翌日早朝。目を覚ました五代は、鶏の鳴き声よりも先に己の腹の唸り声を聞いた。起床一番、苦笑である。昨晩の運動もあり、今朝は特に身体が燃料を欲しているようだ。であれば、その欲に従おう。手がかじかむ程冷たい井戸水で顔を洗い、五代は颯爽と人里へ繰り出した。
カフェの開き戸を押すと、からんからん、と来客を知らせる鐘が鳴った。隙間からはまずコーヒーの香りが漏れ出し、次いでこんがりと焼けたトーストの匂いが鼻腔を突き抜ける。空きっ腹にこれは堪らない。早く注文して、さくさくふんわりのトーストにかぶり付きたい。そんなはやる気持ちを抑えつつ、さらにぐっと押し開けて入店すると、店内の一部の客が横目で五代を見やった。
ここまでは昨日と同じ。つい新たな来客を見てしまうのは、誰しも経験があるだろう。それは待ち人を待っている時であったり、ほんの気まぐれであったり。
しかし、この日は違った。一度目を逸らした客が、ぐりんっと首ごと向き直り、五代を凝視したのだ。お手本のような二度見である。釣られるように他の客や店員も、次々に五代に目を向けた。わずか数秒の間に、彼は店中の視線を釘付けにしてしまったのだ。
何が何だかさっぱりだが、腹の虫は待ってはくれぬ。軽い混乱に見舞われはしたものの、ほんの少しの逡巡の後、五代はどうもどうも、と困ったような笑みで頭を下げつつ、テーブルの合間を縫って空いた席に座った。
さて。給仕の女性にモーニングとトーストを一枚余分に注文した五代。水を口に含んだり、品書きを眺めたりはしているが、その間も店内の眼差しは容赦なく彼を貫いている。昨日も多少注目を浴びてはいたが、ここまで露骨ではなかった。
はて、何か注目を浴びるような事をしたろうか、と考えを巡らせていると、
「お待たせしました」
先程の女性が朝食を運んで来た。音を立てぬように置かれた皿とカップからは、耐えがたい誘惑が漂う。今すぐにでも平らげてしまいたいところだが、五代はぐっと我慢して、給仕に尋ねた。
「あの、何か俺、すっごい見られてるんですけど……」
もしかしたら原因を知っているかも知れない。そう思っての問いだったが、答えは別の方向から返って来た。
「お兄さん、今朝の新聞を読んでないのかい?」
通路を挟んで反対側の席に座っていた、羽織がよく似合う温和な顔付きの男性である。
「私はもう読み終わったから、読んでみると良いよ」
そう言いながら手渡された、一枚の大きな紙。右上には大きく、『
「これ、俺じゃないですか!?」
昨日感じた違和感の正体──印刷されたあまりにも精巧な写真に写っているのは、五代と寺子屋の子供たちだった。
「この新聞にしては珍しく、随分と良い印象の記事だよ。そんな外の人間が入って来たんだ、みんな驚きもするさ」
普段がどんな内容なのかも興味を引くが、そう言われると、どのように書かれているのか気になるのが人の性。紙面に踊るのは相変わらずのくずし字なので、恥を忍んで読み上げてもらう事に。
『人間の里に突如現れた、かの八雲紫と縁のある外の人間、五代雄介氏。彼女に呼ばれたとあっては、さぞや人間離れした、異変を起こしかねない凄まじい人間なのだろうと、記者は突撃取材を試みた。
だがどうした事だろう。そこにいたのは、どこにでもいそうな普通の男性であった。それどころか、寺子屋の上白沢氏に代わって授業を行い、早速子供たちと打ち解けているではないか。
これは彼の人柄によるものなのだろうか、はたまた人ならざる能力ゆえの光景なのだろうか。記者は引き続き、五代氏への取材を続ける』
記事に添えられている写真は二枚。和菓子屋の軒先で団子に舌鼓を打つ一行と、自由時間を満喫する子供たちを見守る五代と慧音。当然ながら、こんな『遠足の記念写真』に心当たりなどない。
「あの『烏天狗』の嬢様、とにかくしつこいからねぇ。今回はこうでも、妙な記事を書かれないように気を付けて……」
この新聞の普段を知っている様子の男性は、少しばかりの同情を声に乗せて五代の肩を叩き、そこで彼の表情に気付いた。瞳を閉じた顔が満足げに、幸せそうに緩んでいるのだ。
「ど、どうしたんだい、お兄さん?」
繰り返すが、男性は普段の新聞を知っている。それゆえに五代の今後を心配して声掛けしたのだが、
