えーりんもそうでしたが公式で頭が良いと設定されているキャラクターは本当に難しいです。自分より頭の良い人物は書けない、とはよく言ったものですね。
おっかなびっくり、小悪魔に付き従う五代。その様は人里を初めて訪れたあの時にも似ているが、彼の内心は正直なところ、それどころの騒ぎではなかった。
彼女を信じていない訳ではない。むしろ疑う事を知らぬ五代にはそのような選択肢は始めから存在しない。だが、そうであっても。
例えるならば、家路のそこかしこに人と見れば力の限り吠え、鎖を引き千切らんばかりの勢いで駆け寄ろうとする猛犬がいるようなものだ。多少回り道をすれば遭遇する事もないが、『そこにいる』と言う恐怖感、苦手意識は残る。
あまつさえ、ここにあるのは住人の小悪魔も認める悪辣な魔道書である。一年の激闘を経て百戦錬磨の猛者となった……否、
「て言うか、小悪魔ちゃんは魔道書ってやつは大丈夫なの?」
特に周囲へ気を配る様子も、書棚に囲まれた十字路で迷う様子もない小悪魔は、それらの魔道書を恐れていないのだろうか。試しに問うてみると、
「えぇ、全く何ともです」
事もなげに、あっさりと答えが返って来た。
「そもそも私は、低級ですけど魔界出身の悪魔ですからね。人間に害を与える程度の魔道書なんて屁の河童ってもんですよ」
じゃなきゃここで司書の仕事なんて出来ないですしね、との言葉に、なるほどと五代も納得した。近寄っても触れても平気な者でなければ、とても務まる仕事ではなさそうだ。
「それに、私でも危ないような高位の魔道書は、パチュリー様が厳重に管理してるです。それも私が仕事出来てる理由って言えるですね」
「パチュリー様、って言う人がその専門家なの?」
「ですね。それと私の雇用主様です」
道すがらの小悪魔の語りによれば、そのパチュリーと言う人物は人間ではない魔法使いであり、彼女を魔界から呼び出して雇い入れた人物のようだ。より高位の魔道書、それこそ小悪魔にとっても脅威となる代物を管理出来るとなると、余程の実力者である事が窺える。
さて、魔法使いの実力者。こんな情報が揃った五代の脳内では、一つの像が形作られていた。黒いとんがり帽子とローブを身に纏い、木製の長い杖を突き、顔には極端に長い鷲鼻と大きな
「さぁて、ここを左に曲がれば到着です。ほら、見えるでしょう? デスクでお仕事をしてるのが……って、本の山で隠れちゃってるですね」
「あ、もうすぐそこなんだ。どれどれ……」
新たな脳内同居人を反芻している内に、目的地の近くまで来ていたようだ。書棚に挟まれた通路の奥を、特に意味もなく片掌を目の上に翳し、背伸びをしながら覗き込んでみたが、小悪魔の言う通り、ここの主は積み上げられた本ですっかり隠れてしまっている。
「とんがり帽子は脱いでるのかな」「とんがり帽子って何です?」
五代の想像通りの容姿であれば、件の魔法使いの一部がちらちらと見えていそうなもの。しかし、いっそ本当にそこにいるのかを疑ってしまう程度には、見た限りでは誰かがいるとは思えない。ただ、耳をよく澄ますと聞こえる、この静寂に微かに響く、さらさらとペンを走らせる音。唯一それだけが、何者かの存在を確かに主張していた。
兎にも角にも、目的地は目前であり、面を通すべき相手もそこにいる。いつまでもここで足踏みを続ける必要はないだろう。ここから先に危険はない、と小悪魔に確認を取った五代は、彼女の隣に並び立って最後の通路を歩いた。
デスク前に到着してみると、ようやく本の山の向こうに座る人物が目に入った。
まず目に入ったのは、のっけから五代の描いた人物像を真っ向否定する、薄紫のナイトキャップに似た帽子。三日月を象った金細工と思しき飾りが目を引く。ゆったりとした寝間着にも見えるドレスも帽子と揃いの色で、どうにも図書室と言う場にはそぐわない、ちぐはぐな印象を受ける。しかし帽子とドレスのあちこちに配されている赤青黄のリボンが、少女らしい可愛らしさを醸し出していた。
そう、少女である。一心不乱に書き物に集中している件の専門家は、完全に五代の脳内同居人を破壊してしまう程の美少女であった。
