丸太をそのまま突き刺しただけの塀に囲まれた人里らしきそこ。幅、深さ共に1mにも満たない堀を周りに配し、木材でできた家に藁のようなものをかぶせた屋根。和也にとって古い時代の日本――弥生時代の風景めいたものがそこにはあった。
堀にかけられた跳ね橋を渡る。ぎしぎしと軋む音におっかなびっくりになるが、揺れや軋みはなく丈夫なようだ。足音か気配かによって気づいたらしく、不安気に歩きながら周りを不安げに見る和也を、同じように不安げな目で彼らは見つめてくる。
痩せこけて不健康な人が、赤青黄と色取り取りの草花を持って立っている女性がいる。鍬のようなものを大地に突き刺して、おそらく畑を耕していたのであろう男性がいる。顔立ちから判断すれば皆アジア系のようだ。
(い……いきなり襲い掛かってきたりはしないよな……)
つい人がいることに喜んで入ってきてしまった和也の脳裏に不安が顔を出す。モンスターが跋扈する世界で一人で暮らすなど断固として御免こうむりたい。ならば人のいる場所に行くしかない。そう漠然と思っていたのだが考えていなかったのだ。ついた後どうするのか。
見た目から判断するのであれば彼らは日本人か、少なくともアジア系の人種だ。古い時代であれば外国人というものは見慣れず鬼や妖怪の類だと勘違いされかねない。幸いにして、多少の違いこそあれど外見の違いはそこまで大きくはないようだ。ならばその点については問題ない。
だが、言葉はどうするのか。国や時代が異なれば言葉が通じるのか。そも世界ごと違うのであれば通じるなど考える方がおかしいのではないのか。他にもそも生活習慣は、食事は、文化はどうなっているのか。体のつくりはどうだ、世界が違うのであれば遺伝子や構成するたんぱく質なども違うことさえありうるのではないか。あれも、これも、違うことばっかりではないのか。
頭の中では警報が鳴り、それが冷や汗となり、心は焦躁を生む。考えを早まった、いや考えていなかった。いっそのことモンスターがいようと一人で生きるべきだった。村八分だ、いじめだというものを考えると人の集団なんて危ないだけだ。
次から次へととりとめない考えが溢れだし、どうするべきかを考えようと動き出す。だができることはただ責めるだけ。考えない行動に出てしまった己を責めたてることだけだった。
暫くの間そうしていた。あれこれ考えている和也と、それを不安げに見つめる現地の人達。仕事の手を止めているからだろうが、少しずつ人がやってきて一人、また一人と増えていく。いつしか和也の前方には人だかりができていた。
「もし……」
思考に耽っていた和也の耳にしわがれた老人の声が届いた。その声に反応して意識を目の前へと戻すと、いつの間にかできていた――和也にとってだが――人だかりの前に老人が立っていた。頭頂部は剥げているが側面からは白い髪が垂れ、同じように顎からは髭が垂れている。丸っこい瞳にしわの刻まれた頬は笑顔がよく似合いそうだ。好々爺という言葉がよく似合う老人だ。
「もし……よろしいか?」
「はっはいっ」
声をかけられていたことを思いだし慌てて返事をした。直後。どよめきが奔る。口々に何かを近くの人と話し合い、不安と疑念に満ちた目に好奇を織り交ぜて見つめてくる。まるで見世物小屋の客のようだ。
(――ああ、いや。俺は見世物みたいなものか)
自身が生んだ喩を自身が否定する。和也の服装は部屋での普段着としているジャージだ。和也自身にとっては馴染みがありすぎて気にも留めていなかったが、ここの世界にとってはジャージは「変わった服装」という一言では言い表せないものなのだろう。
見世物にされることを喜ぶような趣味はない。だがここにきてやっと思い至る。彼らの、おそらく代表として進み出た老人と話が通じたのだ。どうやら日本語、しかも現代語で通じるらしい。
和也の返事直後は大きかったどよめきが徐々に小さくなる。老人は手に持った杖を体の前に刺しそこに両手を置いて瞑目していた。話しかけての態度と考えれば不躾なものではあるが、どよめきが大きすぎてそのままでは会話になりそうになかったのだから仕方がない。小さくなり、消えたことで老人は目を開け会話を再開する。
「どこから来られたのですかな。変わった服装を見るにだいぶ遠いところからと見受けますが」
日本の長野県です――嘘偽りなく答えるのならこうだ。しかし通じるのだろうか。仮に通じたとして和也の言う長野県と彼らの知る長野県が同じである保証もない。故に和也の選択は誤魔化すことだった。
