殺意の波動に目覚めたチセ【完結】   作:難民180301

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第2話

 エリアス・エインズワースの住む屋敷の庭先に朝日が差し込んでいる。春を迎え色とりどりの花を咲かせた生け垣や、青葉を揺らす木立が光を照り返し、穏やかな春の朝を彩っていた。

 

 しかし牧歌的な雰囲気とはどこか違う、おごそかな空気を漂わせる一角があった。そこには赤毛の少女――この屋敷の住人であるチセが直立不動となっており、目を閉じて深い瞑想状態となっている。静かながらにじみ出る迫力に押されてか、花と木の実に惹かれてやってきた鳥はおろか虫一匹チセに近づこうとしない。

 

 時間と空間が切り取られたような静寂の中微動だにしないチセ――唐突にその両手が動いた。

 

 ただしチセが何をしたのかは傍目には分からない。両手がわずかに動きを見せた次の瞬間には、チセは正拳突きを打ち出した後の残心をとっていたのだ。

 

 数秒遅れて打撃が空気を突く抜けるような快音が響く。

 

「九千九百九十七」

 

 つぶやきとともに姿勢を直立に戻し、もう一度瞑想状態に戻る。そして同じ動作を三度繰り返し、「一万」を数えたところで張りつめた空気が緩んだ。

 

「毎朝精が出るね」

 

「エリアス。おはようございます」

 

「おはよう」

 

 それを見計らったようにチセの頭上から声がかかる。見ると、屋敷の主人であるエリアスが二階の窓から顔を出していた。

 

「エリアスもやってみませんか。これをすると一日中気持ちが晴れやかですよ」

 

「遠慮しておくよ。一万回もやっていたら朝から晩まで続けても終わらない」

 

 相も変わらず武術には消極的なエリアスの態度に、チセは唇をとがらせて不満を示した。エリアスも慣れたものでチセのジト目による抗議を飄々と受け流す。

 

 チセが行っていたのは朝の日課である「感謝の正拳突き一万回」だ。まずゆったりと合掌し自身を高めてくれる厳しくも美しい世界へ感謝する。次にその気持ちと体内の魔力を融合させ、正拳にこめて突く。一回ごとに強さとは何か、力とは、その先にあるものとはと自身に問いかけるのも怠ってはいけない。これを一万回繰り返す。

 

 もちろん普通にやっていたのではエリアスの言う通り日が暮れても終わらない。しかしチセは動作の一つ一つから一切の無駄を排し、極限まで感謝と正拳を最適化している。これは理屈でできることではなく、元より不純物のない完全な感謝の心を持つチセだからこそできる心の所作の一端であった。

 

 武術には疎いエリアスも薄々それを察しているため、毎朝日課に誘われるたびに断っているのだ。

 

「それより、今日は行くところがある。朝食を食べたら準備して」

 

「行くところ? はあ、分かりました」

 

 不満を受け流されたチセは若干むくれつつ、屋敷の中へ入って行った。

 

 

 

 

 昨年の冬に少々強引な経緯で婚姻関係を結んだチセとエリアスは、割と良好な仲を築いていた。一度本気で殺し合ったことでお互い変な遠慮や気遣いをせず、伝えたい気持ちを率直に伝えられるのが大きな原因だろう。

 

 エリアスはチセを魔法の研究材料として重用した。頭に『最強最悪の』がつくもののチセはスレイベガに違いなく、優秀な魔力生産吸収能力、実質無限の魔力貯蔵能力がエリアスの研究で大いに役立った。ただしモルモット扱いが過ぎると無言でローキックされるため、エリアスは日夜チセへの接し方も研究している。

 

 チセはエリアスを主に組み手の相手として欲した。今のところチセが勝ち越しているが、頭がいいらしいエリアスは戦うたびに新しいチセ対策を見せてくれるので、毎回気の抜けない戦いを楽しんでいる。

 

 もちろん拳だけでなく言葉も交わし合う。たとえば同棲の始まった当初は日課の正拳突きを日の出前から始めていたが、音がうるさいことで対立し、話し合いの結果エリアスの起床時間より後に始めることになった。

 

 そうしてともに冬を過ごした二人は、春の日差しのもと肩を並べ町の教会へ向かっている。

 

「黒妖犬(ブラックドッグ)、ですか?」

 

「そう。チャーチグリムとも呼ばれる妖精の一種だね。そいつが教会の墓地に現れたから、有害かどうか検分してほしいそうだ」

 

「……ほう」

 

「検分だからね? 駆除じゃないから」

 

 不敵な微笑を浮かべるチセにあわてて念押しするエリアス。チセがこの表情になるのはきまって戦いを欲しているときだ。人に対して無害なブラックドッグは有能な墓守となるので、検分する前にチセが駆除にかかっては都合が悪い。

 

「分かってますよ。でも、教会からの雑用に連れてってくれるなんてどういう風の吹き回しですか? 前の二つはあんなにお願いしても聞いてくれなかったのに」

 

「前のは君が暴走するのが目に見えてたからだよ」

 

 むすーっと頬を膨らませるチセににべもなくそう返した。

 

 エリアスは過去の過失を酌量してもらう代わりに、教会から三つの雑用を頼まれた。そのうちの一つがドラゴンの国への情勢視察だったが、これに同行したいというチセの熱烈なアピールを突っぱねエリアス一人で済ませた。

 

 というのも――

 

