カニバリズム要素が含まれます。
『冒涜の聖餐』※
◆◆◆◆◆
『それ』を自覚した瞬間から、ルフレの「絶望」は始まった。
『それ』が叶う可能性などこの世には欠片も有りはしない事を、当人からハッキリと突き付けられてしまったからだ。
何もそれはルフレが「諦める」事で更なる苦しみから逃避しようなどと……そんな後ろ向きで臆病な考えで、『それ』を諦めたと言う訳ではない。ただただ何処までも残酷に。
ルフレでは彼と「その様な」関係性にはなれない事を、鮮やかなまでに示されてしまったからであった。
彼女を見詰めるクロムのその眼差しは、甘やかな雰囲気すら纏っている様に優しく、心から彼女を『愛して』いる事を、誰もに知らしめる程のものであった。
愛して、そして愛されて。それはとても「幸せ」な……この世の誰もに祝福されるべき「男女」の姿であった。
跡継ぎを作る必要があり、時に心の伴わない婚姻も為さねばならない「王族」と言う立場を鑑みれば。そうやって互いを愛し慈しみ尊重し合える相手を見付ける事が出来たのは、そして互いに思い結ばれる事が出来たのは。紛れも無く「幸せ」な事で……。相手を想えばこそ、祝福するべき事だった。
その瞬間に胸を引き裂かれる程の絶望を知ったとしても。
どうして、その瞬間に自覚してしまったのだろうか。
きっと最初から叶う筈の無い願いであるのならば、この命が果てるその時まで気付きたくなど無かった。
何も知らないまま、何も気付かないまま。ただ『半身』として、誰よりも互いを信頼する友として在れれば良かったのに。
そうでなくとも、若い頃のほろ苦い望みとして『それ』を呑み込める程に、もっともっと未来の……互いに歳を重ねてから、ふと思い出話に花を咲かせる様に気付ければ良かった。
なのにどうして、その瞬間だったのだろう。
叶う可能性など無い事を、いやそんな願いを抱いている事すら知られる訳にはいかない事を……それを嫌と言う程理解し呑み込んで……それでも殺しきる事も出来なくて絶望するしかない様な、あんな瞬間に。どうして。
苦しくて苦しくて、だからこそ、「もしも」だなんて馬鹿馬鹿しい考えも思い至ってしまう。
もしも、もっと早くにこの願いに……この気持ちに気付けていたのならば。彼はこの思いを受け入れてくれたのではないかと、彼があの優しい眼差しを向けるのは他ならぬ自分だったのではないかと。……そんな事を考えてしまう。
……そんな事、考えたところでもう何の意味も無い。
事実として、彼が選んだのはルフレではなく彼女なのだ。
そもそも、もっと早くにこの思いを自覚していたとして、それで彼がルフレに向ける感情や親愛の質が変わったのかと言うとそうはならないだろう。
彼にとってルフレは親友よりも更に深く強い繋がりを持つ『半身』……、掛け替えの無い友人でしかない。
その関係性は何にも代え難く尊いモノではあるけれど。
しかしルフレが求めているのはそうではなかったのだ。
彼が「半身」だと「親友」だと、そうルフレへとその強い信頼の眼差しを向ける度に、その温かな信頼がルフレの心を苛み傷付ける。彼が与えてくれたその「居場所」が、何にも掛け替えのないものであるからこそ、「それとは違うもの」を……決して手に入る事の無い『それ』を望み欲する事の罪深さが、ルフレを苛み続けるのだ。
その望みを殺してしまえるのなら、手放せたら、心の奥底の感情の墓場に捨ててしまえるのならば、こんなに苦しむ事なんて無いのだろうけれども。
しかし残酷な事に、『それ』を欲している事を誰にも悟られぬ様に偽りで覆い隠し、クロムの「善き友」としてその傍に居続ける事ならば出来るのに。
どうしてだか、彼に抱いてしまったその「想い」を殺せない、捨てられない。間違っていると、叶わないと、無価値だと、そう理解しているのに……。
決して取り除けぬ程、心の底の奥深くからクロムを『愛して』しまったこの心を。彼に、自分を『愛して欲しい』と願ってしまうその身勝手な欲求を。……ルフレはどうしても殺せなかったのだ。
