◇◇◇◇◇
クロムをこの手で殺しギムレーと成り果てても、『僕』の魂は「完全には」消えなかった。
……消える事すらも許されなかったとも言える。
だけれども、そこに救いなどは欠片も無くて。
何も出来ず、ギムレーが僕が守りたかった全てを壊していくのを、ただ見ている事しか出来なかった。
僕の姿で、僕の声で、僕の身体で。
ギムレーは僕が愛していた全てを壊していく。
それなのに、『僕』は何も出来ないのだ。
……仲間達が、ギムレーに囚われた『僕』の心と魂を解放しようと戦いを挑んでくるのを、止められなかった。
逃げてくれと、例え遠くない未来に滅びがこの世の全てを覆うのだとしても、今日死ぬ必要なんて無いのだと。
愛する者、守るべき者が居るのだから、どうか自分の命を守る事を考えてくれと。そう何度吼えて訴えても。
ギムレーの内に囚われた魂の言葉など届く筈も無くて。
『僕』は、仲間達が成す術も無くギムレーの圧倒的な力の前に蟻の様に磨り潰されていく姿を、仲間達の遺骸をその魂の尊厳まで貶めようとするギムレーの蛮行を。
何も出来ず、絶望に沈みながら、ギムレーの目を通して見ている事しか、出来なかった。
『僕』には、何も……何一つとして出来なかったのだ。
……それは、この世に生れ落ちた事自体……存在その物が罪であった僕への、罰だったのだろうか。
地獄の責め苦の中で魂を砕き心を壊して、完全に狂ってギムレーと真実同化してしまえたのなら、いっそそれは救いであり安寧であったかもしれないが。
存外図太い『僕』はその地獄を耐え抜いてしまった。
怨嗟を絶望を慟哭を悲哀を、見届ける事しか出来ず。
どうか誰かギムレーを──『僕』を殺してくれと祈り願いながら、ギムレーが全てを嘲笑う様に命を吹き散らして行くのを、その身の毛もよだつ様な悍ましい凶行を、その全てを、見せ付けられ続けてきた。
それでも、狂ってしまえなかった。
変えられない絶望に、止められない破滅に、終わらない地獄の責め苦に。次第に少しずつ少しずつ……「諦め」の様な感情がこの心を蝕んでいったけれど。
どれ程苦しくても、耐え難くとも。
それでも『僕』は、ギムレーの中で、何も出来ずただ見ているだけしか出来なくても、『僕』として在り続けた。
それは決して『希望』でも何でもない。
ただの「罰」でしかなかったけれども……。
そして、ルキナを追って過去へ跳躍したギムレーと共にこの過去へとやって来て。
この時間に本来居たかつての僕──『ルフレ』へとギムレーの記憶や心が混ざり合い流れ込み融け合うのと同時に、『僕』の魂の欠片もルフレへと流れ込んだ。
……流れ込んだと言っても、欠片でしかない『僕』は。
ギムレーの内に囚われ続けていた時から何も変わらず、『ルフレ』に何か干渉する事も出来ずにその内からただ見ている事しか出来なかった訳なのだが。
まあ、何であれ、『僕』は『ルフレ』と共に在った。
誰よりも近くで『ルフレ』と共に「世界」を見てきた。
『ルフレ』の想いを感じながら、『ルフレ』の目を通して『世界』を……まだ滅びが訪れていない「世界」を見る事は、何も出来ない無価値で無意味な状態であっても、ギムレーの狂った破壊衝動と憎悪と歪んだ嗜虐の心を感じながら滅び行く世界を見続けるよりは、余程良かった。
少なくとも、この『ルフレ』が『僕』の様な結末を辿らない事を、心から願い祈る事が出来る程度には。
その願いは、『ルフレ』の前にルキナが現れてからも、そして『ルフレ』とルキナが互いに惹かれ合い結ばれてからも、変わらなかった。
『僕』からすれば、『僕』にとっての『小さなお姫様』と『ルフレ』が結ばれるのは内心複雑なモノがあるが。
二人は確かに互いに想い合っているのだし、そもそも最早『ルフレ』と『僕』は違う人生を歩んだ他人である。
『僕』がその未来に苦言を呈する筋合いは無い。
ルキナを幸せにしてくれるのなら、それで良いのだ。
少なくとも『ルフレ』には、ルキナを幸せにする覚悟があるし、ルキナの為に我が身を捧げる覚悟もあった。