「ええと、名前とかはわからないのですがだいぶ遠いところです。たぶん……もう帰れないので……」
嘘は言っていない。だが真実を伝えようともしていない。それがこの返事だ。嘘をつけば後々ばれた時に不信感を与える。だがこの回答ならば嘘は言っていないし、相手の誤解を招ける。咄嗟の返事の割には悪くないものだと自賛した。
和也の返事を聞いてまたもどよめきが奔る。だが、先ほどよりははるかに小さいもので会話が可能なレベルだからか、老人は気にせず会話を続けた。
「遠いところから……なぜこちらに?」
「それは……その……――よくわからないのです。別の場所へ行こうとしていたはずなのに気が付いたらこの近くにいて……。その行こうとしていたはずの所ももっと遠いところのはずで……途方に暮れていました」
「ふむ……ここがどこかわかりますかな?」
「い、いえ……」
「では、どうしてその行こうとしていた場所や元いた所が帰れないぐらい遠いとわかるのですかな」
「そ、それは……」
返答に困り言葉を濁らせる。世界が異なるのだから行き来は不可能だろう。そう思って話していたがそれが裏目に出てしまった。いっそ記憶喪失だということにでもすればよかったと思うも後の祭り。もはやそんな誤魔化しは不可能だ。
俯き思い悩むその姿は視野狭窄。考えねば返答できないという時点で正直に答えられないと言っているようなもの。それは初対面の相手には甚だ悪い対応だ。私はあなたに正直にお話することができませんと、全うでないことを告白する対応でしかない。
そのような悪い対応をしてしまった和也を救ったのは驚くべきことに相手の老人だった。
「何か……事情がおありか。まあよい。行くところが無いのであれば我らが里へ。歓迎しよう、流浪人」
「え、……へ?」
「さあ、客人に聞きたいこともあろうが今は仕事じゃ。各人戻りなさい」
ぱんぱんと手を叩くとクモの子を散らすように人だかりは崩れ去って行く。それを半ば呆然と眺めながら和也は先を歩く老人について考える。
答えにくいことは答えなくていい。老人の呟きにはそんな意味が込められている気がした。自分に都合のいい考えをしているだけではないかと思いながら、先を歩く老人の背を見ていると、本当にそんな気もしてくる。
――どうやら最悪の事態は避けられたらしい。
心中ほっとしながら、小走りに追いかけた。
◆◇◆
人の数はおよそ100人程度、面積は不明だが大体正方形の形をした里で25mプールの倍ほどの長さ。そう考えれば2500㎡だろう。一般的な里として広いのか狭いのかはわからないが、和也の目から見ると窮屈に感じた。
その奥、入り口から最も遠い場所にある大きな家に老人は案内する。あくまで他の家よりは、だが。現代日本人の感覚から見ると横に広いだけでまるで道場のようだ。
老人は家の中のある一室に和也を案内する。中心に囲炉裏がおかれた狭い一室だ。囲炉裏から壁まで1mもなく、火事になったりしないのかと不安になるほど。部屋が狭いのは暖を取りやすくするためなのだが、和也はそこまで頭が回らなかった。
先ほどまで誰もいなかった部屋だがすでに火は入れてあったのか、パチパチと木が爆ぜる音がする。それに伴い上に置かれた竈からは慣れない、けれど野菜か何かの煮汁のような匂いがする。ぐうううぅぅぅ、と腹の虫が鳴いた。昨日から何も食べていないのだから仕方ないが、卑しさと恥ずかしさで赤面する。
「おや、腹を空かしてますのですかな。では食事を摂りながらお話と参りましょうか」
垂れ下がった眼尻をさらに下げ、にこにこと微笑む姿には後光すら感じてしまう。いつぞやの神などより、この老人の方が和也にとって余程ありがたい存在だった。
濁った色の赤や薄汚れた青色の葉が浮き、汁の色も濁ってまるで汚れているかのようだ。遠慮なしに表現すればそれは最低の食事だろう。しかし、途方に暮れ腹を空かせていた和也には何よりのごちそうだった。
「い、いただきます!」
両手を合わせ言うが早いか早速掻き込む。スプーンのような木の食器を箸代わりにして茶漬けのように。
味は塩気がなく、よく言えば素材の味が染み出たスープ、悪く言えば――というより直球で言えば――味付けのない屑野菜の煮汁だろう。現代の濃い味付けになれた日本人には美味しい食事とは言い難い。