……幾度と無く抑え込もうとしても、逆にそうしようとすればする程、クロムを求める心は際限無く醜い程に肥大し続けてしまう。
ならばいっその事全てを捨てて、その醜く浅ましい『愛欲』に溺れてしまえば良かったのかもしれない。
『それ』以外では決して埋められない渇望を満たす為に、何もかもを……今自分が手にしている『幸せ』も、彼の幸せも笑顔も……その何もかもを滅茶苦茶に壊して。クロムが自分だけを見て、そして他ならぬルフレだけを『愛する』様に。
そうやって形振り構わずに、その情念に魂まで燃やされ尽くして地獄に堕ちて行く様に……それすらも歓びとして、それだけに全てを賭ける事が出来るなら……。
そうやって生きられるなら、それはそれで一つの救いであるのだろう。だが、ルフレはそうはなれなかった。
そう言った純粋なまでに狂気的な愚かさに、全てを賭ける勇気も度胸も……ルフレには無かったのだ。
ルフレにとってクロムこそが誰よりも大切なたった一人、己の存在価値の全てであるのだとしても。
それ以外の全て……共に戦った仲間達もまた、ルフレにとって大切な存在であったのだ。……そう、クロムの横で幸せに満ち溢れた微笑みを浮かべている彼女だって。……クロムに『選ばれた』その人だって。ルフレにとっては、大切な仲間であったのだ。彼女を裏切り傷付け苦しめる様な事を、心から躊躇するに十分な程には……親しみを抱いていた。
それに、ルフレがそんな愚かな道を選んで傷付けるのは何も彼女だけではない。
ルフレやクロムを取り巻く仲間達の多くを傷付けるだろうし。そして、何よりも。
ルフレにとって何よりも大切なクロムを、最も傷付けてしまうだろう……。そして、そうやって誰も彼もを傷付けたその先にルフレが望むものがあるとも思えない。
だからこそ、ルフレは何も言わない、動かない。
叶う事の無いその願いを心の奥深くに沈めて。
殺せない感情に必死に蓋をしながら、自分の心そのものを欺く様に偽りの仮面を被って。そうやって、何も変わらない自分を演じていた。……終わりの見えない苦しみを抱えて。
そして、そうやって。ルフレはクロムの傍に居続けた。
ルフレの心など何も知らずルフレに笑いかけるクロムに、必死に笑顔を返しながら。そして……──
◇◇◇◇◇
「おお、ルフレ。
良かったら今日もルキナの顔を見て行ってやってくれないか?
誰に似たのか、ルキナはお前の事が大好きだからなぁ……。
お前に抱いて貰うと機嫌がいいんだ」
ニコニコと、微笑みながらそう言うクロムにルフレは「勿論」と微笑み返した。
春に生まれたばかりの、クロムと彼女との子供。まだ頸も据わらぬ無垢なる赤子。
『ルキナ』、と。両親からの愛情と願いを込めてそう名付けられた愛らしい小さな命は、どうしてなのかは分からないがルフレの事を気に入っている様だった。
ふぎゃふぎゃと泣いている彼女をルフレが抱き抱えて揺らしてやれば、すやすやと安心した様に眠りだす。
クロムに似たその髪色も、その左眼に聖痕の刻まれた深蒼の瞳も……。その全てが愛おしい、小さな命。
ルフレとしても、ルキナの事を心から愛しいと感じているし、彼女の温かな身体を抱き上げる時、そこにあるのは確かに『愛情』だと。ルフレもそう思っている。
その内から胸を焼き焦がす想いから、目を塞ぐ様にして。
クロムに促されて、ルフレは揺り籠の中で眠っているルキナの顔をそっと覗く。安らかにすやすやと眠る彼女は、何に苦しむ事も無い幸せの中に居るかの様であった。
優しく愛情深い両親から惜しみ無い愛情を注がれ、聖痕を受け継ぐ王女としてその将来は半ば保証されている。
どうかその未来に『幸せ』と『希望』が満ち溢れていて欲しいと、ルフレもそう心から願う。
小さな小さなその手に、そっと自身の指先を触れさせると。ルキナの小さな手は、まるで握り締める様にルフレの指先を包む。その手の温もりに、その小さな掌の柔らかさに、ルフレは自然とその目元を緩ませた。
ルキナを起こさぬ様、その小さな手から指先を離す。
