日中でもなお薄暗く、そして冬の気温とはまた別の寒気を感じる竹林を進む五代。足を取られないよう注意を払いながら、一歩ずつ、一歩ずつ。
見知らぬ地で、自分で決めた場所へ向けて、誰の案内も指示もなく歩く。長い戦いの中で遠ざかっていた感覚、感情が蘇り、心が喜ぶ。その喜びに呼応するように、足取りもまた軽くなる。歩けば心が高揚し、心が高揚すれば歩くのが楽しくなる。一種の永久機関のよう。
気持ちが楽しくなれば、この不気味な竹林の風景さえも風情あるものに見えるのだから不思議である。一昨日はあれだけ怯えていたのにな、と内心で苦笑し、同時に自分でも思っていた以上に旅に、冒険に飢えていたんだろうな、と考察する。無論、無駄な足踏みなど──無駄な寄り道などしたつもりは一切ない。むしろ寄り道は旅の醍醐味であり、そこでしか得られない思い出、体験も多々ある。辛い事もあるが、無駄と一蹴出来る寄り道なんてものは、はなから存在しないのだ。
「……一条さん。俺、行って来ます。また、冒険に行って来ます」
竹葉の隙間から見える青空を仰ぎながら、そう呟いた。
湿った地面を跳び越え、子供のようにわざと通り抜けにくそうな場所を掻き分けながら進み、ようやくと言うか、とうとうと言うか、五代は妹紅の自宅に行き着いた。が、その向こう、竹林の外から漏れ出る光を認めた途端、泥が跳ねるのも構わずに駆け出した。
竹林を抜けた五代の目に飛び込んで来たのは、まさに日本の原風景だった。空はどこまでも青く高く澄み渡り、山々は泰然自若の言葉に相応しくその姿を誇り、草花は風に揺られさらさらと靡く。その風に乗って、どこか懐かしい、ここが日本であると間違いなく感じ取れる薫りが、彼の感情を揺さぶった。
まさしく、幻想。今を生きる人々が心のどこかに置き忘れた、日本人の心に産まれながらに刻まれた、魂の故郷。神々や妖怪が確かに存在し、人間が自然と共に生きた時代への帰郷と言おうか。冒険家たる五代にとって、これ程の境地へ至るのは僥倖の極みである。
吹き渡るそよ風に、大地から伝わる息吹に、五代は心の凪ぐまま、時間を忘れてその身を晒した。
今の五代にとって時を知る術と言えば、太陽の傾き具合。それさえも気に留めぬまま眼前の絶景の虜となっていたのだから、どれだけの時が経ったかなど分かるはずもなく。実のところ、彼が我に返るまでたっぷり半刻は過ぎていた。
「おっと、忘れるところだった」
自身の
「はいはい、どちら様?」
未だ日が昇り切っていないからだろう。応対する妹紅の声は、一昨日深夜に比べてだいぶ落ち着いている。戸口を開けた妹紅は、五代を見るなりぱっと顔を綻ばせた。
「一人で永遠亭からここまで来たの? 連絡寄越してくれたら迎えに行ったのに」
「うん、てゐさんから幸運の力ってやつをもらってね。でも、一人で歩いてみるのも楽しかったよ!」
「さん、って……」
明らかに幼子に見えるてゐだが、醸し出す雰囲気ゆえにちゃん付けに抵抗を感じる五代であった。
妹紅の自宅は、永遠亭に比べると──あちらが別格とも言えるが──至って質素な、これぞ日本家屋と言う趣だった。台所を兼ねる土間を上がるとそこは居間であり、その中央にはやかんが吊るされた囲炉裏。鉄鍋を吊るして汁物を炊き、魚を刺した串を立てれば、さぞや風情ある食卓となろう。壁には雨具の
「身体はもう良いの?」
「すっかり元気! 先生からも太鼓判だよ」
やかんの湯で茶を入れる妹紅が、我が事のように笑みを浮かべた。どうぞと差し出された湯呑みには茶柱が立ち、これからの旅の幸運を示してくれているかのよう。
「それで、遠路はるばるどうしたの?」
人間にとってはだけど、と尋ねる妹紅に、五代は先生から預かって来た、と便箋を手渡した。
「慧音宛て? それを何で私に?」
「俺も中身は知らないけど、読んで同意出来るなら名前を書いてくれ、って言ってた」