誰よりも近くで見ていたのだから、全部知っている。
まあ……恋愛事は『僕』には遠い感情や出来事であった為、誰かを『愛』した時に、「ルフレ」と言う存在は此処まで変わるのかと思うと、何だか不思議な感じになる。
『ルフレ』には過去の記憶が無いからこそ、新たに感じた「想い」や芽生えた「勘定」を、それが全てこの世で唯一無二の宝物の様に感じているのかもしれない。
少々むず痒く感じる事はあるが……『ルフレ』がルキナを心から思っている事は間違いない。
そして、……『ルフレ』と共に過ごしている時のルキナは、本当に幸せそうであった。
『絶望の未来』と成り果ててしまったあの世界では、クロム達を亡くし戦い続けるしか無かったルキナが、ああも幸せそうに微笑む事は出来なかったであろう。
それを奪ってしまった『僕』が願う資格は無いけれど。
散々『僕』の所為で幸せを奪われ続けてきたルキナが、この「世界」でやっと新たに手に入れる事が出来たその『幸せ』を、『僕』は心から祝福していた。
僕と同じ存在である『ルフレ』との愛には、この先幾つもの障害が待ち受けているのは分かっていた。
そこに『愛』があるからこその絶望もあるだろう。
だが、『僕』には存在しなかったけれども、その絶望に終わらせる「選択肢」は……『ルフレ』には存在する。
……僕がその選択肢に気付けたのだ、その時が来れば、『ルフレ』も必ずその選択肢に気付けるだろう。
その後は、『ルフレ』が仲間と繋いだ絆が、そこに在る願いが、その「選択」の結末を決める筈だ。
『ルフレ』の内からずっとその旅路を見守ってきたからこそ、『僕』は『ルフレ』とルキナならばその選択の先の結末をも乗り越えられると確信していた。
だが、その矢先に、ルキナが【禁呪】に囚われたのだ。
幾つもの生命を弄び喰らい合わせ縒り上げた歪な呪物を核とした、呪術自体が意思を持ち対象を喰らおうとする悪質極まりない【禁呪】に、ルキナは囚われた。
このままでは、ルキナの魂が【禁呪】に跡形もなく食い尽くされてしまうのが『僕』には分かってしまった。
だが、見ている事しか出来ぬ欠片でしかない『僕』に出来る事など……と。ルキナの手を握り締めながら自身の無力に打ち拉がれる『ルフレ』の成す内から、術も無い状況に絶望していたその時だった。
『ルフレ』が何も出来ずともせめて何かをしてやりたい一心でルキナの手を握り続けた其処に、【禁呪】に囚われたルキナの心の中へと繋がる細く儚い路が生まれていた事に、『僕』は気付いた。
互いを真に愛し合い想い合う『ルフレ』とルキナの『想い』と絆が繋いだその路は……。
魂の状態である『僕』になら往く事が出来る……だがしかし、その先に行けば二度と戻れない路だった。
ルキナの心を【禁呪】から解放しても、『僕』は【禁呪】が創り出している闇の領域諸共消滅するしかない。
だが、ルキナを助ける術が其処にあるのならば。
『僕』がそれを躊躇う理由なんて、何処にも無かった。
元より『僕』は既に死んだ者、存在しない者だ。
ここまでおめおめと、見ている事しか出来ぬ欠片として『ルフレ』の中に存在し続けてしまったのは、きっと今日この日にルキナを助ける為だったのだろうと。
そう確信して、そして存在の意味を見付けて。
『僕』は、二度と帰れぬ路へと飛び込んだ。
◇◇◇◇◇
思えばそこには、ルキナへの……そしてクロム達皆への、贖罪の気持ちが多分に含まれていたのだろう。
『僕』は赦されざる大罪を犯し、皆の命も何もかも……そして、ルキナの幸せな未来も全てを奪ってしまった。
だからこそ、と言う想いがあった。
大切なあの日の幼子を、今度こそ守るのだ、と。
あの日交わした、『必ず、クロム達と一緒に帰る』と言う約束は、終ぞ果たす事は叶わなかったが。
『何処に居てもルキナを守る』のだと。
あの時に交わしたもう一つの約束を、今こそ果たすべきなのだと、そう強く信じた。
そして『僕』は自らの魂を燃やして灯したランプを掲げ、闇の何処かに囚われたルキナを探し始めたのだった。