こうして安らかに眠っているのだから、わざわざ起こしてまで抱く事は無い。
まだ薄いが柔らかなその髪をそっと撫でて、ルフレはルキナの傍を離れた。
「すまんな、眠っている所だった様だ」
「いや、今のルキナは寝るのが仕事さ。
それに、こうやって幸せそうに眠っている姿を見ると、幸せな気持ちになるよ」
ルフレのその言葉に、嘘は無い。
愛されている赤子の姿を見る事は幸せな気持ちにさせるものであるのだし、それがクロムの子であるならば尚更だ。
ただ……。愛しさが溢れ出している眼差しでルキナを見詰めるクロムのその姿に、ルフレの心の奥深く。永遠に閉ざした扉の向こうで暴れる物がある。
ルフレの願いは叶わない事を何よりも雄弁に訴えかけるその存在は、ルフレの心をどうしようも無く搔き乱すのだ。
それでも、ルキナを傷付けるなど、頭の片隅を過る事は無いし、無垢な信頼にも似たそれをルフレに向ける彼女を邪険に扱う事も厭う事も出来なかった。
この苦しみを胸の内に押し込めていれば、ルフレ以外は誰も傷付かない、誰もが笑っていられる。それを誰よりも分かっているからこそ、ルフレは何も知らぬ顔で微笑み続ける。
その時ふと、ルフレの腹の虫が小さく鳴った。
小さなそれを耳聡く聴き付けたクロムは、少し揶揄う様な笑みを浮かべる。
「昼時にはまだ少し早いと思うが、もう腹が減ったのか?」
「あはは……何だか最近、凄くお腹が空くんだよね」
最近……ルキナが産まれる少し前辺りから、ルフレは自分でも気付く程に腹の減りが早くなった。
ただ、思い返してみれば、クロムへの『想い』を自覚して……そしてそれを押し込めた頃から、よく食べる様になっていた気がする。
まあ、よく食べる様になった所で、それまでのルフレが多忙を極めた所為で食事を抜く事も多かった事を考えると、寧ろ健康的になっているのかもしれない。
「良い傾向なんじゃないか?
前からお前は細過ぎると思っていたんだ。
しっかり食べて身体を作った方が良いぞ?」
「いやいや、僕はこう見えて結構筋肉付いてるからね?
着痩せしているだけだよ?
クロムだって知っているだろう?」
そうルフレが言い返すと、分かってる分かっているとクロムは楽しそうに笑う。そしてそれにつられる様に、ルフレも笑みを零し、ルキナを起こさぬ様に小さな声で笑い合う。
それは、とても……とても『幸せ』な日々だった。
◇◇◇◇◇
── 一体どれ程の時間が経ったのだろう……。
鉄格子の外から漏れる様に届く、壁に設けられた灯りの小さな頼りない光以外に光源の無い、薄暗い部屋。
その冷たい石畳の上に手足を戒められた状態でルフレは転がされていた。
ここに閉じ込められた最初の内こそどうにかしてここから逃げ出そうと足掻いてはみたのだが、手足を戒める枷を壊す事もそこから逃れる事も出来ず。誰かがここを開ける事があるのならその隙を狙おうとしても、そもそもルフレがここに閉じ込められた状態で目覚めてからはここに訪れる者など誰も居ない。
時間の流れを計るものが何も無い中で、時間の経過を示すのは、咽の渇きと次第に強くなっていく空腹感だけ。
空腹感は次第に飢餓感とも呼べるものになり、耐え難い程にルフレの身と思考を蝕んでいく。
そんな苦しみの中でも、ルフレが考え続けるのは、ただ一人の事だった。
『炎の紋章』を完成させる為に『黒炎』を求めペレジアを訪れて。そしてペレジア国王との謁見に臨んだ……筈だった。
しかし、謁見の間に向かったその後の記憶が無い。
気付けばルフレはここに閉じ込められていたのだ。
……今回の『黒炎』の件がペレジアの罠である事は当然ルフレ達は想定し、その為の備えも警戒もしていたのだが。
それでも、防げなかったのだろうか。
周囲には誰の気配も無く。あの場にルフレも共に居たクロムがどうなったのか、それを知る術は無い。
どうか、彼だけは無事であってくれれば良いのだけれど。
彼がもし囚われの身となっているのならば何をしてでも助け出したいしそうせねばならぬが、しかしルフレ自身こうして囚われ何も出来ずただ助けを待つしか無い身だ。
