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どうして、こんな事になってしまったのだろう……。
僅かな光も届かぬ深い闇の中の様な、幼子の虫籠の中の様な、狂った神の箱庭の様な。そんな閉ざされた狭い世界の中で。
ルフレは苦しみと共に、幾度目とも分からない溜め息を吐く。
だが、その溜め息は何処にも届かない。それを聞き届け得る者が居るとすれば、ただ一人だけであるのだが。
しかし、ルフレの苦しみが彼の心に届く事は無いのだろう。
身動きの邪魔にはならぬ様に……だが逃げ出す事の出来ぬ様に自身の腕を縛る鎖も、逃げられぬ様に潰された足の腱も。
そうやってルフレをこの場所に縛り付けているのは。
他ならぬ彼──クロムなのだから。
ルフレは、かつて一度この世界から完全に消滅した。
邪竜ギムレーの器として、邪竜へと覚醒しこの世界を滅ぼす事を運命付けられていたルフレではあったが、それを拒絶し。
そして、その運命を変える為……そしてこの世界からギムレーの脅威を取り除く為に、ルフレは己の命を擲った。
己の存在を代償にしたルフレではあったけれど。
しかし、紡がれた絆の導きと……そしてルフレ自身の願いと祈りが実を結び、再びこの世界で生きて行く事を赦された。
世界に還り付いて、そして再びクロムと巡り合って。
それで、やっと今度こそ、皆と……クロム達と共にこの生を全う出来るのだと、そう思っていたのに。
だが、そんなルフレの想いは、この箱庭の中で閉ざされた。
どうして? と。もう数え切れない程幾度も投げ掛け続けているその問いに、クロムは何も返してはくれない。
『もう何処にも行かない、ずっと君の傍に居る、だからこんな事をしなくても良い』
そんな心からの言葉すら、彼の心には何も響かなかった様だ。
ギムレーと共に消滅して、だが再びこの世界で生きる事が赦されて……。だからこそ、今度こそ……。
もう二度と彼の手を離さない様に、もう二度と交わした約束を違わぬ様に、そう生きようと。愛する人々と共に、この命のある限り生きようと、そう、思っていたのに。だけれども。
クロムは、ルフレを己だけが知る秘密の場所に閉じ込めた。
何処にも行けぬ様に、誰にも逢えぬ様に。
ルフレが生きてこの世界に戻ってきた事を、きっとクロム以外の仲間たちは誰も知らないのだろう。
閉ざされたこの場所を知るのは、クロムだけである。
ルフレですら、此処が何処であるのか知る由は無い。
日々クロムが訪ねに来れる事を考えると、王都の何処かではあると思うのだけれども……。しかし、何らかの魔法による仕掛けで距離的な制約を無視出来るのならばそうとも限らない。
助けを求める事も出来ず、逃げ出す事も出来ず。
クロムの気が変わって解放してくれる事を祈るしか無い。
それは、虜囚の身である事とどう違うのだろうか。
ただ、外界から隔絶されているとは言えここは牢獄ではない。
寧ろ、王侯貴族の住まいであるかの様に、不快さの無い洗練された贅を尽くされた上質な部屋を幾つも与えられていた。
……ただそこに出口は何処にも無いだけで。
食に困る事も、衣服に困る事も、寝床に困る事も無く。
クロムはルフレの為だけに立派な図書室を用意してくれていた為に、書物などに困る事も無い。他人を必要としない娯楽の類ならば、頼めば直ぐ様に用意してくれるのだろう。
それを贅沢な生活であると、羨む者も居るのかもしれない。
だが、ルフレの手は身の回りの事に困らぬ程度の細く長い鎖で繋がれ、そして足の腱は彼の手によって潰された。歩く事に支障は来さないが、歪に塞がったその傷が完全に治る事は恐らく有り得ず、きっともう二度とかつての様には走れないだろう。
窓は全て僅かな隙間しか開かぬ様に設計され、クロムが持つ鍵でしか開かぬ重い扉に閉ざされて。
そして、万が一にもルフレが自分を害する事の無いようにと、刃物やガラスや陶器などは全て身の回りから排除されている。
ルフレはありとあらゆる逃走手段を奪われていた。
顔を合わせる度に、ルフレはクロムに言う。
「僕は君を裏切ったりしない。
もう二度と君の傍を離れない、君との約束を破らない。
だから、こんな事はしなくても良いんだ」、と。
だが、そう言う度に、クロムの表情は『無』になるのだ。
ルフレの言葉は、クロムの心に届かない。
『僕達は「半身」だろう?
