自分が悪いだけなのにいつも何かに怒っている。
鬱憤を晴らせないストレスが怒りの炎に油を注ぎ、「何が原因で怒っていたか」なんて粗末な悩みを燃やしてしまう。
何故怒るのか理解できない。
体裁を気にするが故に、中途半端に生きている。
愚痴りこそすれ、黙りこそすれ、常に彼はマイナスに生きるのだ。
「死にたい」と思うより「殺したい」と思う。
しかし彼は体裁を気にする男。一定の名誉が欲しいのだ。
彼も我儘であることを自覚している。
彼は文明人であったので殺人という行為を行った後の人間の名誉を想像しリスクリターンの計算ができる人間であった。
このリスクリターンこそが彼を中途半端にしている理由なのかもしれない。
優しさも正義も勉学も運動も悪も彼には中途半端に存在する。
彼は自分自身の中では確固たる正義の元行動しているはずだが、周りの人間はそうは思わない。
彼は体裁を気にする男であったので、それを許すことができなかった。
彼は他人にどこを改善すべきか聞いて回ったが、彼と共に考えてくれる人は1人もいなかった。
彼は表面上の友達こそ多いが、心の友と呼べる人間は1人もいなかったのであろう。
私は「神」を信じている。
しかし、神は人を救わず。
人を救うのは悪魔だ。
ならば「神」とは。
「神」とは、この宇宙の始まり。
その事象こそを「神」と名付ける。
化学を超える、人知を超える、その神秘、その奇跡を「神」とする。
「神」を信ずれば地球とは、裸眼では見たことの無い大気圏の向こうで、プレイヤーがゲームをしている。
ここは、オープンワールドなのかもしれない。
人工AI、県民A、それだけの存在。
何故他人に心があると信じることができる?
自分は今なお監視下にあるかもしれない。
プログラムの一部として意識せず世界に放り込まれてるかもしれない。
他人が本当に心があるかを証明する根拠はない。
それと同時に、他者の脳が青を赤と判断していた場合にそれは赤である。
僕にとっての「神」は他人にとっての売国奴かもしれないし異教徒だったりするだろう。
また、同じものを見ているが見ている視点が違うだけかもしれない。
本当に背中を預けられる人間なんていないのだ。
この体は通りすがる人間に刃物で刺されれば、人生に終末を迎えることになろう。
他者が自分に危害を加えない自信なんて何処からでてくるのか?
自分が本当に信用できるのは非常な人間のリスリターンの計算の行動と嫌悪の感情だけだ。
あの2つは手に取るように感情に裏が無いのが分かるのでとても安心できる。
しかしクラスメイトは「神」を謳う僕の言葉に耳を傾けようとはしないだろう。
敬虔なる私の祈りに耳を傾けようとはしないだろう。
主の導きに疑いの目を向けるだろう。
私はそれが許せない。