「だってドラゴンですよ? あのドラゴンが実在してるとなれば戦いたくなるのが人情でしょう。竜狩りは戦士の誉れとも言うじゃないですか」

 

「言わないよ。君の好きそうな気性の荒いドラゴンはとうに絶滅していると言っているだろう。だから行っても無駄足だし、最悪僕もろとも管理人に門前払いされる」

 

「でも……」

 

 強者を求めるチセの性質上、実物のドラゴンを前に冷静でいられるとは思わなかったからだ。そして一度熱くなったチセは自身か相手の熱が消えるまで止まらない。エリアスに一方的な殺し合いを仕掛けたときのように、穏和なドラゴンだろうと構わず喧嘩を吹っ掛けるだろう。連れていけるわけがなかった。

 

 同じ理由で、チセを嫁にもらったことも公にしていない。高名なエリアスが嫁をとったと知られると暇な知り合いたちが嫁の顔を見にやってくるだろう。その時の相手の力量次第ではチセが獣と化すのは明白なので、出来る限り内密にする予定だった。

 

 チセは未練がましくため息をつく。

 

「せっかく対ドラゴン用の新技を開発したのに」

 

「そんなの開発しなくていいから……まあ、今回はもしかしたら君の出番もあるかもだから、念のため連れてきたんだ。後で抜け駆けだのと言われたくないしね」

 

「なるほど」

 

 両手のひらで体の前に円を描くように動かすチセを見ながら、エリアスは前回ケルヌンノスと戦った後の林の惨状を思い出した。

 

 あの時はもともと人の出入りが少ない林だったからよかったものの、今回は教会の墓地である。チセがまたよく分からない拳法の奥義を使えば後処理が非常に面倒なことになるだろう。魔法や魔術が一般人に知られるのは好ましくないのだ。

 

「チセ――」

 

「……!」

 

 奥義は使わないようにという言葉を呑み込んだ。

 

 チセが突如一つの方向に向かって身構え、戦闘を目前としたかのように魔力をたぎらせ始めたからだ。

 

 反射的にエリアスもその方向に注意を向けるが、そこには人影一つない。わずかに起伏のついた草原があるのみ。見通しもよく人が隠れているとも思えない。

 

「……やりますね」

 

「え?」

 

「なんでもないです。さあ、早く行きましょう」

 

 珍しくチセが声を弾ませてエリアスを促す。エリアスは釈然としないながらもおとなしく従った。心中に生まれた嫌な予感を見ないようにしながら。

 

 この時チセのぼやきを聞き逃さず追及していれば。きちんと奥義を使わないよう言い含めておけば。

 

 エリアスがそう後悔するのはまだ先のことである。

 

 

 

---

 

 

 

 教会に到着するとチセはエリアスとは別行動になった。エリアスは黒妖犬に接触する前に教会の関係者や利用者たちから情報を集めることにしたのだが、回りくどいことの嫌いなチセはこっそりと一人で教会墓地までやってきた。

 

 イチイの木立に囲まれた灰色の墓石群。死者を埋葬する関係上、此岸よりも彼岸寄りの場所なのだろう、黒いもやのような異形たちがそこかしこにたむろしている。

 

 数年前であれば異形を見るや駆逐にかかったチセだが、今更吹けば飛ぶような木端に興味を抱くことはない。

 

 件の黒妖犬を探すため墓地へ一歩踏み出し――

 

「お前はどこから来たんだい?」

 

「東の果て、日出づる国から」

 

 背後からかけられた老婆の声に即答した。同時に身体が金縛りにあったように動けなくなる。

 

 声の主らしき黒い靄に仮面をつけた芋虫のような異形は、動きを止めたチセを正面からなめるように見た。おそらく呪いにかかった獲物の恐怖心をあおろうとしているのだろう。

 

 怪異や異形には人間からのリアクションをキーとして異能を発揮するタイプがある。日本の例でいえば、着信に出ることで呪いを発動するメリーさん、問いかけに答えることで死を確定させる赤の紙青の紙の怪談など。

 

 目の前で勝ち誇ったような空気を漂わせる異形も同種。黒い靄の部分に鋭い牙の生えた大口が開いたのを見ると、動きを止めてゆっくりと食い殺すタイプのようだ。

 

「喝っ!」

 

 しかし気合一発。目と鼻の先まで迫っていた黒い異形はチセの咆哮によりはじけ飛ぶ。常識外れの音圧が墓石にひびを入れイチイの木を軋ませた。

 

 死を確定させる呪いといっても、それは相手が普通の人間か魔法使いであればの話だ。幾千幾万の異形を屠り神格さえ消し飛ばしたチセとは勝負にならない。問いかけに応えたのはあえて相手の土俵に立つことでハンデを与えるためであった。

 

「手合い違いです。出直してください」

 

 ハンデを与えても勝負の成立しない程度の異形に絡まれたことで、チセの声音が平時よりも冷たくなる。願わくば黒妖犬が有害なものでありますように、そしてこの欲求不満と似た感覚を慰めてくれますようにと念じた。

 

「おや」

 

「ぐるるる……!」

 

 その祈りが通じたわけでもないだろうが、墓石の影から牙をむき出しにした大型犬が飛び出してきた。

 

 闇を思わせる真っ黒な体毛、血のように赤い瞳、ゆらゆらと陽炎のように揺れる長いしっぽ。チセの身長を軽く上回る体長。毛の下でたくましい狩猟犬の筋肉がうごめいているのが遠目からも分かる。

