アンガレス戦記   作:兎烏

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宮廷魔術師エルマ その2

 翌朝、日の出と共にエルマはラド村の詮索を開始した。

 東の山際から姿を現した朝日が薄っすらと山陰のラド村を照らし出す中、黒で彩られたエルマは宿場を後にして一人、あぜ道を進んでいく。

 朝のラド村は静かであった。

 帝都に存在する華やかな貴族街や、やや治安の悪いものの人の熱で溢れた繁華街、そういったものとはラド村は無縁である。

 一見すればそれは山村の素朴さとも見て取れるかもしれないが、むしろ、山村を良く知るエルマには、この村は静かに息を殺し、通りを行くエルマをジッと監視している、そんな不気味な印象を感じずにはいられなかった。

 エルマが歩を進めれば彼女の足元からジャリジャリと音が上がる。

 多少の手入れが成され道としての体裁が整えられているとは言え、エルマにとっては、村路は獣道と大差がない。歩くたびに嫌気のするような音をあげる悪路である。

 しかし、それでも尚、エルマは力強くあぜ道を歩いていく。

 彼女には事件解決という今後の彼女の成功のための手段があり、更にその先には彼女の人生の目的が横たわっていたからだ。

 となれば、ラド村の田舎特有のいやらしさにエルマが屈する事は無い。

 エルマの一歩、一歩はいわば彼女にとっての栄達のための布石であるのだから。

 歩を進めるエルマの周囲の景色は相も変わらず、遥か遠方の山々と、北から南へと緩やかな傾斜を作った丘陵地帯に広がる緑の田畑で埋め尽くされていた。

 エルマは昨晩、村長より預かった地図を確認し、そうして自分の進む方向が正しいか確認しながら、悪路を進んでいく。

 エルマにとっては周知の事実であったが、村というものは無駄にだだっぴらいものであり、分かり易いランドマークは存在しない。となれば、詳細に地図を確認しながら大よその勘で進むしかなかったのだ。

 村を一望できる高さにある宿場を後にして、段々畑の中にポツリポツリと点在する木造の家屋を通り過ぎ、そうして、村の中心を北東から南西へと横切る小川を超えた所で、エルマはとうとう、生き残りの少年が預けられているという家へと到着した。