「パチュリー様、侵入者の報告に来たですよ」
「えぇ、ご苦労様。"魔理沙"じゃなかったとはね」
外見からは想像しづらい相当なハスキーボイスに驚いた五代だが、そんな事はおくびにも出さずに二人の会話を見守る。
「お嬢様が招待されたお客様だそうで」
羽ペンをインク壺に挿して首をこきこきと鳴らした少女は、胡乱げな目を五代に向けた。アメジストを想起させる瞳は底知れぬ暗さと深さを湛えており、じっと見つめているとそのまま身体ごと心を吸い込まれそうで。無意識の内に、彼は僅かに腰を落とし、引き込まれぬよう姿勢を整えていた。
「まぁ、あの子がアレに引っ掛かるとは思えなかったし。大方、ここに迷い込んで例の本に捕まったってところかしら?」
「お察しの通りです。普通の人間さんっぽいので、一応パチュリー様に診てもらおうかなって」
「ふぅん。レミィの客人の、普通の人間ねぇ……。ま、いいわ」
普通の人間、とやけに強調したパチュリーは、五代を頭のてっぺんから爪先まで一通り眺め、
「彼にハーブティーを入れてあげて。私にはいつものを──」
ちらと小悪魔に、目配せしつつ指示を出した。小悪魔はあからさまに口を尖らせたが、
「──それが済んだら、休憩は倍の時間取って良いから」「はい、分かったです!」
それを見越していたのだろう、続く彼女の言葉に、二つ返事でどこかへ文字通り飛んで行ってしまった。
静寂の中、初対面の少女と二人きりで取り残された五代。さて己はこれからどうなるのか、と思っていたところ、パチュリーはゆっくりと立ち上がり彼の方へと寄って来た。その一見緩慢に見える動作には、永遠亭のてゐにも感じた油断のならなさ、外見不相応の威厳が感じられる。
「さてと。まずは名前を伺っても良いかしら、侵入者さん?」
「あぁ、えっと、五代雄介って言います」
いつもの流れで名乗りつつ名刺を渡すと、パチュリーは一通り黙読した後に視線を彼に戻した。その視線にはどう言うわけか、疑念の色が見える。
「2000の技を持つ男、夢を追う男、五代雄介ね。随分面白い肩書だけど、レミィが招いたのはそれだけが理由かしら?」
「いやそれがですね、俺もよく分かんないんですよ。一目見て気に入った、とは言われたんですけど、俺何かやったっけなぁ……」
顎に手をやって思案する五代。しかし相変わらず答えは全く浮かんで来ない。その時にレミリアの瞳に垣間見えた感情の正体も、やはり身に覚えがない。酒精にやられた脳に刻み込まれた、あの強い感情。
そこでふと
だが、違う。レミリアと第0号は全く違う。彼女からは負の感情を欠片も感じなかった。ひたすらに穏やかで優しく、今思えば慈しみすらも垣間見えたのだ。第0号とは対極と言える。五代は心中で大きく頭を振り、誰にも悟られぬままレミリアへと非礼を詫びた。
「随分と険しい顔をしてるけど、何か思い当たる節でもあった?」
「……あはは、逆になさ過ぎて、考えがぐっちゃぐちゃになってました!」
己の表情に出ていた事にも気付かない程度には考え込んでいたらしい。五代はレミリアの思惑の考察と横道にそれた思考を中断し、誤魔化すように一笑した。そんな彼の様子にふっと小さく笑ったパチュリーは、
「まぁ、何だかんだで私もあの子とは長い付き合いだけど、分からない事なんて山程あるから」
言外に「深く考える必要はない、ここで考えたところで答えは出ないから安心しろ」と匂わせた。
さてと、と言葉を区切って、パチュリーは五代のすぐ脇に設えられているソファを指し示した。飾り気のない、三人程度なら余裕で寛げそうな長いソファ。端に厚手の毛布が畳まれているのを見るに、もしかすると仮眠ベッドとしての役割も担っているのかも知れない。肘掛けの高さも、彼女の体格を考えると寝心地が良さそうだ。
「そこに座ってちょうだい。ここの本が原因で客が体を壊した、なんて事になったらレミィが青筋立てて怒鳴り込んで来ちゃうわ」
言われるがままに真ん中辺りに腰掛けてみると、五代は思わす目を見開いた。己の体が半分ほど埋まったのではないか、と錯覚するくらいに柔らかかったのだ。そして間を置かずに、確かな反発が彼をやんわりと押し戻す。