 

「ええと、妖精だよね? 言葉分かる?」

 

「バウワウ!」

 

「そっか、分かんないかー」

 

 赤い瞳は敵意に満ちており、呼びかけにもケルベロスじみた恐ろしい咆哮が返ってくるのみ。非常に遺憾ながら対話は不可能、とチセは分析する。

 

「言葉がダメなら拳しかないよね。エリアスも納得するよね」

 

 こうしてチセは、対話を試みるも相手が応じずやむなく応戦する体で黒妖犬との戦闘を開始した。

 

 なお、黒妖犬は墓守の本能に従い、墓場で物理的な破壊力を伴う大音声を出すばかりか墓石まで傷つけた不埒者(チセ)に激昂しているのであって、過失は10割チセにあるのだが、頭に血が上った二体の獣がそんなことを察せるわけもなかった。

 

 

 

 チセと黒妖犬はおよそ五メートルの距離を開けにらみ合う。持久力と瞬発力に長けた狩猟犬でもある黒妖犬と、人外の膂力を持つチセ、双方にとって無に等しい距離だ。

 

 両者ともそれを本能的に理解しているため、相手の動きに対し即座に防御反撃できるよう神経をとがらせる。二人からにじみ出る殺気と闘志が墓場の暗い空気を押し流し肌のひりつくような緊張感が満ちた。たむろしていた異形たちは巻き添えを恐れて姿を消し二人だけの空間が形成されている。

 

 先に動いたのは黒妖犬だった。

 

 初速から最高速の踏み込みにより、瞬きよりも短い時間でチセに接近する。

 

 無論この程度のスピードを捕えられないチセではない。加速する時間の中で、手の届く距離にいる黒妖犬の動きを注視しカウンターを狙う。しかし――

 

「スピードで攪乱する気かな。妖精にしてはなかなか」

 

 黒妖犬は最速のままチセの横を素通りし後ろへ。後ろから横へ、前へ、また後ろへと目まぐるしく動き始めた。

 

 相手の思いがけない一手に対しチセは口端を吊り上げる。妖精などの異形たちは本能的な攻撃手段に頼ることが多く、今回のように慎重な手はあまり使わない。正面から攻めてきたところを迎撃する予定だったが、まずは動きを捉える必要があるだろう。

 

 一方の黒妖犬は得体のしれない悪寒を覚えていた。

 

 チセの読み通り、本能的な喉笛への噛みつきで一気に勝負を決めるつもりだった。相手の体躯は小さく衣服の下にもたくましい筋肉はない。たとえ抵抗されても力づくで喉を噛みきれると読んだのだ。

 

 その読みを実行に移そうとした瞬間、頭蓋を打ち砕かれる映像を幻視した。そして気づけば慎重に攪乱する手を取っていたのである。獣の本能が呼び込んだ奇跡的な冴えと言えるだろう。

 

 チセは黒妖犬の動きを常に注視しているが、無秩序、無作為に飛び回るため流れを読みきれない。このままでは向こうの攻撃を避けることはできてもカウンターを合わせるのは難しい。

 

 であれば、多少の犠牲を払ってでも確実に動きを止め必殺の一撃を叩き込めばいい。

 

「ほら、どうぞ」

 

 わざと足をもつれさせ体勢を崩す。

 

 黒妖犬はカッと目を見開き一直線にチセへ駆ける。大口を開き、鋭い牙がチセの細い腕に迫った。狩猟犬の咬合力をもってすればこの程度の細腕をかみちぎるのはたやすい。

 

 そのはずだった。

 

「キャウンっ!?」

 

「はい?」

 

 パキリと何かが折れる音とともに黒妖犬が悲痛な声を上げ後退する。わざと腕に噛みつかせもう一方の腕でフックを叩き込む予定だったチセは、目を丸くして状況を確認する。

 

 まず折れたのは、黒妖犬の牙。上下合わせて四本の大きな牙の内、上の一本が痛々しく欠けている。それに対し噛みつかれたチセの腕は傷一つなく、痛みもまるで感じなかった。

 

「なるほど。その見た目でも妖精なんだね。私は魔法的な耐性が強いから、牙が通らないんだ」

 

 牙が折れた痛みで苦しむ黒妖犬にかまわず自己解決するチセ。それと同時に黒妖犬への戦意が薄れていった。

 

 チセは物理的な防御力に比べ、魔法的な防御力が恐ろしく高い。血液のように体内を循環する超高密度、大質量の魔力が自動で体表に魔力の障壁『スレイベガフィールド』を展開しているからだ。ケルヌンノスとの戦いで使った最終奥義が衣服だけを吹き飛ばしたのもスレイベガフィールドが働いたことによる。

 

 スレイベガフィールドは魔法的な干渉の一切を軽減ないし遮断する。黒妖犬は魔力の塊ともいえる妖精の一種なので、すべての攻撃がチセに通用しないことになるのだ。それこそ神格を持つケルヌンノスか、魔力を高密度に圧縮したエリアスの茨でもなければ傷一つつかないだろう。

 

「ぐるる……!」

 

 健気にも威嚇する黒妖犬を前に、チセは高ぶった気持ちが急速に冷めていくのを感じていた。

 

 一方的に相手を攻撃できる立場になんの価値があるのか。お互いがお互いを殺せるからこそ死合いの緊張感が生まれ、高め合うことができるのだ。圧倒的優位にいることに価値はない。

 

