雪原に立つ、二つの影。一つは黒い異形。もう一つは白い異形。しんしんと降りしきる雪の中、対峙する。
双方、示し合わせたように同時に歩み寄る。互いを値踏みするように。推し量るように。
おもむろに、白が手を掲げた。すると黒の身体が業炎に包まれた。わずかに身じろぎをした黒も、その熱で足元の雪を溶かしつつ、それでも歩みを止めぬまま手を掲げた。まるで鏡写しのように、白の体も余す所なく業火が舐め上げる。
互いに怯まず、歩む。内側から焼かれる痛み、苦しみに、異なる感情を抱きつつ、歩む。しかしそれは表情からは決して読み取れず。黒の赤い瞳も、白の黒い瞳も、何も語らぬまま。
等しい力を持つ異形たちは気付いたのだろう。炎では致命とはならぬ。であるならば。雄叫びを上げ、駆け出す。その拳でもって、敵を叩き伏せんと。
異形の力は凄まじい。一撃が入るたびに、空気が震え、大地が唸る。強固な皮膚も抉れ、裂け、白い大地にどす黒い赤飛沫が走る。それでもなお、拳打の応酬は勢いを緩めない。
黒の、巨岩さえやすやすと砕く拳が、白の腰──鬼の如き形相を象ったバックルを破壊した。それまでいくら傷を受けようとも平然とした様子だった白が、苦痛を訴えるように身悶えする。その隙を逃がすまいと黒はさらなる追い打ちを加えたが、白も仕返しとばかりに黒の銀色のバックルに拳を叩き込んだ。打撃を受けた箇所を中心に瞬く間にバックルは罅に覆われ、黒が苦悶の声を漏らす。
どちらも致命傷を受け、それでもなお拳を振るう。やがて異形は姿を変え、人の姿となった。黒の異形は、黒い衣服の青年に。白の異形は、白い衣服の青年に。顔を腫らし、血を流し、それでも止まらずに。
黒い青年は、泣いていた。全身の痛みよりなお心を苦しめる、暴力への苦痛に。
白い青年は、笑っていた。全身の痛みよりなお心を昂ぶらす、暴力への歓喜に。
嗚咽と狂笑。相反する感情がこだまする。等しい力を持つ者同士が、一つの思いに衝き動かされる。
存在を許してはならない。ここで打ち倒さなければならない。
落涙と共に放たれた拳が、無邪気な笑顔を捉えた。
歓声と共に放たれた拳が、悲壮な泣き顔を捉えた。
口から鮮血を撒き散らし、声も途切れ、二人は雪に沈んだ。そのままどちらも身じろぎ一つせず、そのさまはまるで絵画のよう。
凄絶と言う言葉も生温い殺し合いは、ここに幕を閉じた。周囲の生き物はとうの昔に逃げ去り、見る者など影さえ見当たらない。
ただ一つ、一対の瞳を除いて。
死んだように動かない黒い青年の周囲に、変化が生じた。ほんの些細なものながらも、その変化はあまりに異質。
青年の頭上、そして足元。その雪面に、不釣り合いに赤い、撒き散らされた血よりなお赤い何かが現れた。否、色だけでなく、その形も不釣り合い。それは可愛らしいリボン。ただでさえ不自然だが、ここがつい先程まで命を奪い合う場であった事も加味すれば、尋常ではない異質さ。
続いて生じた変化は、輪を掛けて異質であった。二つのリボンを結ぶように黒線が引かれ、それに沿って刃物を通したかのように、ぱっくりと開いたのだ。開いた口の奥に見えるのは、先に現れた可愛らしいリボンとは対極的な、不気味な目、目、目。覗き込む者を見据え、あるいは睨めつけるような視線が無数に存在していた。
青年の身体は、落ちた。夥しい数の視線の中へ。つい先程まで雪原であったとは思えぬ程、あっさりと、極自然に、それが当然と言わんばかりに。
青年を飲み込んだ口は、音もなく閉じた。始めから存在していなかったように、黒い青年の形に潰れた雪面と、白い青年の亡骸、そして──
「……! 五代ぃっ!」
──黒い青年を呼ぶ、遠い声を遺して。
* * *
月の灯が微かに照らす、鬱蒼とした森の中。黒い青年は目を覚ました。
「ここは……?」
誰に問いかけるでもない、特に意味のない独り言を零しつつ、地べたに横たえていた身体を起こそうとし、
「っつ……!」
全身を襲う激痛に、再び五体を投げ出した。顔を歪ませながらも、どうにか動く首を巡らせて辺りを見渡し、そこで自分が見覚えのない場所にいるのだと知った。
標も何もない森。こんな風景に見覚えがあるとすれば、それはここを縄張りとする動物だけであり、他の者にしてみると単なる森のどこかでしかない。彼にとっての見覚えとは、最後に見た風景。あの山中の雪原である。
青年は、自分は長野県の九郎ヶ岳にいたはずだ、と思い返した。白い青年──"未確認生命体第0号"──に告げられた、思い出の、あの場所。拳を握る決意をもって自ら身を投じた、多くの人々の命が失われた事件の引き金となった、あの場所。
しかし目を覚ましてみると、そこは肌寒さこそ感じるものの、雪など欠片さえも見当たらない森。当然ながら、そんな場所まで移動した覚えなどない。彼の記憶は、最後の一撃からぷっつりと途切れているのだから。
では誰かがここまで運んだのだろうか、とも考えてみたが、あの場にいたのは自分と第0号だけ。離れた場所に全幅の信頼を置く人がいたが、大の大人一人を担いでここまで景色ががらりと変わる場所まで移動したとは考えにくい。そもそもあの人の性格を考えれば、こんな場所に置き去りにせずに病院に運ぶはず。幾度も世話になった、掛かりつけの医者の元へ。