だが、【禁呪】の闇はあまりにも深く。
ルキナと『ルフレ』の繋がりが【禁呪】に穴を空けた、この闇が終わる場所の方向は分かっても。
深い闇の何処かに囚われている筈のルキナの位置は、全く分からないままだった。
異物が侵入してきた事に「【禁呪】の意志」は警戒を強めているが、魂で灯された輝きに触れる事は叶わず、自らが作った心の闇の中から観察するだけだ。
何処かに在る「【禁呪】の意志」そのものを殺せば、ルキナをこの闇から解放してやれるのかもしれないが、その場合、【禁呪】に捕らえたままのルキナの魂も道連れにされてしまう可能性もある。
それに、この闇の中ではそれを闇雲に探し回る事も、また難しくそれならばルキナを探す方が先だ。
ルキナの姿を探し続け、何れ程闇の中を彷徨い続けていたのだろうか。
ふと、誰かの泣き叫ぶ様に助けを求める声が聞こえた。
それは懐かしさすら感じる幼子の声で……。
「私に気付いて!!」と、全身で訴えている様なその声に慌ててその声の方向へと駆けて行くと。其処には。
幼い……三歳にも満たない様な幼子の姿をした。
ルキナが、膝を抱えて心細さに泣いていたのだった。
この【禁呪】の闇の中では、次第に記憶が削り取られ、それに応じて魂が自分の姿を見失っていく。
そして終には自らが「何者」であったのかも見失い、完全に【禁呪】の闇に喰われて消えるのだ。
今のルキナには、多くてもこの姿をしていた頃と、同じ位の記憶しか残されていない。……そして。
事態は、僕が思っていたよりも遥かに深刻であった。
ルキナは最早、自分の名前すらも喪いかけていたのだ。
……「名前」とは、自分の根幹を成す柱だ。
それを奪われると言う事は、その存在の全てを奪われる事にも等しい。故に、名前を奪われるのは想定していた事態の中でも最悪に近い事であった。
だが、幸いにもまだ手遅れではなかった様で。
『僕』がその名前を告げると、直ぐにルキナは自身の「名前」を取り戻してくれた。
どうやら「名前」が奪われてからそう時間は経っていなかったらしく、他者からの働きかけが有れば、それを自分の「名前」だと認識する事は出来たらしい。
とは言え、「名前」をどうにか取り返したのだとしても、この事態が深刻である事には変わりがない。
一刻も早くこの闇の中から解放してあげなくては、再びルキナは闇に囚われてしまう。
だから『僕』は、ルキナのその手を取って、彼女を導く様に、この闇の終わりへと歩き出したのだった。
そして歩き続けながら、削り取られ欠け落ちてしまったその記憶の欠損を取り戻し、少しでもルキナが【禁呪】の闇を振り払える様にするべく、『僕』は様々な事をルキナに語って聞かせ続けた。
それは『僕』とルキナとの思い出話であったり、かつてルキナに語って聞かせたお伽噺や英雄譚であったりと。
とにかく、ルキナの記憶の欠損を埋められそうなモノを、片端から語り続けたのだ。
その甲斐あってか、少しずつだがルキナの記憶は埋まり始め、それに伴ってルキナの姿は成長し始める。
まだよちよち歩きしか出来なさそうな姿から、少しずつ少しずつ……本来の魂の姿へと戻り始めていく。
……だが、何れ程ルキナに、『僕』との思い出話を聞かせようとも、『僕』に関する記憶だけはルキナは一向に思い出せないままであったのだった。
恐らくは、僕がルキナを救出しに来た事を察知した【禁呪】の意思が、『僕』に関する記憶だけは取り戻させまいと抵抗しているのであろう。
…………それに対して思う所が無い訳でも無いが。
『僕』が自分の意思ではなかったとはいえ、ルキナにしてしまった仕打ちを思うと、僕との思い出など……このまま忘れ去る方が、ルキナには幸せなのかもしれない。
それに……『僕』がルキナに語ってあげられる彼女との思い出は、あの日……最悪の結末に終わった戦いに赴く前に、ルキナと約束を交わした時までの分しか無い。
ルキナの記憶の中で、『僕』が占める部分などそう多くはないだろうから、……『僕』との思い出など、あっても無くても良いのかもしれない。
