さて、鶯張りの廊下とは本来、過日のように調子良く踏んで音を楽しむ物ではない。敵の侵入を城や館の者に知らせる、伝統的な警報装置なのだ。
もうすぐ日付の変わる、人里も灯りのついている建物の方が珍しい時間。せっかくだから、と言う曖昧な理由で残されていたそれは本来の役割を果たし、五代の五感を研ぎ澄まさせた。まさか物盗りが忍び込んだのか、と布団を抜け出して行灯に火を灯すと、
「"ルナ"、何やってるの!?」
「だって、こんな音が鳴るなんて知らなかったもん!」
「こら、ばかルナ、ゆーすけに聞こえちゃったらどうすんだ!」
「あぁ、これ多分、全部聞こえてるよ。ルナの能力、解除されちゃってるもの。それに布団から出てるし……」
襖の向こうから、何とも可愛らしい声がいくつも聞こえて来た。やいのやいのと騒ぐ声には、聞き覚えのあるものも。ここへ来た理由は分からないが、物騒な輩でないのは確かなようだ。
笑いを堪えながらこっそりと襖を引き、頭をひょっこりと出して外の様子を窺うも、果たして廊下は暗闇が続くのみであった。先程まで間違いなく複数の誰かがいたのに、である。
だが、そろそろ五代にも分かって来た事がある。ここが幻想郷である以上、外の世界で培った己のちっぽけな常識などかなぐり捨ててしまった方が、答えに辿り着きやすいのだ。
「あれれ? おかしいなぁ、声はしたのに誰もいないぞ?」
わざとらしく声を張り上げてみたが、やはりと言うべきか、何の反応もない。しかし、何となく感じられる。この廊下には、誰かが潜んでいる。
「眠れないから、お茶でも飲もうかなぁ。これだけ寒いんだし、入れたてのお茶は身体が温まって、いつもよりうんと美味しいだろうなぁ」
聞こえよがしにそう言って頭を引っ込める。すると、どたどたといくつもの足音が鳴り、小柄な少女たちが転がり込んで来た。
「寒いよぅ、お茶ちょーだいっ!」
そう言ったのは、稲穂のような金髪と白く透き通る羽根、口元にちらと見える八重歯が特徴的な少女。その後ろには、見慣れない二人の少女と一緒にチルノと大妖精の姿も。これはまた、随分な大所帯だ。
「あはは、やっぱり誰かいたんだ。待っててね、すぐにお湯を沸かすから」
互いに身を寄せて震える少女たちに、五代は火鉢の脇を指し示して庭先へと出たのだった。
鉄瓶と七輪で湯を沸かし、入れた茶を勧める。来客は見越していなかったのか、茶びつの中の湯呑みは二つしかなく、一つを回し飲みする形となった。もう一つはチルノの要望で、キンキンに冷えた井戸水を注いである。背中の氷のごとき美しい羽根から想像は付いていたが、熱い物は苦手らしい。
茶と火鉢でようやく温まったところで、初対面の三人が名乗った。"サニーミルク"、"ルナチャイルド"、"スターサファイア"と、空に輝く星々を連想させるこの少女──妖精たちは、チルノの要望でここに来たそうな。
「コイツが、あなたにお気に入りを教えたいんだって」
サニーミルクがチルノを指差し、
「それで、単にお邪魔するのは面白くないから協力してくれって頼まれちゃって」
縦巻きの金髪が眩しいルナチャイルドがのんびりと経緯を話し、
「ルナはともかく、私とサニーは眠いから嫌って言ったんだけど、どうしてもって聞いてくれなかったの」
長い黒髪に青いリボンが目立つスターサファイアが抗議の声を上げた。三名とも、割りと言いたい放題である。それに対し、昼間には負けん気の強い性格が察せられていたチルノが黙っているはずもなく。
「あ、あんたたちだって、人間に悪戯するなら、ってノリノリだったじゃんか!」
「何よ、ショーコはあるの!?」
「大ちゃんが聞いてたもん!」
睨み合うチルノとサニーミルク。名前を出された大妖精はおろおろと目を泳がせている。
これは収集が付きそうにないな、と割って入り、がるるる、と野犬か何かのように威嚇し合う二人をどうにか宥めた五代。見た目通りに非力なようで、さしたる苦労もなかったことにひとまず安堵。
「あの、雄介先生、怒ってませんか……?」
ふぅ、と息をついた五代に、大妖精が恐る恐るといった様子で尋ねた。
「えっ、何が?」
「夜中に起こされて、しかもこんなに騒いで……」
俯き加減な彼女の口から出る言葉は、穴の空いた風船のように小さくなって行く。そして、
「……ごめんなさいっ!」
終いには頭をぐっと下げて、謝ってしまった。心の中を吐露する目をぎゅっと閉じ、五代の次の言葉──彼女の想像に従うならば怒りの言葉をただ待っている。
