◆◆◆◆◆
初めて海を見たのは何時だっただろうか、と。
ルフレは己の記憶の戸棚を探しながら、寄せては返す白波の連なりをぼんやりと眺めていた。
終わりの見えない泥沼の様であったペレジアとの戦争が漸く終結を迎えたと思ったら、今度はこの海の向こうからヴァルム帝国がこの大陸に押し寄せてくる事になった。
ペレジアとの長きに渡る戦いで既に疲弊しているイーリスは元より、イーリスに助力してくれていたフェリアもそれなり以上に消耗しているし、況してや敗戦国となったペレジアに至っては国土の防衛すら覚束無いだろう。
そして、ペレジアが陥落すればそこを足掛かりとしてフェリアやイーリスも間違いなく攻め込まれてしまう。
敵の敵は味方……とまではいかなくとも、海の彼方の侵略者から自分たちの身を守る為に手を取る事は出来る。
その為、その裏に様々な思惑が蠢きつつも、三国の同盟は何とか成立し、大陸中が一丸となって侵略者に対抗する事になった。……のは良いのだが、三国が手を組んだとしても、強大な侵略者に抗するには物資も人員も潤沢とは言い難い。
一先ずヴァルム帝国側の海に面した港町などに防衛線を張る事が急務であり、その為ルフレ達は駆り出されていた。
先遣隊をどうにか撃退した後、第二波第三波と押し寄せてくるにはまだ時間的な猶予があるらしく、未だヴァルム帝国の艦隊は姿を見せていない。
その為か、港町の人々にも緊張感は漂いつつも何処かまだ非現実的に感じているかの様な……何処と無く他人事であるにも近い雰囲気が漂っている。この町が先遣隊の被害に遭った訳では無いから尚の事そうなのであろう。
兵達が忙しなく防備を整えている姿を何処か遠巻きに見る町の人々の姿には、戦事に巻き込まれる事への不安に近いものが浮かんでいる様であった。
……先遣隊による被害やヴァルム大陸に於けるかの帝国のやり口を伝え聞くに、万が一ヴァルム帝国軍の侵入を許せば待っているのは略奪と虐殺の嵐だ。降伏する間も無いだろう。
だからこそ、何としてでも上陸を許す訳にはいかない。
町や周辺の地形図を手に、ルフレはヴァルム帝国軍を迎撃する為の布陣を考える。考え付いた防衛の布陣を、今度は仮想のヴァルム帝国軍側に立って攻め込んで。そうやって何度も何度も滅ぼしながら、防衛の布陣に修正を加えていく。
許容出来る損耗の程度、防衛を担う部隊の指揮官の特徴、救援が到着するまでの期間、この地域の気候の特色……。
様々な情報を基に、ルフレは策を組み上げていく。
そうやって盤面を整え駒を配置するかの様に策を練っていく事は、ルフレにとっては自分と言う救い難い存在がこの世に存在する為の「価値」にも等しい事であった。
より正確に言えば、そうやって策を練り献上する事でクロム達の役に立つ事が、であるのだけれども。
クロムの事を脳裏に過らせたルフレは、あの眩しいばかりに蒼い後姿を無意識の内に探し、そして見付けた。
そんなルフレの視線に気付いていない様子のクロムは、何時も以上に固い表情で町の防衛の為に様々な指示を飛ばしている最中である様だった。
ペレジアとの戦争の終結と同時に正式に「聖王」として即位したと言うのに、クロムはこうして態々最前線になるだろう場所にまでやって来ていた。それは、「聖王」が直々に訪れる事で少しでも民の不安を和らげ、同時に防衛を担う兵達の士気を高める為であるのだろう。
実際、その効果は目に見える程に出ている様だ。
……愛らしい娘が産まれたばかりであると言うのに、終わりの見えない戦乱は、クロムが「父親」として在れる時間の多くを奪い去ってしまっている。産まれたばかりの娘を、彼はまだほんの数度程度しか抱いてやれていない。
本当は、もっと「家族」としての時間を過ごさせてあげたいのに。時代の流れがそれを許さず、そしてその激しい流れに抗し切る様な力はルフレには無くて、私人としてのクロムの時間が犠牲になっていく事を、「半身」なのに止められない。
