冷水で顔を洗い、姿見で目元を確認した五代。洗っては覗き込み、また洗っては覗き込み。それを何度か繰り返し、ようやく満足してから勝手口から出てみると、
「雄介さん、どうしよう……」
斧を片手に途方に暮れる輝夜がいた。彼女の周囲には割れた薪があちこちに転がっており、何よりも雄弁に状況を伝えている。ちらと見た薪小屋は、薪が隙間なくぎっしり。夢中になって薪割りを続け、はたと思い出して小屋へ運んだものの手遅れだった、と言ったところか。要は、割り過ぎたのだ。
「こっちから先に使うってのは……、やっぱり無理よねぇ」
転がっている薪を指差す輝夜に、五代は眉を八の字にして頭を振った。割ったばかりの生木は水分が多く、十分に乾燥させなければ燃料としての用を成さない。割りました、はい燃やしましょうとは行かず、その為の薪小屋なのである。
「あら、お二人ともどうしたんですか?」
どうにも上手い処理法が思い付かず立ち尽くす二人に、声が掛けられた。純白のシーツの山を抱えた鈴仙である。干していたそれらを取り込んだ帰りのようだ。太陽の光を存分に浴びたシーツは、さぞ暖かく、良い触り心地であろう。その中に顔を埋めてみたいものだ。
それはともかくとして、まずは目の前の問題を片付けねばなるまい。幸い、鈴仙は八意永琳から炊事その他を任せられている。相談する相手としては適役だ。
「ひぃふぅみぃ……、なるほどね。五代さん、悪いけど転がってる薪を全部集めておいてもらえない? これ片付けてから、また来るから」
事情を説明すると、鈴仙は薪を数えてから少し考え、五代に指示を出して亭内へ駆け戻った。特に悩む素振りを見せなかった事から、恐らく確かな対処法に見当が付いたのだろう。であるならば、彼女の言う通りに行動するのが最善。五代は一も二もなく薪を拾い始めた。そして、任されたからにはと責任感が湧いたのか、輝夜も五代に倣って薪に手を伸ばした。
集めた薪がそれなりの高さまで積み上げられた頃、鈴仙が戻って来た。だが何かしらの対処を講じようとしている割りに、その手には何も持っていない。
「鈴仙さん、こんな感じで良い?」
そう聞く五代に向けて大きく頷き、危ないから少し下がって、と言った鈴仙は、特に何かするわけでもなく、ただじっと薪の山を見つめた。下がってくれと言われた手前、見守る事しか出来ない五代だが、隣に立つ輝夜は、あぁ、そういう事かと納得顔。
そうして鈴仙が視線を送り始めてから待つ事しばし。薪に変化が表れた。表面から霧状の何かが吹き出したのだ。一体何事だ、と五代が思う間に、霧は濃さを増し、そして周囲の空気に溶け込んで行く。
「超音波を発して、内部の水分を飛ばしてるのよ。あの子は、そう言う能力を持ってるからね」
目を丸くする五代に、輝夜から説明が入った。そう言えば、今朝に鈴仙自身が、波長を操ってどうのこうのと言っていた事を思い出す。さらに、妹紅は種も仕掛けもなく空を飛び、輝夜は人間離れした身体能力を有する。ここでは、そう言う能力のようなものが一般的なんだな、と二日目にして理解する五代。良い具合に感覚が麻痺した、とも言う。美醜の感覚が麻痺し、摩訶不思議な現象に麻痺し、次は一体何が麻痺するのだろうか。
「これで良し、と。それじゃ、ぱぱっと運んじゃいましょう。五代さんはこれを、あっちの焚口に。姫様はこっちを台所の竈に。私は残ったのを処置室に持って行きます」
「分かったわ。ありがとう、鈴仙」
気付くと、薪はすっかり仕上がっていたようだ。鈴仙が山を小分けにしつつ、各自に運び先を指定する。輝夜にも当たり前のように指示を飛ばしている辺り、薪割りに関しては今後も任せよう、と指導しているのだろう。それが分かるからこそ、輝夜も元気に返事をして、薪を抱えたのだった。
壁沿いに歩き、角を曲がってまた少し進んだ所で、件の焚口が見付かった。壁の足元にぽっかりと開いており、その直上、丁度五代の目線の高さには木の格子が嵌め込まれた窓。言わずもがな、古き良き日本の風呂である。外の世界でも殊更に珍しい様式に、またも五代の心は高鳴った。
「まぁ、外じゃあボタン一つでピンポンパンだしね。夜になったらゆっくり楽しむと良いわ」
「ああ言う機械がいっぱいあるんだから、お風呂も外と同じか、もっと凄いのかと思ってたよ」
いつの間にやら背後に立っていた鈴仙。彼女の勧めに率直な感想を伝えると、意外にもこの様式は、八意永琳の趣味だと返って来た。近辺の文化に合わせるのも目的ではあるが、それ以上にかの才女は、アナログな方式を好む面もあるのだとか。