 とはいえ、一度始めた以上最後までやり通すのがスレイベガ神拳の掟。戦意のある相手を前に自分だけ戦いを放棄するのは敵前逃亡であり、神拳の掟では死罪に相当する。

 

 腑抜けた体に喝を入れチセは再び身構えた。黒妖犬が上下左右前後どう動こうとも自在に対応できる万能の型、ピーカブースタイルでじりじりと距離を詰めていく。

 

 だがこの時のチセは失念していた。

 

「――ッ!」

 

 追い詰められた獣は、ジャッカルよりも凶暴になることを。

 

 黒妖犬の口から突如火炎の球が放たれる。灼熱が墓地の下草を焼き墓石を焦がした。チセの姿は火炎に呑み込まれ見えなくなる。

 

 火炎放射。これこそが黒妖犬が最後まで隠していた奥の手――というわけではない。たしかに黒妖犬は火を噴く能力があるのだが、この黒妖犬はまだ自身の種族を把握できておらず、十全に種族としての能力を行使できない状態だった。しかし今の自身の最大の武器である牙が通用しない人外の化け物を前に追い詰められ、眠っていた本能が反射的に火を噴かせたのである。

 

 よって火を噴いた黒妖犬自身も現状がよく把握できていない。ただ分かるのは、墓石に傷をつけた化け物に一杯食わせてやったという事実。

 

 この業火をまともに受けて無事でいられるわけがない。黒妖犬のその見立てには根拠がないものの的を射ていた。チセのスレイベガフィールドが防ぐのは純粋に魔法的な攻撃のみであり、科学現象である火と熱は対象外。ダメージを与えられる可能性は十分にあった。

 

 ただし、チセがスレイベガフィールドを小手先の手品と断じ、戦闘力の勘定にさえ入れていない武人でなければの話だが。

 

「!」

 

 火炎が晴れた向こう側を見、黒妖犬が愕然と口を開く。

 

 炎熱で歪む空気を背負い、赤毛の少女が両手のひらで壁を作るように、流水がごときなめらかさで円を描いている。据わった目つきと感情の削ぎ落ちた無表情は深い集中状態のためだろうか、陽炎の歪みと炎の光があいまって、神々しい雰囲気を醸し出す。

 

「マ・ワ・シ・ウ・ケ。矢でも鉄砲でもドラゴンブレスでも持ってきて。まさか妖精相手に使うことになるなんてね」

 

 空手において正拳突きと同じく基礎中の基礎として知られる回し受け。本来は拳や前蹴りを払うための受け技だが、極まった正拳突きが音速を超え神さえ打ち据えるように、極まった回し受けは気体だろうと液体だろうとプラズマだろうと受け流す。

 

 対ドラゴン用に急遽仕上げた防御技を使う予定はなかった。受ける間に攻める、殴られようと寄って殴るがスレイベガ神拳の基本原則。ドラゴンと戦う機会のない以上お蔵入りになるはずだったこの技を使わせたのは、ひとえに黒妖犬のガッツがあったからだ。

 

 所詮は獣と侮ることはもうしない。一方が力尽きるその時まで尋常な好敵手として相対しよう。

 

「くぅーん」

 

「えっ?」

 

 と、決意を新たにするチセだったが、当の黒妖犬は仰向けにぶっ倒れていた。

 

 柔らかそうな黒い腹を無防備にさらけ出し、甘えるような情けない声を出している。つまり、服従のポーズだった。

 

「そんな……!」

 

 チセは絶望した。

 

 戦意を失った者、力なき弱者に拳をふるうことはスレイベガ神拳鉄之掟第四十八条にて禁じられている。服従の意を示した黒妖犬にとどめを刺すことはできない。

 

 だとすれば、このあふれ出る闘志はどこへ向ければいいのか。黒妖犬の機転と根性に触発された武人としての心は誰が受け止めてくれるというのか。

 

 エリアスはこの場にいない。今すぐ戦ってくれる相手が欲しいのに。

 

「ふぅー」

 

 一つ深呼吸したチセは、あふれ出る思いを抑えながら黒妖犬に近づいていった。一歩ずつ足音が鳴るたびに黒妖犬のしっぽが丸まっていくのには気づいていない。

 

 ひとまず犬の腹でも撫でて落ち着こう。エリアスならきっと頼めば戦ってくれるから、それまでの辛抱――

 

「――甘い」

 

 振り向きざまに放った中段足刀。固く、肉の詰まった腕に防がれ、大型車の衝突事故を思わせる大音量が墓地に響く。

 

「不意打ちは通じませんよ。常在戦場は山籠もりの基本です」

 

「ははっ、やっぱりダメかぁ。狩人は獲物を獲る瞬間が一番無防備なものだけど」

 

 飄々と笑い、防いだチセの足を払って曲者は距離をとった。

 

「なるほど、確実に仕留められるときを待っていたんですか。朝からお疲れ様です」

 

「なーんだ、最初から気づいてたの?」

 

「いいえ。昼に気配が漏れたのがなければ気のせいにしていたでしょう。見事な隠密ですよ」

 

「そりゃどうも」

 

 言葉を交わしながらチセは曲者を観察する。肩の少し下まで伸ばした銀髪、特徴的な分け方の前髪、童顔、体格はチセと同じかわずかに大きい程度の矮躯。ゆったりしたコートを着込んでいるが暗器の類は見られない。朝からつかず離れずでずっと監視していた点からも分かるが、重心の安定感やさりげない体重移動もかんがみると相当な使い手であることが分かる。