 日の出と共に宿場街を後にしたエルマであったが、彼女が少年宅に到着したころには、村の住人達の姿もポツリポツリと姿を現していた。

 そうして、彼らは一様にエルマに奇異の視線を投げかかている。

 よそ者であると同時に、漆黒の法衣に身を纏ったエルマの姿は彼らにとっては奇異な存在であると同時に魔物の様に映っていたのだろう。

―こんなの慣れっこよ―

 彼らの視線を一身に浴びながら、エルマは内心でそう呟くと、少年宅の前まで進む。そうして、顔色一つ変えることなく、家の戸口をノックする。

 トントン

 とやや古ぼけた木造の戸口をエルマがノックするとすぐさま、戸口が開かれ、そうして、小柄な少年が顔を出した。

 少年の瞳がエルマをギョロリと捉える。

 生気のない瞳であった。まるで、この世の全てに絶望したかの様なそんな瞳であると、エルマは眼の前の少年の姿に威圧されながら感じていた。

 一瞬だが固唾を飲み、それからエルマは少年をジッと見据えて口を開く。

「貴方がムロン村の? 」

 エルマの問いにしかし、少年は無言で頷くのみであった。

「あぁ、おなたが事件解決のために来た...」

 して、無言の少年とはまた別の、野太い男の声が家屋の奥から響く。

 そうして声の主はややあってから、のそりのそりと立ち上がり、戸口へと近づくいてくる。

 戸口まで至った彼はやや乱暴に、少年を押しのけると、少年に変わってエルマの前に立つ。そうしてまるで値踏みする様にエルマをじろじろと見やりながら言葉を続ける。

「その恰好は宮廷魔術師の方でしょうか? 」

 そう言った男は、こんな田舎には珍しく、上質な絹の刺繍が成された布の服で身を固め、その肩元には厚手の皮のフードを羽織っていた。

 みやれば、田舎ながらのお洒落というやつか、恰幅の良い彼はその腕に銀の腕輪を身に着け、長い長髪を結っている。

―行商人の様ね―

 エルマは、男の仕草や身に纏った恰好から、男をそう察した。

「えぇ、私が今回の事件について帝都から派遣された宮廷魔術師のエルマ・エルンストです。お見知りおきを」

 エルマは一礼する。

 そんなエルマの所作を見て、途端、商人の表情が先ほどまでの何処かよそよそしいものから、如何にも取り繕った様な人の好いものへと変貌する。

 彼の訝し気な表情はなりを潜め、代わりに外行きな笑みを浮かべた彼はエルマを見やり、口を開く。

「なるほど、まさか宮廷魔術師の方がこんな田舎村にいらっしゃるとは...ささ、立ち話も難です。どうぞ、狭い家ですが」

 そう言って商人は手招きしてエルマを一室へと招かんとするが、エルマは軽く頭を振って拒絶の意を示すと、その薄桜色の唇を小さく開く。

「いいえ、お構いなく。私は事件の一刻も早い収束を望んでいます。故にお話しのみ伺わせて貰えれば十分ですので」

 単刀直入にエルマはそう言った。

 そんなエルマの姿はまるで商人に興味は無い、自分に関わるなというかの如くであり、実力者として自負のある商人の自尊心を少しばかり傷つけた。

 しかし、商人はそんな自らの心の機微を悟られまいと相も変わらず作った様な笑みを浮かべながら、なるほどとエルマに返答する。

「なるほど、仕事熱心な方だ、えぇではどうぞ何なりとお尋ねください」

 そう言って商人は、傍らに置いた少年を下がらせようと、少年の肩をひっぱりながら後ろへと押しこくる。少年は無言であった。まるで虚空を見る様にエルマをジッと見続けている。