「ふふ、座り心地はいかが?」
両隣の座面を掌で押し、その感触に「おぉ……」と感嘆の声を漏らす五代がよほど面白かったのか、一冊の本を小脇に抱えたパチュリーが問うた。
「いやぁ、これ良いですね! どこかで売ってるなら友達へのお土産に買って行きたいくらいですよ!」
「残念だけど外から持ち込んだ物だから、幻想郷では売ってないわね──」
彼女曰く、ソファどころかこの紅魔館自体が、内装ごと幻想郷に転移して来たのだそうだ。
「転移……? 解体して、建材をこっちに運んで、また建て直したんですか?」
「いえ? そっくりそのまま、チェスの駒を動かすみたいに。瞬間移動って言った方が分かりやすいかしら」
そこでパチュリーはけほけほと咳き込み、喋り過ぎたわ、と深呼吸を一つした。彼女の身を案じて声がけし、一度椅子に座らせたところで、五代は考える。
確かに可能であれば、身一つで引っ越すよりも馴染みの物品や家具があった方が落ち着くし、ましてや住居ごと転居出来るのならその後の生活は安心であろう。
しかしここで、彼の頭に一つの疑問がよぎる。そうなると、外の世界では『真紅の巨大な館が突如消失した』と言う大事件が発生した事になるのではないか。地下深くにこれほど巨大な図書室があるならば、跡地はもしかすると巨大なクレーターのようになっている可能性すらある。ごく近年であれば当然電波に乗って、一昔かそれ以上前の話でも口伝で
「……ん?」
口伝で広まる。この発想が、五代はやけに引っ掛かった。と言うのも、数年前に旅先でそんな類の話を聞いた覚えがあるのだ。まさに口伝と表現するに相応しい、ある種の伝説のような語り口調で。
あれはどこで聞いたのか。記憶をさらに深く辿ろうとしたところで、飾り気のないシルバートレイにティーカップを二つ乗せた小悪魔が現れた。
「お待たせしたですよ。五代さんのハーブティーと、パチュリー様の薬膳茶です」
礼を言いつつソーサーと共にカップを受け取ったが、ローテーブルが見当たらない。シルバートレイ同様にティーカップも特に飾り立てられた物ではない事から、今さらながらこの図書室は、客人を招いて歓談する場所ではない事、五代が腰掛けているソファもあくまで客人用ではなくパチュリーの仮眠用である事が窺えた。本来図書室は歓談の場ではない、と言ってしまえばそれまでだが。
カップをソーサーから持ち上げると、林檎の香りが五代の鼻をくすぐった。
「これ、カモミールにすり下ろした林檎を浮かべてるのかな?」
「ですです。咲夜さんお気に入りのアレンジなんですけど、今の五代さんにも合うかなと」
疲れた様子の咲夜が、仕事の合間に顔を出す事が時折あるらしい。この広大な館の家事全般を取り仕切るメイド長ならば、身体面だけでなく精神面においても疲労する事は想像に難くない。そんな時にこのお茶でリラックスしてから仕事に戻るのだろう。
羽ペンがさらさらと軽やかに踊る音だけが響く中、ソファに身を沈めて喉と心を潤す咲夜。恐らくはそんな彼女を気遣って、あえて自らの仕事や作業に没頭しているパチュリーと小悪魔。静けさの中で時間がゆっくりと流れ、優しさゆえの不干渉が疲れた体と心を癒やしてくれる空間。
きっとこんなお茶会が繰り広げられているんだろう、と想像しながらカップを傾ける五代。元々カモミールが持つ林檎の風味が甘酸っぱさと共に強調され、苦味が薄れて飲みやすい。丁寧にすり下ろされた林檎は、口に含んでみるとふわふわとした食感で、舌触りがなめらかだ。魔道書に引っ掛かってから今に至るまで、少しばかり緊張感が強まったままこの図書室を歩いていた五代だったが、張り詰めた糸が弛み、肩や首筋から力みが取れるのを感じた。
「ふぅ、落ち着いたわ。ありがとう小悪魔」
指先から掌を温めるように両手でカップを包んで喫茶していたパチュリーが、小悪魔に礼を言いながら立ち上がった。咳はすっかり治まったようで、茶で体が芯まで温もったのか、この薄暗い中でも顔がほんのり紅潮しているのが分かる。
「ごめんなさいね、喘息が出ちゃった。長く喋ると──」
