エルマ・エルンストにとっての悪夢は常に幸福に満ちた情景と共に始まる。
アンガレス歴592年のフォルン村。
クレスト大陸南西部に位置するこの小さな村でこの年、一人の少女が命を授かった。
温厚な季節に合わせて、ユーフォスの花がその薄ピンク色の花を満開にして咲き乱れ村中を彩る中、フォルン村の商家たるエルンスト家には初々しい産声が鳴り響いていた。
親族たちに囲まれながら、エルマ・エルンストは木漏れ日の中、生を受けたのであった。
エルマの父は、自らと同じアクアマリンの瞳の娘を誇らしく思い鼻を高くした。
エルマの母は、その白磁の様に美しい肌に娘の将来が華やかであることを予感し胸を躍らせ。
エルマの叔母は、村一番と呼ばれた美貌が姪に受け継がれるであろうことに浮かれ、足踏みし。
そして、エルマの叔父は、この世に生まれ落ちた彼にとっての最初の姪をジッと見やりながら祝福の言葉を送ったのである。
エルンスト家は商家としては規模は大きく無く裕福では無かったものの、没落貴族という事もあり、彼らは長女エルマの誕生を盛大に祝ったのである。
それは、うららやかなる小春日であった。
産まれて間もないエルマにとっては知る由も無いが、この年がエルンスト家にとって、いやエルマにとって、最も幸福であった年とも言えるかもしれない。
エルマにとって、産まれてからの10年は順風満帆と言えただろう。
少なくとも10歳の時分のエルマにはさしたる苦悩は無かった。
いや、詳しく言うならばエルマやエルンスト家に対する悪意は存在したがエルマは鈍感であったし、悪意は顕在化はしていなかった。
最もエルマの鈍感さは功を制したと言えるだろう。
少なくとも、エルマにとっては村民は家族であり、近所に暮らす子供達は彼女にとっての友であったからだ。
子供ながらの無邪気さと好奇心に溢れたエルマは年頃の少女にしてはややお転婆が過ぎたかもしれないが、それでも尚、エルマは自らの前に広がる未知に眼を輝かせながらまるで少年の様に行動した。
村のすぐそばに広がる草原を村の少年達と駆けるエルマ。
短く切りそろえられた金髪を肩元で揃えながら、少年達の先頭に立って緑の海を無邪気に駆けまわるエルマは、その容貌も相まって美少年のようにさえ見えただろう。
いずれによせ、エルマはガキ大将の様な存在であった。
そして、幼少期特有の子供にはつきものな、子供同士の喧嘩合戦にはこれまた、先陣を切ってガキ大将としていの一番に喧嘩に参加するのであった。
エルマには真っ黒な愛犬がおり、名前をアンドリアといった。
大抵、エルマは喧嘩になると愛犬と共に颯爽と現れては、敵対するガキ大将達を頭脳戦で翻弄しながら倒して回った。
とりもなおさず活発であったエルマであったが、度を過ぎた活発さによって喧嘩傷は絶えず両親、特に母親は気苦労がつきなかった。
母がエルマを叱り、父が困り果て、叔父が仲裁に入るのはエルンスト家の日常であった。
そんなエルマにとっての質素で素朴ながらも幸福な団らんは、一見幸運と見えた、しかしその実、悪辣な運命のいたずらによって終わりを告げるのであった。
クレスト大陸南西部は丁度、旧アンガレス王国の初代アンガレス王が生まれ落ちた地であり、帝国発祥の地でもあった。
南大陸のルバール湾を望んだ平原に位置する様に旧都アンガレスがし、それはアンガレス歴400年に至るまでの間、長らく帝国の首都として機能していた。
アンガレス歴592年においてはアンガレス帝国の政庁は大陸中央に位置するパルメニオスへと遷都されていたが、それでも尚、旧都アンガレスの重要性は少しもかげる事は無かった。
アンガレスから、パルメニオスへの遷都の後、大陸の最南端に位置する旧都アンガレスは尚、文化、芸術の中心地であると同時に、魔術学校を備えた衛星都市としてアンガレスの南部を支えていたからである。