……同じ人同士で殺し合う事を望む人など決して多くは無い筈なのに、それでも血で血を洗う争いは絶える事無くこの世に満ちている。平和の望みながら、その手で命を奪うのだ。
それは何とも矛盾に満ちている様で……、しかし人に限らずこの世の命は皆争いながら生き抜いているものなのだ。
この世に命がある限り争いが絶える事は無く、この世に人が栄える限り戦争が根絶される事は無いのかもしれない。
……クロムが望む様な……志半ばに凶刃に斃れた先王エメリナが望んでいた様な、武器を手に取るのではなく言葉で問題解決を図る世界と言う「理想」は、何処までも遠い。
利害の衝突、根深い怨恨……。人が争う理由など数限りなく、この度のヴァルム帝国の侵略の様に、此方側に何か明確な瑕疵がある訳では無くとも戦禍に巻き込まれる事はある。
人は、武器を手に襲い掛かって来る者を前にして、手にした武器を投げ捨てる事は出来ない。そして、一度振り上げてしまった武器を静かに下ろす事はとても難しく、結果として新たな怨恨が生まれてしまう。
ルフレは静かに目を伏せて、小さく息を吐いた。
ルフレは、『軍師』だ。
策を練ってそれを献じ、己の仕える陣営に可能な限り望ましい形の勝利を齎す為の存在である。恒久的な平和が実現すれば真っ先に不要になるであろう、……この戦乱の混迷の渦中にある世界でならば存在する意味がある者だ。
『平和』を願い戦乱を疎んで少しでも早く戦乱の世を終わらせるべく働き続けるのは、『軍師』としてはある意味では緩慢な「自殺」の様なものであるのかもしれない。
実際、『軍師』としての役割以外に、どうすれば自分がクロム達の役に立てるのか、ルフレには分からなかった。
騎士として国の治安の維持に努めるのも、或いは官吏となって内政を手助けするのも。そのどちらも、ルフレ自身の事情を鑑みると後ろめたさを感じてしまう。
……こうしてイーリス自体に直接的に干渉する事は無い『軍師』として、そしてクロムを支える「半身」として彼の傍に居る事にすら、時折どうしようもなく後ろめたくなるのに。
己の右手……人目に触れぬ様に隠し続けているその手の甲に刻まれた「烙印」を捨て去る事が出来るのなら……。
……だが、そんな事は不可能だ。
『ルフレ』と言う存在がこの世に生まれ落ちた瞬間から、その宿命は己の根幹に存在するのだから。
……例えルフレ自身はそれを決して望まないのだとしても、己の意志を越えた場所で定まったそれにどうすれば抗えるのか、……その方法を探し続けていても未だ見付からなかった。
……何時かこの「烙印」が、その宿命が、全てを呑み込んでしまったその時には。何もかもを壊してしまうのだろうか。
この世界を、この世に生きる人々とその営みを、そして。
……何よりも大切な仲間である、クロム達を。
自分にとって大切なモノもそうでは無いモノも、何もかも見境なく破壊し尽くしてしまうのだろうか。この世にただ独りきりになるまで。
……それは想像するだけでも、怖気立つ程に恐ろしい事だ。
死に別れる間際に母から己に隠された秘密を明かされたその時からルフレの心を苛んでいた「恐怖」は、クロム達と出逢ってから益々強くなる一方であった。
己の手の中にあるモノを、愛しいと……大切であると、そう思えば思う程、何時か己が堕ち果てるその先が恐ろしい。
どうして自分なのだろうと、そう何度も己の運命を呪った事もある。こんな存在ならば、初めから生まれなければよかった、もっと早くに死んでしまえば良かったのに、と。
……それでも……。
決死の思いで足手纏いでしかない筈の赤子のルフレを抱えて暗い闇を煮詰めた地獄の底の様な場所から連れ出して、そしてどうにか独りで生きていけるまで育ててくれた母が。