学生時代や旅先で、喘息で苦しむ人は幾度となく見て来た。その様子から、発作が辛く体の負担が大きいものである事、当人にはどうしようもない状況で発作が起こる場合も多々ある事は彼も理解しているので、
「──パチュリーさん、謝る事じゃないですよ。それよりも、落ち着いたなら良かったです」
間髪入れず、五代はパチュリーの謝罪を遮った。
「ふぅん……」
その言葉に、何か思うところがあったのだろうか。パチュリーは改めて五代を上から下まで眺め、それからカップをデスク上のソーサーに戻して彼の前に立った。
「話が逸れちゃったけど、まず貴方を診るって話だったものね。少しじっとしててちょうだい」
「あっ、そう言えばそうでしたね!」
ソファから紅魔館。簡潔にまとめると豪快にも程がある逸れ方ではあるが、順を追うと流れは自然なものだったので、あまり気にはならなかった五代。むしろ、まだ記憶の中から探り当てられていない口伝の方に気を取られているくらいだ。膝を打って笑う五代に釣られたのか、パチュリーもふっと小さく笑うと、片手で先程小脇に抱えていた本を開き、もう一方の手を彼の頭へと掲げた。
結論を言ってしまうと、五代は正常、健康そのものだった。魔道書の影響や後遺症などは評判通り、と言うのもおかしな話だが一切認められず、今後何の心配もなく人生を謳歌出来るとの事。小悪魔から先に聞かされていたので彼自身特に心配していなかったが、
「だったら、外の世界じゃ体験出来ない珍しい体験が出来たって事ですよね!」
「そ、そうね……」
専門家からのお墨付きが出たならば、あの体験もむしろポジティブに受け取れるというものだ。このあっけらかんとした物言いには、さすがにパチュリーも小悪魔も乾いた笑い混じりに小さな声で同意するしかなかったが。
「……そう言えば、何でこんな地底くんだりまで来たの? 案内板なんかも出してないから、最初からここの本が目的とは思えないけど」
パチュリーとしてはひとまず降って湧いた仕事を終わらせたわけだが、一段落して落ち着いてみるとこんな疑問が口をついて出た。そもそもどうしてこうなったのか、なぜ彼は最低でも十数m分は階段を降りなければならない辺鄙な場所まで来たのか。
「あぁ、それはですね……」
どことなくばつが悪そうに、五代は後頭部の髪を軽く掻きながら答えた。
「夕飯で飲んだワインの酔い覚ましに、軽く散歩しようと思って」
「ふんふん、あのワインね。ちょっと飲み過ぎちゃうくらいには美味しいのが困るわ」
「玄関ホールで行き先に困ったのでこう、色鉛筆を床に立てて倒れた方に行こうかなって」
「やってる事は子供ね……。で、その倒れた先がここだったと」
五代の行動に半ば呆れたパチュリーが先回りして答えを導き出したが、続く彼の言葉は彼女の予想の斜め上だった。
「それでドアを開けたら下り階段だったから、もしかしたらワインセラーかもって思って!」
「……へぇ?」「えっ?」
これにはパチュリーの脇に控えていた小悪魔、思わず声が出てしまったようだ。こんな深夜に、吹けば消えてしまう頼りない蝋燭しか光源のない、冷たい石造りの狭い螺旋階段を降りた理由が、ワインセラー? 己がもし人間であれば、戸を開けた次の瞬間ちらと見える地下へ続く暗闇に、足がすくみそっと引き返す事は想像に難くないだろうに、と。
しかし、
「いやぁ、あんなに美味しいワイン、ただ飲むだけじゃ堪能したとは言えないじゃないですか? せっかくだから、あのワインの寝床……ってのも変な言い方かも知れないけど──」「──あの無銘の全てを味わいたかったのね? ただ飲むだけではなく」
小悪魔とは対象的にやけに
「そう、そうなんですよ! 前に旅先で会った地元の人に教えてもらったんですけど、ただ飲んだ時と全然感じ方が違うんです! あれは感動したなぁ」
腕組みして目を閉じ時折頷きながら、しかし興奮気味に語る五代。そんな彼に向けられるパチュリーの瞳には、先程までと比べて僅かではあるが、親しみの色が見て取れた。
「賑やかな宴を離れて見るのも乙なものだけれど、私と近しい楽しみ方が出来る誰かと静かに飲む方が、私は好きよ。そう言う人がなかなか見付からないのが困りものなのだけどね」