 エルマは行商人には目もくれずに少年をジッと見やる。

「その少年に用があるの。よろしいかしら」

 乱暴に少年を扱う商人にエルマは所謂、農民の姿を見出していた。

 故にエルマの口から出たのは、エルマ自身が驚くかのような怒気のこもった声。

「しかし、こいつは口が聞けませんよ」

 そんなエルマの態度はしかし、行商人の男にとっては心地の良いものであったらしい。

 宮廷魔術師を名乗る小娘が、自らの行動でその感情を揺さぶる様を男は内心で喜んでいたのだった。

 見れば、男の豊かな口元は歪み、悪意に染まった笑みを形作っていた。

「別に構わないわ」

 エルマはそこで初めて行商人を見た。

 彼女は、まるで汚物を見るかの様に行商人へと軽蔑に満ちた視線を投げかけると、次いで、少年へと視線を移す。

 ジッと、少年の瞳を見やりながらエルマは少年に尋ねる。

「ねぇ、君。もしよかったら貴方の村に私を連れて行ってくれないかしら? 」

 エルマのアクアマリンの瞳が少年をジッとのぞき込むと、少年はその瞳を泳がせながらも、微かに首を縦に振った。

 ピシャン

 途端、何かの音がなったかと思うと、頷いた少年の頬がジワリと赤く染まる。そうして、顔色一つ変えない少年の瞳から一筋の雫がこぼれ床を濡らす。

「テメエが勝手に決めるな!」

 行商人は己が力を、エルマへと誇示するかの様に口調を荒げる。

 それは、少年への懲罰という形を借りたエルマへの宣戦布告でもあった。

 高々と振り上げられた行商人の掌、そう彼は、少年を平手打ちしたのだった。

 そうして、彼は怒声を上げ、少年を睨んだかと思えば、今度はその表情を一変。満面の笑みを浮かべながらエルマへと視線を変えた。勿論、悪意のこもった笑みである。

 そうして今度はへつらいながら彼は言う。

「ちょっと待ってくださいよ。宮廷魔術師様。こんな奴が案内の役に立つとでも思ってるんですかい? 正直、役に立ちませんよ、喋れもしないんですぜ」

 勿論、エルマ自身、自分の無作法はわきまえている。しかしならばこそ、行商人が腹を立てて、そしてその怒りをぶつけるべきはエルマであり少年では無いのだ。

「貴方は黙っていて下さるかしら」

 結果、エルマの怒りは行動として現れる。

 エルマは行商人を一瞥することなく、ジッと少年を見やりながら、彼の言葉を否定した。

 が、そんなエルマの行動は益々、火に油を注ぐばかりである。

 彼は自らを侮蔑した小生意気な子娘を許す事など出来なかったのだ。

 彼は穏やかに振舞いながらも、その言葉の端々にエルマへの挑発を含めながら口を開いていく。

「困りますねぇ。そのガキの所有権は俺にあるんですから、許可を取るなら俺に取って貰いたいんですがね」

 行商人の言葉に、エルマがピクリと反応したかと思うと、彼女はそこでやっと行商人へと視線を戻した。

 そんなエルマの瞳は彼女特有のディープブルーの色を反映して何処か冷たい印象を醸し出していた。

「そう...でもこの子は貴方がムロン村から拾ってきた少年と伺っているのですけれど? 貴方に親権があるとは思えませんけどね」

 エルマの口調もまた冷え切っていた。そして、エルマの声には明らかな男への敵意が溢れているのは誰の目にも明らかだった。

「親権ですか? 冗談言わんでください。...ソレは俺の奴隷ですよ。口は聞けねえが、家事くらいは出来ますからね。となれば、勝手に連れていくなんて、そうは問屋が卸しませんぜ」

 行商人の口調もまた、訛り混じりの何処か下卑たものへと変容していた。

 エルマにとっては商人は醜悪であったが、商人にとってはエルマは鼻持ちならない貴族に他ならなかったのだ。

 しばし無言で見つめ合うエルマと行商人。

 先に動いたのはエルマだった。

 エルマはそんな彼を前にして、静かに...しかし明らかな侮蔑と嫌悪の色にその端正な相貌を染めながら、自らの懐へと手を伸ばす。

 何という事は無いエルマの行動。

 しかし、行商人は、そんなエルマの何気ない仕草に、びくりと身を震わせる。

 彼は今までの余裕気な表情を真っ青に変容させて、そうして、唖然としながらエルマを見やる。

 そう、エルマは宮廷魔術師とは言え、魔術師である。

 基本的には爵位も与えられた宮廷魔術師は、理性と理論で縛られた公的な存在でおり、無法を働く事は無い。行商人はエルマのその立ち振る舞いなどから更に強くそう確信していた。

