十六夜咲夜と名乗った少女は、転んだ一同に引き倒される事もなく氷上に立ち、瀟洒に一礼して見せた。その所作は、まだ二十歳にも満たないであろう幼さの残る外見とは裏腹に、見惚れる程に洗練されている。
服装は、紺のワンピースにエプロンを合わせた、いわゆるメイド服。もみあげを三つ編みに結ったリボンと襟元のリボンタイの緑がやけに映える。しかしその着こなしも、彼女の現実離れした美しさの引き立て役でしかない。
「失礼。あまりにも楽しそうでしたので、つい輪に入ってしまいましたわ。お怪我はありませんか?」
薄く柔らかく笑って差し伸べられた彼女の手を取って立ち上がり、次いでチルノたちを助け起こす五代。幸い誰も怪我はしていなかったようで、お気遣いありがとうございます、と頭をぽりぽり掻きながら返した。
それにしても、と改めて咲夜を見やる。深夜の凍てついた湖に、メイド服姿の美少女。自分たちもたいがいだが、あまりにもこの場にそぐわない印象を受ける。こんな格好で、なおかつ厳しく教えられたであろう身のこなし。さぞ立派な屋敷に勤めているのだろう。
「あの、私の顔に何か?」
「いや、そう言うわけじゃなくて──」
小首を傾げた咲夜の疑問を否定した五代の視線は、自然、その顔の向こうを捉えた。
夜の闇にあってなお映える、荘厳な館。館を囲む壁は高く、何人たりとも通さないと言う空気が遠目にも伝わる。その壁をぼんやりと照らしているのは外では珍しい、異国情緒を匂わせるガス灯だろうか。どこか懐かしい、文明開化の薫りが漂っている。
しかし、何よりも彼の目を引いた物。それは真紅。煉瓦よりも紅く、炎よりも紅く、そして薔薇よりも紅く──その館は、まるで鮮血を塗りたくったかのように、いっそ美しい程に紅かった。
状況証拠としては十全。五代は、咲夜がどこから現れたのかを察した。人気のない湖に、あの立派な館。そうならばこの少女の瀟洒な立ち居振る舞いも、納得が行く。そしてその予想は、彼にある閃きをもたらした。彼女がここを訪れた理由である。真夜中、遮る物のない湖の真ん中、冬の寒々とした空気。
気付いてしまえば、そこは素直が売りの五代雄介。次の瞬間には背筋をピンと伸ばし、大きく息を吸って反動を付けるように軽く背中側に反り──
「あぁ、なるほど。謝る必要はありませんよ」
咲夜に、機先を制された。
「なにせ当館は、これからが日常なのですから。主もテラスでお茶を飲みながら、あなた方を眺めておいででした」
「あ……、えっと、騒がしいからって事じゃなく……?」
「今しがた申し上げた通り、当館の主は今もこちらを見ております。注意するつもりで寄越した私が一緒に遊んでいたならば、どんな仕置をされるか。怖くて恐ろしくて、夜も寝られませんわ」
まぁ夜は寝ないんですけどね、それに逃げますけどね、と口元に手を添えて笑う咲夜。
「じゃあ、何で来たのさ?」
叱りに来たのではないと分かったからだろうか。チルノがずいっと割って入り、咲夜を指差した。本音では、気持ちよく遊んでいたところを邪魔されて、少しばかりおかんむりなのだろう。口調には、若干の棘が感じられる。
「おっと、そうでしたそうでした。私とした事が、ついうっかり」
それを受け、咲夜はわざとらしく、おどけた調子で言った。突然列に加わった事と言い先の仕置のくだりと言い、どこか飄々とした印象である。
しかし、
「主より、貴方を当館へお連れするように、と言付かっております。お邪魔してしまったようで大変心苦しいのですが、ご同道願えませんか?」
姿勢を改めた咲夜は、いささか以上に真面目に、五代に頭を下げた。
「……お連れするって、ゆーすけを連れて行くって事か?」
その問いに、咲夜がこくりと頷き──途端、身震い程度では収まらぬ寒気が周囲を覆った。冬である事を踏まえても異常なその冷気は、同時に足元の湖を、彼女を中心に白く深く、荒々しく無造作に凍らせる。大気は内に孕む水を絞り出され、月光のベールを作り上げた。これにはさすがの五代も堪らず、彼の背に隠れていた大妖精たちを抱え上げ、チルノから大きく距離を取った。
「ゆーすけは今、あたいたちと遊んでるんだ。連れてくなら、あたいとしょーぶしろ!」
それは、
