マフィストの街。
フォルン村の南方に位置する巨大な商業都市として知られるこの街は、アンガレス南西部において旧都アンガレスに次ぐ人口を有した地方中枢都市のひとつである。
商業都市として知られるマフィスト市は、港街としての機能も有しており、南のロンギウス海へと開ける巨大な湾口には日に数百を超える艦船が行き来し、大いに街に賑わいを与えていた。
こういった大都市では魔術教育に対して市を上げて莫大な予算が投入される事が多い。
マフィスト市も例に漏れる事は無く、魔術師教育のための所謂、魔術師育成施設が多数存在していた。
そんな中で、エルマが商人の手引きで入塾したのがグラーケ氏の私塾であった。
学長の名はフォルンスト・L・グラーケといった。
今年で齢60を超えるこの初老の男性はかつては帝都お抱えの宮廷魔術師であり、国に多くの貢献をした事からマフィスト市では生きながらに偉人として扱われつつあった。
市街地からやや離れた小さな丘陵地帯を領地として保有したグラーケは見晴らしの良い丘の上に30人程度が学ぶことが出来る小さな寄宿舎を作り、生徒を募っては共に学び、暮らしている。
グラーケは高名であったがまた魔術の師としても優れており、彼のもとで学んだ学徒は多かれ少なかれ公的な魔術師として要職についたのである。
そんなわけで、マフィストの貴族達は自らの子息の中で魔術の素養がある者をこぞってはこのグラーケの私塾へと入塾させたんとした。
折しもエルマはそんな入塾争いが過熱したゲラーク私塾の門を叩く事となる。
自然発生の魔術師たるエルマは入塾希望の貴族の御曹司達の中では異例の存在であり、その特質性故にゲラーク氏の眼に止まった。
結果、エルマは半ば特例的にゲラーク私塾に入塾を認められたのである。
そうして何はともあれエルマの修業は始まった。
エルマと共に魔術の修行に明け暮れたのは30名。
いずれもが10代前半の男女であり、エルマを除けば皆貴族の子息であった。
貴族との触れ合いなどはエルマにとっては初めての事であり、故に、彼らの全てがエルマには新鮮であった。
世に言う貴族像とは彼らの姿があまりにも離れていたという事もあるが、それ以上にエルマの眼を引いたのは彼らの自由奔放な姿だった。
山村の子供達が無心で遊びまわる中、彼ら貴族は幼少期の頃から親の定めた魔術師としての道をひたむきに突き進み努力し、そして大いに遊び大いに学んでいた。
彼らは芯の所で叔父の言う所の真の貴族であったのだ。
―負けられない―
エルマの胸中には叔父の言葉が滲みだしていた。
故にエルマは彼らと切磋琢磨しながら充実した日々を過ごすのであった。
そうして、エルマの魔術師としての修業は1年...2年と過ぎていく。
この間も叔父とエルマの間でのやり取りは手紙にて行われていた。
エルマが報告して叔父が答える。
大凡、そんな形で二人の手紙はやり取りされたが、叔父が必ずといっていいほどに手紙の締めの言葉に使った
―未来の宮廷魔術師エルマへ―
という単語は何よりもエルマの励みになった。
そうして、3年、4年と時が過ぎて遂に5年が経った頃にはエルマの修業は一段落つく。
その頃にはエルマはグラーケ私塾、ひいてはマフィストの街で神童と言わしめるほどの優れた魔術師見習いとして育っていた。
グラーケ私塾は15歳までに一通りの魔術の基礎となる学問や訓練を終了とする。
そして15歳を過ぎた所で今度はより高等な魔術師学校でで3年間を過ごして、それから正式に帝国が定めた魔術師試験を受けてその成績に応じて、宮廷魔術師かそれとも地方魔術官となるかが決定される。
専門職を一人養成するのには時間も費用も莫大となりがちである。
それは専門職の代表たる魔術師は勿論の事で、一人の魔術師を育て上げるには計8年を必要とするわけである。 故にエルマはまだ魔術師教育としての期間を半ば終えた程度であったのだ。
しかし、少なくともマフィストの街の同期達はエルマに滾るような対抗心を燃やしつつも、エルマこそが宮廷魔術師に相応しいと内心でエルマの実力を評価していた。
それは、エルマの師たるグラーケも同様であった。