 そのため男は、未熟ながらも大人の様に振舞う小娘が自らの多少の無礼には眼をつぶるであろうと高を括っていたのである。

 だが、魔術なる奇妙な現象を使役する魔術師に対する潜在的な恐怖を男が抱いていたのは事実であった。

 そんな彼の深層心理がエルマの何気ない行動に恐怖心を抱かせたのである。

 故にエルマにとっては些細な行動は、魔術師特有の魔術の詠唱の一環と男の目には映ったのだ。

 男はスッと顔面を覆う様にと両手を前に出す。それは恐怖にたいする反射的な行動であり男にとっては意識してやった事では無かった。

 が、最も、男のそんな思いは杞憂に終わる。

 懐に手を伸ばしたエルマは、胸元に収めてあった小さな麻袋を取り出して、そうして男の目の前に差し出すのみであったからだ。

 身構えていた男であったが、しかし、眼の前に差し出された麻袋を前に、一瞬呆け、その後直ちに現実へと引き戻される。

 ジャラジャラと麻袋を振るエルマ。

 その中身が何であるかは行商人たる男には容易に理解できたからだ。

 そんな男を見やりながらエルマは口角を小さく釣り上げながらどこか意地悪な笑みを受かべる。

「ええ、勿論、タダでお願いしようなんて考えていないわ」

 青ざめた男の表情には血の気が戻り、そして今度は対照的に真赤になったかと思うと、男はエルマの手からやや乱暴に麻袋を受け取る。

 そうして、一枚...二枚とその袋の中に収められた銀貨を数え終えると今度は、男はまじまじとエルマを見やり素っ頓狂な声を上げる。

「銀貨8枚...」

 行商人が感じたのは恐怖でも怒りでも無く、驚愕という感情であった。

 銀貨8枚。贅沢しなければ、山村でならば1年は遊んで暮らせる金額である。

 たかが口もきけない子供に釣り合う値段では無かった。

「このガキにこんな金額を...」

 男は相も変わらず裏返った声でエルマにそう言うと、エルマが答えるよりも早く、さりげなく麻袋をスッと自らの懐にしまい込む。

「別に構わないわ。それじゃあ、その子を貸してもらうわよ」

 エルマは内心で、男の意地汚さを嘲笑いながら、眉一つ動かさずに相も変わらぬ軽蔑の眼差しを男へと送っていた。

 エルマにとって、男の姿はまるで彼女が嫌う卑しい地方領主そのものであった。

 強きに媚び、弱気を虐げる。横柄で臆病で、そして厚顔無恥なそんな人種だ。

 行商人が奴隷を使役するのはアンガレス帝国の奴隷法を鑑みれば当然であった。エルマ自身、自分の行動が利己的な過去の復讐心から生じたものであることも重々承知している。

 だが、それでも彼女には行商人の卑劣さに絶えることが出来ず、結果エルマは、子供じみた意趣返しで応じたのである。

 解決方法として、商人にとっての力の物差しである金銭に頼ったという事に、エルマはやや不満があった事は否めないが。

「それでは失礼するわ...さぁ行きましょう」

 そう言うとエルマは少年へと手を差し伸べる。

 ここで初めて、エルマは年頃の少女がする様な幼さの残る笑顔を浮かべた。

 少年は相も変わらずに、表情一つ変えずにそんなエルマを見やりながら、一度だけ頷くと、力強くエルマの手をギュッと握り、彼女と共にそそくさと行商人宅を後にした。

 

 

 口の聞けない少年とエルマが、ラド村の西手を出て、そうして山中へと進んだのは丁度、昼過ぎであった。

 黒のロングコートで全身を覆ったエルマであったが、高原特有の冷気と、彼女の先を進み誘導する少年が日陰の多い道をあえて選び、進んだお陰で、自然と蒸し暑さは感じなかった。

 しかし、その反面で肉体強化に関しては、最低限の訓練のみしか受けていないエルマにとって、慣れない山道は予想以上の疲労を彼女に強いた。

 ゴツゴツとした岩だらけの足場は勿論だが、時に足場とも呼べぬ足場をエルマは進まねばならず、時に大股で、また時は両手で周囲の岩場を支えながらゆっくりとゆっくりと彼女は登山道を進んだのであった。