「そっかぁ、とうとう俺も新聞に載っちゃったかぁ……!」
当の五代はどこ吹く風。写真の出処など考えるでもなく、しみじみと喜びを噛み締めるのであった。
実のところ、五代は外の世界で新聞に乗った事がある。それどころか常連と言っても過言ではない。各紙で引っ張りだこ、一日でスクラップブックが数枚埋まる程である。
ただし、それは五代雄介としてではなく、戦士クウガ──
だからこそ、五代は喜んだ。クウガとしてではなく己自身として、笑顔の溢れる記事を書いてくれた事に。そして同時に、この新聞を書いた名も知らぬ烏天狗の嬢様へ、心からの感謝を捧げた。
「この新聞、どこで買えるんですか!?」
五代の中でこの新聞は、瞬く間に記念碑にまで昇華していた。そして今日は、この記念碑が世に
「あ、あぁ、さっきも言った通り、私はもう読み終えたからね。持って帰って構わないよ」
ポケットに手を突っ込んで小銭を探る五代に少し気圧されながらも、男性は笑った。
「えっ、良いんですか!? いやでも、それじゃ悪いし……」
新聞と男性をちらちらと、交互に見比べながら考える五代。しかしすぐに男性に顔を向け、まだ時間はあるか、と聞いた。
「ん? まぁ、急ぎの仕事があるわけではないからね」
店の奥に置かれた柱時計を見やる男性。すると五代は顔をぱっと明るくさせて給仕の女性を呼び、コーヒーを一杯、追加で頼んだ。
「お礼にご馳走させて下さい。ただでもらうのも申し訳ないですから」
目を瞬かせる男性。しかしそのわずかな間に、五代の注文はマスターに届けられていた。今更断りを入れるのも店に迷惑、そして五代の礼を無下にするのも忍びない。そう考えたかどうかは定かではないが、男性は参ったなと笑いながら、己の席に戻った。
男性はしばし待ち、コーヒーを受け取る。隣席で新聞を眺めながらトーストを美味そうに頬張る五代に頭を下げると、彼は人懐こい笑顔で親指を立てた。その仕草と表情に、男性もまたぎこちないながらも、親指を立てて笑った。
満腹になった腹を擦りながら、背中に視線を感じつつカフェを出る。昼からは青物問屋に顔を出そう、などと予定を考えながら歩いていると、行く先にとある一団が見えた。寺子屋の子供たちである。登校中に道が一緒になるのか、それともどこかで待ち合わせているのか。数えてみると十一名、全員いるようだ。
小走りで追い掛けて先制攻撃、大きな声で挨拶をすると、
「あっ、雄介先生だ!」
「おはようございまぁす!」
一斉に挨拶が返って来た。今日も元気一杯である。表情から察するに、慧音の寺子屋は子供たちからも大変好評のようだ。友達と会える、と言うのも理由の一つではあろうが。
そのまま五代を中心に据え、寺子屋への道を歩む。話題の中心は、やはり彼だ。外の世界の旅人、と言う珍しい人物である事から、外の世界について話して欲しいとせがまれる。
しかし五代は、そのお願いをやんわりと断り、代わりに昨日の旅路──すなわち博麗神社を訪問した事を話した。話す事が多過ぎて、寺子屋に着くまでにとても語り尽くせない、と言うのもあるが、慧音の話によれば、また特別授業が開かれるかも知れないのだ。その時のお楽しみ、と言うやつである。
とは言うものの、危険だから里の外には出るな、と言い含められている子供たちにとっては、これが馬鹿に出来ない冒険譚になる。道なき道を進む懐かしい緊張、古ぼけた石階段を見付けた安堵と躁急、それを駆け上がって博麗神社に辿り着いた達成感とわずかばかりの寂寥。旅の話を方々で聞かせているからだろうか、五代の話術は聞く者を楽しませ、引き込む力があった。平和な人里しか知らない子供たちはもちろん、チルノたちまでもが聞き入り、次の展開にわくわくしていた。
そうして話しているうちに、一行は寺子屋に到着。ちょうど霊夢に話し掛けようとしたところだった為、そこで打ち切られた事に、当然ながら子供たちからは不満の声が上がる。
「ごめんごめん。でも良かったぁ、つまんないかなって思ったからさ」
「うぅん、雄介先生のお話、面白いもん!」
とよの声に全員が頷く。
「そっか! だったら早いとこ、またどこかに行かなきゃなぁ」
