エリアス邸の庭先に、トンテンカンと木槌が釘を打つ音が響く。倒壊した二階の一角に何枚目かの板が張られ、修繕が進んでいく。
「はい」
「……ありがとうございます」
チセはエリアスの茨で組んだ足場の上で木槌をふるっており、エリアスは一階に用意した修繕用の資材を茨で上まで運んでいる。
新しい木の板をチセに渡すと、チセはおずおずとそれを受け取って釘を打つ作業に戻った。エリアスから見えるチセの耳は赤く染まっており、底なしの体力を持つチセがこの程度の作業で疲れたわけでもないだろうに、とエリアスは訝しむ。しかし割とあけすけに物を言う性格のエリアスもどうしたのと聞くことはしなかった。どこか含みのある気まずい雰囲気が作業現場に満ちている。屋敷の角からは、ハウスメイド妖精のシルキーとチセのペットである黒妖犬が不安げな顔を覗かせていた。
事の発端は昨夜未明。
就寝中だったチセの自室にエリアスが侵入しチセに馬乗りとなった。当然これを曲者と勘違いしたチセは反射的に巴投げを敢行し、吹き飛ばされたエリアスの巨体が屋敷の壁に大穴をあけたわけだ。
チセの寝込みを襲えばそうなることは分かっていたはずなのに、炎に向かう蛾のごとくふらふらとチセのもとへ向かったエリアスは、自分自身の奇行に困惑した。制裁の右ストレートを覚悟してヘタな不意打ちをかけたことについて謝罪する。
しかしチセはそれどころではなかった。男が女の寝込みを襲うとは夜這い、つまりエリアスはチセとあんなことやそんなことを致そうとしたことを意味する。今までその方面の欲望を欠片も見せなかったエリアスが突然の暴挙に出たことで、さしもの鍛えられたチセの精神も激しく動揺した。
自分の甘い対応への戸惑いもある。昔なら投げ飛ばした後間髪入れず追撃を入れ、曲者が誰だろうとマウントをとって息絶えるまで殴りつけるくらいはしていたはずだ。にもかかわらず相手がエリアスと分かるや否や顔が熱くなり闘気がなえてしまった。武人とはいえ若干十六歳の乙女でもあるチセには刺激が強すぎたのである。
結果、お互いによくわからない自身の心に混乱するので忙しく、気まずい空気のまま作業を続けている。
(なぜ僕はあんなことを……チセの身体に欲情できる箇所なんて一つもないのに)
チセが聞けば奥義発動も辞さないであろう自問を繰り返す。なお、エリアスは人ではないのでチセがどんなにいい身体をしていようと欲情することはない。したがってチセの揺れる乙女心は空回りだ。
考え込むエリアスの隣に足場からチセが飛び降りた。表情は相変わらず平坦だがどこか疲れたように眉根を下げている。
「やめましょうエリアス。こんなの私たちらしくないです」
「チセ。もう済んだのかい?」
「はい。不格好ですが、どうにか」
チセの部屋にあけられた大穴は木の板で塞がれている。断熱材を間に挟み何重にも木の板を打ち付けてあるので寒風はしのげるだろうが、まさにどうにかこうにかやり遂げた感のある雑な仕事だった。
「こんなにおめでたい日にギスギスするのは嫌ですよ。……家を壊してごめんなさい、エリアス」
「僕も、変なことをしてごめん。出かけるのはこの後すぐにするかい? それとも夕食の後?」
「この後すぐにしましょう。そわそわして夕食どころじゃないんです」
短いやり取りであっさりといつもの雰囲気に戻った。覗き見ていたシルキーと黒妖犬がほっと胸をなでおろす。
準備してきますと言い屋敷に駆け込んでいったチセの後ろ姿を見ながら、エリアスは天を仰いだ。日の傾いた空に見える灰色の雲からは、じきに雪が降りだすだろう。
――チセとエリアスの出会いから、ちょうど一年が経っていた。
ヨセフとの死闘を境に来客が多くなるとエリアスは予想していたが、不思議なことに誰一人訪ねてこなかった。それだけでなく教会や学院からの手紙も時節のあいさつなど最低限のものしか届かなくなり、間違いなく周囲がうるさくなると見ていたエリアスには不気味なほど静かな生活となった。
その間はチセの魔力を利用した魔法薬生産、道具作成、チセとの組手を建て前とした殺し合いに近い実戦をして過ごす。チセは戦うたびに強くなるエリアスを好んでいるようで、勝手にふらりと出かけて異形たち相手に喧嘩を売るようなことは一度しかなかった。といってもその一度さえ意図したものではなく、秋に散歩へ出かけた森で妖精の国へ迷い込み、図らずもカチコミの形となったに過ぎない。被害者側の妖精たちとはチセの魔力から生まれた上質な魔力結晶を賠償として和睦が成立し、相互不干渉の誓約を結んだ。
そうして周囲の環境は静かとなり、チセは変わらず強さの先にある何かを求めて邁進を続けているが、エリアスの内面には本人も自覚していない大きな変化があった。昨夜の夜這いはその一端である。
「エリアス? 何か悩みですか?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
チセの声をきっかけにエリアスは意識を現在に戻した。
しんしんと雪が降る夜道をチセとエリアスの二人が歩いている。一メートル以上の身長差ゆえに歩幅が大きく違う二人だが、エリアスはあえて歩調を合わせない。チセがそんな気遣いを必要としないのは分かりきっているし、むしろ無用な手加減と見て機嫌を損ねる可能性すらあるからだ。事実、チセはなんなくエリアスの横についてきている。
「しかし今日プレゼント交換をするなんてね。クリスマスまで待とうとは思わなかったのかい?」
「エリアスからのプレゼントを受け取るのに今日よりふさわしい日はないです。それに知らないおじさんの誕生日と、エリアスと私が出会った日、どっちがおめでたいですか?」