こんな事をしなくても、僕はずっと君の傍に居る』
何度も何度も、ルフレはクロムにそう言葉を掛けてきた。
だがそれでも、何も……何一つとして届かないのだ。
どんな言葉も、虚しい程にクロムの心の表層を静かに撫でていくだけに過ぎなかった。
しかし、クロムはルフレから『自由』を奪っただけ、その『鳥籠』に閉じ込めただけで、それ以外の物を奪う事はしなかった。
寧ろ、それ以外の全てを、彼は与えてくれた。
かつての様に、語り合い、笑い合う。
その時の彼は、以前と何も変わらない様に見えるのに。
それでもクロムは、ルフレに『自由』だけは与えない。
クロムがルフレを憎く思っているからこんな事をしている訳では無い事が、ルフレには肌で分かってしまう。
だからこそ、ルフレはどうすれば良いのかが分からない。
どうしたらこんな事を止めてくれるのか。その答えがどうしても分からない。その手掛かりになりそうなものすら、彼は何もルフレに示さないのだ。
だからルフレは何も出来ないまま、届かないと分かっている言葉を虚しく紡ぐ事しか出来ない。
ルフレも、こんな風に閉じ込められていても、それでクロムを憎んだり彼に怒りを覚えたりしている訳でも無い。
『自由』を奪われても、傷付けられ戒められていても。
それでも、クロムが何より大切な友である事には変わらない。
ただただ、『どうして?』と。
そればかりが頭の中をグルグルと巡るのだ。
ルフレは、クロムが理由も無くこんな事をする人では無い事をよく知っている。そして、クロムが「狂って」しまったからこんな事をしているのでは無いだろうとも思っている。
心を壊してしまった人特有の危うさにも似た違和感は、クロムからは欠片も感じないからだ。それは、ルフレをこうして閉じ込め始めた最初の頃から何も変わらない。
だからこそ、「これ」はクロムにとっては、狂気に駆られての蛮行ではなく、何かしらの「理由」や「願い」に基いた行いであるのだろうと、ルフレは考えている。
……ただ。ルフレには、クロムのその行動の背景にあるものが、全く分からないのだ。何一つ見当も付かない。
自分ならば、クロムの心を縛る「何か」を解決出来るのではないだろうか……クロムと二人でなら乗り越える事が出来るのではないだろうかと、そんな事も思うのだけれども。
ただ、「それ」が一体何であるのか、クロムが語ってくれない以上ルフレにはどうする事も出来ない。
そもそも、こうやってクロム以外とは関われない現状では、ルフレに出来る事などそう無いのかもしれないけれども。
それでも、自分はクロムの「半身」であるのだと言う、矜持にも似た自負が、その責任感が、この現状を良しと出来ない。
クロムだけに「何か」を背負わせる事など、出来ないのだ。
クロムが、彼一人では解決し切れない「何か」を背負っているのであれば、そしてその為にこの様な……きっとクロムとしても本意では無いだろう筈の事をしているのであれば。
ならば、ルフレは共にそれを背負いたいのだ。
二人で力を合わせたとしても乗り越えられない程のものであるのだとしても、その重荷を分かち合う事ならば出来るから。
だからルフレは言葉を尽くす。
今は届かないのだとしても、何時かはきっとその心に届く筈であるのだと……。クロムの心を頑なにさせている「何か」を融かす事が出来るのでは無いだろうか、そして共にその「何か」を背負い、そしてそれに向き合い乗り越えていけるのでは、と。
それを願って、それを信じて。
届かない言葉を、そうと知りながら紡ぎ続けるのであった。
◆◆◆◆◆
何時もの様に執務を切り上げたクロムは、誰かに後を付けられていないかをよく確認してから隠し通路に入った。
イーリス城には、緊急時の為の隠し通路や脱出路が幾つも存在し、その正確な数を知る者は王族の中でも一握りしかいない程である。下手に迷い込めば脱出不可能になり時にそこで命を落とす者も居ると言われている程で、その存在を知る者ですらこうした隠し通路に入ろうとする者はほぼ居ない。