だが、しかし。それを真っ向から受けたにも関わらず。咲夜は涼しげな顔をいささかたりとも崩さず、身震い一つせぬまま立ちはだかった。
「貴女の言い分もごもっとも。だけど私も、一応"お嬢様"から仰せつかってるのよ。納得してくれれば、私も楽なんだけれど……」
かたや拳を握り締めて相手を睨み。かたや腕を組んで優雅に見下ろし。美しいダイヤモンドダストも、その煌めきが鋭利な刃物を連想させる。まさに、一触即発。
そこへ。
「ごめんなさい」
五代は凍て付く空気を纏うチルノにも、抜き身の鋭刃を思わせる咲夜にも怯まず、その間に立ち、褐の女中へ今度こそ深々と頭を下げた。
「チルノちゃんたちは、お礼をしたいって、お気に入りを教えたいって一心で、俺を誘ってくれたんです。それなのに、誘われた俺が一抜けするなんて、何かこう、違うじゃないですか」
もちろん俺も楽しんでますけどね、と付け加えつつ悪戯っ子のような笑みを見せる。そこでようやく、彼女も五代が自分たちを選んでくれたと理解したのだろう。子供らしい、感情を剥き出しにしたしかめっ面が、ようやく綻んだ。
咲夜を見つめるのは、慈愛と悲哀に満ちた瞳。これが本当に、平和な外の世界からやって来た年若いお人好しに出来る目なのか。
「その、明日じゃ駄目ですか?」
内心たじろいだ咲夜をよそに、事もなげに続けようとする五代。咲夜は平静を装いながらも思考を巡らせた。
あんな目をした者が相手では、力ずくで連れて行くのは不可能──そもそも不本意ではあるが。かと言って、この見た目に反して梃子でも動きそうにない男を置いて帰れば、主の意向に反する。
「明日なら何も予定はないし、朝から来れます。だからご主人には申し訳ないですけど、少し待ってもらって……」
考え込む咲夜に、どうにか勘弁してもらえないかと頼み込む五代。すっかり怒りを収めたチルノを筆頭に、妖精たちも彼の後ろで懇願の表情を浮かべている。
折れては面子が立たない。しかし折れざるを得ない現状。先に一応などと嘯いてはみたものの、主よりの仰せとあらば結果は出さねばならぬ。折れるか、否か。従者の身としては、軽々しくその場で決めて良い事ではない。
無粋なやり方であったかも知れない。もっと他の手段を考えるべきだったか。そんな後悔の念を抱く咲夜。そんな葛藤を、
「咲夜、何を手間取っているのかしら?」
空より降り掛かる言葉が、空気ごと切り裂いた。その声は幼児を連想させる可愛らしさと、全ての命を平伏させるに足る静かなる威厳に満ちていた。その声に釣られ視線を向けると──
夜闇の中で輝きを放つ、桃色のワンピースドレス。合わせの色のナイトキャップを乗せた、青みを帯びた銀髪。夜空が溢れ出しているかのごとき漆黒の翼。そして、
幼子と言っても良い容姿であるのに。寺子屋の子供たちと変わらぬ年にしか見えないのに。空に浮かび場を睥睨するその少女は、おとぎ話として、あるいは伝承として語り伝えられる歴戦の王のような、威風堂々たる佇まい。
そのままゆっくりと、音もなく氷上へ降り立つ少女。五代を見据える瞳はなおも人外の光を灯し、彼を値踏みしているかのよう。背丈は五代の方が遥かに高いのだが、逆に自分が見下されているような、そんなあり得ない錯覚を覚える。
ごくり、と誰かが唾を飲む音が聞こえた。それ程の静寂の中、
「お初にお目に掛かるわ、ミスタ・ゴダイ。私がその子の主、"レミリア・スカーレット"。無礼はなかったかしら?」
かの館の、そして咲夜の主たるレミリアは、鷹揚に名乗りを上げた。言葉の端々、立ち居振る舞いからは隠しようのない王者の風格が滲み出ている。並び立つ者なき絶対的な強者のオーラは、どれだけ動物的な勘が鈍った者であっても、奥底に燻る動物的本能でもって感じ取るであろう。咲夜もただ静かに、レミリアの後方に控えて微動だにしない。
だが、その王に真っ向から相対する者がここに一人。並大抵の生物であればすぐさま傅くような、頗る付きの化物に相対する者がここに一人。
「無礼なんてとんでもない! あ、もう名前は知ってるみたいですけど、五代雄介です」
そう、五代雄介である。彼は何ら臆する事もなく平然とポケットから名刺入れを取り出し、当たり前のようにその中の一枚を手渡し、受け取ったレミリアは一瞥して頷き、斜め後ろに立つ咲夜へと渡す。