ふぅん、と封を切る妹紅を横目に、ふぅふぅと茶を冷ましながら少しばかり考える。下の名前で呼んだと言う事は、上白沢慧音なる人物は八意永琳だけでなく、妹紅とも縁の深い人なのだろう。しかも己の宿泊事情に関して相談を受けるのならば、地主や大家とも考えられる。となれば、かの人は相当な金持ち、本来の意味での有力者ではなかろうか。知らず、五代の肩が強張る。
「……なるほど。そりゃ私の同意も欲しくなるわね」
そんな五代の緊張に気付かず、便箋の中身を読み進めた妹紅はうんうんと頷き、座卓の上に転がっていた短い鉛筆で名前を連ねた。
「雄介一人で持って行っても揉め事の種になりそうだし、私も人里まで一緒に……って、どうしたの?」
便箋を返そうと向き直ったところで、五代の様子を見て取った妹紅が問うた。それに五代が正直に答えると、ぷっと吹き出し、それから腹を抱えての大笑い。
「あっはっは! 慧音が人里のお大尽なら、私は竹林の大地主だよ!」
何が何だか分からない、と目を瞬かせる五代に、まぁ会えば分かるよ、と妹紅は立ち上がり、玄関の引き戸をがらりと開けた。
未だ肩の力が抜けない五代と、ちらちらと彼へ振り返りながら励ます妹紅。そんな珍妙なさまで道中を行くと、やがて二人の目の先に、高く茶色い壁で囲われた何かが現れた。中央は門のようになっており、遠目でも脇に一人ずつ、計二名の誰かが立っているように見える。
近寄るに連れて、それらの全容がはっきりと見えるようになった。壁の茶色は年季の入った木製ゆえであり、どちらかと言えば塀である。所々に古い補修の跡が見受けられ、長年雨風に晒された事で、年代物ならではの味を感じる。
門はやたらと立派な構えで、五代も国内の旅先でこのような様式の物をいくらか見た覚えがある。開け放たれた門も分厚く、これを開閉あるいは叩き割るのは、容易ではなかろう。
そして門の両脇に立つ二人は、簡素な鎧と槍を装備し、帯刀している門番。鎧の上からでも分かる鍛え上げられた肉体と、引き締まった顔。蟻の子一匹通さないと言う気迫を立ち上らせるその姿は、実に頼もしい。しかし妹紅と、彼女に先導される五代を認めると、
「おぉ、藤原の姉さんかい。外の人を案内してくれたのか? ようこそ、人間の里へ!」
「藤原さんに会えるたぁツイてるな、兄ちゃん! ほれ、はよ中に入れ!」
厳つい顔を朗らかに崩し、里の中へと招き入れられた。てっきり門番二人で槍を交差させて「何者だ、名を名乗れ」などとお決まりな展開になるかと思っていた五代、これにはいささか拍子抜けしたようだ。それでもとりあえず、気軽に門番に手を振る妹紅の後を、どこか親鳥に従う雛鳥のようにおっかなびっくりひょこひょこと付いて行く。
里を見た五代の感想は、ここは日光辺りの映画村か何かだろうか、これに尽きた。木造の平屋が軒を連ね、店らしき建物の軒先には立派な看板。舗装されていない道を行き交う人々の足音が声と重なり、外の世界とはまた違う喧騒を耳に届ける。そして、この里に住まう人々はみな着物を着ており、服装では五代や妹紅がやや浮いてしまっている。まるで時代劇の世界。縁台に掛けて団子と茶に舌鼓を打つ姿、祭りでもないのに屋台で物を売り買いする姿など、観光地でしか見た事がない。
だがこれが、この人間の里の日常なのだと言うのは分かる。世界中を旅し、多くの人を見て来た五代だからこそ分かる。誰かを演じているような不自然さは微塵もなく、誰もがあるがままに振る舞っている。その風景が、ここの当たり前なのだ。
そうして興味深げに視線を巡らせながら往来を歩き、時折店や住宅から漂う美味そうな香りに心惹かれる事しばし。ここだよ、と妹紅が足を止めたのは、垣根で仕切られた広大な敷地に乗っかった、大きな平屋建ての建造物前。入口の横には『寺子屋』と書かれた表札が掛けられている。
「寺子屋? じゃあここ、学校なの?」
「そう。それで慧音はここの先生ってわけ。お昼休みの時間だし、丁度良かったね」