「答えるまでもないね」
「そうですね」
穏やかな微笑を浮かべるチセ。表情筋のないエリアスだが、眼窩の奥にある光がわずかに揺れた。
二人は本来クリスマスに行うべきプレゼント交換をするために、屋敷の北にある平原へ向かっていた。お互いに用意したプレゼントを交換するのに適した場所はそこしかないというチセの要求を聞いてのことだ。
チセとエリアスが道を逸れ、雪で一面真っ白な平原へ踏み入っていく。二人はおよそ二十メートルほどの距離を置いて相対し、エリアスが口を開いた。
「本当にこんなことでよかったの? 戦うならいつだってできるのに」
「できませんよ。『本当の姿で私と戦うこと』。エリアスは恥ずかしがりだから、こうでもしないと見せてくれないでしょう」
エリアスは人でも妖精でもない半端者である。普段は頭部を除き人に近い形をとっているが、本当の姿は人から離れ、妖精からも離れた異形だった。これをチセに話したことは一度もないが、どうやら何度も命のやり取りをするうちに察したらしく、年に一度のプレゼントとして要求したのだ。
実際チセに言われなければエリアスは一生本当の姿をさらすことはなかっただろう。半端な化け物としての姿はエリアスも好きではなく、他人に見せたいとは思えない。
とはいえこの期に及んでだだをこねても無駄だろうし、他でもないチセになら――エリアスは決断を下した。
黒いローブに覆われた身体が肥大化する。全身から影のように暗い茨が突き出し、脊椎部分から凶暴なスパイクが飛び出す。手足は長くたくましく発達しその先には猛獣のように鋭いツメが伸びた。背中から垂れたマントのような影で半身を覆うその姿は周囲の白い雪原に映え、まさしく影から生まれた茨のようだ。
この姿を見た人間はきまって化け物、魔物とさげすみ石を投げる。そうでなかったのは異形に理解のあったエリアスの師匠だけだ。はたしてチセは――
「ありがとうございます。エリアス」
笑っていた。
スレイベガの魔力と闘気が雪原を揺らす。物理的な熱さえ持ったそれは降りしきる雪を溶かし、チセを中心に蒸気のドームが形成される。
エリアスが組手の最中何かを隠しているのは分かっていた。当初はそれを隠し玉として温存しているのだろうと見ていたものの、何度ピンチに追い込んでも、死亡寸前までダメージを与えても使う気配のないことから、何か精神的な理由で見せてくれないのだと結論した。しかし嫁として隠し事をされるのは気分が悪いので、プレゼントの名目で強引にお願いしてみたのは正解だった。
影と茨に獣の意志を与えたようなエリアスは、どうしようもなく美しい。強者を前に微笑を浮かべる癖のあるチセが満面の笑みとなるほどに。
『君も……本当の姿を……見せてくれないか』
「え?」
構えをとったチセに、エリアスは低くくぐもった声をかけるが、チセには言っている意味が分からない。
「私は私です。さあ、もう言葉はいらないでしょう」
『……』
もう待ちきれないとばかり、水蒸気の幕を突っ切ってチセが駆けだす。エリアスは無言のまま茨で迎撃を開始し、一年前の再戦が幕を開けた。
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チセとエリアスの戦いは毎回チセが距離を詰めるところから始まる。それはエリアスが本当の姿を見せた今回も変わらず、エリアスはチセが接近するのを茨の弾幕で妨げ、チセはどうにか懐に潜り込もうとステップを刻む。
この一年で幾度となく繰り返したやり取りだが、二人の間にマンネリ化したような緩んだ認識はなく、むしろこれまでとは比較にならないほど張りつめた空気が漂っていた。お互いに相手の動きの癖を理解しているためいかに相手の意表をつき戦局を自分の有利に持っていくか、水面下で深い読み合いが行われているのだ。
エリアスの太い茨がチセの正面に迫る。チセはステップを止め回避のそぶりも見せずその茨の接近を待った。すると茨は二つに裂け、チセの左右を塞ぐように展開する。間髪入れず裂けた太い茨の後ろから細い茨が地を這うようにチセの足もとへ接近するが、読みきったチセはその茨を足で踏み抜き無力化した。
裂ける茨を利用した、エリアスの得意とする攻め筋の一つだ。初見では太い茨に気を取られ足もとの茨に気づかなかったが、エリアスからのプレゼント戦闘という状況もあいまって集中力の高まったチセにはもう通じない。高速のステップで前進した。
一方のエリアスは一手ごとに気の抜けない戦局に歯噛みする思いだった。チセは腕を媒介にして莫大な魔力を吸収する手段があるので、下手に茨を放つと敵に塩を送ってしまうだけでなく、弾幕に穴が開いて一気に近づかれる危険がある。たとえ牽制といえどチセが腕を振るいにくい位置に、本命は必ずブラフに紛れ込ませて速度重視で仕掛けなければならない。
お互いに大きな動きもなく、一年間で培ってきた読み合いの能力をフルに使っておよそ二十分――戦局が動いた。
エリアスが牽制の細い茨をチセの太ももに向けて放つ。避けられることを前提として瞬時に数十通りの回避パターンをシミュレートし、それぞれの状況における最善手を並列して弾き出していく。
『なに!?』
だがチセはエリアスの予測を裏切った。今までの傾向からすると確実に回避していたはずのその牽制に被弾したのである。
黒いタイツに包まれた太ももを細い茨が突き抜け、白い雪原に鮮血が散る。茨はチセが振り払うように振るった腕に食われ濃密なエリアスの魔力がチセの身体を満たす。この時すでに二人の間の距離は十メートル――チセは一歩でその距離をゼロにした。
「スレイベガ神拳一之奥義――」