「何があっても、最後まで生きて」と、そう望んでいたから。
そして……。
仲間達皆が、クロムが、必要としてくれるから。
クロム達と過ごす時間が、何よりも大切だから。
生きているべきではない存在だと、存在してはならない者だと、そう分かっていても。
「生きなくてはならない」と、そう思ってしまう。
クロム達を思うのなら離れるべきだと分かっていても。
此処で生きていたいと、そう願ってしまうのだ。
何時かその選択の、その願いの「報い」を受ける時が来てしまうのかもしれなくても。
それが少しでも遠い未来になる様に、その未来を少しでも良い方向に変えられる様に。
出口の見えない闇の中で、ルフレは藻掻き続けている。
再びルフレは小さく息を吐いた。
思考の海に沈んで暫しの時が過ぎていた様だが、誰もそれに気付いてはいなかった様で、周囲の光景も何も変わらない。
忙しなく動く人々も、静かに波打つ海も、何も変化は無い。
ヴァルム帝国の艦隊が確実にこの地に迫って来ている筈であるのだが、広い海原の水平線にはその様なものの影も形も無く、海は何時もの様に静かに波を寄せるだけだ。
……何処までも果てなど無い様に見える海からすれば、ヴァルム帝国の艦隊も、そしてこうしてそれを迎撃する為に血眼になっているイーリス軍たちも、この地に生きる人々の営みも、その何もかもがちっぽけなモノであるのだろう。
……伝承に伝え聞く、隔絶した巨大さを誇る邪竜ギムレーでさえも、海原の広大さには敵わないのだろう。
ルフレが抱え続けている宿命ですら……。
……こうして海を見ていると、物心付いて初めて海を見た時の事を思い出してきた。
あの時は確か……幼心に「こわい」と。そう感じていた。
この世の何もかもを呑み込んでしまっても何も変わらずに波打つだけであろうと、幼心にもそう感じた海の広大さが、まだ幼かったルフレにはとても恐ろしく思えたのだ。
……そして母は、海を前に尻込みするルフレを、優しく抱き締めてあやしてくれていた。その手を、今でも覚えている。
そんな幼い日の記憶を思い出して、そこにあった母の姿のその懐かしさに思わず目を細める。
こうして在りし日の母の姿を明瞭に思い描くのも、随分と久方振りの事であった。
「どうしたルフレ、遠い目をしているが。
何か気になる事でもあったのか?」
その時不意に背後からクロムに声を掛けられて、ルフレは驚きつつもゆっくりと振り返る。
何時の間にやら兵達に粗方指示を出し終えていた様だ。
「ああ、いや……。
海を見ていたら少し懐かしい記憶を思い出してね……。
初めて海を見た時の事を考えていたんだ」
「そうか。……それは、お前の母親との思い出なのか?」
その声音には、ルフレの気持ちをそっと慮るものがあった。
クロムには、自身の過去を詳しく教えた事は無い。
ただ……共に暮らしていた母は、もうこの世には居ないのだとだけ、一度話した事はある。
その為なのかクロムは、ルフレが母との記憶に触れている時には、少し不器用な程に優しく気を遣ってくれるのだ。
……母を喪ってから暫くの間は思い出すだけで中々抜けない棘が刺さったかの様に心は鈍く痛みを覚えていたのだが、クロムと出逢った頃には既に、ただただ穏やかな懐かしさばかりが心の奥を優しく撫でる様になっていたのだけど。
そんなクロムの優しい気遣いに、無意識に口の端を緩めながらルフレはそっと頷いた。
クロムは「そうか」、と静かに頷く。
暫しの沈黙が落ちて、二人で静かに海を見ていた。
寄せては返す波と、時折陽光を強く反射して眩しく輝く水面を、互いに何も言わないまま眺める。ただそれだけの事であるのに、静けさの中に波音だけが聞こえる一時が、ルフレにとっては酷く心地好いものであった。
互いに言葉は無いが、耳に届く波音の様に穏やかにクロムの思い遣りなどが伝わって来る様にすら感じる。