思い出話を呼び水としてルキナの記憶が戻り始めると、まるで本のページを高速で繰っているかの様に。
ルキナは、五つにも満たなかった幼子から、七歳頃のやんちゃな盛りだった頃の姿へと成長した。
そして、『僕』が「ルフレ」として見届ける事が出来ていた限界の十歳頃の姿へと近付いていく。
それに安堵しながら『僕』は、絶対にルキナの手を離さない様にと柔らかくもしっかりと握り締めて、遥か彼方の闇の途切れる場所を目指して歩き続けていた。
ずっと歩き通しだったからか、ルキナはふと何かを言いた気に、「あの……」と声を掛けてきた。
そう言えば、ルキナがまだ幼かった頃は、歩き疲れたルキナを負ぶって歩いた事が幾度もあったな……と思い出し、歩き疲れたのかとルキナに訊ねた。
だが、ルキナはそうじゃないと小さな首を横に振る。
そして、『僕』を「何」と呼べば良いのか、と……。
そう『僕』に訊ねてきたのだ。
『僕』は思わず返答に詰まってしまった。
ルキナにとっての『ルフレ』は、もう『僕』じゃないし、そもそも今更そう名乗る資格なんて『僕』にはない。
だから。
「『おじさん』で、どうかな?」と。
そう提案してみた。
昔、ルキナがうんと小さかった頃に。
『僕』はルキナに『ルフレおじさん』と呼ばれていた。
少し大きくなってからは、『ルフレさん』になったけど。
『おじさん』と呼ばれる度に、「まだそんな歳じゃないんだけどなぁ……」なんて言いながらも、それでも悪い気なんてしなくて……。
『おじさん、おじさん』と呼びながら僕にじゃれついてくるルキナを、僕は目一杯可愛がっていたのだ……。
もう戻れない幸せな時間の、欠片の様なモノだった。
その名を提案した事に、他意は無いけれども……。
『僕』に関する記憶は思い出せなくとも、『おじさん』と言う呼び名はルキナにとってはしっくりとくるモノであった様で。何度も確かめる様に『おじさん』と呼ぶルキナに、幸せだったあの頃の思い出の中のルキナの姿が重なって、それが小さな棘の様に僕の胸を刺す。
……だけど、もうどうしたって戻れない過去に、何時までも足を取られる訳にはいかない。
だから『僕』はその痛みを押し殺して、ルキナの手を引いて歩き続けるのであった。
◇◇◇◇◇
歩き続ける内にルキナは十歳頃の姿に成長していった。
そしてふと、何かを気にする様に、ルキナは来た道へと意識を向けていた。
……この【禁呪】の質が悪い所は、一度抜け出そうとその終わりに向けて歩き始めたら、絶対に来た道を戻っても振り返ってもいけない事だ。
立ち止まるだけならまだ何とかなるが、それでも。
立ち止まる時間が長ければ長い程に、再びルキナが闇に絡め取られる危険性が増していく。
故に、一度歩き始めたのならば、前だけを見て歩き続けなければならない。
だが【禁呪】は、そう易々とはそれを許しはしない。
あの手この手で、獲物を逃すまいと、ルキナを引き留め元の道を辿らせようとしたり、闇の終わる場所とは異なる方向へと拐かそうとしたりしてくるだろう。
そう、例えば。
後ろからその名を呼んだり、とか。
『僕』はあくまでもこの【禁呪】にとっては異分子であり、その標的としては対象外である。
明確に標的を定めているからこそ強力な効果を齎す呪術は、その標的外に対しての鑑賞力は高くない。
更には不本意ながらも『僕』はギムレーでもあるので、【禁呪】だろうとも人の手による呪術に害される事は殆どと言っても良い程に無いのである。
だから【禁呪】は、何れ程『僕』の存在が邪魔であっても、『僕』に直接干渉して妨害する事は出来ないのだ。
だが、ルキナは違う。
ルキナは、こう言っては何だが、呪術に対しては元々かなり無防備でありそれへの耐性も無い。
意志の力は並々ならぬものがあるのだけれど、単純に心が強いからと言って呪術を無効化出来る訳では無い。
それに、今のルキナは、その記憶の多くを【禁呪】に奪われたままの状態である。
どうしたって、優位性は【禁呪】の方にあった。