(そうか、チセ。君はそんなにも僕のことを……)
自身の懐で今にも奥義を発動させようとしているチセを見下ろしながら、エリアスは胸の内に得も言われぬ喜びが満ちていくのを感じていた。
チセはかつて単独で多数の異形を相手取っていた経験から、継戦能力に直接影響のある部位を確実に守る傾向がある。各部の急所はもちろん、攻撃力と機動力に関わる二の腕や太ももも防御の対象であり、だからこそエリアスは先の一撃を回避しないとは予想だにできなかった。
しかしエリアスの心に去来するのは読み合いに負けた悔しさではなく喜び。チセが継戦に重要な部位である太ももを捨ててまで、がむしゃらに向き合ってくれていること、後先を考えず全力で向かってきてくれることに、身を焦がす喜びを感じている。
(これが、『嬉しい』なのか)
「破魔の槌!」
チセの両手のひらによる掌打がエリアスの腹に突き刺さった。チセとエリアスの魔力が体内を破壊して回り、エリアスが生まれて初めて自覚した『嬉しい』という感情を苦痛で増幅させていく。
『く……っ!』
苦悶の声を上げながらもエリアスはダメージを受け切った。三メートル超えの巨体は深い積雪を削り取って後退し、チセへ視線を戻す。
「もらった!」
チセは正面から一直線に駆ける。破魔の槌は威力こそ全奥義中最低だが、スレイベガ神拳の神髄をもっとも忠実に体現した最初の奥義。エリアスの魔力生産器官は破壊され、遠距離攻撃は打てないと見たゆえの正面突貫だ。
右こぶしに力を籠め、地面を砕く勢いで踏み抜いて前へ飛ぼうとするチセ――が、山籠もりで培った野性の勘が激しく警鐘を鳴らし、反射的に後ろへと飛ぶ。
その行動は正解だった。エリアスの影から視界を埋め尽くさんばかりの茨が飛び出したからである。もし前に進んでいればチセはめった刺しになっていただろう。
『君に何度、魔力の生産器官を壊されたと思っている。もうその奥義は通じない』
「ここ一番で奥義やぶりとは……やってくれますね、エリアス」
魔力の生産器官は筋肉のようなものだ。鍛えれば鍛えるほど、傷つけば傷つくほど強く頑強になっていく。チセがエリアスに研究のための魔力を譲渡する際、加減を間違えエリアスの生産器官が破壊されることが何度かあったが、生産器官はそのたびに超回復する筋肉のように容量を増していたのだろう。
必殺の奥義を破られたチセは苦々し気に言いつつ穏やかな微笑は崩さない。
しばしのにらみ合いののちチセが動き出し、またもや距離の詰め合いが始まる――かに思われた。
「なんのつもりですか?」
壁のように密集したエリアスの茨がチセの正面から迫る。鋭い棘に満ちた茨の壁が押し寄せる様は常人なら絶望する光景だが、チセはスレイベガだ。いかに巨大とはいえ魔力の塊である以上、無尽蔵の魔力貯蔵庫に吸収できる。
先ほどの繊細な読み合いから一転、大雑把な攻めに踏み切ったエリアスの意図が読めない。とはいえ吸収しなければダメージを負うのは間違いない。
腹をくくったチセが両腕をふるう。茨の壁に穴が空き大量の魔力がチセの身体に宿った。
はたしてエリアスはそんなチセを見つめながら余裕の体でたたずんでおり、両者は再び距離を置いて向かい合う。
『影にイラクサ。ヒイラギの輪』
「……? ガハッ!?」
間を置かずエリアスが魔法使いの呪文を唱えると、チセの両腕から破裂したように鮮血がほとばしった。皮膚の下から細く、しかし無数の鋭利な棘を表面に持つ茨が飛び出している。エリアスの茨がチセの体内から突き出したのだ。
『僕の魔力を種、君の魔力を養分として成長する茨だ。チセの能力のためだけに開発した魔法だよ』
「ふふっ、それはありがたいですね……!」
激痛と急激な出血による立ちくらみを根性で抑え、エリアスの茨に犯された魔力を排出し茨を手づかみで引きずりだす。その間に今度はエリアスの方から距離を詰めてきていた。
『オオオォっ!』
突進の勢いを殺さず両の爪でチセに切りかかる。茨の処置を乱暴に済ましたチセは手刀を巧みに振るいエリアスの爪と切り結ぶ。雪原に金属音が響くたびエリアスの爪から火花が散った。
先ほどの茨の壁のように大規模な魔法を使えるのに加え巨体と鋭い爪を活かした接近戦もこなせるのが、エリアスのこの形態での強みだ。いくらチセといえど出血で力で落ちている今なら体格差で一気に押し切れるとエリアスは踏んだ。
しかしその判断は悪手だった。この程度のダメージで動きが鈍るようではチセは今頃生きてはいない。
二十、三十と打ち合い、チセの動きよりもエリアスの爪の方に限界が近づく。しびれを切らしたエリアスは一度距離をとって仕切りなおすため両の爪を使った強力な一撃を打ち下ろす。
それを待っていたかのようにチセはよどみなく動いた。エリアスの爪の隙間に指を這わせ正面から四つ手で組み合う形に持っていく。
『馬鹿な……!?』
三メートル以上もの巨体に上から全体重をかけられているにもかかわらず、チセの身体は山のように動かない。
「破ァ!」
チセの気合一発、エリアスの巨体が浮き上がった。そのまま真横に力を籠め、エリアスの両手をドラゴンの顎がごとき握力で握り込んだまま豪快なジャイアントスイングを敢行する。エリアスは手を離すこともできず、莫大な遠心力により身動き一つとれない。
スイングの締めは投げ技だ。ただし力のベクトルに従った横方向ではなく、力技で軌道を捻じ曲げた真上である。強引な軌道変更の過負荷を受けたエリアスの両腕、両肩からゴキリと骨の砕ける音が響く。
乱回転しながら空中を舞うエリアスには上下左右すら分からず、地上で力を溜めて待ち構えているチセに対処する余裕もない。チセは落下してきたエリアスの頭部に正拳突きをめり込ませ――エリアスの身体が空を駆けた。
