「我が子達よ。母の招きに応じて来たれ」
ハトホルが聖句を唱えると、数メートルはあろうかという神牛が顕現した。それも二頭も。
ハトホルの象徴は雌牛とイチジク。特に雌牛は、様々な地母神が聖獣とする。ご多分に漏れずってやつだな。
あとはセクメトの化身として有名なライオンも候補だが、使う様子はない。威力偵察のつもりか。
「それじゃあ、始めようか━━━━と言いたいところだけれど。神と魔王の戦いの場としては、だだっ広いだけの砂漠では些か寂しい。そう思わないかい?」
既にヒステリアモードの俺がそう言うと、ハトホルは頷いて、
「確かに。然るべき地位にある妾の聖戦の場としては、不適格と言わざるを得まい。では、貴様に心当たりでもあるのか?」
「ああ。
俺がそう言った次の瞬間、ハトホル達と俺の体が沈み始めた。硬いはずの砂の大地が、泥沼のように俺達を呑み込んでいく。
「ほう……」
明らかな異常に、ハトホルは感嘆したように眼差しを向けるだけだ。抵抗もせず、まるで動じていない。
そのまま沈みきると、周囲は一変していた。乾いた砂漠から、石造りの闘技場めいたドームの中に。
「妾と同じく、牛に深い縁をもつ大地の神の権能か。同族に決闘場を作らせるとは、なかなかに剛毅な話ではないか」
流石に気づかれるか。俺の権能と思ってくれればよかったんだが。
ハトホルが言ったとおり、これはアレクの権能━━━━
「剛胆なのは君のほうだよ。俺達が二人がかりで来ると思わないのかい?」
「ふん。残りが来る前に貴様を殺し、その頸を引っ提げて戦うまでよ」
ハトホルの言葉を証明するように、纏う神力が高まっていく。仕掛けてくるな。
「我が子よ、不埒なる神殺しを蹄にかけよ!」
その命令を聞き、神牛の片割れが俺目掛けて突進してくる。数階建てのビルぐらいなら、粉々にできそうな威力だが━━━━今の俺にとっては脅威ではないな。
翼を展開して空に逃げた俺は矢をつがえ、丁度真下を通る牛に向けて━━━━呪力を込めた矢を放った。
閃光と化した矢は左前足ごと牛の脇腹を抉り飛ばし、石の床に蜘蛛の巣状のヒビを入れて漸く止まる。
「ブルル……」
横倒しに倒れ、弱々しく呻く牛の命運は明らかに尽きていたが……あまりの手応えの無さに嫌な予感を覚えた俺が、さらに上を目指そうとしたとした途端。
ゴガアアアアンッ!
なんと、瀕死だった神牛が爆発し、爆炎と衝撃波を撒き散らしたのだ。それによりヒビが入っていた床が砕け、大穴が空いた。
俺も躱そうとはしたが、避けきれずに熱波を受けてしまった。傷こそ負わなかったものの、ハトホルの方へ向かって放り出される。
翼で急制動をかけて踏みとどまろうとも思ったが、ハトホルの跳躍を見て断念した。そのまま重力に任せ、自由落下する。
ヒュゴッ!
落下に一瞬遅れて、ハトホルの振るった大鎌が俺のいたところを凪ぎ払う。その動きに連動した漆黒の真空刃が、軌道の前方を切り裂いた。
踏みとどまってたら、あの鎌か真空刃に斬られてたな。弱すぎた神牛もあれのための布石として仕掛けられたものだろう。死の風を纏った鎌といい、えげつない手を使ってくるぜ。
そのまま落下した俺は、走り込んできていたもう一頭のしゃくりあげた角を踏み台にし、再び上に跳ぶ。
落ちてきたハトホルが上段から打ち下ろした鎌を桜花気味の裏拳で弾き反らし、御返しに右足で踵落としを叩き込んでやった。
ガンッッッ!
「ぬう……!」
ハトホルは鎌の持ち手で俺の一撃を受けたものの━━━━空中だったために踏ん張れず、牛の背中まで叩き落とされた。
一拍おいて俺が神牛の首に降りたつと同時に、牛が俺をふるい落そうと暴れだしてしまう。
ハトホルも俺を放っておくわけがなく、足を刈ろうと低い一閃を見舞ってきたので━━━━俺はわざと落とされるついでに、空ぶった鎌に蛇化させた腕を巻き付けて引っ張ってやる。
落ちる俺に引っ張られた鎌は軌道を変え━━━━神牛の首筋に深々と突き刺さった。
「ブモオオオッ!?」
急所を貫かれた神獣は断末魔の叫びをあげて崩れ落ち、砂となって消えてゆく。生命の象徴とはいえ、死の呪詛を纏った鎌を叩き込まれてはひとたまりもないらしいな。
ハトホルは消える神牛から飛び降り、先に床に降りた俺と再度対峙する。自分の攻撃を利用された屈辱のせいか、俺を強く睨み付けていた。
「やってくれたな、神殺し。かくなる上は、妾のもうひとつの力を見せてやろうではないか……!」
牛は使ったし、今度はイチジクか、セクメトとしての相を見せるかもしれない。ハトホルは習合している女神が多すぎるから、どうにも絞りにくい。
いずれにせよ、今俺が奴に勝っているのは格闘戦での技量だ。なんとか近づいて、叩き伏せる。早い話がいつも通りだ。
呪力を高めつつ構えた俺に対し、遂にハトホルが動いた。
「死者を癒す我が眷属よ、新たなる死者を冥府へ送れ!」
とん、とハトホルが鎌の石突きで石畳を突くと、メキメキバキバキッ! と一本の木が床を割りながら伸び上がる。
天井をつかんばかりに育ったそれは、紛れもなくイチジクの木だ。大きさは熱帯雨林の巨木もかくやというレベルだが。
育ちきったイチジクをハトホルが右手で撫でると、青々と繁っていた葉が勝手に散り始める。
散った葉は地面に落ちることなく、こちらに左手を向けたハトホルの動きに従って━━━━俺に向かって殺到してきた!