彼はエルマの卒業に当たり、恒例の訓示に加えて、ラーケが宮廷魔術師時代の功績により皇帝陛下より下賜されたルビーが模された黄金の腕輪までをエルマに与えたのであった。
順風満帆なエルマの魔術修業。
しかし、エルマの幸福な日々はその15歳を最後にして終わりを告げる。
高等教育を受けんとしていたエルマにとって悲劇はエルマのゲラーク私塾卒業の僅か後に遂に起きた。
時にアンガレス歴607年。
時期は収穫の時期に入っていた。
残暑残る中、麦は一斉にその穂を輝かせながら田園を黄金色に染め上げている。
折しもエルマにとって、高等教育を受ける間の休暇期間が生まれた。
そんな休暇期間を通して、エルマは何よりも叔父との穏やかな幼少期の再現を望んだのである。
エルマ自身、実はこの1年は勉学は順調であったが、しかし叔父の事では少し物足りなかった。
というのも、この1年ほどで、エルマへの叔父からの便りの数は明らかに減っており、必ず文末に叔父が愛用した
―未来の宮廷魔術師エルマへ―
という一文が抜けていることが多からだ。
―叔父さんにも春が来たのかしら? ―
などとエルマは想像して、エルマは僅かな寂寥感と共に叔父への益々の幸福を微笑ましく思いもした。
しかし、それでもエルマは叔父に昔みたいに優しく頭を撫でて貰いたかった。そして、もう一度あの輝かしい夜空を見上げたかったの。
故にエルマは高等教育が始まるまでの僅かな休暇を彼女の生まれ故郷であるフォルン村で過ごす事と決めたのであった。
村へと帰還したエルマ。
エルマが5年ぶりにしたフォルンの村はエルマの幼少の頃とはまるでその姿を変えてしまっていた。
フォルン村。
そこは相も変わらず、山奥で閑散と佇んでいた。
古い街路樹や木造りの家屋の顔ぶれはエルマの幼少の頃と少しも変わらない。
が、しかし、エルマは違和感を感じずにはいられない。
―なんでか村がへんね―
理論的な説明はエルマには不可能であった。
ただただ漠然と、通り道を歩くエルマは何処か違和感ある村民達を見やりながら帰宅した。
帰宅と同時にエルマが目にした両親や叔母の姿はまるで以前とは変わり果てていた。
5年の内に多少の皺が触れた両親達であったが、それ程に外見には大きな違いは無い。
しかし、彼らは昔愛用していた質素な麻の服を捨てて、今では都会の貴族が着るような上質なシルクを模した礼服に身を包んでいたのである。
そして、彼らはエルマが帰宅した途端に歪に微笑むと。
「おおエルマ、良く帰ったね。疲れただろう」
とただ一言そう言って、言葉とは裏腹にエルマを白のドレスに着替えさせるや否や村の名士たちの元へと赴いた。
そうしてエルマの両親は、エルマを連れて各家々を回ってみせた。
宮廷魔術師となるであろう娘について、彼らは声高に叫びながら、表面上は謙遜しつつも、内心で持たざる村人たちを侮蔑するかの様に振舞った。
エルマは自らの両親や、下卑た様に笑いながらエルンスト家を持て成し村の有力者をジッと冷えた瞳で見つめ続けていたのだった。
そう、フォルン村でのエルンスト家の立場はただの一、行商家からちょっとした名家へと変貌していた。
村の者達は宮廷魔術師という餌に惹かれて、まるで野犬が残飯に群がる様にして近づいてきたのである。
そして、エルマの両親は喜んで残飯として振舞って見せたのだ。
誰が言いだしたかは分からなかったが、エルンスト家が各家を回る中で誰かが祝賀会を開こう、と言った。
エルマは正直、体を休めたかったし、帰宅しても尚顔を合わせていなかった叔父のあの優しい相貌を何よりも切望していた。
エルマは祝賀会を丁重に断るつもりでいたのだが、エルマの両親は申し訳なさそうにしながらも、しかし村長達の言葉に甘えるやエルマをヨソに話を進めていく。
嬉々としながら瞳を輝かせるエルマの父と母。
エルマには彼らがまるで、貴重な宝石を周囲の人々に見せびらかせる性質の悪い貴族の様に見えて仕方なかった。
そうして祝賀会はその日の内に急遽開かれる事となった。
勿論、祭りの席でも村人達のエルマや彼女の一族への対応は以前とはまるで別のものとなっていた。
