いつからだろう、夢を聞かれると困るようなったのは
一番古い記憶にあるのは小学校1年の時だ。よくある、夢について書く作文。俺はなんて書いたか思い出してみる。たしかサッカー選手か野球選手だった。
そのころ俺はサッカーチームと野球チームに入っていた。とはいってもまだまだ遊びの延長のようなものだったが、その事もあり俺はそう書いたのだろう。
よくこのような話をすると子供の時は本気でなれると思っていたと言う人がいる。ここで指す子供とはいつのことだろうか? 20になるまで? いやいや流石にそれはない。じゃあ小学校まで? 少無くとも俺は小学校1年のこの時ですら本気でなれるとは思っていなかった。
みんなが書いているものだったから混じっただけだ。きっと大人がいう子供の時というのは本当に短いものなのだろう。
中学校、高校に進んで行くと夢というのは聞かれなくなる。
次はどんな職に就きたいか? どんな大人になりたいか?
そんな話になる。ここでまだ野球選手などと言う者は後で職員室にでも呼ばれ真面目に書きなさいと怒られるのだ。
ずっと疑問に思って来た。物心ついたすぐの頃にはきっとお前はアレになれるな! これにもなれるかもな! それもいいかもしれない!
そんな風に夢を広げるだけ広げる。しかしその後はいつまでも夢に縋っていれば叱られ怒られ蔑まれる。
別に俺は夢なんて呼べるものは無かったしそれなりに堅実に生きているつもりだ。ただこの社会というものがよく分からない、ただそれだけだ。
もう一つのどんな大人になりたいか? これに対しての答えは俺の中に早くからあった。気づいたら固まっていて、今も俺の中にあり続ける。
いつ固まったのだろうか、祖父が死んだ時? 母が病気で障害を持った時? 父が倒れた時? きっとその度に俺の中により強く固まっていったのだろう。
俺は自立した人間になりたかった。
ただこれは金銭面の話じゃない。俺は何かに縋らずに生きれる強さが欲しかった。恋をして、相手が全てなんだと呟きそのために生きる、それはきっと素晴らしいんだろう、そう思うし羨ましくも思う。しかし何故か俺はそれが堪らずに嫌だった。恋人にも縋らず、親友なんてものにも縋らない、家族にもそうだ。とにかくもし本当にたった一人になっても崩れないと断言出来る心が欲しかった。
孤独が好きとかそういう訳でも無い、友人と遊ぶのは楽しく、彼女は癒しだろう。ただ何かに依存する自分を思うと吐き気がする程気持ち悪く感じてしまうのだ。まぁこんな考えはあまり他人に言うべきことでも無いだろうから、俺は(どんな大人になりたいか?)という質問に適当に答える。
話は変わるが、俺はずっと野球をしてきた。高校では一応甲子園という目標も掲げてそれなりに練習もしてきた。高校の最後の大会まで10年間、それなりではあるがやってきた。俺は野球が好きだったのかもしれない、今考えるとそう思える。ただし俺はプロ野球とかは見ないし別に甲子園にも興味はない。自分でする野球が好きだった。
しかし部活は大嫌いだった。野球というスポーツは日本ではもっともメジャーと呼べるものだろう。そのためかドラマや漫画、映画などによく使われる。友情、努力、勝利、ジャンプ三原則のようなものが本当に行われようとする。ただ実際はそんなにキレイではない。誰かがミスをすれば罵倒しないだけで、チームメイトの誰もが心の中ではお前のせいだと叫んでる。控え選手はあいつさえ居なければと怨嗟をあげる。当たり前と言えば当たり前だろう。俺たちは漫画の中の脇役でも無ければロボットでもない。自分の中では間違いなく自分が主人公なのだから、それも20歳にも満たないものでは尚更だろう。
そうやってかたちだけでの団結を周りにみせつけて心の奥底では全く信じられない目標に向かって努力する。そうして、負けた後になくのだ、ここまでがセットのように毎年同じように繰り返される。
高校を卒業すれば、大学または働き始める
どちらせよ俺たちは少しずつ社会に混じり始める。今まではよく言われる青春の中に居たのかと感じ始め、それは終わったのだなと感じ始める。
俺はこの時信頼という言葉の意味を自分の中で出した。
信頼…… とても聞こえがいい言葉だ。だがこれはこれはとても身勝手な言葉なんじゃないだろうか? 信頼とはなんだろう? 相手を信じること、いい変えれば自分が相手に寄せる期待にきっと答えてくれると思うこと、では無いだろうか? では裏切りとは? この期待が破られることだろう。自分が信じていた人では無かったと怒る、それは新たな相手の一面を見れたということにもなるのに……