「咲夜が驚かせていたみたいだから、気を悪くしたかと思ってね。貴方の懐の大きさに、主として礼を言わせてもらうわ」
「あら、お言葉ですがお嬢様。私としましては、友好的な会話の取っ掛かりとして手品を披露しただけですわ」
「それで客人が怪我したら世話ないでしょうに」
呆れた顔で肩を竦めるレミリア。なるほど、見咎められても逃げると言っていたが、咲夜は忠誠心こそ確かなものの、主に仕えるメイドとしてはどこか一風変わった、掴みどころのない人物らしい。
「それにしても、人間にしては肝が据わってるわね。それなりに驚かす気はあったのだけど」
まじまじと五代を見るレミリアだが、彼も、まぁ色々ありましたから、と苦笑いを浮かべながら返した。空を飛ぶのも、背中から生える翼も、ただならぬ雰囲気を醸し出す幼子も、残念ながら五代はすでに経験しているのだ。尤も、外の世界で超常的な一年を過ごした事も大いに関係しているが。
「さて、それじゃあ本題に入りましょうか」
僅かに見えた落胆を咳払いで誤魔化したレミリアが、改めて五代に問うた。
「私の耳には、貴方は私からの招待を断ったように聞こえたのだけれど、それで間違いないかしら?」
「えっ、聞いてたんですか!?」
思わず聞き返した五代へ、レミリアは満足げに口元を歪め、館を指差した。どうやらこの妖しい少女には、一連の会話が聞こえていたらしい。しかも、遠く見ゆるあの館のテラスから。どれだけ地獄耳なのか。緑のクウガも真っ青である。
閑話休題。使用人たる咲夜ではなく、五代を招待した本人であるレミリア直々の誘い。しかもこの少女、先述の通り、並々ならぬ貫禄を隠そうともしない。かような大人物からのお誘いとなれば、跪いて従わざるを得ない。そんな錯覚さえ抱かせる。
事ここに至れば、さすがのこの頑固者も付いて来るだろう。ようやく面倒な仕事が終わった、と内心で胸を撫で下ろした咲夜だったが、
「間違いないです。今日は、チルノちゃんたちと遊ぶって決めてますから」
五代の返答は変わらない。眼前に立つ者が誰であっても、彼は答えを曲げるつもりはなかった。一度交わした約束を違えるには、素性や立場は彼にとってあまりにも軽過ぎるのだ。
はっきりと否を突き付けられたレミリア。これには咲夜も目を見開き、主の動向を窺う。この気位の高い主がへそを曲げでもしたら、あるいは逃げられないかも知れない、と。
「そう、分かったわ」
そんな心配をよそに、彼女の主はあっさりと、五代の言葉を受け入れた。
「せっかくのお誘いなのに、ごめんなさい。聞こえてたかも知れないですけど、明日は朝一番に来ますから!」
「いえ、日が沈む頃が良いわね。その時間はまだ寝てるの」
そして、あれよあれよと翌日の段取りが決まって行く。五代がお土産を持参すると言えば、ならば咲夜に良い茶葉を用意させるとレミリアが返し。レミリアが食事を用意するが好き嫌いはあるかと問えば、出された物なら何でも食べますと五代が答え。あまりにとんとん拍子に話が進むものだから、
「あの、お嬢様?」
さすがに咲夜が疑問を口にした。明日でも構わないのか、と。対するレミリアは半身で振り向き、
「貴女の主は、そんなに不寛容かしら?」
こう問い返した。
「確かに、館へ招待するよう命じたわ。だけど先約があるなら、それを尊重するのも貴族の努め。そこまで狭量になった覚えはないわよ」
主にそう言われては、もう面と向かって言い返す言葉はない。わずかな不満の色を残し、咲夜は押し黙った。
門番には話を通しておく、と言い残し、レミリアは咲夜を引き連れて飛び去った。外の世界ではなかなかに聞き慣れない単語だが、よくよく考えてみれば名前が違うだけで、守衛さんのような感じか、と一人納得する五代。
「あの、本当に良かったんですか?」
遠い二つの背中へ手を振る彼に、大妖精が恐る恐る尋ねた。聞けば、レミリアは過去に異変を起こし、解決屋たる霊夢と大立ち回りを演じたらしい。結果として敗北はしたものの、未だにその影響力は大きく、人里の人間たちからは畏れ敬われているそうな。そんな相手からの誘いを断ってしまって大丈夫なのか、と。