果たして、助けは来るのだろうか。
来たとして、ルフレの命がある内に間に合うだろうか。
耐え難い飢餓の中でそんな事をぼんやりと思うが、ルフレにとっては自分の命など然程重要な事では無い。
クロムが生きてくれさえいればそれで良いのだから。
……自分がこのまま命を落としたら、クロムは悲しんでくれるのだろうか。……クロムを悲しませる事はルフレの望みでは無いが、そうだったら良いな、と。そうも思ってしまう。
ぼんやりとした思考の中で、ルフレが自分の命の終わりを静かに見詰めていると。
急に、扉が軋む音と共に部屋に光が差し込んだ。
薄暗がりに慣れたルフレの目にその光は眩しくて、思わず目を眇めてしまう。
だから、部屋に入ってきて鉄格子の鍵を外してそれを開けたその者が一体どんな者なのか、ルフレには分からなかった。
ぼんやりとした人影が動いている事しか分からない。
その何者かは、鉄格子を開けたばかりか、ルフレの手足を戒めていた枷を外す。
だが、既に飢餓と渇きに衰弱していたルフレは逃げ出そうと抵抗する事も難しく。ただされるがままになるしかなかった。
「いやはやすまないね、少し準備に手間取ってしまったんだ。
ただまあ……『空腹は最高のスパイス』だと、君たちは
よく言うだろう?
これからの特別な晩餐の為に、最高の状態だね」
何処かで聞き覚えがあるその声をぼんやりと聞きながら。
既に限界であったルフレの意識は、闇に閉ざされていった。
◇◇◇◇◇
鼻腔を擽る香しい匂いに釣り上げられる様に、ルフレの意識は深い水底から浮かび上がった。
まだぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、温かな湯気を昇らせているスープで。
それは抗い難い程の香しい匂いでルフレの意識を支配する。
その匂いに意識を抉じ開けられていく様に、ルフレは一気に覚醒した。そして状況を把握しようと周囲を見回す。
すると、目の前のテーブル一杯に、所狭しと料理の皿が並べられている事に気付いた。
そして、自分が豪奢な椅子に戒められる事も無く座らされている事にも。
状況が飲み込めきれず、戸惑ったままにルフレがテーブルの正面を向くと、そこには。
自分とその赤い瞳以外は殆ど同じ顔をした……かつて初めて邂逅した際には、ギムレー教団の最高司祭だと名乗っていた男が座っていた。そこに座る事が当然である様に、主として悠然と座り、ルフレへと底の見えぬ表情を浮かべている。
それは、妖艶な微笑みにも、或いは憐みであるかの様にもルフレは感じ取ってしまう。
ここは一体何処なのだろう。そして、目の前のこの男の目的は何なのだろう……。
そんな事も思考の端には浮かぶのだが、それ以上にルフレの意識を支配するのは目の前に並べられた料理であった。
身を蝕む飢餓感以上に、何故だか分らない程に抗えない『何か』を感じてしまうのだ。
それは、ずっとずっと求め続け満たされぬが故に自身を苛み続けていたモノが目の前に与えられているかの様で。
「これらの料理は君の為だけに用意したモノなんだ。
手荒に扱ってしまった詫びという訳ではないのだけれど、心行くまで味わって欲しい。
『食材』も、君の為の特別なモノなんだ。
きっと、君も満足してくれると思う。
勿論毒なんて入れてはいないよ。
さあ、食べると良いさ」
彼のその言葉に背を押される様にふらふらと、ルフレは目の前にあったスープの皿を手に取りそれを掬って、恐る恐ると一口食べる。
その途端、餓え乾いていた全てが一瞬で満たされる様な、天にも昇る様な心地に満たされた。
それに突き動かされる様に夢中でスープを飲み干していく。
野菜と肉を贅沢に煮込み、隠し味なのか僅かに血を入れていスープは、出汁の旨味が滲み出ている。
スープは瞬く間に飲み干してしまったが、極限に近い程の飢餓に蝕まれていたルフレの手はまだ止まらない。
貪りつく様な必死さで、ルフレはテーブルの上に並べられていた料理を口にしていく。