俺は先ほどと同じく弓を引き、
しかも、神力で葉を強化しているらしい。ただの葉であれば、矢の余波で消し飛ばせるだろうからな。
俺の体を斬り裂こうと迫るイチジクの葉に対し、咄嗟に俺は全身を竜鱗で覆い尽くすことで自分の防御力に賭ける。
ギャリギャリギャリッ!
四方から俺を削りにかかった葉は、全身の竜鱗と激突し火花と不快な金属音をあげはしたが━━━━傷を負わせることはできず、後方に一旦飛び去っていった。
賭けに勝った俺は戻ってきた葉を竜爪でちぎるように引き裂き、既に放たれようとしていた第二陣に向き直る。
第二波はイチジクの葉を全てつぎ込んだらしく、まるで大津波を思わせる規模だ。これは流石に受け流せないだろう。
物量には物量をぶつけるしかない。昔イレアナがやっていた
ドオオオオォッ!
物理的な圧力さえ伴うかのような、葉でできた壁が俺の視界を埋め尽くしながら迫って来る。上下左右に俺が抜けられそうな隙間はなく、選択肢は後退しかない。
が、ここは逃げ場のない闘技場。後退したところでいずれ追いつかれるんだ。だったらやるしかない。
覚悟を決めて弓を引き絞り、新たな聖句を唱える。
「我が血よ。千の雫となりて、眼前の敵を討て!」
放たれた矢は真っ直ぐに飛び━━━━葉の津波とぶつかる寸前、散弾のように無数の矢に分裂する。それをヒステリアモードの目が捉えた次の瞬間、そのまま無数の矢と葉が正面から喰らい合う。矢を剣山のように突き立てられた葉は見る間に萎れて枯葉と化し、消えていった。
一矢射ただけでは到底葉の勢いを止められなかったので、さらに三矢ずつまとめて撃って撃って撃ちまくる。十、二十────ついには三十を超えて、漸く壁を後退させられた。
壁を退けると────お次は暗紫色のイチジクが、俺に向かって雨のように飛来してきた。しかも込められた神力の揺らぎからして、あれも爆弾だ。
こちらの遠距離攻撃が、矢しかないと踏んで封じに来たな。矢を射かけてあれが爆発すれば、矢の破片で殺傷力が増す。それを狙ってるんだろう。ならば━━━━
俺は左手の上に右手を載せて、弓を引くように右頬の後ろまで引く。炸覇の構えだ。
今回はそれだけじゃなく、ドニとの戦いで学んだように呪力を両手の平に収束させて━━━━呪力の波のイメージを付け足して放つ。炸覇と新技の『縮波』を組み合わせた技だ。
バガアアアアアアアアアァァァァァァアアアアンッ!
空爆染みた爆音が轟き、呪力を纏った衝撃波が眼前の全てを凪ぎ払う。降り注いで来たイチジクの実は悉く吹き飛ばされ、残っていた葉を巻き込んで爆発した。
「くっ……!」
炎と衝撃波は数十メートル離れたハトホルのもとにまで届き、彼女に壁のような防御壁を作らせる。
あれは木の根か? まさか……!
防壁の正体を見た俺は即座に床を蹴り、上昇しようとするも━━━━床を割って伸びた何かが、俺の左足に巻き付いた。
見ると、縄のように太い根が巻き付いて締め上げている。これをすぐにほどくのは無理だ。
左足を分解しつつ上昇すると━━━━それを追うように、雨後の筍よろしく大量の根が伸び上がってくる。巨大なイソギンチャクのような様子から、どうやら広範囲を既に侵食済みらしい。
やられた。さっきまでの攻撃は、これのための時間稼ぎだったんだ。それにまんまとはまってしまった。
試しにさっき射た『千矢』を使って迎撃するが━━━━根に突き刺さった矢が呪力を吸い始めると、即座に根への神力の供給が止まり、砂になって消えてしまう。
もし葉と同じなら、わざわざ神力をカットしなくても吸い尽くせば勝手に消えるはずだ。アクションを起こしてまで、根を消した意図は一体━━━?
鞭のように振るわれる根を避け、槍のように突き出されるものを桜花で砕きながらも、考えを巡らせ続けた俺は一つの結論に行き着いた。これが当たっていて、俺の思い通りにことが運べば━━━━この状況を打開できるだろう。
だが、そのためにはイレアナの協力が不可欠だ。それも彼女が動いてくれても、確実に成功する策とはとても言えないシロモノ。だとしても、今は賭けるしかないか。