その為、比較的小まめに点検し整備される隠し通路はともかく、知る人が極端に限られている道や最早忘れ去られてしまった道は、埃に塗れていたり時に塞がっていたりする事もある。
恐らくは、この城が建造された当初や或いは幾度かあった大幅改修の際に作られた隠し通路の内、「生きている」ものは極僅かしか無いのだろう。そんな隠し通路の中で恐らくは忘れ去られていたモノの部類の一つであろうその道をクロムが見つけたのは、偶然によるものであった。
恐らくは数代以上前の聖王家の者が人目には曝せない誰かを匿う為に使われていたのだろうその道は、王都の外れにある森の中の古い屋敷へと繋がっている。
それを見付けた幼い日のクロムにとっては、そこは秘密の遊び場であった。……とは言え、姉を守れる様な強さを欲して剣を振り鍛錬する事に夢中になっていた幼い日のクロムがその屋敷を訪れる事は殆どと言って良い程に無かったのだけれども。
そんな忘れ去られた屋敷を、ギムレーとの戦いを終えて戦後処理に忙殺されるその傍らで、クロムは密やかに修繕させた。
何時か、誰よりも大切な友……己の「半身」であるルフレが再びこの世に還って来た時に、そこに匿う為に。
……千年の時の彼方から再び蘇りこの世を滅ぼさんとしていたギムレーとの戦いがルフレの献身によって終ったその後で。
大切な仲間を目の前で喪い国に帰って来たクロム達を待っていたのは、ある意味では余りにも残酷な現実であった。
恐らくは、あの戦いの場か……或いは、クロムが「覚醒の儀」を遂げた時の戦いに居た末端の兵達から、ある一つの「噂」が流れ出し、それは何時しかイーリス中に拡まってしまっていた。
『希代の軍師ルフレは、邪竜ギムレーに所縁の者である』、と。
それどころか、ギムレー教団の最高司祭として振舞っていたギムレーの姿を見た事がある者が居たのか、ルフレこそがギムレーを蘇らせこの世を滅ぼしかけたのだと宣う者さえ居た。
ルフレは彼の存在を危ぶんだクロム達によって処断されたのだと、そんな事実無根の「噂」すら存在するらしい。
ルフレとギムレーに関する「噂」は無数に存在し、中には全く相反するモノも多く存在したが、しかしそれらの「噂」はイーリスの民に一つの「事実」を植え付けるには十分だった。
最早、今のイーリスにルフレが帰って来る居場所は無い。
ルフレは、邪竜の側の存在であるのだと。それはもう、多くの民にとって覆す事の出来ない「事実」となってしまっている。
それがルフレ自身の「真実」とは全く異なるのだとしても。
民の心に一度根付いてしまった「事実」を変える事は並大抵の事では叶わず、クロムや仲間たちはどうにかしようと動き続けてはいるがその成果は一向に挙がらない。
その「事実」が全くの虚構であるならばどうにか出来たのかもしれないが、残念ながら一部には事実が含まれているのだ。
ルフレが、ペレジアの古い血脈により「ギムレーの器」として生み出された存在であった事も。そして……有り得た「未来」では、邪竜へと堕とされた彼によって世界は滅びた事も。
大衆の人々が最も信じ受け入れてしまうのは、真実ではなく事実を含んだ「噂」だ。そしてそれは扇情的であればある程、然も公然の「事実」であるかの様に流布してしまう。
救国の英雄がその実「悪」であったなど、まさに当てはまる。
此度のギムレー復活でイーリスが直接被った被害はそれ程多くは無い。蘇ったギムレーが世界を滅ぼす為に本格的に動き出す前にそれを止める事が叶ったが故である。だが……。
あの日蘇ったギムレーを、ペレジアの民達だけではなく、イーリスやフェリアの民の多くが目撃していた。
幾つもの山々を連ねてもその翼の端にすら届かないだろう程の、生き物としての存在の根本からして人とは全く異なる存在。
「神」と崇められ畏怖される事すら当然だと、そうだれもが一目で理解せざるを得ない程の、強大無比なその姿。
それを目にしたイーリスの民が、過剰な程に邪竜ギムレーを畏れ拒み、それに連なる者達を排斥しようとする事は、それはもう理屈がどうであれ仕方の無い事でしかないのだろう。
実際、ギムレーが復活した時から今に至るまで、イーリス国内での神竜信仰は些か苛烈なまでに高まっていた。