こんな時間だけが何時までも続けば良いのに、と。
そんな叶わない想いすら抱いてしまう程に……。
「なあ、ルフレ」
静寂を破る様に、ふとクロムが言葉を零す。
どうかしたのか、と。傍に立つクロムを僅かに見上げると。
クロムは、どうしてだか優しい目をしていた。
「何時か……ヴァルムとの戦争が終わったら。
また、こうして一緒に海を見に行かないか。
今度は戦争の為では無く、ただ海を見る為だけに」
クロムの言葉に、少し驚いたもののルフレは緩やかに頷く。
「ああ、そうだね……。その時は、僕達だけじゃなくて、今は城でお留守番をしているルキナも連れて行ってあげようよ。
きっと、ルキナにとっても大切な思い出になるだろうから」
自分にとって、かつて母と海を見た思い出が、遠く昔の事であっても今も鮮明に思い出せる様に。
何時か両親と共に初めて見る海はきっと……あの愛らしい幼子にとって特別な思い出になるのだろう。
ルフレにとってその光景は容易に想像が付くものであった。
そんなルフレに、クロムは柔らかな笑みを浮かべる。
「ああ、そうだな。それが良いだろう。
皆で一緒に、何時かきっと……」
……それは「約束」と言うには少し儚い、だけれども互いにとって大切な「何時か」への願いだ。
何時か、……そうきっと何時か。
終わりの無い戦いの日々の中に在ってもきっと何時かは僅かにでも訪れるだろう、そんな「何時か」に。
大切な人と、またこうして海を見たいと。
そう、ルフレは願ったのであった……。
◆◆◆◆◆
寄せては返す波の音に耳を傾けながら、ギムレーはぼんやりと波打つ水面を見ていた。
厚い雲が空を覆い尽くし陽の光を遮る薄暗い世界でも、夕暮れ時には空全体が燃え尽きていくかの様に鮮烈な紅色が世界を染め上げる。命在る者が尽く滅び去っても、太陽も月も星も……それらは何一つ変わらず雲の彼方で輝き、空を吹き渡る風も渦巻き波打つ海も……それらも何も変わらない。
ギムレー本来の姿と比較しても比べ物にならぬ程に広大な海にとっては、ギムレーが世界を滅ぼした事すらも些末事であるのかもしれない。……単なる水溜りに意志など無いが。
……どうしてこんな場所で態々海を眺めているのだろうと。
そう不思議に思うのだけれども、何故だかギムレーは波打ち際の砂辺に座り込む様にして膝を抱えながら海を見ていた。
別に面白味も何も無い、静かに波が打ち寄せるだけの光景でしかない。それなのに、ギムレーはそこから動かなかった。
……この世の命の尽くを滅ぼし尽くした今となっては、別に何処に居ようとも退屈なだけだ。
永遠に終わりの無い退屈に心を蝕まれたまま無為に眠りに就くのも、こうして何もしないまま海を眺めているのも。
どちらもそう変わりがある事では無い。
こうして思考する事すら、無為なものでしかなかった。
心の内に底無しに溢れていた破壊衝動や憎悪や憤怒も、それを向ける対象を全て喪った今となっては行き場を失くしたも同然であり、半ば枯れ果てている。
目の前で波打つ海を枯らし果て、空を吹き渡る風を殺し、遥かなる宙の果てに輝く星々をも破壊する事を求めても良いのかもしれないが……。しかしそれ以上にただ虚しさが募る。
異界から適当に人々を連れて来て嬲る様にその絶望を愉しむのも一つの手ではあるのだろうが……。しかしそれを考え付いた所で実行しようと動く事も無かった。
ただただ静かに、終わった世界でギムレーは海を見ていた。
何かをしたかった様な気がするが、それは一体何であったのだろうか。遠い昔に何かを「約束」していた様な気もするがそれは一体どんなものであったのだろうか。
何も分からないし、もし思い出した所で既に既にこの世界にはギムレーしか存在しない。もう、何もかもが終わってしまった事だ。
ギムレーは、孤独に海を眺め続けるのであった。
◆◆◆◆◆