不安そうな大妖精に、五代は膝を折って目線を合わせ、心配してくれてありがとう、と頭を撫ぜる。
「俺ね、お話しが出来るって、凄く大事だと思うんだ。それにみんなも、友達を作る時には、まず話す事から始めるでしょ?」
だから、大丈夫。親指を立てると共に会心の笑みで締め括った。
妖精よりも遥かに年少ではあるが、五代の人生は波乱に満ちたものであった。そのさなかでも自分より家族の、みんなの笑顔を追い求めた彼の心の地盤。断じて生易しくなどなかった歩みを支えた、揺るがぬ心根から生まれる底抜けの笑顔。
大妖精もまた笑顔で頷き、チルノも三妖精も真似をし合う。笑顔と共に生きた彼の周りに笑顔が花開くのも、必然であろう。
レミリアと別れてから小一時間程経った頃。事前に眠気を訴えていたスターサファイアから、
「そろそろ限界……」
との意思表明があり、そこで月夜のスケートはお開きとなった。行きと同様に、三妖精の力で無事に寺子屋まで戻り、その玄関先にて解散。
「ゆーすけ、また遊ぼ!」
「うん、またね!」
互いに手を振り、一時のお別れと再会を約束。去り行く背中を見送りながら、どこか懐かしさを感じる五代だった。
不思議なもので、大人になるとなかなか「また遊ぼうね」とは口にしなくなるものである。大人とは、自由と共にその手の束縛を得るもの。それでも彼は、妹とその人柄故に、そう告げる機会に恵まれていた方ではあるが。
チルノたちの真似をして、忍び足で鶯張りを渡って──やはり完敗であった──宿直室へ。上着を衣紋掛けに掛けて布団に潜り込むと、途端に泥沼に足を取られたように、意識が暗闇に溶け込んだ。眠気を誘うには丁度良い運動だったようだ。
「お休みなさい……」
かすかに聞こえるみみずくの合唱の中、誰にともなく呟いた五代は、長い一日を終えた。
* * *
レミリアは月を背負い、悠々と飛ぶ。やや後ろを追従する咲夜が、その背中に不満げな声を発した。
「『視えて』いましたね?」
「何がかしら?」
「五代雄介さんをお連れする事は出来ない。そう視えていたのでしょう?」
口を尖らせる咲夜に、レミリアはくつくつと笑った。
「えぇ、そうよ。だから
レミリアは語る。五代は絶対に咲夜の誘いに乗らないと分かり切っていた。しかし敢えて向かわせた、と。
「何百年も生きた私にとって、たった一晩なんて刹那でしかない。だけどその一晩の慰みを求めるのは、決して贅沢ではないでしょう?」
「つまり私は、お嬢様の我儘に付き合わされたのですね。はぁ、勤め先を間違えたかしら」
わざとらしい溜め息。特に珍しい事でもないのか、はたまた我儘に付き合わされる心当たりがあるのか。
「昨日のお茶の仕返しよ。何あれ、死ぬかと思ったわ。ドレスも汚しちゃったし」
「外の世界の皇帝が、不老不死を求めて飲んだ秘薬だそうです。お嬢様に相応しいかと」
「劇薬じゃないの。それに私は生まれた時から
どうやら後者だったようだ。しかし劇薬を飲まされてもこの程度で済ませる辺り、こちらこそ珍しい事ではないらしい。
「だけどそれならいっその事、無理矢理にでも連れて来ても良かったかも……」
顎に手をやり、咲夜が呟いた。
「お嬢様が視たものをぶっ壊すのも、面白いかも知れませんね」
不本意だが出来なくもない手札。しかしその提案を、
「あら、それは無理ね」
「っ!?」
不意に咲夜の眼前に現れたレミリアが、あっさりと切り捨てた。背の翼が大きく広がり、二人をそっと月から包み隠す。
「私は、瀟洒な貴女がそんな無粋な手を嫌う事を知っている。そして貴女は、私がそんな無粋な手を嫌う事を知っている。でしょ?」
白磁の指が、つつ、と咲夜の頬をなぞる。幼い顔付きにそぐわない蠱惑的な笑みが、侍女の心を捉えた。
「……本当に、仕える主を間違えたかしら」
「今日はポーカーフェイスが下手ね。明日、ミスタ・ゴダイに八つ当たりしちゃ駄目よ?」
咲夜の頬に差した紅。それを知るは、闇に浮かぶ真紅の瞳のみ。
でもカリスマの方がも〜っと好きです。
出された物は何でも食べます。なお紅魔館。
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