確かに、まだ会ってから大した時間が経っていないが、五代にはパチュリーが人の輪に加わって大騒ぎしながら酒を呷る姿が、まるで想像出来なかった。むしろ気心の知れた友人と二、三人で、会話より共に過ごす静かなひとときを味わう方が彼女には合っているように感じられる。
五代にも心当たりはある。一条薫が酒を飲む機会があるならば、それは居酒屋ではなく都会の喧騒から離れたカウンター席のみのバーだろう。十人十色、人にはそれぞれに合うスタイルがあるのだ。
「だけど思わぬところで見付かったわ。もしそんな機会が設けられたなら、貴方とは美味しいお酒が飲めそうね」
同好の士を得た、と言わんばかりに薄く笑うパチュリー。感情の起伏に乏しいように見受けられた彼女から、多少なりとも友好的な反応を得られた事に五代は内心で喜びを覚えつつ、少し冷めたハーブティーを一啜りした。
パチュリーが書き仕事の最中である事、そして何より彼女の体調を慮った五代は、侵入者と言う誤解を無事に解き、自身への魔道書の影響もなかった為、図書室を辞する旨を伝えた。
「仕事中なのに長居しちゃってごめんなさい。そろそろ上に戻ります」
「そう、分かったわ。小悪魔、ミスター・ゴダイを案内してあげて」
お茶を入れたら休憩時間二倍って聞いたのに、と愚痴を垂れる小悪魔だったが、休憩時間三倍でものの見事に宥められ、
「ほらほら、置いてっちゃうですよー」
と足取り軽く書棚の間へと進んで行った。背中の翼がぴこぴこと上下しているのを見るに、相当に心が踊っているらしい。そんな小悪魔に急かされ、慌てて付き従おうとした五代だが、足を止めてパチュリーへと向き直った。
「あっ、そうだ。パチュリーさん、ここの事で一つ聞きたいんですけど」
「何かしら? 本が借りたいなら図書カードを用意してあげるわよ。貴方の気に入る本があるかは別の話だけど」
「あー、そんな感じの話かも。実は石板みたいなのがここにないか気になってて」
「石板、石板ねぇ……。あるにはあるわよ」「ホントですかっ!?」
ぐいと身を乗り出した五代に、パチュリーはデスク後方の暗がりに見える扉を指した。
彼女が言うには、紙媒体と違って石板は相応の大きさと重量を兼ね備えており、また書籍よりも古い時代から遺されている物なので風化による損壊を防ぐ為に、専用の部屋に保管しているらしい。
「それで、お探しの物は?」
「えっと、ちょっと待って下さい……」
さて、戦士クウガに関する石板探しの手掛かり。果たしてそんな物を己は持っていただろうか。思案し、しかしすぐに思い当たって、ジャケットの前を
「この古代文字が書かれている石板を探してるんです。友達の研究の手助けになればと思って」
五代が指差したのは、自分が着ている黒地のシャツに白で描かれた『戦士』を意味する古代文字。もはや彼のトレードマークとすら言えよう。
「見覚えはないけれど……でも、単に私の興味をそそるものではなかったから見落とした可能性もあるわね。少しそのまま、描き写すから」
引き出しから使い込まれた様子の手帳を取り出し、羽ペンを走らせるパチュリー。さほど複雑ではない図形だからか、描き写しはものの数秒で終わったようだ。
「先に言っておくけれど、あまり期待はしないでちょうだい。この図書室は忘れられた書物の吹き溜まりだけど、全てが集うわけではない。『忘れられた事すら知られていない物』はどうしようもないの」
「あっ、そこは大丈夫です。あったら良いなぁ、ってくらいですから!」
それじゃあよろしくお願いします! と頭を下げ、五代は小悪魔の後を追った。
パチュリーの元を訪れた時のように、あちらこちらで獲物を待つ魔道書を避けながら書棚の森を歩き回り、やっとこさ入り口へと舞い戻った五代。適度な運動と小悪魔の入れたハーブティーで、すっかり酒精も抜けたようだ。小悪魔に礼と別れの言葉を告げて扉を開け、冷気の満ちた螺旋階段へと歩を進めた。
図書室との温度差が原因だろうか。冬場の朝に冷水で顔を洗った後に似た覚醒感を五代は覚えた。酒で少しばかり混濁していた頭脳が解れ、あらゆる思考や記憶への筋道がはっきりし、
「あっ、そうだ思い出した」
