数日後。
交差点で信号待ちをしていたときのこと。後ろから聞き慣れた声がした。
「ようクズ、ちょっとツラ貸せ」
振り返らなくてもわかる。月夜見坂さんだ。
車が来ていないか素早く確認し、横断歩道を渡って全力で逃走しようとした。無理だった。十メートルも走らないうちに、俺はヘッドロックをかけられて捕まった。
「信号無視してんじゃねえよ」
「追っかけてきた月夜見坂さんも、信号無視してるじゃないですか!」
「るせーな。さっさと行くぞ、オラ」
「ど、どこへ……」
「カラオケに決まってんだろ」
というわけでカラオケに行くことになった。
俺一人の力ではこの人の襲撃を防ぐことができないということがはっきりしたので、今後はボディーガードを雇うことを真剣に検討しようと思う。
連れていかれたのはこの間のカラオケ店で、入室するやいなや月夜見坂さんは俺を無視してさっそく
「こないださあ、歌手デビューするって言っただろ。覚えてるか?」
『卒業』を歌い終えた月夜見坂さんは、唐突にそう言った。
「覚えてますよ。あの後どうなったんです? プロデューサーから何か連絡があったんですか?」
「いや。あの話は断った」
「ええっ!? どうして断っちゃったんですか?」
「あの話、ウチの師匠にも相談してたんだ」
「ああ……」
たしかに、そういう話はまず師匠に話しておくのが筋だろう。
「じゃあ、師匠の許可がとれなったんですか?」
「イヤ、師匠には『好きにしろ』って言われた」
「? ならどうして……」
「こないだ、ウチの師匠と月光会長が会う機会があったんだけどさあ、そんときに師匠が月光会長にそのことをしゃべってたわけ」
「はあ」
「で、月光会長は、そのレコード会社がどんな会社か男鹿さんに調べさせたらしいんだよ」
「なるほど……」
女流タイトル保持者がCDデビューするとなったら、連盟としてもPRに協力せざるをえなくなる。そのとき一緒に仕事をすることになるレコード会社がどんな企業なのかリサーチしたんだろう。さすがは月光会長、用意周到だ。
「で、調べた結果、その会社の経営がかなりヤバかったみたいなんだわ。専属の歌手に金が払えなくて、裁判沙汰になってるらしいんだよ。ってーのも、男鹿さんが調べてくれたんだけどな」
「そうだったんですね……」
「で、その会社でCD出すのはやめとけって話になったっつーことよ」
そういう事情だったら納得だ。
しかし、恐るべきは男鹿さんの情報網ですわ。音楽界の裏事情にも通じているとは……
「でも残念でしたね。せっかく歌手デビューするチャンスだったのに」
「いや? そんなに残念じゃねーよ」
サバサバした表情で言う月夜見坂さん。相変わらず男らしい性格だな、と思っていると--
「オレとしては、カラオケで好きな男に歌を聞いてもらえるだけで満足だからな」
「なるほど、そうなんですね。……………………え?」
好きな男…………って言ったの今!?
「つ、月夜見坂さんって好きな人いたんですか?」
「あァ? ンだよそのツラはよ。いちゃ悪いってのか?」
「いやいやいや! 悪くなんかないです!!」
悪くないけどひたすら信じられないんだよ!!
「も、もうお付き合いしてるんですか? その人とは」
「いや、まだだな」
「じゃあ告白も」
「まだだな」
「なるほど……」
月夜見坂さん、意外と恋愛では奥手なのかな? 前に自戦記で穴熊が好きって書いてたし、実は受け身なところがあるのかも……
「ま、でも無理やりバイクに乗せて連れ回したらすぐに恋愛関係に発展するだろ」
「何そのトンデモ理論!?」
全然受け身じゃなかったよ! 能動的すぎる! あと楽天的すぎる!!
「理論じゃねえよ。直感だよ」
ちょっと上手いこと言った感じで「フッ……」と髪なんぞ掻き上げる月夜見坂さん。イラッとするわー。
しかし、月夜見坂さんに好かれてる男っていったいどんな人なんだろう。ちょっと興味がある。
きっとこの世の不幸を一身に背負ってる人なんだろうなあ。
だって月夜見坂さんといえばいつも手負いの猛獣みたいに凶暴で、言葉づかいがやたらと悪くて、でも口さえ閉じていれば天使のような美女で、飾らない人柄が魅力的で、たまに見る和服姿は妙にエロくて、ちょっと薄着なんかしてるときはさらにエロい。
そんな月夜見坂さんに好かれるなんて--
……あれ?
不幸と言いきれるわけでもない、のか……?