そんな旧都アンガレスの影響は大陸南部の随所に及んでおり、それはフォルン村も例に漏れる事は無かった。
フォルン村は山村と言っても、周囲を囲うのは比較的なだらかな山々であり、行きかう行商人の数も少なく無かった。
エルマにとって魔術師としての未来を決したのは、行商のついでに立ち寄った商人のひょんな気まぐれからであった。
丁度、エルマが例の如く悪友たちと彼女の愛犬アンドリアを従えて闊歩する中、エルマ一団は珍しい商人を発見した。
商人はエルマ達にとっては何も珍しいものでは無かったが、男が露店に並べた品々はエルマや少年達にはあまり馴染みの無いものであった。
輝く宝石を模した腕輪や、伐採されて後も未だに生命力あふれる新緑で作られた杖、日の下にあっても決して溶ける事の無い雪の結晶などなど、ありとあらゆるものがそこには揃っていたのだ。
そう商人が扱っていたのは魔術装具であったのだ。
ジッと商品を見やるエルマ達を前に、気の良い商人は、ではと、その内の一つと、大樹フゥーロンの葉を織り作り上げた草のペンダントをエルマに取らせてみる。
エルマの指先が緑のペンダントに触れたかと思えば、途端にペンダントの緑が一際鮮やかに、輝いた。
そう、エルマのイドナが草のペンダントに反応したのであった。
商人はそんな光景を前に眼を丸くして、エルマを連れるや否やエルンスト宅へと駆けこんだのだった。
魔術師はアンガレスの人口に比してその数が不足しているにも関わらず、帝国において基幹となる多くのシステムにおいて欠かせぬ存在であった。
基本的には魔術師は劣勢遺伝の法則に従って誕生すると言わるが、稀にエルマの様な特殊なケースが存在する。
商人にとってはそんなエルマが、彼の並べたどんな商品よりも魅力的に見えたのだったろう。
商人はエルンスト家に駆け込むや否や、エルマの親族を説き伏せて、魔術師となる事を勧めるのであった。
魔術師と言えば栄えある職業である。
エルンスト家の様な旧式の価値観に重きを置く没落貴族にとっては、一族の中から魔術師の才ある者を一族から排出させたともあればそれは名誉以外のなにものでも無い。
そんなわけで、商人に勧められるままにエルマは魔術師として、つまりは帝国のエリート街道を進む事となるのである。
エルマ自身はこの時、魔術師になるという事がどんな厳しい道のりであるかは理解していなかった。
ただ、エルマは、両親の喜ぶ姿や、何よりもエルマ自身が敬愛する叔父が歓喜するその様がたまらなく嬉しかったのだ。
そうして、唯の小さな商家であったエルンスト家はそれから大きく変容する事となる。叔父一人を除いて。
その夜は、旅立ちの前夜には相応しかった。
夜空を天幕にして、無限と思われる星々が輝きながら、穏やかな光を山村へと注いでいた。
商人が現れて後から、エルンスト家は慌ただしかった。
魔術研究に対する奨学金を負担するという商人の言葉を聞きおよび、エルマの両親はまず、エルマの服を新調し、そしてわざわざ魔術師としての教材までも買い及んだのである。エルマの叔母はエルマに彼女流の貴族としての振る舞いを教えると躍起になっていたし、村の者達は村初めての魔術師誕生に表面上は喜び、そうして大仰にエルマを特別扱いした。
正直、エルンスト家やフォルン村は浮かれていたのだった。
そんな中で叔父だけがただ一人冷静だった。
その日、フォルン村が眠りについている中、エルマと彼女の叔父たるシャーカイルは二人、村を抜けると近隣の丘陵地帯へと歩を進めていた。
神秘的な夜を前にエルマは直ぐにたまらなくなった。
村を出て最初こそ、叔父と談笑しながらゆっくりと街道を歩んでいたエルマであったが、直にはやる気持ちを抑えられなくなり中途まで進むや、街道を外れて草の海へと飛び込んでいく。
青々とした草々がエルマの頬を優しく撫でては、爽やかな香りを醸し出す。