「懐かしいですね、エリアス」
エリアスが吹き飛び、チセが追いかけた先は冬の林。くしくも一年前チセが追い詰めたのと同じ場所だ。
裸の木立にぐったりと寄りかかったエリアスに、ふらふらとチセが近づいていく。
「あの時もこうでした。私が立って、あなたが倒れて。今回も私の勝ちです」
「……それは違うよ。僕はもう動けないけど、チセも僕にとどめを刺す力はないだろう?」
「じゃあ……引き分け、でしょうか」
魔力の器官は健在だが肉体のダメージが深刻なエリアス。肉体のダメージはともかく出血により力の出ないチセ。このまま続けても泥仕合になるのは目に見えていた。エリアスはそうだねと首肯を返し――林の一方向にさっと顔を向ける。
チセも同じ方向を振り返り、苦笑いを漏らした。
「せっかくあの時と違う結果になったのに、横やりだけは同じなんですね」
「みたいだね――で、何の用だ、灰の目」
エリアスが灰の目と呼びかけた先には一つのひょろ長い人影があった。異国風のゆったりとしたローブに身を包み、四本指の腕を二対四本、フードの下に覗く三つの目は三日月型ににんまりと歪んでいる。
この人物こそが、ヨセフとの戦いの際エリアスを足止めし、エリアスがもっとも接触を警戒していた、数千年を生きる古い生き物、灰の目であった。
「なあに、簡単なことよ。当代の愛し仔、チセ・ハトリ。貴様好みの遊びを用意した。一つ付き合ってみんか?」
---
エリアスにとっての灰の目とは悪質な愉快犯だ。昔からふらりと前触れもなく現れては好き勝手に状況をかき乱して煙のように消える。ヨセフよりも長くを生きている強力な幻想の生き物なため捕まえるのも排除するのも難しいのだからタチが悪い。ヨセフの一件では面白そうな余興を邪魔させないなどと言って、チセに助太刀しようとしたエリアスを徹底的に足止めした。
つまり灰の目は、謎が多く強い邪魔者というわけだ。
(なぜ……)
だがエリアスの目前の光景はそんな灰の目の存在よりもひと際謎めいていた。
(なぜ……ボクシングなんだ?)
灰の目の謎パワーにより雪の払われた六メートル四方の地面。四隅にはエリアスの力で作られたコーナーポストが立ち、その間に茨のロープが張られリングを形成している。スパイクだらけのロープとポストはプロレスの有刺鉄線デスマッチを思わせるが、灰の目の要求により作られたこの空間はボクシングリングである。
「シッ、シッ」
リング内ではチセがシャドーを行っている。セミロングの赤髪を後ろでまとめサラシとショートパンツ、赤いボクシンググローブ以外を脱ぎ捨てた軽装。エリアスとの戦闘で負った怪我は鍛えられたスレイベガボディの回復能力でふさがり、魔力で増幅された造血能力がリアルタイムで足りない血を補っている。キレのあるワンツーパンチからは疲労感よりも濃厚な闘気がにじみ出ていた。太ももを貫かれた影響かフットワークだけは平時よりも鈍いが、六メートル四方の狭い空間を駆けるにはむしろちょうどいいリミッターだろう。
対面のコーナーポストには、四本の長い腕に青のグローブをはめた灰の目が威風堂々とたたずんでいる。異国風のローブとフードはそのままでリングに上がっているものの異物感はなく、むしろ歴戦のボクサーを思わせる自然体でリングの空気に溶け込んでいた。
リング中央には灰の目がどこかから引っ張ってきたという人間の少女が不安げに視線をさまよわせている。彼女の手にしたハンマーとゴングからも分かるように、レフェリーの役目を負っている。
訳が分からなかった。
灰の目が遊びと称した暇つぶしを一方的に他者へ押し付けることは何度かあった。しかし今回のように、よりにもよって殴り合いを得意とするチセ相手にボクシングを持ち掛ける意図が読めない。
「チセ。君と僕なら逃げるのは簡単だ。ここは一旦引いて日を改めないか?」
「たとえ遊びといえど、目前の勝負から逃げては乙女の名折れ。きっちり勝ってきますよ。それよりそのコート、絶対なくさないでくださいね」
「これ? そんなに大切なものだったかな」
チセから預かったコートを腕にかけたエリアスはそう聞くものの、チセは「そうです」と妙にぶっきらぼうに言って話を切った。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
アップを済ませ全身から熱気をほとばしらせるチセを見送る。
リング中央、レフェリーの少女を間にはさんでチセと灰の目が向かい合った。喜悦に細められる灰の目の三つ目をチセが下からにらみ上げる。
「ラウンド、TKOはない。一方のテンカウント、三度のダウン、死をもって勝敗を決する。反則打はペナルティとしてダウン一回と数える」
「ちょ、死って――」
「よいな、レフェリー」
灰の目の簡潔極まるルール説明にレフェリーが声をあげるが、灰の目とチセ双方によるにらみを受けこわごわと頷き、小さな体をロープの間に潜り込ませリングの外へ出た。
チセと灰の目が構えをとる。お互いに突き出した左拳を軽く突き合わせ――高らかにゴングが鳴った。
灰の目がボクシングをたしなんでいるイメージはない。当然殴り合いの名手であるチセにかなうはずもないので、おそらく灰の目のたくらみは勝敗にはないのだろう。
そうしたエリアスの予想は、ゴングの直後に覆されることとなった。
「シュッ!」
「……!」
灰の目の長い二本の左腕が独特の軌道でチセの顔面を打ち据える。突っ込もうとした出ばなを同時に二発のパンチでくじかれたチセがたたらを踏む。