 

 ここまで分析が進んだとき、チセの心臓が跳ねた。目の前の男の特徴が、放浪時代に幾度も耳にしたある格闘家のものと一致したのだ。

 

「あなたは……もしかして、ヨセフですか?」

 

「お? よく知ってるねー。じゃあ僕がここに来た理由も分かるかな?」

 

 男、ヨセフが肯定するとチセの興奮は最高潮に達する。高鳴る鼓動、騒ぐ血潮、震える武人の心が全身に力を与える。

 

 格闘家ヨセフ。最古の格闘家、千の技を持つ男の異名を持つ。有史以来、強者を求めて世界各地を巡る素手の格闘家として知られており、こと武術に関する逸話は数えきれない。たとえば――いや、チセにとって重要なのはそこではなかった。

 

 最低でも数百年のクンフーを積んだ格闘家の腕前がいかほどか。そしてそれは自身を高みへと導くに足るものであるのか。この二点を考えるだけでチセは冴え滾り漲る思いに満たされる。

 

「ええ、分かりますよ。強者を求める最古の格闘家、ヨセフ」

 

「そっか。じゃあ――」

 

「はい――」

 

 二人の格闘家が出会ったときやることは一つだけ。

 

 チセとヨセフが構える。黒妖犬が俊足で墓地を出て行く。

 

 最強のスレイベガと最古の格闘家が、夕暮れの墓地で激突した。

 

 

 

---

 

 

 

 拳が閃き、足刀が飛ぶ。空振りの拳圧と風圧がイチイの木々をなぎ倒し、踏み込みの一つごとに発生するソニックブームが両者の衣服をボロボロにしていく。

 

 チセとヨセフの戦いは高度な読み合いの様相を呈していた。お互いに全力で拳をふるいながらも二手三手先を見越した最善手を瞬時に選択、鍛え上げた自慢の肉体で実行に移す。場所は墓地から徐々に移動して教会に隣接する森となり、日が落ちて真っ暗の森から鋭い打撃音と地鳴りにも似た踏み込みの音が響いている。

 

 はたして現在の戦況はというと、チセの劣勢であった。

 

「破ァ!」

 

「それはもう見た」

 

 チセの素早いカカト落としをヨセフが一歩下がって回避。チセは空ぶった足を軸足として前に踏み込み、水面蹴りへ移行。

 

 しかしヨセフがもう見たといった通り、これは一度見せた連携技だ。一流の格闘家であるヨセフに通じるはずもなくあっさり下段の受け技で防がれる。

 

「くたばれ!」

 

 お返しとばかりヨセフがチセの足をつかみ力任せに地面へたたきつけた。技術も何もない純粋な筋力で地面や木立に何度もたたきつけられるチセ。

 

 もう一方の足でヨセフの指を蹴りつけどうにか投げ抜けを成立させたときには、周囲一帯が局地的なハリケーンにさらされたような惨状となっていた。

 

 戦闘が始まってから初めて距離を開けた両者がにらみ合う。

 

「その程度かい? 最強のスレイベガの名が泣くよ」

 

「……」

 

「だんまりか。そろそろダメージもたまってきたのかな」

 

 ヨセフの軽口に返答する余裕はチセにはなかった。しかし彼の言うように蓄積したダメージで口が重くなっているのでも、劣勢の現状にしり込みしているわけではない。この程度の戦闘で動きが鈍るような体力ではないし、逆境を粉砕するド根性は人一倍なチセがピンチに怯むなどあり得ない。

 

 であれば何がチセの心を乱しているのか。それは言いようのない不快感と違和感だった。

 

 自身と互角の打ち合いができる強者と拳を打ち合わせるたびに、なぜか目を覆いたくなるようなおぞましい気持ちに襲われる。ヨセフの身体を視界に納めているだけで吐き気にも似た違和感がこみ上げる。

 

 こういった気持ちがチセの集中を乱し、山籠もりで体得した野生の勘による先読み能力を鈍らせている。ヨセフは数百年の経験に裏打ちされた堅実な読み合いの力で、チセの鈍った勘を上回っているのだ。

 

「休んでいるところ悪いけど、時間稼ぎはさせないよ。奥義を使われると面倒だ」

 

「くっ!」

 

 ヨセフは正面から距離を詰め飛び蹴りを放った。チセは長考していたために回避が間に合わず顔に受けたが、被弾と同時に首をひねることで衝撃を受け流すスリッピングアウェーを使いダメージを抑える。

 

(スレイベガ神拳の奥義も攻略済みですか)

 

 再度打ち合いに移行しながらチセはヨセフの念入りな戦略に舌を巻いた。

 

 スレイベガ神拳は寄って殴る必殺の拳を真髄としており、四十八つある奥義はそれを体現した必ず殺す拳だ。発動したら最後、チセの勝利は確定する。

 

 ただし発動にはそれぞれ準備段階がある。一の奥義では相手の魔力を吸収すること、最終奥義では貯蔵魔力を引き出し圧縮するタメ時間が必要なこと、のようにすべての奥義には莫大な魔力を用意する時間が要求される。

 

 それが分かっているからこそ、ヨセフはチセに時間稼ぎを許さないのだろう。複雑な読み合いと高度な打撃戦をこなしながら魔力を用意する技量は今のチセにない。

 