しかし和也は椀によそわれたスープを遠慮もなしにかっ込んで、中に入った葉も何度も何度も噛みしめた。舌はもっと味付けを望むし腹ももっと栄養を欲している。間違いなく今まで食べた中で最悪の出来の、けれど最高の食事だった。
和也のそうした痴態を老人はただにこにこ微笑みながら眺めていた。食事を摂りながら話をしようというはずだったのに、彼は何も言わずに微笑んだまま。ただずっと微笑んでいた。
◆
時間にしておおよそ15分。それだけの時が経ってから和也は老人と会話をする。さすがに二度もお代わりをすれば腹も落ち着いたようで、代わりにそうした遠慮のない行動に対して羞恥心がわき出てきたようだ。少々赤面しているのは火にあたっているからではないだろう。
老人は名をタカモトというらしい。家名はないのか名だけを名乗った。漢字にするのなら孝元だろうか。日本人らしい名前でなぜかホッとした。
「私は和也と申します。先ほどはお見苦しい姿をお見せしました」
名乗り、両膝を折り三つ指ついて一礼をする。深くすれば土下座と呼ばれるだろうそれだが経験は幸いなことになかった故に、今この場においてはそれが正しいのかどうかは疑問があった。が、深く礼をすべき場であることは社会人以前に人としてわかっている。故にそれに躊躇いはなかった。
古くは三つ指ついて礼をするというのは仕える相手にする姿勢だ。本来、掌をつけて額をこすりつけるようにするものだが、それを話しができるようにと簡略化したもの。古い日本の習慣故にか、それとも頭を下げることから意味が通じたのか。タカモトは笑って姿勢を楽にするように言う。
「いやいや、見事な食べっぷりでした。余程お疲れだったのでしょう。この近くには飛竜の巣もあります故、ご無事だったのは幸いでした」
飛竜、という言葉を聞いて道中空を飛んでいたあの赤い姿を思い出す。この世界がモンスターハンターの世界であると教えてくれた赤い竜。空の王者リオレウス。鋭い牙と雄大な翼を持ち、脚の爪には毒がある。ゲームでは何度となく狩った相手だが、もしあれが目の前に現れたら……。そう思うとブルリと体が震えた。
「ふむ、やはり大変だったご様子。ところで一つお尋ねしますが行くあてはございますかな?」
「い、いえ……どこにも……」
「ではこちらに住まわれるのがよいでしょう。幸いいくつか空家もございます。住むからには村の仕事を手伝っていただくことになりますが……よろしいですかな?」
それは渡りに船だ。行くあてなどない、右も左もわからない世界だ。この里に来る前ならばまだ選択肢はあった。一人でどうにかして生きていくと言うのも一つの選択肢だったろう。しかし今はどうだ。こうして人の温かみに触れ、この後で一人で生きていくことを選べるのか。無理だ、できるはずがない。
老人の提案には乗るべきだ。そう思いながらもどうしてこうも優しくしてくれるのかと疑念を持った。裏のない誠意などあり得るのだろうか。山の中を迷っていたところに老人が現れ世話になる。昔話でよくあるシチュエーションじゃないか。その後は決まって食べられるか殺されるか……。どちらにしても惨たらしい未来だ。
ならば一人で生きるしかない。そうすれば騙されることはない。だから提案は断るべきだろう。――馬鹿な話だ。無理なのは誰よりも和也自身が一番わかっている。
「えっと……わからないことばかりだと思いますがよろしくお願いします」
「うむ、まあ明日は里の案内をしましょう。頑張りましょうか? お客人」
とりあえずは世話になる。もし騙されるようならその時に対処しよう。そう決めて、それが一人になりたくないという恐怖から逃れるための言い訳であることを理解しながらも、受け入れることにした。
◆◇◆
畑。おそらく多くの日本人が問題なく読むことができるだろう。現代日本において文字が読めるというのは当たり前のことといえるので、おそらくという注釈はいらず、多くのではなく全てのと言ってもいいかもしれない。しかし母数が大きくなるほどに絶対という言葉は使いにくいので使わずにおいておこう。
畑。火の田と書いて畑。実はこれは国字だ。つまり、日本で作られたものであり中国では通用しない漢字である。では何故火の田と書いて畑なのか。それは田に生える雑草や茎を焼いて肥料にすることからだ。
焼畑という言葉があるとおり古くから日本において畑とはそういうものだった。山林や原野などでも焼いて肥料にして、そして農作物を植えて畑とする。つまり畑と火は密接な関係にあると言って過言ではない。
――だから畑は火の田って書くんだ、わかったか?