『僕』がこうして守っている以上は直接的に危害を与えてくる様な事は無いだろうが、ルキナ自身が足を止める様に間接的に誘導する位の事はやっているだろう。
『僕』には何も聴こえないが、ルキナの耳には自分を呼ぶ誰かの声が聴こえているのかもしれない。
だから、「決して振り返ってはいけないよ」、と『僕』はルキナを諭した。
この状況の異質さを肌で感じているからか、ルキナはそれに迷わずに頷き、『僕』には聴こえない何かの声を振り払う様にギュッと握る手に力をこめてくる。
それに応える様に手を握り返して、『僕』達は先を急ぐ。
まだ道程は遠いが、それでも着実に『僕』達はこの闇が綻ぶ場所へと近付いてきていた。
だが──
「ルキナ」
『僕』の耳にもハッキリと聴こえた、その声は。
……もう二度と聴く事が出来ない筈の、「半身」の様に大切な友の……クロムの、その声だった。
目指す方向とは全く逆方向の闇の中に佇むその人影は、限り無く『僕』の記憶の中のクロムの姿に似ていた。
だが、何処まで似ていようともそれは、当然の事ながら本物のクロムではない。
本物のクロムならばこんな場所でその様な顔をしたりはしない、本物のクロムならばルキナを闇に捉える様に誘ったりなどしない。
……これは、どこまでも醜悪な、紛い物でしかない。
クロムの姿をした「紛い物」は、笑って手招きしながらルキナを呼び、「おいで、さあおいで」とばかりに誘う。
その姿に、吐き気を催す程の嫌悪感と怒りを覚えた。
よりにもよって、クロムの姿を取って、ルキナの魂を喰らおうとするのか、と。
『僕』の逆鱗に触れる様なその行為に、『僕』は躊躇なくクロムの姿をした「紛い物」を跡形も無く消してやろうと、手にしていたランプを掲げた。
悪夢の中で人の魂と心を啜るしか能の無い様な【禁呪】が作り出した「紛い物」が、ギムレーの魂の欠片で灯された光に抗える筈はなくて。
仕留める事こそ出来なかったものの、「紛い物」はクロムの皮を放り捨てて絶叫を上げてその場から逃げ出した。
……醜悪な「紛い物」であったとは言え、クロムの姿をした存在をこの手で消してしまったのは、心底堪える。
あの時の悪夢の様な現実がフラッシュバックし、消える事なく胸の内を焦がし続けている絶望と後悔が勢いよく燃え盛ろうとするのだ。
哀しみに沈む『僕』を気遣ってか、ルキナは『僕』の背をそっと擦って。そして、「大丈夫です」と。
「お父様はきっと許してくれるから」、と。
ルキナは、そう言った。
…………ルキナが、『僕』の後悔や絶望を汲んでそう言った訳ではないのだろうとは分かっている。
だけれど。
ルキナのその言葉に、『僕』は僅かに救われた。
……そう、あの時だって、クロムは。
僕に殺されたと言うのに、「お前の所為じゃない」と、そして僕だけでも逃げろ……と、そう言ってくれていた。
それでも『僕』は僕を赦せる筈なんてなくて。
クロムだって本当は赦していない筈なのだと、僕を憎んでいる筈だろうと、『僕』は自分を責め続けていたのだ。
……でもそれは、クロムに対する何よりもの裏切りでもあったのだと、そう気付いてしまう。だから。
もう取り返しの付かない過去が、やり直したいのにやり直せず、謝りたいのにもう謝るべきその相手は何処にも居ない現実が、その何もかもが辛くて悲しくても。
それでも、クロムが願ったのなら。
……『僕』は、自分を許さなくてはならないのだ。
それはとても優しくて、……それでいて何よりも残酷な「願い」であった。
……『僕』は誰にも赦されたくなど無かったのだから。
それでも……それでも……。赦さねばならないのだ。
堪えきれずに、『僕』は泣いてしまう。
今はルキナを導かねばならないのに、それでも気持ちが溢れてしまって涙が止まらない。
そして『僕』が泣いていたからか、ルキナまでしゃくりあげる様に涙を溢し始めてしまった。
ポロポロとルキナの頬を伝う雫にどうしていいのか分からず狼狽えながらも、ごめんねと謝ると。
違うのだと首を横に振って、ルキナは僕の手を握る。