 両者が離れ、二度目の接近戦を終える。今回もいまいちチセがノリ切れないまま終わりを迎え、衣服以外は無傷なヨセフと比べチセにダメージが蓄積していく。

 

「奥義に必要なタメ時間は平均でおよそ一分。もう種は割れてるんだ。さっさと死んで僕に身体をよこしなよ」

 

「ふふ、上等……」

 

 使わせないと言われれば使いたくなるのがチセの性格である。全身から奥義に必要な魔力をかき集め始めた。

 

 とはいえチセの心の不満は晴れない。相手がこれだけ自分を倒すために打ち込んでいるのに、どうして不快感があるのか、何に不満を感じているのか――

 

「なっ……その体は!?」

 

 が、その疑問はヨセフの身体を見ることで氷解した。

 

 激しい衝撃波で衣服が破れ上半身をさらけ出しているヨセフ。その体は修繕を繰り返したぬいぐるみのように、大きな縫い跡に塗れていた。腕の半ば、胴体の各部にほどこされたそれはまるで、身体のパーツを寄せ集め無理やり縫い合わせたようだった。

 

 チセの頭の中でこれまでに得た情報がつながっていく。千の技を持つ男という異名、身体をよこせという発言、奇妙な縫い跡、そして正体不明の不快感――

 

「なるほど。パッチワークで得た偽りの強さ、というわけですか」

 

 ヨセフが強いのではない。

 

 ヨセフが収集した体のパーツが強かったのだ。その強さはチセの求める強さの対極であり、チセの本能が強い不快感を通して拒絶するほどだった。

 

 頭がさえる。不快感が怒りと殺意の波動に転じていく。赤黒い波動と魔力がまじりあい天をつくばかりに立ち上る。

 

「偽りだろうと強さは強さだ。僕は最強のスレイベガであるお前の身体を手に入れ、真に強い身体を造り上げる。それこそが僕の求める最強だ!」

 

 チセの気迫を前にしてもなおヨセフは吼える。自身の根幹をなす最強への探究心を偽りと称されたことが我慢ならなかったのだ。

 

 ヨセフはかつて強い呪いを受けていた。いつ誰にかけられたのかさえ分からない古い呪いは、ヨセフの身体が寿命で腐ろうと病で衰えようと生かし続け、生き地獄を与える歪んだ不死の呪いだった。やがて腐った体の部位を他人のものに置き換え苦痛を和らげる方法を開発したが、所詮は一時しのぎにすぎず数年もすれば生きたまま死んでいく苦しみが戻ってくる。

 

 そうして千年近く呪いに苦しみ続けたある日、一つの死体を発見する。それがヨセフの転機だった。

 

 山奥で力尽きていたその死体を移植すると、あれだけ自身を苛んでいた苦しみが嘘のように消えて無くなったのだ。

 

 歓喜に打ち震えながら死体の出自を調べると、それは山籠もり中に息絶えた格闘家だったことが判明する。山籠もりで鍛えられた強靭な格闘家の身体が、紀元前より続く強力な呪いを相殺したのである。

 

 ヨセフは迷わなかった。世界中の名だたる格闘家の下を訪れ、ときに不意打ちで、ときに人質をとって、ときに正面から果し合いを仕掛けて強い身体を求めた。その試みが成功するたびに呪いの苦しみは格闘家の波動で上書きされ、次第に元の目的が薄れていく。

 

 もしかすると、死してなお強さを探究する格闘家の魂が死体に宿っていたのかもしれない。いつの間にかヨセフは自身を苦しめる呪いのことを忘れていた。呪いを和らげるために強い身体を求めるのではない。強くなるためだけに強い身体を求めるようになった。

 

 自分が死霊呪術師と呼ばれる魔術師の一種であったことさえ頭から抜け落ち、己の身体を更なる高みへと導く最強の身体を求め世界中を放浪し更に千年――この間の格闘家ヨセフの生き様は一言に集約される。

 

『ボクより強いヤツに会いに行く』

 

 今日もヨセフは強者を求めて放浪する。強さを希求する格闘家の本能と、最強を夢見る求道者の精神に導かれ。

 

 その旅路の果てになりうる歴代最高の身体が、チセ・ハトリ。妖精や精霊、果ては神々にさえ殴り掛かる最強最悪のスレイベガだった。

 

 チセも放浪の身であったことから長らく居場所がつかめなかったが、古い魔法使いのもとに腰を落ち着けたと知るやヨセフはチセの攻略を始める。望み薄とは知りながら搦め手や不意打ちも検討しつつ、チセのスレイベガ神拳を研究し、必殺の奥義さえ使わせなければ十分に勝機があると見た。

 

 およそその見立ての通りに戦闘は進行し、あと一歩のところだった。

 

(さすがにすさまじい魔力量だ。最強の名は伊達じゃないな)

 

 波動と魔力の燐光が夜の森を明るく照らす。その中心にたたずむチセの双眸は冷徹な殺意に塗れ、赤い髪は血のように鮮やかな艶を放っている。

 

 しかし、足りない。奥義を使うには後四十秒のタメが必要だ。これまで通り地道な地上戦で読み合いに勝っていけば、いずれは蓄積ダメージで勝利できる。例の魔法使いの方には足止めをぶつけているため、横やりが入る心配もない。

 

 勝利を確信してほくそ笑むヨセフに対し、チセは静かに告げた。

 