「ライバルが結構多くてよ。そいつが好きだって女が、ウジャウジャいやがるんだ。だから、これまではずっと諦めてたんだけどさ……」
月夜見坂さんは俺からふっと目を逸らすと、珍しく小さな声で言った。
「やっぱそいつと一緒にいるとスゲー楽しいんだよ。そいつとカラオケに行って色々しゃべってさ、気づいちまったんだ。ああ、オレはやっぱりこいつのことが好きなんだな、って。だから……一回ぐらい本気出してみっか、と思ってさ」
うつむきがちに喋っている月夜見坂さんの横顔は、完全に恋する乙女の表情で。
そして、めちゃくちゃ綺麗だった。
「天使のような」なんて表現じゃ全然足りないくらい美しくて、可憐な横顔だった。
「……へー……そうなんですかー。……」
べつに……べつに、その男がうらやましいだなんて思ってないぞ! ほんとだぞ!
でも何でだろう、心がチクチク痛む気がする……
「……上手くいくといいですね。その人と」
心に負った小さな傷を表に出さないようにポーカーフェイスでそう言うと、月夜見坂さんはちょっとびっくりしたように目を見開き、次に怒っているときみたいに歯をむき出し、最後に目を閉じて深々とため息をついた。何だこの百面相……?
「月夜見坂さん?」
「何でもねえよ」
悟りを開いた修行僧を思わせる淡々とした口調で、月夜見坂さんが答えた。
「そいつは予想以上に鈍感だからな。こっちの気持ちをストレートに伝えねーとダメみたいだわ」
「あー、ラノベの主人公とかで時々いますよね。お前地獄に落ちろよってくらい鈍感で、女の子の好意に気づかないやつ」
「そういう男がよお、現実にいるんだぜ。イヤになっちまうよなあ」
「ほんとにイヤになりますね。月夜見坂さん、言っちゃ悪いけど男運ないんじゃないですか?」
ちょっとした意地悪のつもりで俺がそう言うと--
「……」
「痛ってえええ!!」
無言で向こうずねを思いきり蹴飛ばされた。あまりの激痛に、俺は床を転げ回る。
「何するんですか! 俺の足に何の恨みがあるんですか!?」
「うるせえ。オメーはそこではいつくばってオレの歌を聞いてろ」
どういうカラオケだよ……
「オレの歌はただの歌じゃねえ! 心のメッセージをストレートに表現するための、武器なんだよ!!」
何だかよくわからないことを口走りつつ、月夜見坂さんがすごい勢いでデンモクに曲名を打ち込む。
数秒後、カラオケのテレビ画面に映し出された曲の題名は--
『I LOVE YOU』(作詞・作曲 尾崎豊)
この人どんだけストレートなんだよ……そしてどんだけ尾崎好きなんだよ……
それにしても。
恋バナの流れでド直球な恋愛ソングをカラオケで歌っちゃうような月夜見坂さんのことだ。きっと「好き」っていう気持ちがかなりはっきりと態度に出てると思うんだけど……それでも気づかれていないってことか。
月夜見坂さんが好きになった人は、よっぽど女心がわからないやつなんだろうなあ。
凄まじく感情のこもった『I LOVE YOU』を歌う月夜見坂さんのキラキラした瞳を見つめながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
この出来事をきっかけに、月夜見坂さんはしょっちゅう俺をカラオケに誘うようになった。いや、誘うというよりは、嫌がる俺を店まで無理やり連れていくのだ。強制連行と言ってもよい。
それだけじゃない。最近は、バイクで拉致されることだってある。三日前は、夜中に六甲山まで連れていかれた。そのまま山奥に埋められるんじゃないかという不吉な考えが脳裏をよぎったが、なんとか無事に返してもらえた。ちなみに、そのときに見た神戸の夜景は、やたらと綺麗だった。
好きな人のことについては、月夜見坂さんが一切何も言わないので、俺も何となく聞けないでいる。でも、きっと上手くいっているのだろう。あの出来事のあと、月夜見坂さんはなぜかいつでも上機嫌で、俺に対しても天使のような笑顔を振りまいているからだ。好きな人との関係が、順調に進展している証拠だ。
天使モードの月夜見坂さんはやっぱりすごく魅力的で、ここのところ連行されるのがちょっと楽しみになってきているくらいだ。小学生のときからの顔馴染みなんだから、ひょっとしたら俺が月夜見坂さんと付き合う可能性もあったのかもしれない、なんて思ってしまったりもする。
でもそれは、今となってはただの悲しい妄想だ。
だって、月夜見坂さんは他の人に恋をしていて、もう俺の手の届かないところに行ってしまったのだから……
ちょっと寂しい気はするけれど、彼女が楽しそうに笑っている姿は、本当に素敵だと思う。
だから、俺は--月夜見坂さんの恋がめでたく成就することを、心から祈っている。