村のありとあらゆる者達がエルマや彼の親族のもとを訪れては、美辞麗句を並べ立てては大いにエルマを褒めたたるのであった。
エルマの両親や叔母はと言えば、そんな彼らの一言一言に対して、まるで娘の功績を自らの功績の様に誇らしげに喜び、しかし形ばかりの謙遜で対応するのである。
そんな村の姿がエルマにはあまりにも異質に映っていた。
―早く、叔父さんに会いたいわ―
エルマは着なれないドレスと、慣れない村人達の対応に苦心しながら内心では叔父の事ばかりを思い、形ばかりの祝賀会を耐えきったのであった。
特にエルマが対応に関して嫌悪感さえ覚えたのは村長の息子であった。
エルマより3歳ほどの年上のその男をエルマは良く知っていた。
口ばかり大きいが、しかし実は伴わず。
夢は大きいが努力を成さずに、親の権力を当てにしてフォロン村で威張り散らしている様な男だった。
それは18を超えた今でも変わっておらず、むしろますます増長していた。
でっぷりとはった脂肪まみれの腹回りや、凹凸だらけのあばた面などなどは、まるで彼の醜い内面を映し出している様であった。
眼を細めるエルマをヨソに、彼はエルマの育ちつつある蕾の様な胸の膨らみや、くびれのある腰元、こぶりな臀部などなどをねっとりと凝視しながら、エルマにあれやこれやと彼のここ数年のフォロン村での活躍をうそぶいてみせたのだった。
相も変わらず、男の話は虚構まみれであったがそれでも男は、形ばかりの対応をするエルマに気を良くしてますます多くを語っていく。
エルマには男の言葉の一つ一つが不愉快極まりなかったが、それ以上に男の口元から否応なしに漂う口臭がたまらなくエルマには不快であった。
そうして男が一通り話す頃には祭りは閉幕ムードとなっていた。
そんな雰囲気を察したのか男はエルマに別れを告げる。
そして、別れ際に男はその毛むくじゃらの手をエルマの腰元に伸ばしたかと思うと、エルマのほっそりとした、しかし肉付きを豊かにしつつある桃尻を愛撫する様に撫でまわしたのであった。
突然の事に唖然としたエルマはしかし直にキッと男を睨み据える。
が、少なくとも村長の息子にはエルマの威嚇などは襲るるに足らなかったのだろう。
彼はははっと笑うと。
「なぁに、まだ心の準備があるだろう」
と一言言い残して、その場を去っていったのだ。
そうしてやっとの事でこの誰のためかも分からないパーティーが終わる。
祝賀の席が終わるや、エルマは早々に祭りの場を後にした。
エルマの足取り速く、エルマの内心は叔父の全てで満たされていた。
遂にエルマははやる気持ちを抑えきれずに、自宅では無く叔父の駐在地である衛兵の詰め所へ直接出向いたのであった。
が、叔父の姿は詰め所では見て取れない。
して、おかしな事に壁に貼り付けてある衛兵の名簿には叔父の名前さえ無い。
エルマは顔をしかめる。
この時、エルマには嫌な予感がしてならなかった。
よくよく考えれば、叔父が、エルマの帰宅をいの一番で迎えないというのはエルマにとってはおかしな話であった。
早々に詰め所を後にしたエルマは、最早、身に着けているドレスなど気にせずに自宅へと駆けていく。
家への近道を急行するエルマ。
主要路から外れたあぜ道を走るたびに泥が跳ね、周囲に生い茂った雑草がエルマの露出した肌に小さな裂傷を刻んでいく。
薄っすらと泥と血でエルマの肌や純白のドレスは汚れていくがそんな事など気にせずエルマは駆ける。
して、直ちに家へとたどり着くエルマ。
ドレスの裾を泥で汚し、どっと冷や汗で全身をしとどに濡らしたエルマは勢いよく戸を開けはなすと、既に帰宅して悠然と長椅子に腰かけた両親へと問い詰める。
「叔父さんは何処なのっ?」
エルマの声には悲壮感が漂い、その声は屋内の大気を激しく振動させながら彼女の両親を激しく射る。
途端、それまでは赤ら顔であったエルマの両親は血相を変えた様に顔を青ざめる。
エルマのアクアマリンの瞳が両親を捉えた。
その瞳は氷の様につめたく、見るモノをぞっとさせた。
そんな威圧に耐えられず、エルマの母が口を開く。
「あの人は...」