肉を使った料理が多いのだが、一体『何』の肉であるのかは分からない。
だが、今まで口にした事も無い程にルフレの心を虜にする程に極上の味であった。
一口噛み締める毎に、餓え乾いていた全てが満たされていく。身も、そして絶えず餓え乾き続けていた心の奥底まで。
滴り落ちる肉汁一滴に至るまで、その全てがルフレを満たしていった。
そして、ルフレが耐え難い苦しみから漸く解放されて人心地が付いたその時には。テーブルの上に所狭しと並べられていた皿はその殆どが空になっていた。
それと同時に、拍手を鳴らす音がルフレを夢心地から現実へと引き戻す。
「いやはや、良い食べっぷりだったね。
見ている僕の方も、昔を思い出して満たされる様な気分になったよ。
ふふふ……最高に旨い肉だっただろう?」
最高司祭の男のその言葉に、戸惑いつつも頷く。
一体『何』の肉であるのかは分からないけれども。
今までに食べてきたどんな料理も霞む程に「旨い」料理であったのは間違いないのだから。
「そうかい、それは良かった。
僕と同じく、君もまた餓え乾いているだろう事は容易に想像が付いたからね。その為に、君をこうしてここに招いた。
僕は既にもう『満たされた』のだから、君からその権利を奪う事は忍びなくてね。今の君は、もう満たされた筈だよ。
『望んでいた者』の全てを、その身に受け入れたのだから」
表面上は「慈愛」の様なその表情の向こうに何故か想像を絶する『狂気』の気配を感じて、ルフレは思わず息を呑む。
そして、意図せず震えてしまう声で問うた。
「お前の言葉の意味が、僕には分からない。
お前は何者だ、一体僕に何をしようとしているんだ?
クロムは何処なんだ?」
こんな所に招いて、料理を振舞うだけだとは到底思えず。
その意図やクロムの安否を問おうとしたのだけれども。
最高司祭は、ルフレと同じ顔でキョトンとした表情を浮かべて、不思議そうに少し首を傾げた。
「言葉通り、君に食べて貰う為にここに招いたんだよ。
僕が食べて満たされたのに、君は食べられずに餓え続けるだなんて、不公平だろう?
僕たちは『同じ』存在なのに。
それに、クロムは此処に居るじゃないか?」
そう言って、最高司祭は。ルフレを指さした。
「え……? なにを、言って……」
振り返っても、そこにクロムなど居ない。
戸惑って辺りを見回しても、何処にもクロムの姿は無い。
そんなルフレの姿に、最高司祭は再び首を傾げた。
「『何を?』も何も……たった今、君が食べただろう?」
「食べ、た……?」
意味が分からず、茫然とそう呟くと。
最高司祭は、ああと得心した様に呟き、指を鳴らす。
すると、その手の上に、『何か』が現れた。
──それは。
「くろむ……」
茫然と、信じられないと、嘘だと言ってくれと。
混乱と絶望と。
そんなそれらが全て綯い混ぜになったまま、ルフレは力無く呟いた。
最高司祭の手の上に現れたのは。
クロムの、首であった。
だが、当然その下にあるべき身体は、何処にも無い。
まるで眠っているだけであるかの様な表情で。
だが、そこにあるのは首から上だけであった。
最高司祭の手の上に血が滴り落ちてはこないのを見るに、切り離されてから時間が経っているのだろう。
誰にもどうする事も出来ぬ、不可逆の『死』がそこにあった。
どれ程目の前の光景を否定したくても、残酷なまでにその首は『クロムの死』を突き付ける。
世界の全てが色を喪って崩壊していく様にすら感じる。
それでも残酷な事に、例えクロムを喪ったのだとしても世界が終わったりはしなかった。
クロムを喪い、それでも自分が命永らえている現実を受け入れたくなくて。
発作的に、ルフレはテーブルの上にあったナイフを掴んでそれを己の首に突き立てようとするけれど。
その切っ先が僅かにルフレの首元に当たった所で、ルフレの手は目に見えぬ手に押さえつけられたかの様に止まってしまう。
「おっと、危ない危ない……。
そんな風に命を落としたら、折角君と一つになったクロムも浮かばれないだろう?