その姿に、ふと昔の記憶が甦った。
何時だったかなんてハッキリとはもう覚えていない、昔々のとある日の事だった。
クロムの代わりに幼いルキナの面倒を見ていると、何故かルキナが突然泣き出してしまって。
何が原因なのか分からなかった僕は、あたふたと狼狽えてあの手この手であやそうとしたけれど中々ルキナは泣き止んでくれなくて。
でも、万策尽きた僕が苦し紛れに覚えたての子守唄を歌うと、途端に泣き止んで笑顔になってくれたのだ。
それから、偶にルキナは僕に歌をせがむ様になった。
オリヴィエを始めとして、僕よりもっと歌が上手い人なんて沢山いたと思うのだけれど。
何故か、ルキナは僕の歌う声が好きだったらしい。
だから時々、二人で歌ったりもしていた。
……きっと、ルキナはもう覚えていないだろうけれど。
そんな懐かしくて愛しい「幸せ」な過去を思い出した『僕』は、昔ルキナとよく一緒に歌っていた元気が出る歌を口ずさんでみた。
するとルキナも、記憶の片隅にその歌が残っていたからなのか、『僕』につられる様に歌い始め、ポロポロと溢れていた涙も何時しか止まる。
昔と変わらないその姿に、『僕』は少し微笑んで。
手を繋ぎ二人で歌いながら、「終わり」を目指し始めた。
◇◇◇◇◇
もうそろそろこの闇の「終わり」を告げる光が見えてきそうになった頃には。
ルキナはすっかり大きくなり、剣を手に取り世界を救う為に戦い続けていたあの頃の姿になっていた。
ふと、何処か怯えを滲ませた目で、ルキナの手を繋ぐ『僕』の右手を見詰め、そして。
僅かに繋ぐ力を緩め、終にはその手を離そうとする。
迷いを表す様に小さくなったルキナの歩幅に合わせて、『僕』は歩くペースを落として。
恐らくは、再び【禁呪】の誘いに魂を絡め取られそうになっているルキナに、静かに語りかけ。
そしてルキナへと振り返って、『僕』の目には見えなくともそこに居るのであろう【禁呪】の意思を睨み付ける。
途端に何かの気配がたじろぐのを感じたが、大切なルキナを害しようとするソレを、逃がしてやる様な慈悲を、生憎『僕』は最初から持ち合わせてはいない。
だから躊躇無く、ランプの光でその闇を祓った。
すると、その光に畏れをなした様に闇の中で何かが必死に僕から遠ざかる。
本当は追い掛けて徹底的に潰してやりたい所だけれど、そんな些末な事に拘ってルキナを助け出す本来の目的を見失う訳にはいかない。
だから、今度こそどんな誘いからも守れるよう、ルキナの手をしっかりと繋ぎ直して、『僕』はまた歩き始めた。
暫しの沈黙の後、ルキナはポツポツと謝ってくる。
どうやら、【禁呪】の囁きに耳を傾け、そして『僕』の真意を疑ってしまった事を気に病んでいるらしい。
だが……そんな事はルキナが気にする必要は無いのだ。
【禁呪】の標的になっているルキナは、特にこの闇の中では容易にその悪意に絡め取られてしまうし、それを防ぐ事は難しく、それらは最初から分かっていた事だ。
故に、「気にしなくても良い」、と『僕』は言ったのだけれども、ルキナの気持ちは晴れなかった様だ。
折角自分を助けに来てくれたのに疑うなんて、と。
そう落ち込むルキナの姿に、胸が痛くなる。
……『僕』がこうやって助けに来たのは勿論ルキナの為であるけれど、自身の贖罪の為と言うのも大きい。
……『僕』はクロムを殺してしまった。
そして、ルキナが本来ならば生きるべき世界を……そして本当ならば待っていた筈の輝かしい未来を絶望に陥れ破壊してしまった……。
だからこそこうしてギムレーからは解放されたのなら、せめてルキナだけでも……守り抜かねばならないのだ。
だけれども、『僕』がどんなに励まそうとしてもルキナの表情が晴れる事は無かったのだった……。
◇◇◇◇◇
歩き続けた果てに、漸く闇の終わりの光が見えてきた。
ルキナが彼処まで辿り着ければ、この【禁呪】は完全に破られ、ルキナは目覚める事が出来る。
ただ……。彼処には、『僕』は近付けない。