そして、ギムレー教に対する忌避感も……かつての「聖戦」の頃以上に高まり、それは留まる事を知らない。
そんな中で、その様な「噂」が出回ってしまったのだ。
クロム達が事態に気付いた時には、もうどうする事も出来ない程までにその「噂」は「事実」となって拡がっていた。
最早収拾不可能な状況を目の当たりにして、世間に蔓延る「噂」を消し去り世論を覆す方では無く、クロムの心はルフレを如何に民衆の敵意から守れば良いのかに傾いて行った。
そして、ルフレを守る為には彼を世の人々から遠ざけ隔離するしかない、と。そう結論付けたのだった。
そして、彼の為の「幸せの箱庭」として、クロムは自分以外の者は殆ど知り得ない隠し屋敷を選んだ。
代々王家に仕え口も堅く信頼の置ける職人達に用途を知らせずに屋敷を改装させて、そして自分以外の誰も立ち入る事が無い様に屋敷の入り口を潰した上で、隠し通路に繋がる隠し扉には複製する事も力技で破る事も難しい特殊な鍵を取り付けた。
そうして、ルフレの為の「箱庭」の準備が整ったその矢先に、ルフレは再びクロムの目の前に現れたのだ。
再会を喜ぶ事もそこそこに、クロムは誰の目にも付かない様に誰にも気取られぬ様にしながら、細心の注意を以てルフレを「箱庭」へと連れ込み、そこに閉じ込めた。
世界の現状など全く知らないルフレはそれに酷く驚いて、考え直す様に何度もクロムに訴えかけ、そしてどうにかしてこの場から逃げ出そうとする様になった。
事情を説明してやれれば良かったのかもしれないが、クロムには出来なかった。「何故?」と何度も問うルフレに、もうこの国に……それどころかこの世界に、お前の存在が許される場所は無いのだなどと……そんな事をどうして口に出来ようか。
そんな真実を知れば、ルフレは酷く心を痛め、そして己の存在を責めるのだろう。こうして帰って来た事にすら、罪悪感を抱いてしまうのかもしれない。そしてそうなった時にルフレが何を選んでしまうのか……それを考えたくは無い。
もう二度と、喪いたくないのだ。
大切な人を、大切なものを、もう、二度と。
クロムは、何よりも大切な家族であった姉を守れなかった。
まだほんの子供であった時分から「聖王」として生きる事を余儀なくされて、姉個人の「幸せ」と言うモノを殆ど奪われて、その上で自国の民とペレジアの民の憎悪に一人向き合い背負わねばならなかった、その人を。クロムは目の前で喪った。
そして、今も尚クロムの脳裏から離れる事の無い姉の姿が、ルフレのそれと重なってしまうのだ。
本人の望みや意志とは無関係の場所で定められたものに縛られて、そして本人に責は無い筈の憎悪や恐怖を向けられて。
そして、「滅びるべき悪」として排除する対象にされて。
そんな現実を前にすれば、そしてそれを知ったルフレが傷付き悲惨な未来を辿るしかないのであれば。
ルフレに恨まれる事など、クロムにとっては如何程でも無い。
恨まれても、憎まれるのだとしても。それでもルフレを守れるならばそれで良かった。その為にこの手でルフレを傷付ける事になるのだとしても、それでルフレがこれ以上残酷な程に愚かな世界に絶望せずに済むのであれば、それで良い。
だからクロムは、ルフレの自由を鎖で縛り、そして万が一にも逃げ出さない様にその足を潰した。
きっと憎まれるのだろうと、そう思っていたのだけれど。
しかしルフレは何も変わらなかった。
ルフレにとっては甚だ理不尽であろう筈の仕打ちを受けてすら、ルフレがクロムに向ける感情も信頼も、何も変わらなくて。
だからこそ、守らなければならないと、より一層思うのだ。
ルフレが「真実」を知る事は何があっても起こらない様に。
これ以上、大切な人が絶望せずに済む様に。
その為ならば、クロムは幾らでも非道な行いが出来る。
このルフレの「幸せの箱庭」を守る為ならば、何だって。
そこに在る「幸せ」は歪んでいるだろうが、こんな世界ではそんな「幸せ」しか守ってやれないのだから……。
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