やっと求めていたクロムと一つになれたんだ。
その幸せをもっと噛み締めるべきだろう?」
「ひと、つ……?」
「そうとも。
君のクロムは、君に喰われて、君の血に、君の肉になる。
君のその血の一滴に至るまで、クロムが存在するんだ。
もう誰も、何事も、君とクロムを引き離せない。
君の望みは、叶っただろう?」
漸く。認めたくなかった現実の全てを理解し受け入れたルフレは、思わず自分の腹の中の『それ』を、全て吐き戻そうとするけれど。
それは目に見えぬ力によって阻まれてしまった。
ルフレが自由になるのは、言葉を発する舌と喉だけで。
だからこそ、必死にルフレは言葉を紡ぐ。
「お前は誰だ!?
どうして……どうしてこんな事を!!」
そう問い直すと、最高司祭は壊れた様な笑みを浮かべた。
「僕は君だ。……正確には、未来の君自身だ。
邪竜ギムレーとして目覚め、そして時を越えてこの過去へとやって来た『ルフレ』自身だよ。
尤も、僕が過去へと跳んだ影響なのか、それともあの娘の影響なのか、少し過去が変わった様だから、君と僕では少し違うのかもしれないけれどね。
それでも、僕たちが『同じ』存在である事に変わらないさ。
だからこそ、僕には分かるんだよ。
君が、クロムへの叶わぬ『想い』を抱いてどれ程餓え乾き苦しんでいるのかと言う事を、ね。
……僕もかつてはそうだった」
だけれども、と。
最高司祭……否、邪竜ギムレーと。
……未来のルフレ自身だと名乗った男は。恍惚とした様に、その身を抱き締めた。
ぞっとする程に妖艶なその表情に、ルフレは息を呑む。
「だけれども、僕はクロムの全てを手に入れたんだ。
その肉も、血も、骨の一欠けらも、そしてあの美しい魂も。
その全てを喰らって、僕たちは一つになった。
今の僕の身体の全てに、クロムが居る。
この血の一滴に至るまで、全身で彼を感じられるんだ。
それまでの苦しみも絶望も、決して癒えぬ心の渇きすら、クロムがこの身に溶け込んだ瞬間に全てが満たされた。
ああ……! あの瞬間の感動は、何度思い出しても決して褪せぬ最高のものだった……!
もしかして、君と僕が混ざった時に、その記憶の一部が君に流れ込んでいるんじゃないかな?」
ギムレーのその言葉と共に、ルフレの頭はずきりと痛む。
そしてまるで『思い出す』かの様に、あの「悪夢」を……。
ルフレが自らの手でクロムの命を奪ってしまった、記憶を失ったルフレがたった一つ持っていたその『記憶』が、まるで本のページを高速で繰っていく様に想起される。
腕の中で物言わぬ骸となったクロムの姿。完全に零れ落ち、二度と元に戻す事の叶わぬ彼の命の欠片。空に溶け行こうとする彼の美しい魂…………。
そして、『ルフレ』は。自身の腕の中の彼を……──
それを『思い出した』瞬間。
ルフレは目の前で満ち足りた様に微笑む邪竜に、言葉ではどうやっても表現し切れない程の、強烈な嫌悪感と忌避感を感じ。そして、今の自分が邪竜と大差無い畜生以下まで堕ちてしまった事にも絶望する。
それを自身が意図したかどうかは異なるが。
ルフレもまた、クロムを喰らったのだ。
その肉を、最愛の人の命を、喰った。
殺した。ルフレが、殺してしまった。
だが、最も度し難く嫌悪と絶望を抱くのは。
そうやってクロムの肉を喰らってしまったと言うのに。
心の何処か、自身でも決して理解しえないその心の海の何処かで眠っていた『怪物』は。肥大し続け狂ってしまった、彼への執着心から生まれた自分の姿をした『化け物』は。
こんな形でクロムを手に入れた事に、得も言われぬ「歓喜」の念を抱いているのだ。
これで真実クロムは自分ただ一人のモノであるのだと。
この世の誰も、何も、自分とクロムを引き離せないのだと。
ああ、それは何と醜く悍ましい……──
「どうして……こんな事を……。
何だって僕に……クロムを……。
こんな事、僕は……」
自身の悍ましい『怪物性』を認識してしまったが故に、力無くルフレはそう呟く。
自身にその様な悍ましい一面があった事は、この際否定は出来ないのだけれども。
それでも、こんな事を望んだ事など、ルフレは一度も無かった。決して無かったのだ。