ギムレーでもある『僕』が彼処に近付いてしまった時に何が起きるのか未知数だからであるし、あれはそもそもルキナの為だけの帰り道だ。
そこに、『異物』である自分が割り込めば、ルキナを害する結果になってしまいかねず。
それでは本末転倒だからだ。
ここまで来てしまえば、あの光に向かって走れば良いだけなのではあるけれど。
『僕』と離れた途端に、【禁呪】の意思は、最後の悪あがきとして、再びルキナに干渉しようとするのだろう。
ルキナは、それを無事に振り払えるのであろうか。
それだけが、どうしても気掛かりだった。
だが……後はもう、ルキナが自分の力でその干渉を打ち払ってくれるのを信じるしかない。
……そして。
ルキナの手を離さなければならない瞬間がやって来た。
……ずっと繋いでいたその手を離すのは少し寂しくて。
でも、大きく成長したルキナと、……ギムレーとしてではなく、『僕』自身として……向かい合えたのは。
本当に……本当に、幸せな事だった。
『僕』の心の中に居た、あの日の幼いルキナが、あの日よりもずっと、戦い続け歳を重ね続けてきた、気高く美しい女性の姿に書き換わる。
……僕は……ずっとずっとルキナの事を、見守っていてあげたかった。
クロムと共に、愛され慈しまれながら、少しずつ少しずつ、日々成長してゆくその姿を見守っていたかった。
だがそれは……叶わなかったのだ。
他ならぬ僕自身の所為で。
クロムも、愛娘の成長を見届けたかったであろう。
皆も……我が子の成長を見守っていきたかっただろう。
そして子供達も……親子との幸せな時間を、もっともっと望んでいた、必要だった。
だが……それを全て、他ならぬ僕がこの手で壊した。
僕が、その幸せを、奪ってしまった……。
……どれ程嘆いても、悔やんでも、決して晴れぬ絶望の闇の中でのた打ち回り叫んでも……。
……その事実を変える事は誰にも出来ない。
……そんな罪深い『僕』が、こんな幸せを感じても良いのだろうか、赦されるのだろうか、と。そう思うけど。
それでも、この心が暖かな想いに満たされてゆくことは止める事など出来よう筈も無かった。
そして、この暖かな心は、全て『祝福』へと変わる。
……『僕』はもう、ルキナと『ルフレ』が歩む未来を見守る事は出来ないけれど。それでも。
『僕』は心から信じている。願っている。
愛し合い想い合う二人が、何時までも幸せである事を。
その未来にどんな困難や苦難が待っていても、時に嵐に吹き飛ばされて離れ離れになってしまうのだとしても。
それでも、何もかもを共に手を取り合って乗り越えていく事を、最後には共に幸せに笑っていられる事を。
そして、『僕』が辿り着けなかった……クロム達と……仲間達と笑っていられる未来に二人が辿り着ける事を。
『僕』は信じているのだ。だからこそ、願い祈る。
そして。別れの時が来た。
これ以上の感傷は、これからの未来には不要だろう。
だから……。
『僕』は、光へと向かってルキナのその背を押した。
背を押されたルキナは一瞬躊躇うが、それでも振り返らずに光へと走って行く。
光の中へと消え行こうとするその背中に、別れを告げながら『僕』は手を振った。
「さようなら、僕の……『小さなお姫様』。
どうか君の未来が、幸せに満ち溢れています様に──」
きっとその言葉は届いていないけれども。
それでも良いのだ。
闇は砕けて行き、それと共に僕も消えていく。
それでも、怖いとは、少しも思わない。
最後に、ルキナを守れたのだ。
守りたかった子供を守り抜く事が出来て、そして成長したその姿をこの手で抱き締める事が出来た。
本来は生まれるべきでは無かった、存在自体が罪であった『僕』には過ぎた、「幸せ」で価値ある最期だ。
だから、悔いも未練も何処にも無い。
── どうか、君が幸せであります様に……
そう願いながら、『僕』は目を──
■□■□■□
……ふと、目が覚めた。
まだぼんやりとした視界に映るのは、見慣れた天幕で。
背中に感じるのは行軍用の質素なベッドの硬さだ。
── 私は、一体……どうして、ここに居るのだろう?