 そうして、結局、エルマ達が山中を抜けた頃には日は西の空へと沈み、そうして、高原には冷風が吹きつけている。

 いわば夕暮れ時が迫っていた。

 そうして、エルマは、朱色に染まりつつある空を見上げながら、小さくため息をついた。 

―ふぅ、年を取ったって事かしら...いいえ、最近あんまり体を動かしてなかったからよね―

 エルマにとってはあまり年齢の事は意識したくない案件の一つであった。

 エルマの身長は平均的なアンガレスの成人女性と殆ど変わらないものの些か自らのルックスに不満があった。

 未だにその花の頃の少女の様に幼い相貌、そして更に彼女を悩ませているのが彼女の体つきである。

 エルマの体つきに関して言うならば、まるで思春期前の少女の様に凹凸があまり目立たたない。してそのエルマはと言えば、今年で御年22歳となる。

 もう少しむねとおしりがあればなとエルマは昔から思い、来年こそは来年こそはと待ち望んだが、ついぞ彼女の願いはかなう事は無くこんな年齢になってしまったのだ。

 そんな彼女にとって、女としての実りよりも、体の衰えが先に現れるなどは許せなかったのだ。

 故に、エルマは自分の考えた想像を打ち消す様に強く頭を振る。

 そんなエルマを不思議そうに見やりながら首を傾ける少年。

 少年の視線に気づき、ハッとするエルマ。

 やや頬を赤らめながら彼女は、照れくさそうに口を開いて少年に尋ねる。

「それで、貴方の村に突然現れた男は...」

 しかし、そこでエルマは言葉をひっこめた。

 そうして、エルマはおもむろに少年の手をグイと引くと、自らの懐へと引き寄せ、そうして、そのままクルリと、右側へと向きを変える。

 少年は突然、自らの手を引いたエルマに少しばかり戸惑いながらも、並々ならぬナニカが起きていると理解して...そうして、半ば恐怖しながらもギュッとエルマに抱き着いた。