エルマが瞳を見開く。
「あの人は...死んだわ」
途端、エルマの相貌から血の気が引いたかと思えば、エルマはガクリと膝をつく。
涙は無かった、ただ、エルマはうめくようにして床に倒れ込むや、そのまま無情な真実を否定するかの様に眼を閉じたのであった。
―こんな事は貴方には話したくなかったの―
―エルマ、お前がショックを受けて休学なんて事になったら魔術師としてのお前の努力が全てが無駄になってしまう―
―だから、お前にはシャーカイル叔父さんの死はこの1年間伏せていたんだ―
エルマは長椅子に力なく腰かけながら、両親の懺悔の言葉に耳を傾けていた。
最も二人の言葉などはエルマにとってはうわの空であった。
エルマは自らの世界が崩れていくのを感じながら、ただただジッと両親を見やっていた。
―叔父さんはね、エルマ貴方のために頑張り過ぎたのよ―
それまで黙っていたエルマ叔母が言った。
途端、エルマはそれまで耐えていた涙をもはや堪える事が出来なくなった。
つつぅと一筋の雫が、エルマの眼尻から零れ落ちたかと思うとそれは滝となりとめどなくエルマの頬を濡らしていく。
叔父の死の理由の原因は過労に端を欲する。
魔術師養育のためには、訓練期間は勿論であるが、教育のために多額の金銭を必要とする。
故に貴族でない一般市民が子息を魔術師として育て上げるのに、特に問題になってくるのが金銭問題である。
魔術師を育て上げる教育費は、田舎の領地ならまるまる買い上げる事が出来る程の巨額に及び故にエルンスト家単体では支払いは困難であった。
エルマの例を取るなら、エルマが私塾に通う事が出来たのは一重に行商人の助けがあったからだ。
エルンスト家がエルマの生活費を支払い、行商人が授業料等の足りない金銭を補填するという形で何とか私塾でのエルマの必要経費は賄われたのである。
勿論、行商人は善意のみでエルマを助けたわけでは無い。
彼は魔術師との濃厚なツテを作るという将来を見据えて黄金の卵たりえるエルマに賭けたのである。
商人による授業料はつつが無く支払われた。
しかし、問題はエルンスト家の方にあった。
エルンスト家はエルマのゲラーク私塾への入塾と共に否応なしに変貌するしかなかったのだ。
―貴方はいずれ貴族になるのだから...だったら私達も恥ずかしくない様に、それ相応に振舞わなければならないの―
叔母が言った。
余りにも白々しい様に、全ての原罪はエルマにあると言わんばかりであった。
エルマの入塾を境に、エルンスト家はまるで貴族の様に振舞い始めたのである。
服を新調し、贅沢な装飾品で家を飾り、そうしての覚えたての貴族風の作法で振舞ったのである。
勿論、シャーカイルのみはそんな一族に対して冷ややかであり、彼のみは一衛兵としての職務に全うした。
しかし、シャーカイルが如何に振舞おうとエルンスト家の金銭事情に与える影響はたかが知れていた。
日に日に借金の額は募っていき、しかし、決して生活を変える事が出来なくなっていたエルンスト家は金貨数十枚、つまりは500万ガロンにも及ぶ借金をこさえる事となる。
500万ガロンと言えば、その額は小さな領主程度でも返済に苦心する額であり、少なくともエルンスト家にとっては返済は不可能な額である。
彼らにとってはエルマこそが頼みの綱であった。宮廷魔術師となれば金も名誉も思いのままであるからだ。
しかし。
―エルマに頼るな。俺や皆が共に乗り切らずになんとする―
シャーカイルは一同のそんな楽観視を前に、苦虫をかみつぶしたかのように貌を歪めると一言そう言った。
シャーカイルはそれから激務に明け暮れた。もともと休み返上で村を守っていたシャーカイルであったがそれからは衛兵という枠に縛られずに行動する。
かつては、村の見回りが中心であったシャーカイルは書類仕事から、村の雑事、ありとあらゆる激務をこなしていく。
最もシャーカイルの努力を嘲笑するかの様に、エルンスト家の借金はかさみ続けていくのである。
そして終ぞ、シャーカイルは衛兵の職を辞して一攫千金の冒険者を志し村を後にしたのだった。
―あの人は馬鹿だよ。貴族として生きられなかったんだ―