陽が沈み行く空は燃える様な紅に染まり、その色を映した様に波打つ水面もまるで燃えているかの様である。
昼日中の照り付ける様な陽の光と、眩いばかりに輝く海は全く以て己の好みとは掛け離れているが、夕暮れ時のこの海は少しばかり気に入っていた。それを口にする事は無いが。
どうして態々こんな場所にまで連れて来られなければならなかったのかとそう不満を隠せずにいたが、まあこれはこれで悪くは無い。もしかしたら、喪ってしまった記憶を取り戻す事に僅かながらでも繋がるのかもしれないのだから。
この地に招かれたその時に、時空を超えた影響からなのか、己が邪竜ギムレーであると言う認識以外に自分自身に繋がる一切の記憶と共に竜としての力の大半を喪ってしまっていた。
儀式を行ってみたりするなどして喪った記憶を取り戻そうとしているがその努力は一向に報われず、未だ『ギムレー』であると言う自覚と僅かばかりこの身に残された竜の力だけが、今の自分の全てである。
世界を滅ぼす者、人々を絶望させる者、人の祈りによって憎悪と絶望を齎す者……。それが、『邪竜ギムレー』である。
異世界の伝承が異界の英雄譚として伝わるこの地でも、『邪竜ギムレー』と言う存在は絶対的な「悪」。英雄によって滅ぼされるべき「邪悪」であると伝えられていた。
異界の伝承はこの地に招かれた英雄にとっては『未来の予言』にも等しくなる事も多いので、その未来の部分の情報は閲覧出来ない様にはなっているのだが、己が本来居たのだろう世界と近しい異界から招かれている者達の姿や彼等がこの地に招かれる事になった英雄譚を聞くに、どうやら彼等の世界で『邪竜ギムレー』は英雄となった彼等の手によって滅ぼされている様だ。……それなのに己の『器』、かつて「人間」として生きていたのであろう頃の『自分自身』も、この地に招かれているのには少しばかり違和感があるが……。
まあ、『邪竜ギムレー』という存在が英雄譚の中で求められている役割が「悪役」であると言う事には変わらないだろう。
英雄譚の中で『邪竜ギムレー』が滅ぼされていると言う事には大した感慨は無かった。
何せ、「同じ様な」と条件を付けたとしても、可能性の数だけ異界は存在すると言っても過言では無いのだ。
限り無く無限に近い程に存在する異界の幾つかで『邪竜ギムレー』が滅ぶのだとしても、それは大した問題では無い。
精々、その様に人間の手によって討ち取られて滅ぼされるべき「悪」として名を残した間抜けが居たと言うだけだ。
慢心でも何でもなく、真に力を取り戻した『邪竜ギムレー』が人間の様な小さな羽虫に負ける筈は無いと言う事実がある。
まあ……異界に無数に存在する神竜ナーガが余計な手出しを出してきたり、無価値な憐憫による干渉をしてきたりして多少は手こずる事はあるのかもしれないけれども。
何にせよ、人間に負けた『邪竜ギムレー』は、余程驕り高ぶって力を出し惜しみするなどして、無様に負けたのだろう。
……愚かな事だ。相手が人間であれ神竜であれ異界の神々であれ、「滅ぼす」と決めたのであれば過度な驕りは無用な危機を招くだけであると言うのに。
ある意味で「自分自身」であるのかもしれないけれど、無様な末期を異界にまで轟かせる事になった愚か者とは、存在の根源が同じであると言うだけでしかないだろう。
この地に招かれたのは、ただ単に同じ『邪竜ギムレー』だからであるのだろうと、そう思っている。
まさか、記憶にないだけで既にその様に無様な真似を晒していたのだろうか……? ……流石にそれは違うと思いたい。
記憶を喪う以前がどうであったのかは、それを完全に喪失している以上は考えるだけ無意味な事だ。
そして、記憶があろうと無かろうと、人間どもにとっては『邪竜ギムレー』と言う存在である事には変わらない。