ガードを固めて体を縮めるチセのピーカブースタイルに対し、灰の目は左腕のガードを下げ、振り子のように左右へ揺らしながらリズムを刻んでいる。それはヒットマンスタイルと呼ばれる、長身と長いリーチを持つ選手に最適な構えだった。ガードを上げたオーソドックスな構えに比べ、下からスナップを利かせて飛んでくるフリッカージャブを強みとする。
灰の目の体格に合った自然体のヒットマンスタイル、絶えずリズムをとるキレたフットワーク、素早くしなりの効いた理想的なフリッカージャブ――その様はどう見ても熟練のボクサーであった。
チセは固いガードの下から様子をうかがう。灰の目のフリッカーが唸る。鞭を打つような打撃音と両者のフットワークの音だけが静かな森に響く。
(チセの動きがおとなしい。これは一体……)
いつになく消極的な様子のチセにエリアスが違和感を覚え始めたころ、状況が変化した。
多数のフリッカージャブでチセのリズムと距離感をつかんだ灰の目は、ジャブを散漫に放ちながらおもむろに距離を詰める。チセの間合いにかろうじて入ろうかという際どい位置で、温存していた二本の右腕に力がこもった。
テンプルを狙った上段へのフック。難なくガードでやり過ごしたチセだが――
「チセ!」
エリアスが思わず声を上げる。フックとまったく同時に放たれたボディーブローがチセの胴体に直撃したからだ。
灰の目は四本の腕を持つため、ボクシングのセオリーである上下への打ち分けを完全に同じタイミングでやってのける。ボディをかばえば頭に、頭をかばえばボディに当たる。さらにフリッカージャブの圧力も単純に二倍となり、一つを回避した先にもう一つの拳を置いておく戦術も可能。チセが先ほどから攻めあぐねているのもこの巧みなジャブ打ちがあるからだ。
長身を活かしたヒットマンスタイルと、四本腕という身体的特徴をフルに使った打ち分け。対するチセは成長期に山籠もりしたことで発育が悪く身長もリーチも体重もない。種族的な能力としてチセにも常時無意識に展開される魔力障壁、スレイベガフィールドはあるが、古い生き物である灰の目の拳を防ぐには出力があまりにも足りない。両者の間には圧倒的な種族差が横たわっていた。
だが、こうした埋めがたい差を力づくで乗り越えるため産み出されたのが必殺の拳、スレイベガ神拳だ。魔力による内部破壊と外部破壊のコンビネーション、膨大な魔力解放で壊滅的威力を実現する四十八の奥義は、灰の目のアドバンテージを潰すに十分な力がある。
しかし次の瞬間、雷に打たれたような衝撃がエリアスを打つ。
(そうか、だから灰の目はボクシングを選んだんだ!)
エリアスの聡明な頭脳が灰の目の意図を暴き出す。チセの背中越しに見える灰の目の三日月型の目がエリアスを一瞥しにんまりと歪んだ。
チセはリング上でスレイベガ神拳を使うことができないのだ。
魔力を凶器として運用し基礎の格闘攻撃を必殺に高めるスレイベガ神拳は、純粋な拳のみを是とするボクシングでは間違いなく黒、拳の内に石を握り込むのに等しい禁じ手だ。レフェリーの少女にそれを見抜く力があるとは思えないが、矜持を重んじるチセが一度上がった相手の土俵の上でそんな手に頼ることはありえない。不利な勝負になると分かっていようと殴り合いの戦いから逃げるような思考もない。
つまり、これこそが究極の神拳封じ。灰の目はチセの性格と誇り、スレイベガ神拳の特性を利用し、チセの強みを潰すための遊びとしてボクシングを選んだのである。
「ダウン! ニュートラルコーナーへ!」
はっとしてエリアスがリング上に意識を戻すと、しりもちをついたチセがカウントをとられている。倒れ方からしてダメージではなくスリップによるものだろう。七カウントまで休んだ後、すぐに立ち上がってファイティングポーズをとる。
そのとたんニュートラルコーナーから飛び出してきた灰の目がフリッカーを放ち、レフェリーは大慌てでリングの外へ。灰の目の二倍フリッカージャブをチセが受ける構図が繰り返される。
たとえスレイベガ神拳を使えずともチセには山籠もりで底上げした高い身体能力と、実戦で培った勝負勘がある。しかしそれを十全に発揮するのは何でもありの殺し合い、殴り合いの場だ。それに対しボクシングは磨いた身体と技術をぶつけあう純粋なスポーツである。なぜか超一流のボクサーと化した灰の目に対抗するには同じくボクシングの技術が必要になる。
「ダウン! ワン、ツー!」
「チセ……」
身体能力に任せた我流で一流のボクサーに至っているチセも、超一流には分が悪い。ガード越しの衝撃と積み重なったボディブローのダメージにより、膝をついてダウンをとられる。
スナップを利かせたフリッカーに何度も打たれたことにより両腕には鞭に打たれたような跡が、ボディは肋骨にヒビが入っているのか変色している。
技術、身体的アドバンテージ、ボクサーとしての実力――すべてを上回る強敵を前にしてもチセの表情からは笑みが消えない。呼吸のたびに痛むボディも、徐々に重くなっていく身体も、突破口の見えない戦局も、チセの精神を折るには足らないのだ。
「チセぇ!」
その代わりに折れたものがあった。エリアスの心である。
めったに上げない大声をエリアスが吼えたことで、チセはもちろん灰の目も、レフェリーでさえエリアスに注目する。
「立て、立つんだチセ! そんなやつ早く吹っ飛ばして、僕のところに戻ってこい!」
エリアス自身、自分が何を言っているのか分かっていない。それでもチセが微笑を向ける相手が自分でないことに対し、心にひびを入れるような強いしめつけを感じたのだ。
「長く、長くこの世を過ごして……僕だけを見てくれるのは、君だけだったんだ」
妖精でも人間でもない半端者として過ごした数百年の時がエリアスの脳裏をよぎる。