気づけば、エルマは鼻歌を口ずさみながら、星と夜空を背景にして踊る様にして駆けていた。
「エルマ、危ないぞ」
そんなエルマを見やりながら、ははと叔父は笑った。
エルマもクルリと叔父を振り返っては、クスリと無邪気に笑う。
二人はよく似ていた。
相貌は兎も角、性格やその芯となる部分をエルマは叔父から多く受け継いでいたのだった。
エルマにとっての人生の教師は叔父であったのだ。
叔父であるシャーカイルは、エルマが困っていればエルマを助けてくれたし、泣いていれば慰めてくれた、頭が良い事を心から喜んでくれた、一緒に愛犬のアンドリアを会話がってくれた。
シャーカイル叔父は、悪事を教えもするがエルマが成す邪悪にはものすごい剣幕で怒ってくれた。
何もかもをエルマに教えてくれたのは叔父であったのだ。
エルマはそんな叔父の人柄をなによりも愛していたし、そして、エルマは叔父の童顔な顔に浮かぶはにかんだ様な笑みがたまらなく好きだったのだ。
そんな大好きな叔父の微笑む姿を見やりながらエルマは歌う。
「ふふん、叔父さん、明日は旅立ちだもん。思いっきり草の大地で踊りたいの」
エルマは、お転婆であり、そしてやはりシャーカイルの血を分けた姪である。
不敵にシャーカイルに言うと、また駆け出していく。
やれやれとシャーカイルはエルマを見やりながら、しかし、柔らかな表情を浮かべるとエルマに負けじと駆けていく。
二人は何時もこんな調子で、エルマの両親に黙っては夜のピクニックに出かけるのである。
旧貴族の習わしという分けか、エルンスト家は長男を、兵士としての役職に就く事を義務としていた。
エルマの父は次兄であり、長男たるシャーカイルは家の習わしで衛兵となった。
衛兵にも勿論、休みの日は存在する。
しかし、シャーカイルは決して一日として休暇を取る事無く、日々を衛兵としての職務に捧げていたのだった。
エルマは知っていた。
何時もは不真面目な叔父が実は誰よりも真剣にフォルン村を愛し、そして全力で村を守っている事を。
叔父はしばしば言う。
―力がある者は弱い者を助けてやらなきゃいけない。それが義務なんだ―
と。
そして、勿論だがエルマは叔父の言葉をしかりと受け止めて自らのモットーとした。
走るエルマとシャーカイル。
気づけば二人は小高い丘を駆けのぼり、その頂上まで至っていた。
少しばかり、エルマと夜空の距離が縮まった。
今のエルマにとってはその手を伸ばせば星さえもつかめる心持ちである。
大きく手を伸ばしながら二度、三度と飛び跳ねるエルマ。
勿論、星々は遥か彼方であり、エルマの右手は空を切るばかりであった。
しかし、エルマにはそれで十分だった。既にエルマの手の中にはこぼれ落ちんばかりのの星々が溢れているのだから。
―魔術師となる―
そんな希望の星がエルマには溢れている。
「うーんっ! 」
大きく澄んだ空気を吸い込んで、エルマは大自然のベットに寝転んでは満点の星々を見上げる。
そうして、凛然と声を夜空に響かせる。
「私ね...立派な魔術師になる」
声高に叫ぶエルマ。それは、自分に言い聞かせた言葉でもあったが、彼女が敬愛する叔父に対するエルマのなりの最大のプレゼントでもあった。
しこうしてエルマからの決意の言葉はシャーカイルの言葉を打った様であった。
「エルマ、お前ならきっと宮廷魔術師にだってなれるさ」
涙交じりの声だった。
声と共に、エルマの前に彼女が最も尊敬する優しい顔を現れる。
シャーカイル叔父は寝転ぶエルマを涙交じりに覗き込んでいた。
ポツリと涙がエルマの頬を濡らす。
そうして、シャーカイルは声を震わせながらエルマに言う。
「エルマ...お前は誰よりも頑張れる子だ。絶対に誰にだって負けない。いや、負けちゃだめだぞ」
シャーカイルの眼からは涙がとめどなく溢れていく。