父はあからさまにその言葉に怒気を込め、叔父を軽蔑する様に瞳を歪めながら、いとも簡単に叔父を愚弄して見せた。
エルマは父に怒りの感情さえ覚えなかった。
エルマの胸中は、叔父の死という非現実により生じた悲しみに支配されつくしており、その他の感情を歓喜させる程のゆとりはエルマには無かったからだ。
が、しかし父の何気ない一言はエルマにおける父を殺してしまったのは間違いない。
もはや、エルマの父ヨーゼル・エルンストはエルマの中で父足りえなかった。
叔父は死んだ。
冒険者として旅立った叔父の死は彼がフォルン村を出立して10日の後にその遺体と共に村へと知らされる。
叔父は旅立ちに際して、山道で足を滑らせて財宝を手にするのはおろか、魔物と戦う事さえなく死んでいったのであった。
それはあまりにも早い死であった。
エルマは家族達を見やる。
彼らは眼尻を熱くさせながら、まるで繕うかの様にして叔父の死を嘆いていた。
が、エルマには一目瞭然であった。
彼らは叔父の死を一切も悲しんでいない。
叔父の死さえも彼らは利用して、自らに酔っているのである。
―だから、エルマ...お前は叔父さんのためにも宮廷魔術師になるんだぞ―
―そうよエルマ。叔父さんもエルマが宮廷魔術師になるのをね、きっと願ってるわ―
両親も叔母も誰もがエルマに偽りの言葉をかける。
が、偽善という言葉で塗り固めた彼らのエゴをエルマは見抜いていた。
「...叔父さんの...お墓はどこにあるの?」
消え入るようなエルマの声であった。
エルマは両親とは眼も合わせる事も無くそう呟くと一人立ち上がったのである。
そんなエルマにこれまた消え入る様に両親が声をかける。
―街はずれの墓場に―
―今日はもう遅いからまた明日に...―
もはや両親たりえない者達の言葉はエルマには届かなかった。
エルマは踵を返すや、よろよろとよろめきながらも家を後にして墓場へと向かっていて。
夜の山村を進むエルマ。
涙交じりのエルマの視界は闇夜と相まって薄っすらとぼやけていた。
そして、5年前と比べて何一つとして変化することの無いはずの村路はエルマにとっては以前とはまるで異なるものへと変容していた。
住民達の住屋を両脇に配し、村の真ん中に作られたよく手入れされたメインストーリトは村人たちの歩道として利用されておりそこには草一つ生えそろっていない。
そんなよく手入れされた田舎道をエルマが一人、力無く墓場へと向かい進んでいく。
歩きながらもエルマは村々から発する無数の悪意を全身に浴びていた。
―まったく金、金、金とあのエルンスト家にはたまったものではないわ―
―しかし、もの凄い借金ですな。ははっ、宮廷魔術師だ、貴族だといってもあれではな―
―あのエルマとかいうバカ女がいっそ大失敗すれば良いのに。そうすれば、あの無能なシャーカイルと一緒に一家共々、無茶苦茶になるのにね―
エルマの耳を付くのは村人たちの声ならぬ声であった。
村長宅を、酒場をと、歩くたびに声がエルマへと響くのである。
エルマが周囲を見渡せば人の姿は無い。
エルマ自身も理由は分からないが、しかしそれは聴覚を超えて、確かな感覚としてエルマの脳裏へと響いたのであった。
そう、今のエルマは研ぎ澄まされていた。
歩くたびに、ねっとりとした温風がエルマの肌に絡みつき、それと同時に人々の無数の悪意がエルマへと飛来するのである。
エルマが居なくなって後より、いやエルマがいた時分よりフォルン村には確然たる人々の悪意は存在していたのだ。
―貴族様は、お嬢様のご教育に随分とお金をおかけになっている―
―なぁに、頭が足りんのだよ、あのお嬢様は―
―なにせ、自らの叔父に対してあのお嬢様はひとかたならぬ感情を抱いていた様だからな―
踏み出すたびに、道の両脇で、僅かな灯りを灯した家屋から鋭い感情の矢が放たれてエルマを刺す。
嘲笑うかの様にエルマに浴びせられる言葉は、無慈悲にエルマの心を抉っていく。
―まぁいいさ、気分よくさせておけばエルンスト様はこの村に利益をもたらしてくれる―
―それにしても、エルマのやつ、美人になったな―