半端ななりを憐れむ者がいた。出来損ないとさげすむものがいた。
エリアスを受け入れ生き方を教えてくれた魔法使いがいた。その隣にはエリアスでない別の生き物があった。
エリアスの頭をはく製みたいでかっこいいと言ってくれた男がいた。その隣にはエリアスでない別の生き物があった。
エリアスを監視するうさんくさい教会の男がいた。その後ろにはエリアスでない別の帰る場所があった。
『エリアス、乙女の裸を軽々しく覗いたらダメです。今度やったらツノを折ります』
嫁なんだからいいだろうと風呂の扉を開けると、冷たい目でツノを折られかけた。チセの瞳にはエリアスだけが映っている。
『エリアスはすごいですね。本気で殺そうとしてるのに、いつもギリギリで逃げられちゃいます』
何度目かの組手で笑いながら賞賛された。チセの殺意はエリアスだけに向いている。扱いを間違ったときの抗議のローキックも、乙女心を解しない行動への制裁拳も、今朝の卑劣な不意打ちへの迎撃も、すべてがエリアスだけに向けられていた。
「君が……君が僕でない誰かに殺意を向けている……それは、とても嫌だ! だから早く帰ってこい! 君が強さの果てに求めたものは僕なんだ! 君が殺そうとするのは僕だけでいいんだ!」
「エリアス……」
「レフェリー、カウント」
エリアスの心の叫びを受けたチセは呆然と、ゆっくり咀嚼するように言葉をかみしめる。
一方、別の意味で唖然としていたレフェリーがカウントを中断していたが、灰の目に注意されようやくカウントが再開した。
すぐさまファイティングポーズをとって続行の意志を示すチセ。その瞳には逆境を糧に燃え上がる炎とは別に、答えを見つけたようなすがすがしい光がともっている。
「あなたの前で、これ以上不様は見せられませんね」
依然としてチセの圧倒的不利は変わらないが、絶望的な空気は払しょくされチセとエリアスとの間に晴れやかな雰囲気が漂っている。ニュートラルコーナーから歩み出た灰の目は「ふん」といらだちまじりの嘲笑を漏らした。
(互いに求め合う番を見るも一興。しかしつまらん)
灰の目は人が心動く様を見るのを生きがいとしていた。喜びも悲しみも、苦しみも悲しみも等しく好物であり、心の振れ幅が大きいほど好ましい。
そんな灰の目にとって最大の見世物となりえたのが当代のスレイベガ、チセ・ハトリだった。独自の精神的成長を経て鍛え上げられたチセの心は、数々の霊峰に初めて登頂した修験者たちや悟りを拓いた仙人のごとき高次元に達している。そして強固に高く積み上げられた精神ほど崩れた際のカタルシスはすさまじいものだ。
幸いチセの精神を崩す方法ははっきりしていた。もっとも得意とする殴り合いの土俵で打ち負かし矜持を砕けばいいのだ。
とはいえまともに正面からかかっても意味不明な拳法で返り討ちとなるのは明白。であれば、殴り合いの体を保ちつつ例の拳法を使わせない場を用意すればいい。
それをボクシングと決めてからは早い。灰の目は地道にボクシングの技術を学習していき、時折ヨセフとのスパーリングを交えて着実に力を高め、灰の目流ヒットマンスタイルとも呼ぶべき四本腕戦法を開発するに至る。さすがに数千年を生きる強力な生き物なだけあって基礎的な能力が高く、わずか三年のトレーニングで超一流の実力を身につけた。
そうした努力の集大成が今日だった。チセの絶望する表情を肴に最高の愉悦に浸る。そのたくらみはおおむね上手くいき、三年の努力が実るかに思われた。
しかし今のチセの表情はどうだ。エリアスとの戦いでの疲労に加え、灰の目が与えたダメージにもひるまず爛々と緑の瞳を輝かせる様には、諦念や絶望の欠片もない。たとえもう一度ダウンさせ完全敗北させたとしても、リベンジに向けて燃えるだけだろう。今のチセは強さの果てにあるものを見つけただけでなく、帰る場所を得ているのだから。
もちろん灰の目はこんな展開を認めない。愉悦を得られない状況なら自ら作り出すのみ。三つの目がニタリと笑う。
灰の目の真横の空間に暗黒の穴があいた。警戒するチセをよそに手を突っ込んで何かを引きずり出し、見せつけるように掲げる。それはメガネをかけた小さな男の子だった。灰の目に首根っこをつかまれ、ぐったりとしている。
最初に口を開いのはレフェリーの少女だ。
「返して! 私の弟よ!」
「もう弟ではないだろう。元姉上様よ」
「どういうことです?」
灰の目はニタニタと実に楽し気に笑っている。
「なあに、勝負に賭けるものがお互い矜持のみではやはりつまらんと思うてな。一つこの幼子を賭けてみるのはどうだ」
「何言ってるのよ! レフェリーをやったら返してくれる約束でしょ!」
「考えてやるとは言ったが返すとは言っとらんなぁ。元より我はいらんと言われた幼子を拾ったにすぎん。拾ったものをどう扱おうと勝手よ」
「そんな……!」
チセに絶望を与える新たな一手。それは他者の大切にしているものをチセの勝利に賭けることで、負けの衝撃を大きくすることだった。レフェリー役を調達するために口げんかの言葉尻をとらえてたまたま攫ってきた姉弟だったが、思わぬところで役に立った。
それにチセはかつて、異形たちから間接的、直接的な害を受けたことで家族のつながりを奪われたトラウマがある。目の前でそのころの経験を思わせる姉弟を見せつければ精神が揺れるのは間違いない。その揺れこそが灰の目の求めるものだ。
相手の心と過去のトラウマを利用した最大限の精神攻撃――灰の目の行動は心を揺さぶる一手として最善手といえる。
ただ、この場においてはこれより下がないほどの救いようのない最悪手であった。
(スレイベガフィールドが消えた……? 何のつもりだ?)