予定は一つ、それも今晩に入っている。しかし今日のようにまた登校中の子供たちに会うならば、話の種は多い方が良い。連れ立って寺子屋の玄関を潜って次の話を約束し、五代は子供たちと別れた。
午前の暇な時間をレミリアへの土産探しに費やし、午後からは小太郎の青物問屋を手伝って路銀を稼ぎ、湯屋で汗を流し。それから一度宿直室へ戻った五代は、妖怪よけの護符を胸に貼り付ける。昨夜は三妖精のおかげで難なく霧の湖へ行けたが、今日は違う。記憶を頼りに一人で赴かなければならないのだ。これがなければ話にならぬ。
「忘れ物は……って、忘れるような物は持って来てないか」
ポケットには全財産と名刺入れ、手帳、色鉛筆セット、畳んだ地図、そしてお守り。彼の旅の共としては十分過ぎる。
障子は茜に彩られ、その様を眺める五代の心に一抹の理由なき焦燥をもたらした。しかし、すぐに頭を振って思い直す。夕日とは、幼き日々のような
「よし、行くかぁ!」
土産の包みを手に、五代は寺子屋を、人里を後にする。門番たちには、霧の湖に建つ館へ行って来る、博麗神社の護符があるから大丈夫、と告げて。
地図を広げ、昨夜の記憶を頼りに歩く。あちらこちらから聞こえる烏の鳴き声も、今の五代には、気を付けて行けよ、と言っているかのよう。時に細く伸びる己の影を横目に眺め、時に揺らめく夕陽に目を細め、あぜ道をひた歩く。道連れのいない道程の手慰み代わりに、小石を蹴りながら。
やがて差し掛かった林道は、打って変わって薄い霧に覆われていた。地図が濡れて滲んでしまっては敵わない、とポケットに収めて一歩踏み入り、しばし様子を見る。濃さは踏み締められた道を見誤る程でも、斜陽を遮る程でもないらしい。しかし、蹴り飛ばした小石は見失いそうだ。いささか残念に思いながら、だがそれならば、風に揺れる木々の合奏に耳を傾けるのもまた良い、と考え直す。歩みの楽しみ方は一つではないのだからして。
「あれっ、これ、俺の足跡だ」
そして、通る者が少ないのか、足元に注意を払いながら進むと意外な発見もある。
体感で木々のトンネルを半ばまで進んだ頃。霧越しに見える空は、藍色が埋め尽くさんと徐々に、しかし確かに広がっている。少し急いだ方が良いか、と足を速めると、五代を包み隠していた霧が晴れ始めた。先程までは木の輪郭がぼんやりと見える程度だったのが、樹皮の迷路まではっきりと見えるようになる。そしてその事に気付く頃には、霧は彼に道を譲るかのように、木々の合間を縫ってすっかり引き下がってしまった。
あるいは名前通りの霧の湖が見られるかも知れない、と考えていた五代、これには歩みを止め、少々残念そうな顔を見せた。だがすぐに気持ちを切り替え、再び館へと向かう。今日だけではない、また日を改めて来れば良いのだ、と。
林道を抜けると、そこは凪いだ湖畔。星々をあるがままに映す水面は、さながら舞台。湖を囲む木々は、その美しい姿に見惚れる観客。そろそろ顔を出すであろう月は、演目の主役と言ったところか。
しかし、その舞台の主役は星でも月でもない。静かに佇む、かの紅の館。ガス灯に照らされた威容は、真打ちと言う言葉さえ生温く感じられる。そこにあって然るべき、否、全てはあの館を求めて集ったのだ、と言われても納得し得る。
ごくり、と唾を飲み込み、湖に沿って館を目指す。視線は館に定めたまま。そうして差し掛かったのは、やはり紅色の煉瓦が並ぶ紅い橋。桁の描くアーチは素人目に見ても乱れがなく、それ自体が芸術品のようにも思える。
わずかばかり、果たして渡って良いものか、と悩む五代。しかし袂には件の門番どころか、人っ子一人見当たらない。であるならば。
「……渡っちゃえ!」
胸を張り、久方振りに思える煉瓦の足触りを堪能しながら湖を渡った。それでも少しばかり早足なのは、ご愛嬌である。
橋を渡り切り、わざとらしく腕で額を拭いながら、ふぅ、と息を吐いた五代を迎えたのは、閉ざされた巨大な門。人里とは比べ物にならないその重厚な門戸は、招かれざる客全てを追い返さんとする、招かれた者でも館に相応しい客人か見定めようとする威圧を放っている。大の大人が全力を出そうと、一寸たりとも動きそうにない。
そして、その門の脇に立つのは──
「話、通ってるのかなぁ……」
──鼻提灯を膨らませる、赤毛の少女だった。
またの名を紅魔館RTA。ちょっと違うか。