説明だらけになってしまいました。
蛍雪の功、と言う言葉がある。ある男は瓶に集めた蛍を灯りとし、またある男は窓際に積もった雪に反射した月光を灯りとして勉学に励み大成した、と言う故事成語である。苦学は報われると言う意味だが、夜の平原を歩く五代は、これを別の観点から噛み締めていた。
「これだけ月が明るいと、文字も読みやすいなぁ」
世界各地を冒険して来た五代であるが、月明かりとはこんなにも明るいものだったのか、と独り言を隠せなかった。
彼の手元にあるのは、掌大の紙片。表面には何やら丸っこい字で『夢を追う少女 2000のスキマを持つ少女』とやや小さい字が並び、中央を突き抜けるように大きな、これまた丸い字で『八雲紫』と書かれている。さらに左端には、八雲紫がサムズアップしているデフォルメイラストが。
「こんな細かいところまで見られてたなんて……」
八雲紫に手渡されたこの紙片は、言い回しこそ変えてあるものの、五代が出会った人々に手渡していた物と同じ。すなわち名刺である。
──八雲紫ですっ、よろしくね!
と、語尾にハートマークでも付きそうな調子の自己紹介を添えて。やや膨れたポケットに入れっぱなしだった名刺入れから己の名刺を取り出して比較してみたが、なるほど、実に見事に真似てある。2000のスキマとは何なのか、と言う新たな疑問も浮かんだが。
受け取った際、一度驚きはしたものの、五代は嬉しく思っていた。妹が勤める保育園の子供たちと、八雲紫が重なったのだ。形はどうであれ自分の戦いを見守っていてくれて、労いと感謝の言葉を伝えてくれた相手が、こうして自分を模した物を作ってくれた事に。それゆえに五代には、この名刺が子供たちのくれたお守りに等しい、尊い物に感じられた。
二枚の名刺をそっとしまい、五代はゆったりとした足取りで歩く。すると、集中する対象がなくなったからだろうか。己を睨め付けるいくつもの視線に晒されている事に気付いた。木立の陰から、草葉の陰から、夜空から。好意的なものではない、それは多少なりとも気の抜けた五代でも分かる事であった。あるいは緑のクウガの力が普段の彼にまで影響を及ぼしているのかも知れないが、当人でさえも知る由はない。
夜道を、血の匂いを漂わせる人間が歩く。八雲紫曰く、『ここ』に生きる人間でこんな酔狂な事をする者はいない。仮にいたとしても、その事実だけが人々に伝わる事になる。つまりは無事に帰れないらしい。
しかし、いずれの視線も、ただ五代を見つめるだけで、それ以上の事を起こすつもりはないようだ。否、起こせないと言うのが正しいか。五代は己の背中に意識を向け、ほっ、と一息ついた。
彼の背中には、一枚の護符が貼り付けられている。八雲紫が別れ際にくれたもので、妖怪よけの加護が込められているそうな。なんでも、『ここ』の中心人物である"博麗の巫女"なる人物の逸品らしく、その効果は折り紙付きとの事。糊付けされたわけでもなく、ただ背中を叩くように当てられただけでくっついてしまったのだから、それだけでも外の世界の神社で売られている護符とは次元が違う代物だと言う事が伺える。
妖怪、外の世界、そして護符。この短時間で随分と順応したものだ、とひとりごちる五代。そもそも冒険家に順応性は必要不可欠であるし、これまで超常の力を持つ未確認生命体と戦って来たのだから今更ではあるが、それにしても今回は度を越しているように感じられた。