チセの変化は緩やかに始まった。
スレイベガの体質が自動で展開している障壁、スレイベガフィールドが消滅する。これで灰の目の攻撃は一切軽減されずチセにダメージを与えられるようになった。
「チセ!?」
「なんと」
その意図を察する暇もなくチセは変貌していく。後ろで髪をまとめていた髪紐がはじけ飛び、赤毛が逆立つ。眼力は物理的な力を帯びたようにプレッシャーを増し、驚愕の声を漏らす灰の目を一歩後退させる。
「あなたは、昔のあいつらと同じです。勝手な理由で人に近づいて、面白半分に大切な人を奪おうとする」
静かに言葉を紡ぐチセの心に乱れはない。一つのどす黒い感情がムラなく隅々までチセの内側を塗りつぶしていく。
チセの過去を利用した灰の目の精神攻撃は確かに効果があった。一つ間違いがあったとすれば、異形たちに家族のつながりを奪われた経験はチセにとってトラウマではなく、今の己を形成した原風景である点だ。
それはチセが武に目覚め、感謝の心を覚えるよりも前の怨念にも似た強い情念――殺意の波動の源泉である。
ゴウ、とチセの身体から黒い炎が爆発的に燃え上がる。心の奥底に封じ込めていた、感謝の念も武への探究心も含まない純粋な原初の波動だ。その純度はヨセフを屠ったときの比ではない。
殺意の波動がかつてのチセを呼び覚ます。夕日のように赤い髪は渇いた血を思わせるダークレッドに変じ、スレイベガフィールドに隠れていた無数の古傷が全身に浮かび上がる。
「あの模様は一体……?」
リングサイドでその様を見ていたエリアスには、チセの背中に浮かび上がった古傷が特定の規則をもって並んでいるように見えた。もし日本語に明るい人物がいれば、その傷跡を見て一つの文字を読み取っただろう。
『滅』
すべてを壊し、奪い、喰らい、滅する。強い情念を文字として背負ったチセは、かろうじて残った理性を総動員し、目前の異形たる灰の目に宣告した。
「All neighbours MUST perish.(異形、悉く死すべし)」
それを機に理性が消える。全脚力をこめて地面を踏み抜きなんの工夫もなく灰の目へ詰め寄った。ガードや構えは存在せず、もっとも拳をふるいやすい位置に両の手を置き、飢えた虎のように突進する。
「愚かな」
灰の目はすぐさま迎撃を開始した。ノーガードのチセの顎と顔面を狙いフリッカーを放つ。チセの突進の勢いも相まって強力なカウンターとなり、アゴへの一撃が脳を揺さぶってダウンをとれるだろうと判断したのだ。
しかしその見立ては人を相手にした場合を前提としている。灰の目が今相対しているのは異形を屠る獣。ボクシングの技術は通用しない。
「くっ!?」
二発のフリッカージャブが弾き飛ばされ、灰の目の左半身がのけぞり、一拍遅れて耳をつんざく破裂音が響く。チセがフリッカージャブ二つに対し瞬時に両こぶしを正面からぶつけて弾いたのだ。軌道の読みづらいフリッカーであろうと、野生の勘を全開にしているチセに読めない攻撃はない。
懐に潜り込んだチセに灰の目の右こぶし二つが迫る。
一発は上から振り下ろしの一撃。もう一発は横からアゴを刈り取る鋭いフックだ。回避も防御も困難な灰の目流コンビネーションに対し、チセはもっとも攻撃的な選択肢を選び取る。
「ウオオッ!」
打ち下ろしの右に対し自ら顔をぶつけにいく。灰の目の右腕は中途半端に曲がったままチセの額を打つ。パンチの威力が最大化するのは腕の伸び切った瞬間のため、固い額で受けたチセのダメージは最小限だ。
同時に迫っていた右フックに対しては、左のガードによるブロックを選択した。
「ぐああっ!?」
ただし肘鉄によるエルボーブロックだ。灰の目の拳がチセの肘により砕け散り、グローブの隙間から飛び散る異形の血がチセの髪にしみ込む。
灰の目が苦悶の声を上げスキをさらしたのはほんの一秒にも満たない時間だったが、チセにはそれだけで十分だった。
地面を踏みしめ、腰のひねりを利かせて左のボディブローを叩き込む。鉄拳が灰の目のリバーにめり込み身体がくの字に折れる。
頭を下げたままたまらず後退しようとする灰の目にダッキングを交えて距離を詰め、ちょうどいい位置にあった頭部を下から上へとアッパーがかちあげる。
暴風に引っこ抜かれた大樹のように飛び上がった灰の目を前に、すかさずチセはウィービング、身体をふる動作に入った。
本来相手の的を散らす目的のあるウィービングだが、無限の字の軌道を描いて振り子のように勢いよく身体を振るチセの意図は防御にない。
デンプシー・ロール。チセの知識の中でもっとも効率的に相手を壊す必殺ブローである。ウィービングの振り子運動で威力の増したチセのダイナマイトパンチが左右から灰の目の頭部へ降り注ぐ。パンチ一発ごとに力なく揺れる灰の目の身体だが、チセの低身長が下からつきあげるように灰の目の身体を浮き上がらせダウンを許さない。徐々に前進してコーナーポストまで移動していく。
グロッキーの灰の目は痛みも感じず状況も把握できず、ただただかつてない動揺を見せる自分の心に困惑していた。
(この湧き起る感情は――恐怖か。馬鹿な、なぜ私が……)
灰の目たち幻想に生きる異形は原則として消滅しない。星が生まれたころから彼らの原形となるエネルギーは存在し、それに暗がりを恐れる人の心が肉付けしたのが彼らだ。一度消えても人がいる限り完全な消滅はないため、死の恐怖もない。
だがチセの拳だけは例外だ。異形の存在を拒絶し、滅することのできる殺意の波動で屠られた異形たちは、二度と蘇らずチセの糧となる。その能力は星のエネルギー総量を食らう特性を持っており、ついた異名が『星殺し』。最強最悪の称号を裏打ちするその能力は灰の目の不滅性さえ容易に喰らう。
この能力があるからこそ、学院や教会はチセの居場所が知れた後もエリアスのもとを訪れなかった。下手に殺意の波動に触れれば火傷では済まないため、エリアスに管理を丸投げしているのだ。
絶え間ない左右の連打が止まる。
(いつからだ)
コーナーポストにもたれかかり、ずるずると下へ落ちて行く灰の目を睨みながらチセが問う。
(逃げ惑う異形どもに、憐れみを覚えるようになったのは)
右こぶしを思い切り後ろへ引き絞り、グローブを引き裂きかねない握力で握り込む。
(いつからだ)
全身の筋肉をひねり必殺の一撃の準備が整った。
(敵意なき異形を殺す己に、疑念を抱くようになったのは)
拳に宿るは、チセを生かした殺意の波動。世界に巣食うすべての異形に対する至純の怨念。
(そんなんじゃ、ないだろ。私を導く、武の原点は――!)