 向きを変えたエルマ。

 そんなエルマの視線の先にはごつごつとした岩々と高原特有の天高く枝を伸ばした広葉樹林が点々としていた。

 見通しは決して悪くは無く、よく目を凝らせば木々の間には異様な影が見て取れる。

「ねぇ、君...すこし下がっていてくれる? 」

 そんな異様な影を一瞥し、今度は抱き着く少年へと視線をやるエルマ。

 そうして、エルマは少年の頭をポンと優しく撫でると微笑を浮かべながら、一歩前方へと足を踏み出す。

 少年は、そんなエルマをしばしの間、上目遣いにみやり、そうして、エルマの視線の先に眼を這わせる。

 少年は状況が未だに飲み込めなかったが、しかしコクリと頷くと、エルマの指示に従い、彼女の後方へと小走り気味に駆けていった。

 走り去る少年の姿を確認した所でエルマはゆっくりと口を開く。

「魔物? それとも例の魔術師かしら? 前者なら直に消し炭にするけれど後者なら話くらいは聞くわよ」

 エルマは大胆にそう言いながら、ジッと彼女の遥か20M(メイル)程先の木々の木々の間のその異様な影に尋ねる。

 それは二つの人型の影であった。

 しかし、西日に照らされたそれらの影は、輪郭がぼやけ見様によっては、獣人の様にも見えたし、そして人の様にも見えた。

 最も、エルマにはそれらの影がなんなのか薄っすらとだが予想は出来ていた。

―魔物よね。イドナが異常だもの―

 そして、エルマの予想は的中する。

 のそりのそりと影達は徐々に徐々にと歩を進めエルマに近づく。

 17M...15Mと彼らが寄らば、その輪郭は完全にはっきりとした。

 エルマの前にあったの獣人の姿だった。

 雑な言い方をすればそれは、筋肉質な小型な人間と言えただろう。

 より適切に言うならば、半人半獣の魔物と言えたかもしれない。

 まるで、イヌ科の動物の様に、鋭い犬歯を光らせながら、その血眼になった瞳を見開き歩を進めるその魔物は、名をゴブリンと言った。

 エルマはジッと彼らを見やりながら、ゆっくりと心を落ち着ける。

―ゴブリン...うん。訓練で十中では苦も無く倒してきた相手よ―

 更に一歩とゴブリン達が歩を進めれば、彼らの姿はより鮮明となった。

 その体躯に比して、異常なまでに発達した上腕と下腿の筋群。

 それら発達した筋肉は彼らゴブリンの緑色の皮膚を盛り上がらせ、更にゴブリンたちを歪に飾っている。

 見れば、彼らはその発達した両腕で大ぶりな木の棍棒を握りしめなが、ジッとエルマを睨みつけていた。

 対して、エルマもまたゴブリンへとジッと視線を落としながら、脳裏では彼女は術の構成を開始していた。

 エルマはイメージする。燃え上がるような赤き炎を。

 イメージと同時に、エルマの全身を燃えるような炎の生気(イドナ)が駆け巡り、そうして、彼女の右腕に嵌めた赤のブレスレッドへと収束していく。

 はた目からでも分かる程に熱気を持ったブレスレッド。エルマの生気(イドナ)は今まさにブレスレッドに一同に集められ、ブレスレッドを殊更赤く染めるのである。

 これで、魔術の構築の第一段階は完了した。

 そんな魔術の下地を整えたエルマに対して、更に歩を進めるゴブリン達。彼らが更に一歩、前進し、遂にエルマと彼らの距離が10M程度となった所で、彼らの獣臭がツンとエルマの鼻をついた。既にゴブリンの姿はありありとエルマは捉えていた。

―丁度いい距離ね! ―

 途端、エルマの青の瞳が輝いたかと思えば、彼女は赤色に光る腕輪を身に着けた右腕を前方へと突き出し、その人差し指を持ってして、ゴブリンを指し示す。

 真紅に光るルビーの腕輪。そこには膨大な炎の生気(イドナ)が集められている。

 後はエルマは術のイメージを固め、その集まった生気(イドナ)に指向性を与え解放するだけだった。

 エルマは想像する。

 全てを貫く、鋭い炎の矢。大気中の風の正気(イドナ)を吸いながらますます燃え盛るそんな炎の矢を想像する。

 想像は終わった。後はエルマはそのイメージを現実化するだけだった。

「炎の矢よ、貫け」

 叫ぶエルマの声は岩間に反響して一面に鳴り響く。と同時にそんなエルマの叫びに答えたかの様に彼女の脳裏のイメージは現実へと昇華する。

 ぽっと彼女の赤の腕輪が眩い赤に光ったかと思えば、次いで、エルマの人差し指、その指先が真っ赤に燃える。

 それからは、一瞬の出来事である。

 何かがエルマの指先で光ったかと思えば、エルマの指先からは真赤な火矢が放たれ、ゴブリンへと襲来する。ゴブリンはただじっと立ち尽くすばかりで、炎の矢は大気を巻き込み、うなりを上げ、ますます燃え盛りながら、ゴブリンの喉元を鋭利に抉る。

 と同時に、ゴブリンを激しい炎が包んだ。

 炎に包まれたゴブリンは身動きさえ出来なかった。

 彼が知覚するよりも尚速く燃え盛る炎はゴブリンの全身を包み込む。

 そうして、ゴブリンの緑の皮膚をただれさせ、皮膚の下、盛り上がった赤い筋肉や、彼の臓器が瞬く間に炭化させてしまった。

 結果、何が起こったかを認識する暇も無いうちに一匹目のゴブリンは焼殺され、絶命したのである。

 生き残ったゴブリンが異常に気づいたのは、ボトリと真っ黒な屍が地へと倒れ込み、そうして、彼の鼻腔を焦げ臭い匂いが掠めたその後であった。

 エルマが施行したこの技こそが魔術である。

 アンガレス帝国が長年をかけて系統立て進化させた技でもある。

 魔術とは、人の体の中に眠る生気(イドナ)にイメージを与え現実化させる事で世のありとあらゆる事象に干渉し不可能を可能にする奇跡の技と言えるだろう。

 事実、華奢な、一見すればただの少女に過ぎないエルマ・エルンストは魔術を施行する事で遥かに力で彼女を勝るゴブリンをいともたやすく絶命させてみせたのであった。

 最もゴブリンにとってはそれは余りにも理不尽な現実とも言えた。

 生き残ったゴブリンは、仲間がやられた...そんな異常事態を前に、一瞬、呆然とし、次いで恐怖に全身をこわばらせる。

 しかし、生者の生への執着とでも言おうか、ゴブリンは恐怖しながらも、理不尽な現実を前に、その手に持った棍棒を両手で構えながらグッとエルマ目掛けて前方へと突き出して、次なる攻撃に備えんと身構える。