「一苦労するお風呂程気持ちの良い物はない、って仰ってたわね。私たちが入る時は、師匠が火の番をして下さるし」
この、やけに低い場所にある焚口。ここに向かって竹筒なり何なりで空気を送り、窓越しに湯加減を尋ねる八意永琳を幻視し、何とも言えぬ和やかさを感じる五代だった。
薪割りも終わり、他に何かやれる事はないか、と鈴仙に相談してみたが、特にないと言う。そも昼食が終わった今は午後の診療の時間であり、今しがた五代と輝夜の相談に乗れたのもたまたま時間が空いていたからだそうな。
こうして引き止めている間に患者が来ては事だ。五代は仕事の邪魔をした事を侘び、風呂場裏から離れた。諸々の事情から長居するのは懸命ではない場所である事も確かである。
縁日を回る浴衣客のように、袖に手を突っ込んで庭先に出てみる。陽光の下では宵闇とはまた違う趣があり、思わずため息をついてしまう程の景観であった。
池に鯉でもいないかと歩を進めようとして、ふと思い至る。やや大振りな袖をあさり、取り出したるは手帳と色鉛筆セット。
八雲紫は、日記なり絵を描くなりお好きにどうぞ、と言っていた。ならばせっかくだ。この立派な邸宅を、このページに収めてみようか。
庭の隅の手頃な岩に腰掛け、永遠亭全体を眺める。あの美しい門や壁も描きたかったが、そうすると屋敷の大半が隠れてしまう。もちろん、この庭も。ゆえに涙を呑んで、と言っては大袈裟だが、内側のみを描くに留まった。それに時間があるのなら、次のページに門を描いても良いかも知れない。
絵描きがやるように、片目を瞑って鉛筆越しに永遠亭を見つめ、描く。少し描いては鉛筆を立て、また描く。時折消しゴムをこすりつけ、鼻歌を風に乗せ、手帳片手に大きく背伸びして。
しばらく筆を走らせた五代は、描き上げたものを見直して大きく頷いた。まだ下描きでしかないが、旅の片手間に描く絵としては十分過ぎる程の出来栄え。後は着色するのみである。
と、ここで五代は空を見上げ、続いて門を見やった。日は多少傾いているが、まだまだ明るい。日没までには幾分か余裕がありそうだ。しかし微妙な頃合いでもある。このまま下描きに色を塗っていたら、その間に日が暮れてしまうだろう。門を描く時間は作れない。
「……よしっ」
下描きのついでに色を頭に入れて、仕上げは後にしよう。記憶を探りながら夜を楽しむのも悪くない。
そうと決めたら五代の行動は速い。手帳と色鉛筆セットを袖にしまい、岩から飛び降りて門前に駆け寄った。
到着した五代がまず目を付けたのは、永遠亭をぐるりと囲む白壁。いざこうして目の当たりにすると、壁が声を発しているような気がする。ここを登ってくれと。だが、土足でこのぴかぴかに手入れされた白壁に足を掛けるのは気が咎める。ここは城南大学ではないのだ。
門戸はぴたりと閉じているが、昨晩に鈴仙が苦もなく開けていたのを思い出した。となれば、出入りするならやはりここからだろう。閂も見当たらないので、開ける分には不自由なさそうだ。未知の近未来的な鍵が掛かっている可能性はあるが。
別段悪い事をしているわけでもないのに、こそこそと辺りを見回してから門に手を掛ける五代。気分はちょっとした探検隊である。そしてそっと力を込めると、何ら抵抗なく門は開き、
「妖怪よけの護符もないのに、一人でどこに行こうってんだい?」
突然掛けられた声に、肩が大きく跳ねた。慌てふためいて周囲に目をやるが、人影らしきものは見えない。
「上だよ、上。待ってなよ、すぐ降りるからさ」
言われたままに上──門の屋根を見上げると、昼食時に見た少女が胡座をかいている。そんな所に座ってたら危ない、と注意しようとしたが、それよりも先に少女は勢い良く跳び、五代の目の前にひらりと着地した。大人でも少しは躊躇するであろう高さから、である。
「さて、まずお互いの名前を知るところから始めようか。って言っても、あんたの名前は知ってるんだけどね、五代雄介さん」
名前を呼ばれた事にはもう驚かない。それよりも五代は、少女への違和感で心を埋め尽くされていた。
外見は小学生くらいの女の子と言っても良い。背丈の低い身体に桃色のワンピースをまとい、首には人参を象った可愛らしいネックレス。肩程の黒髪に真っ白な兎耳が良く映え、裸足のままなのも、田舎のわんぱくな女の子と聞かされれば納得が行く。
だが。五代にはこの少女が、見た目相応の年齢には見えなかった。口調だけなら少しばかりおませな女の子と言えようが、やけに堂々とした態度、兎のような真紅の瞳の油断ならない輝き。無垢ではなく老獪と言う表現がしっくり来る。