「塵と共に――」
魔力とは違う、人間に宿った純粋な波動の力を鉄拳に込め、
「滅せよォォ!!」
気合とともに放たれる右ストレート。ぐしゃりと頭蓋の砕ける音とともに、殺意の波動が灰の目の身体を壊し、奪い、喰らい、滅していく。チセの拳とエリアスの茨のコーナーポストにはさまれた灰の目はやがて、言葉通りに塵と化した。
だがそれがどうしたというのか。生きている限り闘争は続く。目前の異形が消えたなら次の異形を求めるのみ。
ゆらりとリング上を見渡すチセ。リングに投げ出された弟を介抱していた、レフェリーの少女と目が合う。少女は瞬く間に顔を青くして卒倒した。
あれは人間だ、死合う価値もない――と断じたチセは、背後に現れた強大な異形の気配に目を見開き、犬歯をむき出しにして振り返った。握り締めた拳を振り向きざまにふるう。
その一撃は気配の主に違わず命中し、チセの表情に獰猛な笑みが浮かぶ。
「いい、パンチだ。的確で……芯に響く……!」
「あ……」
が、気配の主――エリアスの額にめり込み小さなヒビを入れている自身の拳を視認すると、チセの表情から険が消える。
「エリ……アス……」
「君の勝ちだ。おかえり、チセ」
それは、チセの拳を受けてもしぶとく生き残ってきた好敵手。乙女心を解さない困りものでありながら、チセと婚姻の結びを交わした大切な異形。
「ただいまです、エリアス」
万感の思いを込め名を呼んだ。髪は赤へ、古傷が消え靄のかかった思考はクリアになる。
いつの間にか雪はやみ、リングは消えていた。
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月の光に照らされたリング跡地で、チセとエリアスが向かい合う。常に堂々と胸を張っているチセには珍しいことに、気まずげにエリアスから顔をそらしていた。
「その、隠していたわけじゃないんです。私もほとんど忘れかけてましたし、意識的になれるものでもないので……」
「構わないさ。でも、僕はあのチセも好きだ。ひたむきで一途な君らしい」
「……ありがとうございます」
殺意の波動に目覚めたチセの真の姿について、率直な感想を告げるエリアス。チセは歯切れ悪くごにょごにょと返答する。
その空気を誤魔化すようにそそくさと、エリアスの腕から血まみれのコートをひったくった。チセの血だけでなく土の汚れや茨で穿たれた穴だらけの惨状をさらしており、どう修繕しても使い物にはならないだろう。
「そのコート、そんなに大切なものだったのかい?」
「違いますよ。だったら戦いの日に着てきたりしません。大切なのは中身です」
「中身?」
チセはコートの胸の部分、着たとき心臓に位置する内ポケットに手を入れた。その周辺だけは傷も血痕もついていない。
そして取り出したのは二つの指輪だった。チセの瞳の色に近い翡翠色の表面に、どす黒い炎のような波動の文様が浮かび上がっている。チセがこの日のプレゼント交換のために魔力結晶を加工してこしらえた力作である。
「チセ、これは?」
「……」
何も言わずエリアスの左手をとり、薬指にはめる。次に自身の指へはめながら、一年間のエリアスとの語らいを振り返った。
幾度となく繰り返した組手のうち、本気で殺そうとしなかったことは一度もなかった。戦うたびに成長するエリアスも数多の異形たちと同じように、その内あっけなく斃れ自分はまた一人強さの果てを目指すことになると考えていた。
それが今や一年。この人が相手なら、形だけではない本当のお嫁さんになってもいいかもしれない、とチセに思わせるのに十分な時間である。
ぼんやりとしたその思いは今朝がたのエリアスの奇行で輪郭をとり、お互いに本当の姿を見せあった今、くっきりとチセの心に浮き彫りとなった。
静寂が満ちる。
形を得た思いをお互いの左手薬指にはめた二人は、緩やかに身を寄せ合う。
「その格好じゃ、寒いだろう」
「……ありがとうございます」
冬の寒さの中いまだに薄着のチセに、エリアスがローブを羽織らせた。
「月がきれいですね」
「そうだね」
チセの言葉を受け天を仰ぐエリアス。
雲一つない晴れやかな冬空には、にんまりとした弧を描く三日月が浮かび上がり、抱き合う異形と少女を皓々と照らし出していた。
やるだけやったネタの詰め合わせその3。最新話を黙して待つもどかしさを慰めるssが書きたかった。
キリもいいので完結で。学院編を大人しく待ちます。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。