他にも疑問は尽きない。第0号はどうなったのか。あの人……"一条薫"はどうしているか。別れを告げて来た人々はどうしているか。そして──自分は今、どのような状態なのか。
濁流のように押し寄せる疑問。しかしそれは、不意に聞こえた物音によって中断された。何かが歩く足音。重なり具合からして、恐らくは複数の何か。しかもこちらへと近付いている。
それだけならば、あるいは誰かが来たのだろうとも推測出来るが、彼の心は警戒の一色に染まった。人間にしては足音が大きい。そしてこの暗闇の中、一向に灯りが見えない。こんな足元さえ見づらい所を照明なしで歩くなど、自殺行為でしかないと言うのに。
まさか夜行性の獣か、傷だらけの己の身体から流れる血の匂いに惹かれて来たか、と思ったのも束の間。
「ちっ、男か」
「ガキならウマいんだがな、大人だと硬くていけねぇ」
獣と言う可能性は、そのやり取りでたちまちに消えた。痛みも忘れて反射的に飛び起き、声のした方向を見て、青年は己が目を疑った。
人間よりも二周りも三周りも大きい、毛むくじゃらの体躯。涎に塗れた牙が月光を不快に反射し、真っ赤な舌が覗く大きな口。人どころか、巨大な獣でさえも八つ裂きにしてしまえそうな重厚な爪。
目に見える全ての情報が、こいつらはただの獣ではないと知らせている。そして先の言葉が、自然の埒外でさえあると物語っている。
「まさか、未確認……!?」
青年の頭に浮かんだのは、これまでに死闘を繰り広げて来た怪人たち。人ならざる容姿と力を持ち、人とは決して相容れない独特の価値観の元、罪なき人々を惨殺する未確認生命体。
高い実力を持つ個体は人語を解するが、それ程の力を持たない個体は聞いた事のない言語を使用する。その法則が当て嵌まるのであれば、目の前の化物たちは相応の実力を持っているはず。
「ん? オメェ、外から来たのか」
化物の一体が言った。外から来た、とはどう言う意味か、と問い返したかったが、それどころではない。化物たちは無遠慮に、青年との距離を縮めようとしている。青年も合わせるように後退りするが、化物たちは彼を包囲せんと左右に広がりつつある。
「見た事のねぇ服だ。運が悪かったな」
「大人しく食われてくれや」
やがて青年は、背中で木の幹を叩いた。これ以上の後退は出来ない。完全に化物たちに囲まれ、後は襲われるのを待つのみ。
否。青年の心は、それを良しとしない。この化物たちを放っておけば、再び惨劇が起きてしまう。それは絶対に避けなければならない。
青年は瞳を閉じた。ここがどこかなど、今は些細な問題。彼の心にあるのはただ一つ。
炎の中の誓い。
これ以上誰かの涙は見たくない。
みんなに笑顔でいて欲しい。
両掌を広げ、その親指と人差し指で円を描き、腰の前に据えた。目をかっと見開き、己の力の中枢たる石をイメージし、
「ぐっ……!」
これまでに経験した事のない激痛が、全身を走った。身体を起こそうとした時の比ではない。長く戦いに身を投じた青年をして、膝を突きかねない程。並大抵の者であればそれだけで戦意を失い、大人しく眼前の化物に食われる道を選んだであろう。
しかし、青年は膝を折らなかった。砕けんばかりに歯を食いしばり、誓いを両の足に込め、己を支える礎とした。思いはただ一つ。
みんなの笑顔を守る為に。
その思いに、力の源は応えた。描いた円の中に赤い輝きが宿り、彼の腰を一周するように銀色が走る。歪みのように見えるそれは、瞬く間に確かな形を得て、顕現した。
現れたその姿は、あまりにも痛々しいものだった。余す所なく罅が走り、欠けている。触れればあっと言う間に崩れ落ちてしまいそうな程。
無理もない。顕現した力、ベルトは一度第0号の攻撃によって傷を負い、それも癒えぬままに再び必殺の攻撃を受けた事で大きく破損しているのだ。本来の力を発揮出来るかなど、火を見るより明らか。
それでも青年は、引き締めた顔を崩さなかった。戦える。目の前に迫る理不尽を討ち倒す為の力は、悲しみを隠す仮面は、まだ残っている。
未だ身体を苛む痛みに耐え、握り締めた左拳を左腰に添え、同時に薬指と小指を曲げた右掌を左前方に突き出した。
「お? 何だ、命乞いか?」
「新手の大道芸人かもな。芸を見せるから、命ばかりはお助けを、ってな!」
「けけけっ、ワシらを楽しませてくれたなら、考えてやってもいいぞ!」
下卑た笑い声と共に化物たちが青年をからかう。だがその程度では、彼の心は揺れない。心の奥に据えた覚悟は、決して揺るがない。
ゆっくりと、青年の右手が動く。一文字を書くように、左から右へ。
「変──」
簡潔な言葉。鎧を纏い、人外の力を振るう異形へと姿を変える、戦の狼煙となる言葉。悲しみを胸に秘め、ただ人々を守る戦士となる為の言葉。青年がその言葉を言い切ろうとした、その瞬間。
「そこまでですわ、木っ端妖怪のみなさま方」
まるでこの場にそぐわない鈴を転がしたような声が響き、正面の化物の上半身が文字通り消え失せた。
ソフトランディングしてますよ。