状況が呑み込めず、直前の記憶を手繰ろうとする。
── 確か、私は敵と戦っていて、そして……
……そこから先の記憶は無かった。
……何があったのかは思い出せないが、目覚める直前まで見ていた夢は、今もハッキリと覚えていた。
それは、長い……長い長い「悪夢」の様な夢であった。
闇の中で独りぼっちの夢、……そしてそこに「誰か」が助けに来てくれた夢。
あの夢の中でずっと手を繋いでくれていたのは、一体「誰」だったのだろうか……。
ぼんやりとしたまま、ベッドから起き上がろうとして。
そしてそこで、自分の左手を……まるで祈りを捧げる様に固く握る手がある事に気が付いた。
ふと横を向くと、ルキナと手を繋いだままベッドに倒れかかる様にして眠る愛しい恋人の姿があって。
見慣れた軍師としての格好のまま、目元に深い隈を浮かばせて、絶対に離さないとでも言外に主張するかの様にルキナの手を抱え込むようにして眠るそのルフレの姿に、訳が分からないまま一瞬混乱する。
眠りに落ちているルフレの表情などからは、恋人同士の甘い雰囲気は欠片も無くて。
戸惑いながらも軽く揺すっても、余程疲れが溜まっていたのか、何かに苦悩する様な表情を浮かべたままルフレは目を覚まさない。
そしてふと、ルキナは。
自身の左手を握るルフレのその手が、あの夢の闇の中で、ルキナを導く様にずっと繋いでくれていた「あの人」の手と殆ど同じであると気が付いた。
……いや、違う。
あの夢の中の手は、『ルフレ』のものではあるけれど。
今ルキナと手を繋ぎ眠るルフレのものではなくて──
記憶の片隅に押し込められていた「何か」が、音を立てて開こうとしていく。そして。
── さようなら、僕の……『小さなお姫様』……
目覚める間際に耳に届いた、今もこの心に残響の様に残るその呼び方に、最後の鍵が音を立てて外れる。
そして、ルキナの記憶が急速に溢れかえった。
昔、そう……お父様がまだ生きていた、ルキナもまだまだ幼かった頃に。
『小さなお姫様』、と。
時々ルキナの事をそう呼ぶ人がいた。
そしてルキナは、幼い当時はその人の事を、こう呼んでいたのだ。
『ルフレ「おじさん」』と。
「あっ──」
ルキナの中で、急速に全てが繋がる。
『ルフレ「おじさん」』との思い出が、色鮮やかに甦る。
歩き疲れた時に何時も負ぶってくれた大きな背中も。
迷子にならぬよう一緒に繋いでくれた大きなその手も。
大好きだった優しい歌声も、ルキナの名前を呼ぶその声も、ルキナに微笑むその優しい眼差しも、全部──
「あっ……あぁっっ……」
あの終わりがない闇に閉ざされた夢の中、助けに来てくれたのは、その手を繋いで導いてくれていたのは……。
「『ルフレ……おじさん』……」
あんなにも大好きだった、でも……疑って憎んでいた、遠い「未来」に喪ってしまった人だった。
どうして、彼が助けに来てくれたのだろう。
そもそも、あの『ルフレおじさん』は、本当に彼その人だったのだろうか。
悪夢に魘されるルキナが無意識の内に作り出していた、幻だったのじゃないだろうか。
そんな事も頭の片隅には浮かぶが。
彼が、本物だろうとルキナの心が見せた幻だろうと。
そんな事はもうルキナにはどうでも良かった。
何故ならば。
繋いだ手も、優しい声も。
全て、記憶の中のあの人のままだったのだ。
あの……包み込む様な優しさも。全て……。
紛れもなく、あの人のモノであった……。
だからこそ、大切だった記憶が溢れだす。
『ルフレおじさん』の事が大好きだったと言う……あの頃の気持ちが、痛い程色鮮やかに甦ってしまう。
もう居ない人だ。もう二度と逢えない人だ。
何時かの遠い「未来」で、お父様を裏切った人だ。
それでも。
……ルキナの事を、心からの暖かな慈愛で包み込んでいてくれた……優しい人だった。
記憶の棚から溢れ出してきた「思い出」はどれもこれも、温かなものばかりで……。
確かにあの人に、愛されていたのだと、幸せを願って貰っていたのだと、そう改めて理解する。
そう想うと、溢れ落ちる涙は止まらなかった。
幸せだった思い出は確かにあって。
愛されていた瞬間は確かにそこにあって。
大好きだった思いは、確かに「思い出」の中にあった。
もうあの人は何処にも居ない。
ルキナの愛する恋人もルフレではあるけれど、彼は『ルフレおじさん』では無い。
変わった「過去」の何処にも、もう居ないのだ……。
それが、無性に哀しくて。
ルキナは、大切だったあの人を想い偲ぶ様に。
静かに涙を溢し続けるのだった。
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