そんなことを和也は燃え上がる大地の前で思い出していた。
「こうして燃やしでできた灰を畑に撒き、その後で作物を植えます。その方がよく生りますからな。よろしいですか?」
「え、ええ……」
あ、俺絶対頬引き攣ってる。そんなことを思った。背の高さまで燃え上がる炎を見るのはさすがに初だ。自然破壊だとか、こんなふうに火を起こして大丈夫なのだろうかとか思ってしまうが……現地の人がいるのだからたぶん大丈夫なのだろう。
ごうごうと燃えるその場を背にし、他の場を案内してもらう。今はああして灰を用意しているので他の仕事場も空いていて、案内にはちょうどいいらしい。
「他の方たちも行っているというのは……こう、大地の神に祈りを捧げるため……でしょうか」
「いえ、火が家に燃え移ると危ないですから」
「あ……そうですか……」
現地の人に合わせてみたつもりで、けれど見当違いのことを言ってしまった故に恥ずかしい。思わず歩くスピードが落ちて老人の背に隠れるようにしてしまう。誰も見ていないのだから気にすることないのだが、こういうものはどうしようもない。
「こちらでキノコの栽培をしております」
「おお……すげえ…………アオキノコの山」
次いで案内された場は青い山。高さにして1mは優に超える。木でできたアスレチックのようなものは青く染まり、初見であれば悍ましささえ感じるほどだ。
和也も当然初見なのだが、モンスターハンターにもアオキノコというアイテムは存在していた。当然、和也もそれを知っていたために驚かずに済んだ。
「アオキノコはご存知ですか。味もよく食べると体が強くなるとこの里では多く栽培しております」
「へ、へえ。そうなんですか」
「ええ。後でご用意しましょう」
「あ、ありがとうございます」
(単体で効果あったのか、アオキノコ……)
薬草と調合して回復薬。解毒草と調合して解毒薬。不死虫と調合して生命の粉。調合しての使い道しか和也は知らない。だが、ゲームではコマンドひとつでできる調合がこの世界では同様にしてできないのだ。逆にゲームではできないことでも、この世界ではできることがあっても不思議ではないだろう。
「こちらは工房になっています。里で使う土器の類の制作場ですな。あちらの者がここで普段作っております」
(…………武器作る人だ。あれ絶対武器とか防具とか作る人だ)
小柄な人で身の丈60cmほど、少々しかめっ面をして口は真一文字に閉じている。だが、そんなことよりも問題なのは、その身の丈よりも大きな槌をその手に持っていることだろう。
「…………」
「よ、よろしくお願いします」
「…………」
「…………」
「竜じい、少しは喋ってくれないか? お客人もそれでは反応に困るだろう」
挨拶にも返事一つを返さずに表情も変えない。頑固一徹な職人というやつだろうか。ゲームでの加工屋の職人は愛想のいいお爺ちゃんという感じだったので、似ているのは見た目だけらしい。
タカモトの言葉にしかめっ面を少々崩し、数秒彼を睨むように見た後で口を開いた。なんとなく、何かあるのかもしれないと和也は思う。
「ここの職人だ。今、老が言ったように竜じいとでも呼べ」
タカモトの声は見た目に反して若いが、竜じいの声は逆にしわがれている。何故だかとても喋りにくそうだ。この点に関してもゲームとは違うことで少々がっかり……とまでは言わずとも、違和感を感じずにいられない。例えるのなら元気なクラスメイトがある日突然無口になったという感じだろうか。
竜じいはまた口を閉じて工房の奥へと去って行った。後姿を見送りながら、もしかしたら不機嫌にさせてしまったかと気になる。自分なら勝手にこうであるべきだと予測され、違ったからといってがっかりされれば不機嫌を通り越して不快だろう。
「怒らせてしまったのでしょうか……」
「むん? いや、お気にされるな。問題はないでしょう」