そんな大妖精の頭に、五代はそっと手を乗せ、優しく撫ぜた。ごつごつとした掌の柔らかな感触に驚き、目を見開く。
「俺さ、すっごくわくわくしたんだ。可愛い声はしたのに誰もいない。これが妖精の悪戯か! って。外じゃ絶対に体験出来ないもん」
外の世界ならば怪談話もいいところである。しかし、騒ぎの中にチルノの声を認めた五代には、新しい何かを教えてくれる呼び声となったのだ。怒る理由などどこにあろうか。
やんわりと笑む五代と、潤んだ瞳でしゃくり上げながらも不器用に笑う大妖精。そんな光景を目の当たりにしたチルノとサニーミルクは、責任を押し付け合う己たちの姿に恥じ入ったのか、互いに謝罪の言葉を交わしつつ空の湯呑みに口を付けた。
改めて話を聞いてみると、チルノは昼間の授業で馳走になった焼き菓子と団子の礼に、お気に入りの場所を教えたかったそうだ。当然そんな打算はなかったが、その真心を拒否するのも申し訳なく感じ、黙って続きを聞く。
「けーねも言ってたんだ。誰かに優しくしてもらったら、ちゃんと仕返し……じゃなくてお返しをしなさいって」
だが、妖精とは悪戯を好むもの。氷精たるチルノとて例外ではなく、その為に隠れんぼにおいて無敗を誇るらしいサニーミルクたち三妖精に話を持ち掛け、驚かせてやろうと考えたのだ。結果は五代本人ではなく鶯張りの廊下に完敗したわけだが。
「……だけど、迷惑掛けちゃってごめんなさい。寝てるのを邪魔しちゃって、ごめんなさい」
しゅんとして謝るチルノ。誘われた身ではあるものの、その姿に思うところがあったようで、三妖精もバラバラに頭を下げた。
そんな彼女たちを静かに見守っていた五代は、膝を一つ叩いて立ち上がり、衣紋掛けの上着をするりと羽織った。そして赤々と熾る火鉢の炭に灰を被せ、行灯の火をふっと吹き消す。何だ何だと辺りを見回す妖精たちに、
「このお誘いを断ったら、凄くもったいない気がするんだ。さっきも言ったけど、妖精のお誘いなんて外じゃ絶対にないからさ!」
彼はこう言った。語るまでもないが、今この瞬間を最も楽しんでいるのは、五代に他ならない。時間など関係なく、例え布団の中で微睡んでいようと、深い眠りについていようと、こんな未知の体験を彼が逃すはずがないのだ。無論、迷惑だなどと考えようはずもない。
「チルノちゃんのお気に入り、俺に教えてよ!」
障子から優しく降り注ぐ月光の中、五代の手が妖精たちに差し伸べられる。その手に、彼女たちははにかんだような笑顔で小さな手を伸ばした。
月と星の明かりを受けながら、六人があぜ道を行く。だが傍目にはその姿はまるで見えず、砂利を踏む足音さえも聞こえない。右手の指を三妖精に、左手の指をチルノと大妖精に握られて歩く五代の姿は、もし第三者から見えるのであればさぞメルヘンチックだったろう。妖精たちは先程と打って変わってにこやかに笑いながら、五代と目線を合わせるくらいの高さで飛んでいるのだから、なおさらである。
彼らの姿が見えないのには、わけがある。先に述べられた隠れんぼにおいて無敗の能力があってこそ、なのだ。サニーミルクの力が姿を、ルナチャイルドの力があらゆる音を隠す。人里の門番たちは、堂々と門を潜る彼らに目もくれず、妖精たちの笑い声にも無反応だった。そして、こうしてあぜ道を歩く最中にあっても、あちこちに姿を見せる妖怪たちが人間である五代に全く気付かない。先日は遠巻きに見られていたのに、である。なるほど、無敗と言うのも頷ける。
それでも互いの姿は見えるし、楽しげな歌声も聞こえるのだから不思議な力だ。門に差し掛かった頃こそ、己の無計画さに緊張し、里を出ようとする言い訳を必死に考えていた五代であったが、今では妖精たちの歌に聞き入りながら、知っている歌ならば一緒に歌う程度の余裕が出来ていた。
あぜ道はやがて空を隠すように生い茂った木々の中へと入り、しかしさほど歩かぬ内に抜けられた。その先に広がっていたのは、光を放つ湖。否、実際には月光を湖面が反射しているのだが、凪いでいる為か、はたまた空気が澄んでいる為か、まるでその奥底に月を収めているかのように輝いているのだ。その光景に、五代は思わず感嘆の声を上げた。
「うわぁ……。何これ、凄く綺麗だ……!」
「えへへ、ここがあたいのお気に入りの、霧の湖だよっ!」
鼻をこすりながら、チルノが得意気に語る。対する五代は感動に包まれながらも、ここが霧の湖とやらか、と昨日の慧音との会話を思い出していた。改めて見渡してみると、名前の割りに霧は見受けられないが、湖の真ん中には大きな島があり、そこに件の洋館……いや、もはや古城と言っても良さそうな立派な西洋風建築物が鎮座している。灯りは見えないが、話の通りならば誰かが住んでいるのだろう。こんな美しい湖に囲まれているとは、何とも贅沢な立地である。
