
暖かくも少し硬いそれを、ルキナはよく知っている。
「もう、『ルフレ』さん。また悪戯ですか?」
「ふふ、ルキナには直ぐにバレてしまうなぁ……。
……ただ今、ルキナ。今帰ったよ」
「お帰りなさい、『ルフレ』さん」
紅い瞳に優しさを滲ませた表情で『ルフレ』はそう言って、挨拶代わりのキスをする。ベッドでのそれとは違って唇を優しく触れ合わせるだけのキスは、ただただ柔らかくて温かい。
愛しい人が帰って来てくれた事への喜びと、こうして愛されている事が伝わってくるこの挨拶のキスが、ルキナはとても大好きだった。だからもう一度、とおねだりをしてしまう。
……さっきまで、自分は何を考えていたのだろうか?
何かを思い出そうとしていた様な気はするのだが、それは今は朧気にすらも思い出せないものなので、きっと大した事では無いのだろう。なら、それ以上はどうでも良い事だ。
「『ルフレ』さん、もうお夕飯の支度は出来ていますよ。
今日も腕によりをかけて作ったんです」
「ルキナの料理は何時も美味しいからね。楽しみだ」
そう言って『ルフレ』は嬉しそうに微笑んだ。
ルキナとしても、自分の手料理が愛する人の舌と腹を満たせているのはとても満足がいく事であるし、やりがいがある。
元々、そう言った手料理の類は手慰み程度であったが嗜んでいたのだ。並程度以上のものは作れる自負はあったが、やはりこうしてそれを喜んで食べてくれる人が居ると言うのはとても張り合いのある事で、最近では以前よりもずっと料理の腕は上がったと、ルキナはそう思っていた。
「そう言えばルキナ、何か足りないモノとか欲しいモノはあるかい? あるのなら手に入れてくるよ」
『ルフレ』にそう言われ、ルキナは少し考える。
が、食料や衣服などに特に不足を感じる事は無く、その他の細かな消耗品の類も今は特に困ってはいない。
だから、ルキナはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、『ルフレ』さん。そのお気持ちだけで大丈夫ですよ。
それに私は……こうして『ルフレ』さんと過ごす時間があれば、それで十分ですから……」
「僕と過ごす時間、か……。僕としてはこれ以上に無く嬉しい言葉だけど、君はもっと『欲』を持って良いと思うよ。
絢爛豪華なドレスも、煌びやかな宝飾品の類も、この世に二つと無い様な至宝でも。君が望むのなら何だって、僕は手に入れて君に贈るのに……」
『ルフレ』の言葉に、ルキナは再び首を横に振る。
それだけで、ルキナにとっては十分なのだ。
かつて何もかもを喪ったからこそ、この「幸せ」がどれ程得難く愛しいものであるのかを、よく知っているのだから。
例え、この世の全てを手に入れる程の財があっても、金貨の山と等価の豪華絢爛な贅を尽くした衣装の山を何れ程築いても、国が一つ傾く程の宝飾品を幾つも幾つも身に付けても。
それでも、それらはこの「幸せ」に何一つ叶わない。
財やそれによって得られる物理的な幸福では贖えないのだ。
もっともっとと、貪欲に願い続ける事も人の良くの本質の一つであるのかもしれないけれど。しかしそうやって手にしたものは、虚しく儚い。それもまたルキナはよく知っている。
だからこそ、そんなものよりも、ルキナはただ愛しい人と過ごす時間の方がずっと大切なのだ。
愛しい人がこの世に生きている事、そしてその人に出逢えた事、互いに愛情を向け合えている事、そして同じ時間を共に歩む事が出来る事……。その全てが、何にも代え難い奇跡であり、何よりも愛しい宝物なのだ。……そして。
ルキナが願う様な「細やかな幸せ」と言うものが、幾重にも連なる程の困難と幸運の上にしか成り立たないものである事も、それが如何に儚いものであるかも知っている。
だからこそ、それを望む事こそが、ルキナにとっては最も欲が深い事であった。
「幸せ」に満ち足りた日々が今日も明日も続いていく事を、互いに同じ様に歳を重ねながら一生を添い遂げる事を、新たな命にそんな「幸せ」な世界を繋ぎ託してゆく事を。
それを望む事は、そして過不足無く手にする事は、きっとこの世の全てを手に入れる事よりも難しい事なのだから。
ルキナは自分は無欲なのではなく、寧ろその逆でこの世の誰よりも己が欲深い人間なのだと思っていた。
そんなルキナに、少し苦笑する様な顔をしながら『ルフレ』は優しくそっと触れる様にして、その頬を撫でる。
その手に己の気持ちを委ねる様に、ルキナは少しだけ己の身を預ける様にして摺り寄せる様にして愛しさを伝える。