呟くように言った和也に対し、タカモトはどちらかというと機嫌良さげに言った。不機嫌になった竜じいに反し、機嫌のよくなるタカモト。もしかして、仲悪いのかなと結論を付けることにした。
この後も、水の採取のための川辺や虫などが取れる場を教えてもらった。水辺ならばカクサンデメキンを釣ったり、虫取りなら不死虫だの光蟲だのを採ったりするのかと少々びくつき、少々わくわくと相反する気持ちを持ちながら案内してもらう。結果としては水辺では本当に水だけ。虫はどうやらただの蛋白源らしい。俺、虫喰わないといけないのかな……など思いながらこの日の案内を終えた。
◆◇◆
和也が里にやってきてから七日間、すなわち元の数えで一週間が経過した。一週間も経てばさすがに和也も里に多少は馴染むことができていた。
最初は酷いものだった。竜じいが作った土器を倒して壊してしまったり、汲んできた水をわざわざ里の目の前で落としたり。それを慌てて拾おうとして割れた破片で手を切ったり。これらはすべてこの一週間でやったのだから和也は相当にそそっかしい。
だが幸いなことに里の人はそんな失敗の数々を大目に見てくれていた。というのも、たどたどしくはあるが和也の働きは里一番の力持ち――ミズキというらしい――と同等の成果を上げることができていたからだ。誰よりも多くの荷物を持ち、水を運ぶのもスピードが速い。仕事に不慣れでこれなので、後々頼りになるということが期待できるからだろう。
一つ正確に述べればこれは和也が優秀なのではない。正確に言えば和也にとって周りが劣っているのだ。義務教育がありその中で体育もあったのだから体は基礎能力はきちんとある。栄養も十分に採っていた。この世界の住人は教育など受けていないし、栄養状態だってよくない。そういった事情が和也を優秀に見せている現実だった。
「よっと……おっちゃん、ここでいいか!?」
「ん? ああ、大丈夫だ!」
住居の奥にいるであろう男に声をかける。虫をよく取ってくる、外見は30代前半ほどの男性で、和也にとっては頼りになる年上といった存在だ。和也は今竜じいの工房から土でできた箱を持ってきたところだった。
「けどこれ、何に使うんだ?」
「んー? 虫の保管だな。逃げ出さないように……ほれ、これで蓋をする」
「でかすぎね……?」
縦30㎝、横40㎝、高さ20㎝ほど。みかんなどの果物を詰めるのにちょうどいい大きさだ。その材質が段ボールであれば、だが。
力があるということで和也が運ぶことになったこの箱の用途はどうやら『虫かご』代りらしい。虫が大事なタンパク源――和也はまだ食べていないが――である以上、こうした保管場所があるのはいい。だが、何故こんな重いものを使うのか。もっと軽いものを使えば和也もこんな苦労はしなくて済んだのだが。
「なーに言ってんだ。兄ちゃんは食わねえけど食うやつは沢山いるんだ。箱だって大きなものが必要だろうがよ」
「……こう、もっと軽いものというか手軽なものというか。持ち運びしやすい大きさではいけなかったのでしょうか」
「無理だな。軽いもんなんかじゃすぐに壊れちまうよ」
和也も後々で気づいたのだがこれは和也が悪い。プラスチックだなんだとそういった軽くて丈夫な素材が無いのだ。土器で軽いものを作ろうとすればそれは脆くなってしまう。まだこの世界の常識に染まり切っていないことを再確認することとなった。
馬鹿なことを言ってしまったと後悔し、無駄な時間を取らせたことを謝罪した。おっちゃんは気にすんなと笑って言う。朗らかに笑って、相手を安心させる笑みだ。
不意に昔のことを思いだす。どうでもいいことを怒る上司。口を開けば文句ばかりだった。こうして話したり、感謝されたりということがあっただろうか。
(――悪くないな。この世界も……)
思わず頬が笑みの形を作った。人が人と協力し合って生きる世界。それがこの世界なのだろう。モンスターという強大な相手が存在する故に、弱小である人は手を取り合わねばならない。人付き合いが希薄になったと現代では言われていた。別にそれが時代の推移なら仕方ないだろうと思っていたが……。大事なことだったんだなと深く思った。