―きっと都会でヤリまくってたんだろうよ―
―俺らみたいな農民相手にはおたかく止まっているんだろうだけど所詮、アイツは卑しく貴い貴族様だ―
村民達からの嘲笑は気づけば虚実が入り混じっていた。
一身にエルマは農民達の悪意を浴びながら、気づけば、小さな雑木林を抜けて墓地へと至る小道へと至っていた。そこには人の息遣いさえ感じられず、もはや、人の声がエルマを襲う事は無かった。
そうして、小道を抜けるエルマ。
目の前にある林をかき分けて一歩前へと進むと、ぱっとエルマの視界が開ける。
草原の中でポツリと存在する墓地。
闇夜の中、生物の匂いさえ感じらない墓地はすがすがしい程に静謐であった。
その胸中をただただ悲哀の色に染めきっていたエルマはここで初めて、表をあげる。
エルマの視界に映るのは墓標のみが横たわる何処か陰惨とした墓地である。
が、注がれる月明りにより僅かに照らし出された墓地は何処か神秘的な匂いを醸し出している様にエルマには感じずにはいられなかった。
気づけばエルマは早足気味に駆け出していた。
エルマには、聞かずとも叔父の墓標が何処にあるかが一目瞭然であった。
月明りはただただ、強烈に光をシャーカイルの墓標へと注ぎ込み、その墓標を真珠の如く光り輝かせていたからだ。
エルマは駆け、そうして、叔父の墓標の前まで至ると墓標へとどっと前のめりに倒れ込みながら、冷たくなってしまった叔父を優しく抱きしめた。
「叔父さんっ...」
エルマの声は涙で枯れていた。
勿論だが墓標は何も語らない。
ただ静かに悪意も善意も発する事無く静かに佇むのみであった。
エルマは泣いた。
泣き続けた。
自らが家族を変えてしまった事を嘆き、そうして村人達の悪意にさえ気づかなかった自らの愚鈍を恥じたのである。
亡き叔父の喪失感を涙という形で埋め合わせたかった。
「私はなんで、宮廷魔術師になろうなんて考えたのっ」
エルマはむせび泣きながら叔父に尋ねる。
会いたい。
もう一度、叔父と会って答えを聞きたい。頭を撫でて貰いたい。一緒に歌を口ずさみ、星空を見上げながら満点の星々の下で踊りあいたい。
エルマの感情は涙と共にどっと溢れ出した。
夜通し墓地にはエルマのむせび泣く声が響き続ける。
...そうして気づけば、夜は更け、空は桔梗色に染まりつつあった。
「キィー」
と遠くで野鳥の声がした。
世界は色を取り戻し、空や動物達は静かに朝の訪れを告げていた。
エルマは立ち上がる。
そうしてもう一度、叔父の墓標へと眼を移す。
暗がりでしっかりと確認出来なかったが、叔父の墓標は碌な手入れなどされていなかった。
まだ死してより1年足らずの叔父の墓標には所々に蜘蛛の巣が張り、墓標周囲には雑草が茂みつつあった。
エルマにとっての英雄は村人は愚か、彼の親族にさえ見捨てられたのであった。
エルマはドレスの裾をちぎるや、墓標を静かにふき、そうして周囲の雑草をむしっていく。
エルマの胸中には叔父の死に対する深い悲しみと、村人や家族に対する軽蔑の念が刻み込まれていた。
「何時だってエルマが良い子にしていれば、俺はお前の心の中にいるから」
そんな中で、エルマの心を支えるのは叔父の言葉であった。
そして。
「未来の宮廷魔術師エルマへ」
叔父の書き綴ったその言葉のみがエルマを支える唯一の原動力だった。
気づけばエルマの白磁の様に美しかった指先は泥と土で茶に染まっており、エルマの純白のドレスは汗と土とに薄汚れていた。
そうして、エルマは叔父の墓標の手入れを済ませると再びフォルン村へと視線をやる。
叔父への手向けは唯一つ、宮廷魔術師となり偉大となる事である。
それがエルマと叔父との約束であり、エルマが叔父と再会するための方法であったからだ。
エルマは心の中に未だに姿を現さない叔父が、自らの更なる栄達や成功の末に再び胸中へと現れると自らへと言い聞かせたのだ。
エルマ自身、それがエルマの儚い希望であろう事を重々承知していた。
しかし、人の悪意に触れ、最愛の人の死を前にして絶望を知ったエルマはそんなか細い想いにすがるより他なかったのである。