その為、こうしてこの世界に招かれてはいるものの、英雄としてこの地に招かれた他の者達からは距離を置かれている。
同じ異界から招かれ、『邪竜ギムレー』と言う存在がどういうモノであるのかをよく知っている者達からは当然として。
それ以外の異界から招かれた者達の大多数からも。
時折、ギムレーが招かれた異界とは全く異なる異界からも、ギムレーと同じ様に「倒されるべき悪」として伝承されているのだろう者達も招かれているが……。そう言った者達とも然して交流がある訳では無い。
まあ、元々他者と関わり合いになりたいとは思っていない為、それはそれで気楽なので良いのだが。
契約で縛られている為やろうと思っても出来はしないが、本来の力を顕せばこの地に集った英雄たちも根こそぎ纏めて滅ぼしてしまえるだけの力があり、元居た世界ではそれを実際に成し遂げた存在でも在るのだ。
一般的な感覚をしていれば、間違っても関わり合いになりたくは無い存在だろうし、己を正義であると思う輩にとっては許し難い存在であるのだろう。
故に、こうして独りで過ごす時間が多かった。
纏わり付かれたとしても、破壊衝動が沸き立つだけなので、遠巻きにされている方が気が楽である。
そう、その筈なのだけれども……。
砂浜を踏み締め近付いてくる足音を捉え、面倒くさいと思いつつもそちらに目を向ける。
そこには、やはりと言うか。
想像していた通りの者の姿が在った。
そちらを態々向いてやった事に気が付いたその者は、嬉しそうにその口の端を緩め、優し気にその眼差しを和らげる。
その様を見ているとどうしてだか胸の奥がざわついた様に騒ぐが、何故かそれを嫌だとは思えない。
「ここに居たのか、少し捜したぞ」
そう言って笑うその顔にこちらに阿る様なものはなく、ただただその言葉通りの感情を伝えてくる。
その所為なのか、無碍に突き放す事も少し憚られた。
「聖王の末裔が僕に何の用なんだい?」
とは言え、愛想良く対応してやる気も無くて、少しばかり棘を混ぜた様な反応にはなるのだけれど。
それでも、それに気を悪くした様な様子も無く、彼はほんの少しで触れ合えそうな程の近くまでやって来る。
毎度の事ながら、調子が狂ってしまいそうだ。
かつて『邪竜ギムレー』を封じた者の末裔であり、そして伝承によっては恐らく『邪竜ギムレー』を討ち滅ぼした事になっている者──聖王クロム。
『邪竜ギムレー』と「同じ」異界からやって来た者達の一人であり、『邪竜ギムレー』と対峙した者の一人でもある。
当然、『邪竜ギムレー』がどう言う存在であるのかはよく知っている筈であるのだろうけれども。
不思議な事に、この男だけは妙に親し気に接してくるのだ。
聖王クロムはその英雄譚に於ける知名度の高さ故なのか、この世界には異なる可能性や時間から招かれた同一存在が互いに反発する事も無く同時に複数存在している。
今目の前に居るのも、数居る「聖王クロム」の内の一人だ。
「聖王クロム」全員が『邪竜ギムレー』に対して親し気に接してくるのなら、まあそう言うものなのかもしれないと受け入れていたかもしれないが、別にその様な事も無く。
明確に敵意を持たれている訳では無くても、その他の殆どの「聖王クロム」は積極的に『邪竜ギムレー』に関わろうとはせず、寧ろ「人間」であった頃のギムレー……ルフレと言う名であった頃の者達と深く関わり合っている様であった。
それなのにこの男は『邪竜ギムレー』に関わろうとする。
余程の変人であった可能性から彼を招いたのだろうか。
全く理解に苦しむ事である。
現に今も──
「用と言う程のものでは無いのだが……。
お前と海を見たくてな。それで、捜していた」
「僕と海を? ……本当に、変な奴だな、君は。
世界を滅ぼす『邪竜ギムレー』と海が見たいだなんて、酔狂にも程があるんじゃないかい?
大体、僕に構わなくたって君には君の『ルフレ』が居るんだろう?