「ヨセフ。あなたは確かに強い。偽りの身体とはいえそれを使いこなす技量、経験による読み合いの力は素晴らしい。ですが一つだけ、強者が持つべきモノが決定的に欠けている」

 

「何?」

 

 ヨセフにとって強者が持つべきは力だ。すべてを屈服させ自我を押し付ける圧倒的な力。自分がそれを持っているとヨセフは確信しているし、放浪生活で積み上げてきた無数の勝ち星が事実として確信を後押ししている。

 

 しかしヨセフにとって目的である強さは、チセにとっての手段でしかなかった。強さ、力の先にあるものを見据え日々探究を続けるチセは強者が必ず力を持つべきとは思っていない。たとえば先ほど、絶望的な実力差を前にしても怯まず最後まで粘ってみせた黒妖犬もチセの言う強者だ。エリアスも、ケルヌンノスもそうだった。

 

 そういったチセの認識する強者たちが必ず持っているもの、それは――

 

「あなたに足りないもの。それは『美意識』」

 

 美意識。

 

 土壇場で勝負を捨てない心の強さ、神としての威光をまとうにふさわしい風格、墓守としての仕事を貫く矜持。いくらでも言い換えのきくその言葉に相当するものを、ヨセフは持っていなかった。

 

「己の心身を鍛えることもせず、他人の力を自分の力のように錯覚しながら、強さだけを短絡的に追い求めるあなたのことが、私は大っ嫌い。だから――」

 

 ギン、と緑の瞳がヨセフを射抜く。

 

「私はここで、あなたをぶっとばさないといけないんだ」

 

 チセの波動が一段と強まる。木々はおびえるように太い幹を揺らし、高まった魔力が落葉を片っ端から弾き飛ばしていく。

 

 奥義のタメが完了するまで残り二十秒。いつでも戦闘を再開できるよう頭の中でシミュレーションを展開しながら、ヨセフは不敵にぐにゃりと笑ってみせた。

 

「ぶっとばす? お前が? 僕を? 笑わせるよ。その美意識とやらで一体どうやって明確な実力差をくつがえせるって言うんだ?」

 

 残り十秒。ヨセフはこのセリフを契機として、神速の踏み込みでチセに接近し――

 

「どうやってって、こうするんだよ!」

 

 想定外なチセの返答に、唖然として動きを止めた。

 

 チセが吼えるとともに波動と魔力の圧力が一段と高まる。身体の内から湧き出たそれらはチセの衣服をまとめて吹っ飛ばし、チセを生まれたままの姿に剥いた。

 

 敵前で突然裸になる奇行にヨセフが虚をつかれたのはほんの一瞬のことで、再び動き出すのは容易なはずだった。しかしヨセフは動けない。裸のチセの目の前で石のように固まり、彼女の裸体を凝視する。それは夢のように、美しい眺めだった。

 

 月光と波動の光でライトアップされた幼い裸体。成長途上にある小ぶりな乳房も秘所も隠さず堂々と胸を張っているチセの身体には、ヨセフの目を惹きつけて離さない審美的な何かがあった。

 

 一切の無駄を削ぎ落されながら美しい曲線美を損なわないすらりとした手足。さしずめ女豹を連想させるスリムかつ力強いくびれのある胴体。それらを幻想的に照らし出す波動と魔力の赤黒い光。

 

 ヨセフはゆっくりと視線を落とし自身の身体に目を走らせる。全身にムカデのごとくはい回る醜い縫合痕。手足は筋肉の量や肌の色が不揃いで、強さだけを追求した見苦しいツギハギをさらしていた。

 

(そうか……これが、美意識)

 

 無意識のうちにヨセフは敗北を知る。いや、知らされたのだ。強さの先にあるものへ愚直に手を伸ばし続け、心とともに磨き上げられたチセの肉体は、数百年のツギハギを繰り返したヨセフの心を砕いたのである。

 

(僕は千年も、一体何の夢を見ていたんだ? 最強の身体を作ってどうする? 格闘家が強さを求めるのは目的じゃなくて手段じゃないか! じゃあその目的って……)

 

 その感動はヨセフから冷静な判断力を奪い、戦況を忘れさせるほどであった。長い長い夢からさめたような晴れやかな気持ちと、時間を浪費した後悔で頭が混乱する。

 

 そして状況を放棄したヨセフに対しチセは冷酷に宣告した。

 

「ジャスト、一分だよ。最強の夢は見れた?」

 

「はっ!? く、くそっ!」

 

 奥義発動まで、残り時間はゼロ。我に返ったヨセフが駆け出してももう遅い。

 

「スレイベガ神拳、八之奥義」

 

「消えた!? どこだ!」

 

 突風が吹き荒れるとともに、チセの姿がかき消えた。まるでコマ落ちしたフィルムのように、予備動作をした次の瞬間には消えていた。

 

 左右、後ろ、いない。膨大な気迫が消えてないことから近くにいることだけは分かる。

 

「上かっ……」

 

 上を向いたヨセフの眉間に、魔力と殺意のこめられた拳が突き刺さり――次の瞬間、夜の森に赤い流星が突き刺さった。

 

 

 

---

 

 

 

 スレイベガ神拳八之奥義、天衝朱裂拳。

 

 垂直に四十~五十メートル飛び上がり位置エネルギーを確保したのち、圧縮した莫大な魔力でチセの脚力に耐えうる足場を形成。それを全力で蹴りつけ重力加速と全身の筋肉の力を拳に込め、地上の標的を打ち砕く技だ。拳に込めた魔力と波動が尾を引き遠目には赤い流星が垂直に降っているように見える。