顔を上げて、行く先を見やる。八雲紫に伝えられた目的地には、まだ着きそうにない。ならばこの、外とは違う夜景をゆっくりと楽しみながら、彼女とのいきさつを反芻する事としよう。
五代が八雲紫に連れて来られた──と言うにはいささかの語弊があるが──『ここ』は、『幻想郷』と言う一種の隔離地域だそうだ。詳細な場所までは教えてくれなかったが、日本国内のどこかであり、文化様式も日本のそれと概ね違いはない。
隔離地域と言われてまず思い付くのは、ウィルス蔓延などの原因で人の出入りを制限された地域。内側に脅威を抑え込んで外を守る為のもの。だがこの幻想郷は、どちらかと言えば逆の目的で作られており、外から内側のものを守る為に作られたのだとか。
神々は人々の信仰によって、妖怪は人々の畏怖によって存在が確立される。例えば水害は水の神の怒り、やまびこはやまびこ妖怪のイタズラ。ついでに神隠しはスキマ妖怪の仕業らしい。しかし人間の科学技術が発達し、神や妖怪の起こしたものとされて来た事象が科学的に解明されるようになると、人々は神々に対する信仰も、妖怪に対する畏怖も失った。こうなるとどれだけ強大な力を持っていようと、もはや消え去るのみ。
そんな彼らへの救いの手となったのが、この幻想郷。博麗の巫女が管理する結界が内外の出入りを完全に遮断し、外側の非常識──すなわち神々や妖怪の存在を常識とする。また八雲紫による結界の作用で、外で今まさに消えんとする存在──幻想も勝手に内側へ引き寄せられるのだとか。
まるで神話やおとぎ話の駆け込み寺のようだ。そんな感想を五代が漏らすと、八雲紫はころころと笑い、あながち間違っていませんわ、と答えた。外側の常識に否定された者たちが、拠り所を求めて行き着く世界、彼らに残された最後の楽園、それが幻想郷なのだと言う。和洋中、津々浦々取り揃えておりますわ、とは彼女の談である。
一通りの話を終えた八雲紫は、五代に二つの贈り物をした。一つは博麗の巫女謹製の護符、もう一つはやや大きめの手帳と色鉛筆のセット。護符は先述の通りの代物だが、手帳はいずれのページも真っ更。罫線やカレンダーが載っているわけでもない。どちらかと言えば自由帳の類になるだろうか。
これは一体何なのだろうか、と、己の背に護符を貼ってくれたばかりの八雲紫に視線で訴えると、彼女はわざとらしく頬に手を添えて身体をくねらせた。
──そんなに見つめられたら、ゆかりん照れちゃいますわ、きゃっ。
名刺の時と同じ調子である。あぁ、なるほどなぁ、と、あの妖怪による八雲紫評が少し分かった気がする五代であった。
何とも言いがたいくねくね踊りからキリッと復帰した八雲紫は、これからのお供にどうぞ、と手帳を指差した。日記をつけるも良し、風景を描き残すも良し、ご自由になさって下さい、と。そう言う事か。得心行った五代は、八雲紫の優しげな笑顔の意味を噛み締めながら、一式をポケットにしまった。
八雲紫はこう言っているのだ。どんな冒険家でも到達し得ない、この不思議な幻想の世界を歩いてみませんか。貴方の荷物は降ろされたのだから。
──幻想郷の笑顔を守ってくれた貴方への、妖怪の賢者からのささやかなお礼です。受け取って下さるかしら?