この手の温かさをこんなにも近くに感じられる事が自分にとっては何よりも「幸せ」なのだと、『ルフレ』に伝わる様に。
『ルフレ』は益々優しい顔をしてルキナを見詰めた。
「……そうか、君がそう願うのなら、僕はそれで構わないよ。
君の傍に居る。これからも、ずっと……」
そして『ルフレ』は、ルキナの腹に指先を当て……そこに芽吹いた命を祝福する様に、そっと優しく触れる様に撫でる。
愛と祝福に満ちた誕生を今か今かと待っているその命が、ルキナも……そして『ルフレ』も、待ち遠しいのだ。
「ええ、『ルフレ』さん。ずっと……ずっと一緒です。
あなたと、そしてこの子と。二人が傍に居る事が、私にとっては何よりの「幸せ」なんですから……」
「幸せ」で、……「幸せ」で。
何一つとして欠ける事の無い穏やかな幸福に包まれて。
もうこれ以上なんて、望む必要は無い、求める必要は無い。
……だけれども、時折。ほんの僅かに瞬く程の間。
「何か」を、忘れている様な気がする。
「何か」を、思い出さなくてはならない様な気がする。
……大切だった「何か」が、欠けている様な気がするのだ。
それが一体「何」であるのかは分からない。
それについて考えようとする度に、思考は靄がかった様に混迷の霧の中に迷い込んでしまう。
そして何時も、「幸せ」を思い出して……それっきりだ。
思考の海から戻って来たルキナは、ふと静かに己の方を見詰めていた『ルフレ』と目が合う。
その紅い眼を見詰めていると、「何か」を思い出しそうで……しかし同時にそれは決して届かない気がする。
そんなルキナの様子を見た『ルフレ』は、ルキナの眦の辺りを指先でそっと触れて、優しくルキナの目を閉ざした。
瞼の裏の闇の中で、『ルフレ』の指先の温かさだけが伝わる。
ああ、「幸せ」だ。……これこそが、「幸せ」なのだ。
『ルフレ』の手にその目を閉ざされたまま、ルキナはそっと満ち足りた幸せな笑みを浮かべるのであった。
◆◆◆◆◆
千年の封印の眠りの中から、邪竜ギムレーとしての本性を取り戻してこの世に再び蘇って世界を滅びへと導いて。
……いや、時を越え過去を変える事でそれを阻もうとした聖王の末裔を追って時を越え、「覚醒」を再演したのだったか。
…………同じ「邪竜ギムレー」であるとは言え、異なる時間の存在と溶け合った為か、時折僅かに記憶の混濁が起こる。
大した問題では無いので放置しているが……。
何はともあれ今ここに居るギムレーは、世界を滅ぼし尽くし、目障りな神竜やそれに与する者共も根こそぎ滅ぼした。
神竜の手駒としてギムレーに逆らってきた者達は、一族郎党を老若男女問わずに根絶やしにするか、極一部を生かしたまま捕らえて生き地獄を味合わせながら殺した。
殺してくれと絶叫しながら乞う彼等のその声を一笑に付して、かつては共に戦った者なのだからと、邪竜としての本来の自分を完全に取り戻したギムレーに対して、かつて人間として……「ギムレーの器」として生きていた時の『ルフレ』の面影やその心の幻影を見ていた者達が絶望しながら死んでいく様は胸がすく程に愉快であった。……彼等は全員息絶えたので、もうあの愉しみを味わえない事だけが甚だ残念である。
そんな中、そうやって生かしたまま捕らえていた虜囚の一人……今となってはこの世に生きる最後の「人」となった者が、今とは異なる『絶望の未来』から過去を変える為に時を渡って来た聖王の末裔……神竜にとっても特別な駒であった「未来のルキナ王女」だ。
彼女が時を渡って迄成そうとした使命を考えれば余りにも愚かしい事ではあるが、時を越えた先で彼女は人間として生きていた時のギムレー……『ルフレ』と恋に落ちてそして結ばれていた。だからこそ、彼女を最も絶望させる手段として、ギムレーは彼女を徹底的に凌辱した。
ギムレーには『愛』などと言う感情は無い。
そもそも、個として存在が己一つで完結しているギムレーにとっては、生殖の為の行為など全く意味を成さない。
やろうと思えば相手を犯し凌辱する事は容易いが、その好意自体に感じるモノは何も無い。
だから、ルキナを凌辱する際も、ギムレーにとってはただの手段に過ぎず、その行為自体に何も感じるモノは無かった。
とは言え、それはあくまでもギムレーにとっては……と言う事で、ルキナの方は凌辱される事に対して随分と感情を激しく動かし、同時に行為によって生理的に得てしまう快楽により一層深い絶望を抱いていた様であった。