畔に駆け寄って覗き込んでみると、水底までがくっきりと見える程に透き通っている。そっと両の手を差し入れ、掬った水を一啜り。手が痺れてしまいそうなくらいに冷たい水は、しかし春の日差しを想起させる柔らかな口当たり。人里から歩いて適度に火照った身体には、何よりの贅沢であった。
夢中になってもう一口、また一口と喉を潤す五代の隣を、宙に浮かんだチルノがすっと通り過ぎ、湖面上で静止した。腕を組み不敵に笑う姿は、ここの主かと思える風格を感じる。
「ゆーすけにはトクベツに、あたいの最強の力を見せたげる!」
危ないから、と言われるがままに手を湖から抜いたのを見たチルノは、一つ頷いてから掌を湖面に当てた。心なしか、周囲が冷えたような気がする。そして、
「ふんっ!」
掛け声と共に、その冷気が一段と増した。薄っすらと霧が立ち込め、びきびきと甲高い音が湖面を覆う。五代が驚き目を見開く僅かな間に、広大な湖が凍ってしまったのだ。
「うん、今日もあたいってばゼッコーチョー!」
満足げに笑って見せたチルノが、ふわりと着地した。その様子を見ていたサニーミルクたちも、きゃいきゃいと躍り出る。
改めて湖面を見てみると、変わらず湖底が綺麗に見通せた。しかしノックのように叩いてみると、確かにかちかちに凍りついている。薄氷と言っても良いその氷は、おっかなびっくり足を乗せた五代を、大地と変わらぬ硬さで支えた。
常識ではとても考えられないが、チルノはこの湖を、妖精たちや五代が乗っても割れない強度で凍らせたのだ。しかも、水面に立っていると錯覚しそうな薄さで。
「ほら、ゆーすけもおいでよ!」
「夜はまだこれからだよ!」
宿直室とは逆に、まごつく五代へとチルノとサニーミルクの手が差し出された。その隣では大妖精とルナチャイルドが笑顔で手招きしている。ふと背中に力が掛かり、振り向くと、スターサファイアがうんしょうんしょと彼の背中を押していた。
「……ははっ。そうだね、考えるより楽しまなきゃ損だ!」
チルノが湖を凍らせた事、その氷が目を見張る程薄い事。そんな事は些事に過ぎない。ここでしか出来ない体験が彼を誘っているのだ。考える時間さえ惜しい。その場でくるりと振り返り、転びそうになったスターサファイアの手を取ると、五代は弾む胸に身を任せ、妖精たちの前に滑り寄った。
それなりに嗜みがあっても、靴のままでのスケートはさすがに経験がなかった。だが、そこは要領の良い五代雄介。すぐにコツを掴んだようで、むしろしょっちゅう転ぶルナチャイルドの手を引いて、一緒に滑る程度にはすぐに上達した。そんな彼を大妖精とスターサファイアが一緒に引き、後ろからチルノとサニーミルクが押す、ちょっとした電車ごっこのような姿も。
ただ滑るだけながら、スケートは意外と体力を使う。だが不思議と五代は疲労を感じなかった。この非常識な空間で子供のように無邪気な彼女たちと遊ぶうちに、彼もまた童心に帰っていたからだろうか。あるいは疲労を上書きしてしまう程に充実しているからだろうか。その姿は、無尽蔵な元気を持つ子供にさも似たりであった。
横一列で手を繋ぎ、ゆったりと滑る。そろそろ天頂を過ぎたように見える月は、しかし変わらぬ青さ、柔らかさで辺りを照らしている。ありきたりな感想しか思い浮かばない程に興奮した五代は、己の手を取る妖精たちと目を合わせて笑み、彼女たちも釣られるようにはしゃいだ。その様は児童向けの絵本のよう。
と、夢見心地であったその時。
「……ん?」
五代の右手が、わずかに引っ張られた。しかしそれも一瞬で、直後にはその違和感もたち消えた。
「大妖精ちゃん、どうかし……」
右手側にはチルノと大妖精がいる。右端の大妖精が躓いたのだろうか、と声掛けしようとした五代は、彼女を見て、さらにその『向こう側』を見て言葉を失った。
大妖精の隣に、銀髪の美少女がいたのだ。
「こんばんは、五代雄介さん。私、"十六夜咲夜"と申します」
十六夜咲夜と名乗る少女は、風に髪を踊らせながらさも当然のように名乗り、五代たち六名は、驚愕のあまりその場で盛大に尻餅をついた。
男率90%からさほど間を置かずにロリ(見た目)率90%。咲夜さんがいなかったら危なかった。
わかさぎ姫? 五代に驚いて潜ってるんじゃないですかね。