翌朝、エルマは自宅へと帰還するや否や、白のドレスを脱ぎ捨てて何時もの麻の服へと着替えた。
エルマの母は、高い金をはたいて買った白のドレスがボロボロに汚れた様やエルマが体を汚していたのを前に、いかがわしいく思ったのだろうか、血相を変えた。
彼女はヒステリックに叫びながらエルマに問い詰める。
そんな母に対してエルマは理路整然と墓場へと行った事や、特に誰かに乱暴されたわけではない旨を説明した。
エルマのその態度は他人行儀であり、仮に子を愛する親ならばそんな娘の態度に眉をひそめたであろう。
しかし、エルマの母は寧ろ、エルマの凛然とした態度やエルマの貞操が無事であることに気を良くした様で、少しばかりエルマと口論すると直に引き下がった。
この日、エルマは母との問答を済ませるとグルリと街を一周する。
昨晩の様な人々の内なる声をエルマは聞き出すことは出来なかったが、しかし、顔を合わせる村民達のその瞳の奥でどんよりと何か薄暗いものが漂っているのをエルマは最早、見逃せなくなってしまっていた。
それから、エルマは村の全てを知った。
エルマが正式に宮廷魔術師となれば、フォロン村は帝国からの助成金給付の対象となる事。
故に、エルンスト家の面々はその助成金を借金返済のための拠り所と考えている事。
そして、おぞましい事だが、エルマの両親は、助成金を得るためにエルマと村長の息子が婚儀を結ばせる事を助成金獲得のための終着と考えた。
公的な金銭を私のために使うというのはあまりにも下劣な行為であるが、それ以上にエルマには自らの女を奪うのにためらいが無い両親を心から憎んだ。
また、村長は村長で仮にエルマが宮廷魔術師となればエルマは騎士としての爵位までをも皇帝から下賜されるわけで、村長としても自らが労せずに貴族の座へと転がり込むのは願ったり叶ったりであったのだ。
村人達も村人達でこの村長とエルンスト家にへつらう事で利権にあやかる算段であった。
―これが人間なの―
エルマはそんな彼らに人間の真理を見出した。
山村に紛れて、文明を知らずにただただ日々を自らの打算のために生きる人間の醜い姿を前に、エルマは唯一人孤高であろうとした村の英雄を思う。
エルマの中で輝き続ける叔父はいつも笑っていた。
しかしだからこそ、エルマがこんな境地にあろうとも、きっと村の英雄たる自らの叔父はエルマが人を愛し、そして高貴さを失わず生きる事をエルマに説くであろうとエルマは叔父の姿から思った・
なればこそ、エルマは欲望にまみれたフォロン村の連中を利してでも生きていかなければならない。
この日、エルマはその計り知れない喪失感を前にその心の半分は壊れてしまった。
が、それでも尚、エルマにはまだ叔父の姿を鮮明に覚えていたし、叔父との約束こそが彼女にとっての淡いながらも希望であったのだ。
故にエルマの残り半分の心は叔父のためにまだ生きていた。
立ち上がり帰宅するエルマ。
その後、エルマは両親から正式に村長の息子との結婚を言い渡される。
断る事は容易である。
が、それではいけなかった。
叔父の愛するエルマとは常に他人の期待に応える存在であったのだから。
故にエルマは自らの価値を釣り上げて、その上で縁談を反故にする必要があった。
「私、宮廷魔術師になって更に高名になりたいの」
エルマは両親という名の醜い村人達を内心で拒絶しながら、表面的には如何にも彼らが好みそうな出来の良い娘を演じてみせた。
そうして、エルマは結果的に25歳までに大きな成果を挙げられなければ魔術師として研究のみの人生を諦め村長の息子と結婚し、半ば魔術師、半ば女としての人生を確約したのだ。
25歳で快挙などというのは前代未聞であり、娘の事など何一つ知らないいエルマの親族たちはエルマの願いが叶わないであろう事を予想するや、首を縦に振ってエルマの心意気を大いに買ったのであった。
エルマはこの日を境にフォルン村の叔父の墓標を訪ねる事はあっても家へと帰る事は無かった。
幼少期の終わりは、幼少期の全ての愛おしい過去との離別という形でエルマに訪れたのだった。
結局エルマの回想が2万文字超えとなってしまいました。。