気づけば、エルマも泣いていた。
「うん...うん。私、負けた事なんてないもん......これからも負けないよ」
そこから先は口にしてはいけない。
エルマは分かっていた。
必死に次の言葉を抑えんと、なんとか喉まで出かかった言葉を抑える。
だが、無理だった。
「でも叔父さんと会いたいよ」
エルマは星空よりも尚輝く叔父の相貌を見やりながら同じように涙を流していた。
希望はある。魔術師としての星がエルマの興味と少女ながらの自尊心を満たしている。
しかし、叔父が居ない日常はエルマにとっては闇夜と同じであったのだ。
自らを導いてくれる叔父の存在がエルマにとっては太陽であったのだ。
叔父が居ない毎日などエルマには信じられなかった。
こうやって二人で夜空を拝める人がいない未来などエルマは想像したくなかった。
エルマは叔父とは笑顔で別れたかったが、叔父シャーカイルの涙はエルマの心の堤防を決壊させ、涙を溢れさせエルマに本音を吐き出させていたのである。
「...エルマ。大丈夫だよ。何時だってエルマが良い子にしていれば、俺はエルマの心の中にいるから」
シャーカイルはそう言うと、涙ながらに笑う。
とくん...エルマの胸が激しく鼓動する。
エルマはそんな叔父の笑みから眼を離せなかった。
ジッと自らの叔父を、見つめるエルマ。
恍惚と頬を染めながらエルマはそのアクアマリンの瞳を星々より尚、輝かせる。
そして、それはシャーカイルも同じであった。
彼もまた、エルマと同じアクアマリンの瞳をジッとエルマにやっていた。
「それにな、エルマ。叔父さんは何時だってお前の味方だ。エルマがエルマのままならな、いつだって助けに行ってやる」
そんな叔父の言葉にエルマは頷くと、僅かに体を起こしながらその唇をそっと叔父の頬へと顔を近づける。
そうして、弾力あるエルマの唇が静かにシャーカイルの頬へと触れる。
シャーカイルは魅入られたかの様にエルマへと瞳をやりながら、気づけばその両手をエルマの華奢な肩元に回し、抱きかかえていた。
シャーカイルは、ただただ優しく愛撫する様にしながらエルマのうなじをかき上げる。
そんな時間がしばし続く。
そうして、やっとエルマは長い接吻を済ませると、クスリと微笑んだ。
「好きな人とね、お別れの時はこうするの」
シャーカイルは少しばかりバツが悪そうに顔をしかめた苦笑したが、直ぐにその表情は変わる。
「なーに、またすぐに会えるさ」
叔父もまた微笑を浮かべていた。
気づけば、エルマも叔父のシャーカイルも涙は枯れており、その心は晴れ渡っていた。
そうして、それからは何時もの様に二人は最後の夜を過ごした。
星を見て歌い、叔父が用意した葡萄酒と麦パンを食べながら踊り耽るのである。
そうして疲れ果てたエルマに睡魔が訪れた所で二人は帰宅する事とした。
星々に見守られながらゆっくりと草原を歩き、村へと帰っていくエルマとシャーカイル。
この時、エルマは自分の行動の意味する所をしっかりと理解していなかったし、男女の営みなどに関しては全くの無知であった。
が、しかし、エルマにとっては叔父の存在は彼女にとっての支柱であり、中心であったのだ。
故に愛を持ってしてエルマは叔父に自らの全てを注ぎ込みたかったのだ。
別れはエルマには辛かったが、それは永遠の別れでは無く、またエルマは自らが変容しなければ叔父は常に自分の中にあると信じる事で旅立ちの決意を固めたのである。
そして、この夜がエルマにとっては叔父との最後の夜となる。
とりあえずエルマの過去前編です。
もっと感情描写を上手くなりたいものです。
叔父にはもっと分量をかけようかとも考えていたのですが、そうすると過去編だけで2万文字くらいになりそうだったのでは半分くらいまで減らしてしまいました。
尺足らずになっていなければよいのですが...