他の「君」の様に、君の『ルフレ』と時間を過ごせば良いだけの話じゃないか。
海が見たいのならそう言ってやれば『ルフレ』は喜んで付き合ってくれるんじゃないのかい?」
全く以て理解出来ない。何故態々『邪竜ギムレー』に付き纏ってくるのだ。世界を滅ぼした邪竜に、何を期待している。
いっそ気味が悪い程に理解出来ない相手ではあるのだけれども、しかし完全に拒絶し切るのも何故だか出来なかった。
「……いや、俺はお前と時間を過ごしたいんだ。
この世界だからこそ、お前と。
……『約束』、したからな」
「『約束』? 残念ながら僕には全く心当たりが無いね。
第一、僕に記憶が在ったとしても、よりにもよって聖王の末裔である君相手に『約束』なんか交わす筈が無いだろう。
全く……僕を誰と重ねているのかは知らないけれど、無意味な代償行為は止めた方が良いと思うよ。
虚しいだけだし、そもそも『邪竜ギムレー』を相手にやる事じゃない。
契約に縛られているからやらないけど、元の世界だったら君なんてとっくの昔に喰い殺しているだろうからね」
別に他意は無い言葉であった。
それなのに、それを聞いた彼は、何処か哀しそうな……少しばかり苦しそうな表情をする。
何でそんな顔をするのか分からず困惑し、そして自分が困惑したと言う事自体に狼狽えた。
『邪竜ギムレー』にとって、人間の一人や二人傷付こうが絶望しようがどうでも良い事である筈なのに、何故。と。
……そう考えるのに胸の奥が苦しくなり、何処か遠くの消え去ってしまった過去の残滓が苦みの様に胸の内を支配する。
その何もかもに訳も分からず困惑していると、彼は少し寂しそうに「そうか」と、微笑んだ。
その微笑みに、益々胸の内は搔き乱される。
止めてくれ、そんな優しい顔をしないでくれ。
自分には、そんな資格は無い。
君を■■■しまった僕には、もう──
意味の分からない激情が、悲しみと苦しみと絶望の感情の奔流となって駆け巡るが、そもそもどうしてそんな感情を抱くのかすら分からない。中身の無い感情だけが其処に在った。
無意識の内に、息が浅く早くなる。
視界の端に、暗く絶望的な赤が飛び散った様な気がした。
感情の濁流に吞み込まれそうになっていたその最中。
不意に、硬い指先がそっと頬に触れてきた。
驚いて見上げると、少しばかり背の高い彼が、心配そうな眼差しで見詰めていて。頬に触れていた手は、そっと下ろされたと思うと、今度はこちらの手を優しく掴んで来る。
「……少し、歩こうか」
荒くなっていた息が収まってきた事を確認して安堵したのか、彼はその目を優しく細めて。そしてその手を優しく掴んだまま波打ち際を歩き出した。
振り払おうと思えば容易く振り払える程度の強さだ。
それでも、何故だかその手を振り払おうとは思えなかった。
彼に手を引かれながら、波打ち際を歩いていく。
夕暮れ時の光に染まった砂は、血に染まった様に紅く。
強い西日に照らされた世界は、其処に在る何もかもの輪郭が融ける様にあやふやになっている。
そんな中で、濡れた砂を踏み締めていく音と、波が打ち寄せる音だけが耳に強く響いていた。
波打ち際を進む内に、足元は何時しか水に濡れていて。
しかし不思議とそれは不快では無かった。
彼に手を引かれ、黙ってそれに従いながら歩いていく。
理解出来ない現状だが……どうしてか、悪くは無い。
既に大分傾いていた陽は、もう水平線の彼方へと半ば没し、辺りは薄暗がりに包まれ始めている。
一体何処まで連れて行く気なのだろうかと。
彼の意図を図りかねながらもそう考えていると。
「此処だな」
不意に彼が立ち止まり、それにぶつからぬ様に立ち止まる。
一見、何の変哲も無い海辺でしかないのだが……。
益々彼の意図を図りかねて首を傾げていると。
彼は優しく笑って、海の彼方を指さした。
その指先につられて、其方を見ると。
今まさに波の彼方へと沈み行こうとする陽光の、その最期の輝きが、海全体を紅く燃やしている所であった。
……人間達の言う「美しい」だとか「綺麗」だとか言う感傷は理解出来ないものではあるけれど。恐らく人間達が「美しい」と言うのだろうこの景色を、悪くないと、そう感じる。
「……まあ、悪くは無いんじゃないかな」
そう答えると、彼は嬉しさに寂しさを浮かべて微笑む、
「……そうか、なら良かった。
…………なあ、ギムレー。……また、何時か。
こうして一緒に海を見に行かないか。
もっと色んな海を、お前と一緒に見たいんだ」
今度こそ、と。そう彼が小さく呟いた意味は分からないが。
まあ、その程度の事なら付き合ってやらなくもないか、と。
そう考えたギムレーは僅かに肩を竦めて頷いた。
「まあ、考えておくよ。何時か、ね」
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