「あー、そんなに緊張しなさんな。取って食おうってわけじゃないんだからさ。あたしゃ"因幡てゐ"、よろしく」
そんな五代の思考を察したのか、てゐは己の名を名乗りながら、彼に右手を差し出した。先程までの雰囲気は、嘘のように鳴りを潜めている。気を抜いたわけではないが、五代雄介、差し出された右手を無視出来るような男ではない。小さな手をしっかりと握り返し、名刺を渡した。
「今朝はありがとうね、あの子たちから話は聞いたよ」
はて、と五代は首を傾げた。礼を言われるような事をしただろうか。あの子たちとは、どの子たちだろうか。起床してから昼までの行動を、てゐを眺めながら思い返し、その頭の兎耳に視線を定めて、そこで思い出した。
「あの子たちって、あの白い兎?」
「そう、大当たり。あたしの直属の部下で、鈴仙があたしの上司、ってとこかね」
聞けば、あの兎たちは五代のジャグリングをたいそう気に入り、嬉々としててゐに話したらしい。建物の立地上、外部からの刺激が少ない永遠亭において外の娯楽は珍しく、兎たちを楽しませてくれた礼ついでに挨拶でも、と声を掛けたそうな。
「それにしても、何だって外に出ようとしたのさ? 竹林の雑魚妖怪共も、返り討ちにされるのを理解してるから中には入って来ないけど、一歩でも門を越えたら襲われるよ?」
怪物映画などではありきたりな、両手を掲げる化物の仕草をしながら問うてゐに、五代は正直に事情を話した。日が暮れる前に門の絵を描きたかった、と。すると彼女は、露骨な呆れ顔を示した。
「……外の人間は呑気なのが多いけど、あんたもなかなか大したタマだねぇ……」
尤もな指摘に、さしもの五代も乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「まぁ丁度良いや。あの子たちのお礼、ここでしようか」
そう言ったてゐの右手が、ぼんやりと輝きを放った。淡く、暖かそうな光。手をかざすだけで心まで温もれそうな、優しい光。
「あたしゃ人間を幸福にする力を持っててね」
てゐの手から光が離れ、ふわふわと不規則に上下しながら五代へと飛び、その胸に吸い込まれた。胸に宿った暖かさが五体へと行き渡ったような感覚を覚え、思わず、おぉ、と感嘆の声が漏れる。
「その力が続く限り、雑魚妖怪に出会す事はないよ。ま、どれくらい続くかは分かんないから、やりたい事があるなら早めに済ますこったね」
五代が己の手足を矯めつ眇めつしている間に、てゐは踵を返し、永遠亭へ戻ろうとしていた。
「素敵なお礼をありがとう!」
その背中に感謝の声を投げ掛けると、てゐは片手をひらひら見せながら、これで貸し借りなしだよ、と嘯いた。
てゐが去った後、五代は半開きの門から滑るように外へ抜け出し、小道の脇に鎮座する岩に座り込んで筆を取った。力を行使した本人でさえ効果時間が分からないのならば、急ぐに越した事はない。
それでも、頭に叩き込むように門と壁を凝視し、さらさらと下描きを仕上げていく。その姿はまるで一端の画家のようで、五代の真剣さを言外に物語っていた。
夕暮れ時、方々で烏がかぁかぁと合唱会を始めた頃、五代は手帳をぱたんと閉じ、足早に門の内へと戻った。妖怪が怖いわけでも、てゐの力が切れるのが怖いのでもない。記憶を褪せさせないように、と言う別種の焦りから来ているのだろう。それが証拠に、夕日に照らされた彼の顔は、実に満ち足りたものだった。
* * *
「意外だったよ」
五代と別れたてゐは、玄関先に立つ妹紅に呼び止められていた。絵描きに集中していた五代は気付かなかったが、その間に人里からやって来た患者を案内していたのだ。今は、診療が終わるまで待機中である。
「意外って、何がよ」
「あんたの事だから、てっきり雄介にちょっかい掛けるかと思ってた」
「……まぁ、あいつがそこらの外来人だったら、罠にご招待もしたさ」
「ふぅん、随分と買ってるじゃない。私もだけどね」
そう言ってけらけらと笑う妹紅。対峙するてゐも釣られたように、しかしどこか真剣な目付きで笑った。
「あたしにとってはね、あいつは特別なんだよ。そりゃうちの子たちを楽しませてくれたし、何か悪戯するのに気が引けちまうくらい眩しいやつってのもあるけど」
「へぇ、悪戯兎の特別ねぇ。なに、惚れたの?」
あらあらまあまあ、と口元を抑えながらにやつく妹紅の頭を、下世話なのよと一発はたき、てゐは呟いた。
「あいつは、
五代とてゐをどう絡ませるか。博麗神社の参拝客を増やす方法より悩んだのではないかと思います。
暖かくなったり寒くなったり、体調を崩しやすい季節です。みなさま、お気を付け下さいませ(一敗)。