ルフレが望んでいたのは、欲しかったのは。
クロムと自分が愛し合い共に生きる様な、そんな未来で。
決して、こんな形でクロムと一つになる事では無かった。
そして何よりも。
ルフレが望んでいたのはクロムの幸せなのだ。
こんな事にクロムの幸せなど、ある筈は無いだろう。
こんな絶望に狂った果てにある壊れた『幸せ』など……。
そんなルフレに、邪竜はいっそ慈悲深い神であるかの様に慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべ。そしてその手の中にあるクロムの首を優しく撫でて、それをルフレの手に渡す。
まるでこの世の悪徳を煮詰めた悪夢の様な光景だと、ルフレはそれに悍ましさを抑えきれず心の中で吐き気を催した。
「『僕』がギムレーに覚醒すると言う未来を変えさせない為に過去へと跳んだのだけれども。
強大な存在が時空を超えるには中々大変でね。
その時に、少しばかり力を喪ってしまった。
だからこそ、ギムレーとして覚醒した君と溶け合って、より強大なる存在として蘇ろうと思った訳だ。
そしてその為に、「同じ」未来へと収束する様に少しだけ世界に干渉した。
ただまあ……僕の時と違って君をこうして招いたのはね。
『勿体無い』と、そう思ったからさ」
「勿体無い……」
狂人……。否、その言葉通りであるのならば既に、目の前のこの存在は『人』ではないのだからそう表現するべきではないのかもしれないけれども。とにかく狂ったこの存在の言葉に一々耳を傾けるべきではないのかもしれない。
だが、ルフレはもう、疲れてしまっていた。
クロムをこの様な形で喪い。だがクロムの命を奪ったのであろう邪竜に対して憎悪の炎を燃やす事も、「クロムを喰らって満たされてしまった」自身の『怪物性』が故に踏み切る事が出来ず。
……有り体に言えば、生きる理由を喪っていた。
もう何も考えず、ただ眠ってしまいたい。
眠る様に死ねるなら、もう何も望みたくなかった。
「僕の時は、何の調理もせずに食べる事しか出来なかったからね。勿論、それでも極上の幸福ではあったのだけれど。
しかし、より美味しく食べる為のその機会も手段もあるのに、ただ喰らうだけだと言うのは勿体無い。いや、クロムに対して余りにも失礼な事じゃないかな?
だからこそ、こうして最上の状態でクロムを喰らうべきだと思ったのさ」
最高だっただろう? と。そう言外に訊ねてくる邪竜に、ルフレは何も言い返せなかった。
狂い切った彼には、何を言っても通じないだろうし。
そして、何をどう言おうと、邪竜を翻意させようと。
クロムが生き返るなんて事は、決して無い。
全てがもう、終わってしまった後なのだから。
かつてはルフレであったのだという彼がここまで狂ってしまったのは、邪竜として覚醒してしまったからなのか、それともクロムを喰らうという凶行を成してしまったからなのか。
それは分からないけれど。
……恐らくは、ルフレもそう遠くない内に、彼と同じ深淵まで狂い果てるのだろう。
クロムへの罪悪感に、自身の悍ましさに、それでも満たされてしまった罪業に、心の全てを狂わせながら。
その予感を感じながらも、ルフレはもうそれに抗おうなんて意思を持てなかった。
この胸に残っているのは、クロムへの懺悔の念だけだ。
「『炎の紋章』は既に完成しているのだし、『覚醒の儀』は何時でも行える。
だから、今は暫し眠ると良い。
目覚めた時には、きっと世界が違って見える筈さ。
最愛の人と一つになった喜びを噛み締めてから、僕と一つになろうじゃないか」
邪竜のその言葉と共に、邪竜の何らかの力によってか、ルフレは抗い難い程の眠気に襲われる。堪らず閉ざされてゆく瞼の向こうで、邪竜は満ち足りた様に微笑んでいた。
クロムの首を抱えたまま、ルフレは眠りの世界に誘われる。
その心に最後まで浮かんでいたのは、最愛の人の姿だった。
……何時か、狂い果てた先で。こうして彼の姿を思い描く事も叶わなくなるのだろうか。
…………ならばせめて、それが少しでも遠い未来になる事を願う事は、赦されるだろうか。
そんな事を最後に想って。
ルフレの意識は完全に闇に閉ざされるのであった。
◆◆◆◆◆