しかし実は和也は大事なことを忘れていた。この里に来た時には気づいていたのだ。その可能性があることに気が付いていたのだ。しかし仕事を覚えよう、人に馴染もうとしている内にそれを忘れてしまっていたのだ。
その日の晩のことだ。いつものように和也用にと宛がわれた家にて簡単な食事を摂る。火を起こして野菜を煮て、いつもと同じ葛野菜のスープ。一週間前は美味しく感じたこれも、さすがにずっと食べ続けていれば飽きてしまう。
「――塩が欲しい。――いや、肉が欲しい」
現代の日本とは飽食の時代と呼ばれていた。食べるものが世に溢れ、毎日作られた食事が捨てられていく。食うに困って餓死するようなことはほとんどなく、食べたいものを食べられる時代だった。量だけではない。種類だっていろんなものがあった。世界中の色んな食事を日本でとることができていたのだ。そう、和也にある問題。それは食に対する欲求だった。
「肉食いてえ……。脂の滴るステーキとか贅沢言わないから……ばら肉とか切り落としとか何でもいいから……肉……肉肉肉!!」
多様な食事に慣れた舌が同じ食事に飽きて違うものを欲している。栄養で満たされることが当然としている体がもっと色々なものを食べろと命令している。
栄養学の観点から考えた時、人は肉を食すべきなのだ。なぜなら食事という行為は己の体を構成する元を得るための行為であり、食べ物とはその構成物質となるものに他ならない。ならば、限りなく人に近いものを食べた方が効率がいいのだ。
もちろん、世にはベジタリアンという菜食主義者が存在する。肉を食べることができないことが、即ち生きることができないということではないという単純な例だ。だが、考えてほしい。人の体を作ろうと考えた時、確実なのは果たして草食なのか肉食なのか。
食べ物とは材料であり、体がその完成品だ。体の組織を構成するたんぱく質は分解するとアミノ酸になる。そして人の体とはある9種のアミノ酸を食事によって得なければならないのだ。
「米だ大豆だで摂取できる……? 知るか、俺は……俺は……肉が食いたいんだああああ!!!」
溜まらずに叫びだした。人は生活レベルをあげることができても下げることはできない。仕事や家などは和也にとって問題なかったようだが、どうやら食事というものは切り捨てることができなかったらしい。人の三大欲の一つなので、当然と言えば当然かもしれない。
明かりになるものが火しかない世界だ。おそらく時間で言えば午後8時ほどだろう。それでも暗くなった里ではもう多くの人が寝付いている。その中の叫びは迷惑でしかないと、叫んでからであるが反省した。
だが、ここで一つの決意をした。
「俺……肉食う。絶対食べる。モスとかファンゴとかなんかいるだろ。ていうかいたし。……あ、うん、モスにしよう」
一週間前のやり取りを思い出して決意がほんの少しだけしぼんでしまった。生きるために食べたいのであって、ブルファンゴの相手などしたら今度こそ死ぬかもしれない。それでは本末転倒だ。
どうやって狩るのか。武器だなんだというものはあるのか。狩ることができたとして衛生面は大丈夫なのか。そも、里の人は肉を食べていないのだろうか。食べているのならどのようにして確保しているのか。野菜は仕事の対価としてもらっているが、肉も同じなのだろうか。
布団に入ってあれこれ考えて。眼を閉じれば少しだけ睡魔がやってくる。多少習慣がついたのか、早寝早起きが身に付きつつあった。
眠るまでの間、どうやれば肉を得ることができるのかをひたすら考え続けた。そのせいで夢の中でも肉を追いかけまわし、最終的には逃げる骨付き肉を胸から出したビームでこんがり焼いて、『ウルトラ上手に焼けましたー』と叫んでいた。さすがにないだろう。
そんな馬鹿な夢を見た翌日、知ることとなる。この里にはブルファンゴどころかモスだろうと狩る手段が無いことを。