愛した男の声と姿で、愛した男ではない……愛した男の全てを食い潰しその尊厳を破壊し己の過去も未来も何もかもを奪った悍ましい人外の化け物に、己の身体の全てを掌握され良い様に扱われる。それが彼女に齎した、激しい感情の坩堝の様な混ざり切って濁り腐った感情は、ギムレーにとって何よりも愉しく、酔ってしまいそうな程に甘美なものであった。
殺してくれと乞われても、ギムレーはそれを嘲笑った。
ただ死ぬよりも……或いは肉体的に苦痛を与えられるより辛い地獄であるのだとしても、ルキナが囚われたそれは命を奪う様なそれでは無く、心と魂を腐敗させる類いのものだ。
そこから抜け出す術など、生きている以上は否応無しに何時かは訪れる老衰による死しかないだろう。
とは言え、快楽に完全に心を堕とされて、ギムレーが望む様な反応を見せなくなったのなら、飽いたギムレーによって縊り殺される可能性はあっただろうけれど。
しかし、ルキナの心は決して快楽に溺れる事は無かった。
荒々しい獣に組み敷かれる様に手荒く抱かれ苦痛すら伴った激しい快楽を与えられても、或いはかつての『ルフレ』がそうしていた様に優しく抱かれ甘い睦言を囁かれながら優しい快楽に沈められても。それでも決して屈しなかった。
そして、一月、半年、一年……と、時間だけが過ぎて。
世界を滅ぼし切ってしまったが為に、何時しかギムレーの愉しみは、ルキナが何時屈するのかだけになっていた。
どんなに乱暴に扱っても中々壊れない玩具は、ギムレーにとってもお気に入りのものになっていたのだ。
そして、それはある日突然、何の前触れも無しに……もしかしたら何かその予兆はあったのかもしれないけれどギムレーがそれに気付く事が出来なかった内に、ルキナは壊れた。
ギムレーの事を、『ルフレ』だと。己にとって何よりも愛しい恋人であるのだと、そう錯覚する様になったのだ。
人非ざる存在の証である尾や翼をその目に晒したとしても、ルキナの目はそれを映している筈でも、それを認識しない。
……全く認識していない訳では無く、尾や翼に触れない様に動いたりはするので意識に上らせる事が出来なくなっただけであるのだろうけれど。
壊れてしまったルキナの、その目に映る世界はまるで彼女が望んでいた優しい夢の様な世界になっていたのだ。
人の営みが絶え果てただ朽ち行くだけの家や建造物の姿も、そこを意志も無くただ徘徊する屍兵達の群れの姿も、何も。
彼女の優しい世界を壊してしまう様なものは、映らない。
……ルキナは、完全に壊れてしまっていた。
最初の内は、何時か正気に戻った時にその醜態を振り返ったルキナがどう絶望するのだろうか、と。
ギムレーは面白がって、ルキナが見ている「優しい世界」に沿って、かつての『ルフレ』の様な演技をしてやっていた。
愛する男と、憎悪している邪竜の区別すら付かない彼女の痴態を嘲笑い、脆い人間の心を憐れんでやりながら。
だけれども。
何時か終わらせる為に、終わる時を見る為に始めた「茶番」であると言うのに。何時しかギムレーは矛盾を抱えていた。
ルキナが、少しでも「真実」に目を向けそうになっていたら、それから意識を逸らさせてしまう様になっていたのだ。
何故? どうして? と。
ギムレー自身が己の行動を信じられない。
それでも、「ルフレさん」と、彼女に呼ばれる度に、その温かく穏やかな笑顔がギムレーだけに向けられる度に、腕の中に感じる温もりがギムレーに対してその心の全てを明け渡してくる度に、ギムレーとの間に芽生えた命を愛おしい眼差しで見詰める姿を見る度に。
胸の辺りがざわついて……同時に苦しくなる程に少しだけ温かくなる。その理由が、ギムレーには分からないのに。
……きっと、もうルキナしか居ないからなのだ、と。
たった一つ残った玩具に執着しているだけなのだろうと、ギムレーはそう己に言い聞かせている。
そう、それだけだ、それだけの筈なのだ。
何時かルキナが死ぬその時まで、愚かな「茶番」を演じて、そしてその最期に「真実」を明かして、その絶望を見届ける為であるのだ。その筈だ。
それ以外のものを、人間に対してギムレーが抱く筈が、抱ける筈が無いのだから……。
ルキナの中に新たに宿った命の、その小さな輝きを感じながら、ギムレーはそっと目を伏せる。
何もかもが既に終わってしまったこの世界の、その片隅で紡がれる壊れたルキナの見ている「優しい夢」が、このまま彼女が死ぬまで醒める事が無い様に。
ギムレーは、そっとルキナの目を閉ざし続けるのであった、
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