 

「人って左右の動きには強いけど上下には弱いんです。動揺していたヨセフには私が消えたように見えたでしょう」

 

「あ、そう」

 

「むー、私の武勇伝聞いてくださいよ」

 

 チセの無邪気な奥義解説に気のない返事をしたのはエリアスだ。ヒザにヒジをついて深くうなだれる彼は、嫁の自慢話を聞く余裕もない。というのも、目の前のテーブルに散らばる苦情の手紙への対応を考えるのに忙しいからである。

 

 死闘から一夜明けた昼下がり、エリアス邸一階の居間にて。ハウスメイド、シルキーの手による紅茶とスコーンを楽しみながら、エリアスとチセは一見穏やかな時間を過ごしていた。真っ黒なふさふさしたクッションに身を沈めたチセは無表情でもさもさとスコーンをほおばる。

 

「あのねえ、チセ。僕は奥義を使うなって……」

 

 あ、言ってない。

 

「エリアス? 大丈夫ですか?」

 

「大丈夫じゃない」

 

 脳筋押しかけ嫁への苦情を言うに言えず、エリアスは深いため息をついた。

 

 チセが最古の格闘家と戦ったことによる後処理は教会に丸投げすることとなった。奥義による破壊の後はまさに小さな彗星が落ちたような惨状であり、隠す、直すことより壊す方が得意なエリアスが対応できる規模ではなかったのだ。

 

 当然チセの存在を隠すことはできずエリアスが嫁兼弟子をとったことが公になった。今後祝いに来たのを口実にチセへちょっかいをかけようとする知り合いが出るだろう。その時は自分まで巻き添えにならないよう気を付けるだけなので大丈夫だ。

 

 エリアスの頭を悩ませているのは今回の件でまたもや教会に借りができたことだった。

 

「借りを返すために雑用をこなしに行ったら、借りが三倍増しになった。はあー」

 

「死合いについてはともかく、迷惑をかけたのはごめんなさい、エリアス」

 

「いや、いいよ。僕もいろいろ不注意だったからね」

 

 教会と言えどもあの規模の後始末は面倒らしく、チセの夫であるエリアスのもとに苦情や賠償要求の手紙が山と届いた。そのうち新しい雑用も押し付けられるのだろう。

 

 さらに頭が痛いのは、チセを強く責められないことだ。最古の格闘家ヨセフの出現はエリアスはおろかチセも予想していなかったことであり、奥義を使わなければ負けていたほどの死闘だったという。形だけ見れば自衛のために戦ったチセに強く言えない。

 

 また、チセに単独行動させたことと、応援に駆け付けられなかったことでもエリアスは負い目を感じている。

 

「灰の目のやつ……今度会ったら食ってやる」

 

 チセの下へ向かおうとしたエリアスを徹底的に足止めした灰の目に、エリアスはすべての憎悪を向けることにした。ついでに魔力をこめて呪詛も紡いでおく。

 

「灰の目って誰です?」

 

「ああ、古い生き物の一体で――とっても強いよ」

 

「いいですね。今度の死合いはその人とやりましょう。逃げたヨセフと併せてリベンジマッチです」

 

「分かった、セッティングは任せて」

 

 念を入れてチセにもロックオンさせておいた。チセが瀕死にしたボロ雑巾のような灰の目を影と茨でメッタ打ちにする自分を想像し、エリアスは黒い笑みを浮かべる。表情筋がないため分かりづらいが、チセには伝わったらしく首をかしげていた。

 

 なお、夜の森に真っ赤な花を咲かせたヨセフは不死の呪いが発動したらしく、教会関係者が駆け付けたときには死体が消えていたそうだ。必殺の拳を受けても消えない呪いとしてチセは静かに闘志を燃やしている。

 

 さらに、生涯の伴侶以外で乙女の裸を見た男滅するべしと神拳の掟に記されている。精神攻撃の一手として裸を見せたヨセフも例外ではない。スレイベガ神拳創始者の名に懸けて、チセはいつかヨセフを呪いごと吹き飛ばさねばならないだろう。

 

「...Chise, I've been curious about that for a while. What's with the Black Dog?(ところでチセ。さっきから気になってたんだけど、その黒妖犬は何?)」

 

『俺は姐御についていくと決めた。この人は俺の観音様なんだ』

 

「らしいです。イギリスの妖精なのに観音を知ってるなんて偉いですね」

 

「English please...」

 

 すっかりチセのクッションとして溶け込んでいる黒妖犬と日本語でよくわからないやり取りをするチセ。黒妖犬は今朝がた押しかけてきて以来チセにくっついて離れようとしない。

 

 イギリス発祥の黒妖犬が日本語を話す。当たり前のように手懐けてじゃれ合う。目の前の手紙の山。今後やってくるだろう知り合いたちとチセの対面。

 

「全部灰の目のせいだ」

 

 エリアスは考えるのをやめた。ひとまず自分を明確に邪魔した灰の目にすべてのヘイトをぶつけることで心の平静を保つ。

 

 チセに撫でられた黒妖犬の漏らすうれし気な声と、穏やかな春の庭先から聞こえる小鳥のさえずりが、エリアスにはどこか遠い世界のことのように思えたのだった。








九巻読んでたら思いついた一発ネタその2。苦しい呪いを独自路線で乗り越える格闘家ヨセフが読みたかった。
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