なるほど、いかな理由があろうと授業の邪魔をするわけには行かない。耳を澄ますと、入口の奥からかすかに子供たちの騒ぐ声と思しきものが聞こえる。授業の後のご飯となると、その美味しさは格別。五代にもそんな記憶がある。
だが待って欲しい。授業中の乱入は論外だが、昼休みならば大丈夫と言えるのか。むしろ待望の食事を邪魔されて、気を悪くするのではなかろうか。例え八意永琳と妹紅の名を書いた手紙らしき物があっても、宿の話は立ち消えになるのではないか。
「おーい、いつまで突っ立ってるの?」
しかし、あぁ、しかし。五代の心配をよそに、妹紅はすでに寺子屋の敷居を跨ぎ、彼を呼んでいる。事ここに至ったならば、もはや腹を括る他あるまい。意を決し、五代は寺子屋の敷地へと歩を進めた。
建物の中に入ると、子供たちの声がいっそうよく聞こえる。賑やかな声が建物に反響し、本来以上の人数が騒いでいるようにも思えた。そんな中にあって、五代の口は緩やかな弧を描く。どんな国でも、どんな時代でも、子供たちの元気な声とは実に良いもので、彼にとってこの上ない清涼剤となる。
「さっきまでびくびくしてたのに、良い顔になったじゃない」
ちらと五代の顔を盗み見た妹紅が、彼の笑顔を見付けてにやりと笑った。その言葉で己が笑んでいる事に気付いた五代は、頬の辺りを擦りながら、
「そんなつもりはなかったけどなぁ。でもさ、子供の楽しそうな声って、何かこっちまで楽しくならない?」
それでも表情はそのままで。
「まぁ、ね。分からなくはないわ」
ふっと笑って前を向き、すたすたと先を急ぐ妹紅。
「私もここに来ると、良い気分になるの」
慌てて後を追う五代にそれだけ告げた彼女の声は、言葉通りに弾んでいた。
妹紅がとある襖の前で立ち止まった。恐らくここが教室なのだろう。と言うのも、子供たちの声が襖の向こうから響いているのだ。教室ではなく食堂かも知れないが、寺子屋と生徒用の食堂とは、どうにも五代の頭の中では繋がらない。小学校のように教室で和気藹々と食べる姿ばかりが浮かぶ。
何を食べているんだろう、家から持って来たお弁当か、はたまた屋台か何かで買って来た店屋物か、まさかの給食か。などと子供たちのお昼ご飯に思いを馳せている五代の隣で、
「慧音、いる?」
気さくに声を張り上げた妹紅。良く通るその声は子供たちの騒ぎ声にも妨げられずに届いたようで、
「あぁ、妹紅か。今行くよ」
負けじと、凛とした声が返って来た。聞き惚れそうな声色だが、口調その他が教師らしさに満ち溢れ、本人でさえ制御出来ない無意識下で、己は真面目一徹であると言外に主張していた。妹紅宅での緊張がぶり返し、五代の心臓が早鐘を打つ。
「こんな時間に珍しいな。一体何の用……」
すっと襖が開き、声の主──上白沢慧音が姿を現した。所々に空色の混じった銀髪は腰程まで伸び、藤色の瞳は理知的に輝いている。胸元のやや開いたワンピースは襟の形も相まってどことなく優等生然とした印象を与え、博士帽に似た帽子も知的な雰囲気を醸し出す。学問に身を捧げたと言われても納得し得る出で立ちである。
そんな、妹紅よりも頭半分程背の低い慧音の瞳が五代を捉え、その途端に言葉が途切れた。腕を組み、目を細めて、五代を頭のてっぺんから爪先に至るまで、じっくりと観察する。さながら獲物を品定めする肉食動物だ。
「あの、初めまして。五代雄介って言います!」
だが、五代も負けてはいられない。第一印象は可能な限り良いものに。それも円満な人間関係を築く秘訣なのだ。小学校低学年の子供のように大きな声で自己紹介し、名刺を差し出した。
対する慧音は、模範的な動きで名刺を受け取る。そしてその中央を走る名前に目を留め、そこでようやっと穏やかに笑った。
「そうか、貴方が五代雄介さんでしたか。私はてっきり、妹紅が婚姻の挨拶周りに来たのかと思いましたよ」
突拍子のない慧音の勘違い告白に、五代と妹紅は揃ってこける。図らずもその様は、夫婦のように息がぴったりであった。
ここらでもう一つ、はっきりさせておきます。
恋愛要素もありません。