ゆえに、図書室では思い出し切れなかった記憶をようやく引きずり出せた。
「ルーマニアだ、俺が聞いたの!」
五代の無意識下で、何かがカチリと嵌った。
* * *
「しっかし、不思議ですねぇ」
五代を見送り、パチュリーの元へ戻った小悪魔は首を傾げた。
「何でお嬢様は、あんなどこにでもいそうな普通の人間を招いたです?」
あの呑気さは普通じゃないですけど、と呆れたように続けた小悪魔に、しかしパチュリーは逆に小悪魔へと呆れたような視線を向けた。
「……あんたはもっと観察眼を鍛えた方が良いわ」
「はぇ? いや、だってどう見ても──」「──どう見ても普通の人間じゃなかったわよ」
己と主人の評価がまるで正反対な事に絶句する小悪魔。そんな彼女を意に介さず、パチュリーは五代を診る際に彼へ向けた手を眺めながら語り出した。
「随分と抑えられているのか、弱っているのか、それは私にも分からない。それであんたも気付けなかったのかも知れないけど、一目見て分かった。彼の体内……正確にはお腹の辺りに、途轍もない力の源がある」
「途轍もない力……です?」
「えぇ。そして彼を診た時にこっそり探ったけれど、あれはただの人間が持つには、ただの人間に向けるには過剰な力。私とは全く異なるアプローチで完成された、賢者の石と言っても差し支えない代物よ」
腕組みして瞑目するパチュリー。五代の腹に眠る正体不明の力の源について、考察を巡らせているようだ。
「むぅ……。それを見抜けなかったのは私の落ち度ですけど、じゃあ何で五代さんみたいな人がそんな物騒な物を?」
「ミスター・ゴダイだからこそ、じゃないかしら?」
小悪魔の疑問に、ここからは私の仮説だけど、と前置きしたパチュリーが答えた。
「幻想が失われた外の世界に、その過剰な力が必要になる"怪物"が現れた。だけど邪な心を持つ者が過ぎた力を得たらどうなるかは、歴史が証明してる。だから彼のような人間が選ばれた、ってところかしらね」
少し話しただけでも伝わる純粋さ、素直さ、優しさ。それで全てとは到底言えないが、少なくとも力を持つ者としての資質は備わっている。そしてそれほどの力を持ちながら幻想郷でのほほんと過ごしているところから考えるに、すでに戦いは終わっていると見るのが正しいだろう。著しく小さくなっている力も、パチュリーの仮設を補強する材料だ。
「それにしても、賢者の石クラスの人間の手に余る力ですか。だったらパチュリー様、興味がおありなんじゃないです?」
「正直に言えば興味はあるわ。だけど優先順位はかなり低い」
「おや、それはまた意外ですね」
「生体解剖でもすると思った? それはご要望に添えず大変申し訳ないわね。だけど今は自分の求める道を極めるのに忙しいの。どれだけ掛かるかも分からないし」
「それまでに五代さんがこの世を去る可能性も考えてるです?」
「全てを修めて、その末に彼が生きているなら協力をお願いするかも知れないし、他にもっと興味深い物が現れたならそちらに心惹かれるかも知れない」
まぁ要するに予定は未定よ、と五代に過干渉する気はないと暗に示したパチュリーは、次いで気が変わらない内にゆっくり休憩して来なさい、と小悪魔を下がらせた。
羽ペンに魔力を注いで自動筆記を開始させたパチュリーは、温くなって苦味の強くなった薬膳茶を啜り、己の考えをまとめるかのように独り言を紡ぐ。
「仮説が合っているのかは別として、はっきりしないのはレミィに招待された理由ね。大方の予想は付くけれど」
思った以上の苦味に、眉間にシワが寄る。
「だけどそのお陰で、ワインの味わい方を理解している人間を知れたのは収穫だったかも。彼が生きている間に、一度くらいはグラスを交わしたいわ」
羽ペンがインク壺に先端を浸す。少し浮き上がったペン先から、一滴のインクが落ちた。
「……未練、なのかもね──」
紙面に踊り出る羽ペン。インクに浸り過ぎたのだろうか、書き出しは少し滲んでいた。
「──人間と戦う運命を背負って生まれ、叶わぬまま幻想になった妖怪の」
本来は五代くんにもっと前ステしてもらう予定でしたが、さすがに不自然なのでプロットに影響のない範囲で予定変更&書き直し。