慈しみを感じる賢者の笑みに、五代はゆっくりと頷いた。
さて、旅と言ってもどうしたものか。必要な道具は当然なく、ポケットに入っているのは子供たちのお守りと名刺入れ、もらい物の手帳セット、それとわずかな
そのまま八雲紫に先導される形で、およそ十分は歩いたろうか。石のもたらす治癒力により全身の傷や痛みはあらかた癒えたものの、さすがに堪えて顔を顰めた頃、木立が途切れ、一面の平原に出迎えられた。葉陰に隠れていた月や星もすっかり顔を見せ、辺りは本当に夜なのかと思う程に明るい。これも外で失われた幻想なのかと考えると、不思議としっくりと来る。痛みも忘れて夜空の花形を大地から眺めつつ、五代はこれから始まる旅に心を踊らせた。
ひとしきり夜空を満喫した五代に、八雲紫はここを真っ直ぐ歩いて行きなさい、と伝えた。やがて竹林と小屋が見えるはず。その小屋を訪ねてみなさい、と添えて。
そして現在に至る。夜道歩きの慰みにはなったろうか。興味を失ったか、諦めたか、視線の主たちはどこかへ行ったようだ。身体の痛みもほぼ感じなくなり、気付けばいつもの歩調となっていた。ベルトを身に着けて以来、この石には助けられ通しである。
「ん、もう少しみたいだ……って、何だこれ……」
遠目に見えていた件の竹林は、近付くにつれてその全容を顕にした。見上げんばかりに伸びた竹が密集し、立ち込める霧も相まって恐ろしさを感じる程に暗い。懐中電灯などの光源があったとして、どれだけ先を照らせるか分かったものではない。仮に昼間だったとしても、踏み入るには相応の勇気を要するであろう。歴戦の勇士にして稀代の冒険家である五代をして一歩を躊躇わせる、異様な雰囲気を醸し出していた。
こんな所に八雲紫は入れと言うのか。彼女は己をどこへ導こうと言うのか。そんな悩みと頭を抱えて右往左往していたが、ふと竹の向こうに、薄ぼんやりと光が見えた。じっくりと目を凝らして見てみると、おぼろげながら建物が見える。現代人である五代からすると過去への郷愁を感じさせる古めかしい外観だが、この幻想郷と言う異世界にはこれ以上なく合っているように見える、茅葺き屋根の小屋。その障子張りの窓から、優しい灯りが洩れ出ている。竹林はこんな様子だが、どうやらこの家は廃墟などではなく、誰かが住んでいるらしい。となるとこれが、八雲紫が訪ねるよう言った物だろう。
意を決して進み入り、戸口の前に立つ。静けさの中にかすかに響く物音が、人の存在を確信させた。
「すみません、どなたかいませんか?」
戸を軽く叩きながら呼び掛けると、いっそう物音は大きくなった。そして、
「はいはい、こんな時間に誰よ……」
その呼び掛けに応じる声。戸越しゆえにくぐもってはいるが、若い女性のようだ。他の声は聞こえず、こんな夜更けに男が戸口を叩いたのに応対しようとするとは、もしやこの女性は一人暮らしなのだろうか、こんな不気味な所で。
などと考察をしている間に、戸が無造作に開かれた。
「急患かしら? 準備するから少し……」
現れたのは、これまた美少女であった。上質な白磁を思わせる肌に真紅の瞳。スレンダーな体に纏ったシャツと真っ赤なもんぺ、艷やかな銀髪をポニーテールにまとめた格好は活発な印象を与える。そんな少女の、少しばかり不機嫌そうな色を見せる顔が、五代の顔を、続いて身体を見た途端、真っ青になった。
「あの、夜分遅くにごめんなさい。ここに行きなさいと言われまして……、って、あれ?」
努めて穏やかに話を進めようとした五代の手首を、少女はがっしと掴んだ。
「急患んんんんっっ!!」
「えっ、ちょっ!?」
そしてやにわに叫んだかと思うと、少女は駆け出した──五代の手を掴んだまま。
* * *
時は少し遡り、場所は森の出口付近。遠く見える五代に手を振る八雲紫の背後に、彼を幻想郷へ引きずり込んだ空間、スキマが現れた。その中から飛び出し、音もなく彼女の左後方に着地した美女が、恭しく礼をする。
「お帰りなさい、"藍"。首尾はどう?」
「ただいま戻りました。各地の有力者への根回し、全て滞りなく」
「ありがとう。関東医大病院と城南大学は?」
「はっ。"椿秀一"医師所持の五代雄介に関するカルテ他資料、"沢渡桜子"院生所持の九郎ヶ岳遺跡調査資料、いずれも全て収集し、すでに永遠亭へ運んでおります」
「手抜かりは、ないわね?」
「抜かるなと主に命じられたならば、抜かりなく事を進めるが式の務め」
「ふふっ、そうよね。お疲れ様、藍」
「もったいなきお言葉、望外の喜びでございます」
音もなく吹いた一迅の風が、藍と呼ばれた美女の金色の九尾を揺らした。
* * *
「あら? コピー機の電源が入ったままだわ。昨日使ったっけ……。……ま、いっか」
ここらではっきりさせておきます。
変身はありません。戦闘もありません。