 それはゴブリンにとっては必死の抵抗であったが、しかしエルマには些事に過ぎず、彼女は魔物に慈悲など与えるつもりは毛頭なかった。

 再び、彼女は炎の矢をイメージしながら、その指先をゴブリンへと向ける。

「炎の矢よ、貫けっ」

 そして、エルマは無慈悲な宣告と共に再び魔術を使役する。

 再び、現実化する炎の矢。

 ゴブリンはそんな異常事態を目の前にして、咄嗟にその身を屈めてエルマの魔術を避けんとする。

 が、既にエルマの指先から放たれた炎の矢を彼が避ける事は能わず、彼は炎の矢に体を串刺しにされると、全身を真赤に燃やし尽くされ、そうしてすぐさま焼死体と化し、絶命するのであった。

 あっという間の戦いの幕切れであった。

 確かにゴブリンという個体は魔物の中では比較的弱い個体である。

 しかし、武器一つ持たない少女が軽々と倒す事など決して叶わぬ魔物であるのもまた、事実であった。

 が、宮廷魔術師たるエルマは僅かにその頬に滴る数滴の汗を代償に、難なくゴブリンを退治してみせたのである。

 そんなエルマは汗を左手で拭いながら、クルリと後方へと眼をやり遥か後方で立ちすくむ少年へと微笑をやる。

「さぁ、行きましょう。これからが本番だものね」

 そう言って少年へと眼をやるエルマ。

 呆然とする少年。

 彼は眼を点にしながらエルマを見やっていた。

 彼自身、ゴブリンの姿は知っていたし大の大人が数人がかりで、命がけでゴブリンを退治する光景は一度、目撃したことがあった。

 にも関わらず、華奢で戦いには無縁だと思われたエルマはほんの一瞬でゴブリンを全滅させたのだ。

 少年は、エルマを、呆然と見やった後にハッと我に変える。

―もしかしたら、お姉ちゃんならあの化け物を倒せるかもしれない―

 今まで絶望に取りつかれていた少年の瞳がぱぁっと輝いたかと思うと、彼は、二度三度と頷く。

 少年はエルマに駆け寄り、そうしてエルマの手を引くと、早足気味に駆けていくのであった。

 走る事数分。

 少年とエルマは遂にムロン村へと至る最後の難所である、巨大なつり橋まで至ったのである。

「えっ...これを渡るの? 」

 少年に連れられたエルマであったが、彼女の声は震えていた。

 そう、彼女の目の前には、切り立った崖と対岸の崖を繋ぐようにして架けられた巨大なつり橋の姿があったのだ。

 明らかに旧式のものと思われる古い木製の桟橋である。

 魔物を難なく蹴散らしたエルマであったが、しかし、彼女はそんな断崖絶壁に立てかけられた桟橋を渡る事に寧ろ戦闘以上の恐怖を感じていた。

 結局、エルマは逡巡の後、ギュッと少年の手を握り、恐る恐るながらも桟橋を渡り終えたのであった。

 そうして、悪戦苦闘の末、ムロンの村へとエルマが至った頃には夕日は西の山際に沈み、静かな夜がムロン村に訪れていた。




 人間の体には炎、水、風、土、人の五種類の生気(イドナ)が存在していると言われます。このイドナに指向性を与え、現象として現実化させたものを術と定義します。
 術の使用は広義にわたり、故にこの世界では術を使用できる魔術師は貴重な存在であると同時に畏怖の対象でもあります。

●ファイアーアロー 
 炎のイドナを練りこんだ魔術。高度な精神集中と、炎のイドナの絶妙な調整が必要である。エルマの得意とする術の一つでもある。
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