メトロノームが刻んでいるかのように変化のない間隔で鳴る心電図の電子音以外、物音の無い静謐な空間に二つ、人影が存在していた。
一つは染み一つない清潔そうなベッドで静かに横たわっている。小柄で華奢な体躯。そのヒトカゲは齢十にも届かない少女のように見える。しかし、布団から覗くその手足は有り得ない程に細い。
肉を根刮ぎ削ぎ落として、骨を辛うじてカタチが残る程度に削りとったかのような、皮と骨だけの、枯れ枝と見紛うソレらは、見た目の凄惨さに反比例して思いの外普通の血色が保たれていた。
それは単純にそのパーツの持ち主が、長い期間基礎的な運動すら行っていない証左であった。実のところは運動だけでなく、この少女は食事も、会話も一切ここ数年行っていない。
少し力を込めて握れば粉々に砕けてしまいそうなか細い腕に差し込まれた管から流れ込むその透明色の液体だけが、生気のない少女を生物的に生きながらえさせていた。
その傍らで男が一人、少女の顔をじっと眺めていた。
少女ほどではないが、華奢な体付きの男だった。背と手足が細長く伸びただけの、パンチ一つで伸びてしまいそうなヒョロい男。どこかの中学の学生服を着ている。
男は少女の痩せこけた相貌を眺めながら、祈るように手を合わせてボソリと泣き出しそうな声で何かを呟いた。
「起きてくれよ」
男の声は少女になんらかの変化を齎すことは無かった。感情のない機械が発する電子音は最初と同じようなリズムを刻み続けた。
それでも男は押し殺して掠れた声で小さな叫び声をあげた。
「頼むから俺を一人にしないでくれ、花」
*
そのツンツン頭がトレードマークになる程、これといった特徴も特技もない平凡な高校生男児____上条当麻は、自分を不幸だと常日頃から吹聴している。
あー俺不幸だわー辛ぇーわー。そんな不幸自慢をしたい訳ではなく、客観的に自分を不幸だと認識していた。
やることなす事上手くいかないとかそんな鈍臭い話ではない。男は運が介在するありとあらゆる出来事で、想定しうる最悪の事態を見事に的中させてきた。偶にではない、毎回だ。
ちょっと遠出しようとしたら必ず土砂降りになって、持っていったビニール傘は帰った時には無くなっている。テストで張っていたヤマをハズす。それを想定してヤマを変えたら前のヤマが的中する。なんなら外に出ようと思ったら雨が降る。自販機で飲み物を買おうとすれば丁度故障する(世界最新鋭の自販機が!)。補習の時に限って雨は降らない。帰るときは降る。
数々の修羅場を潜ってきた上条は、最早並大抵の不幸では動じない。人間は環境に適応する生き物だ。来ると分かっていればどうということはない。その程度、鼻で笑い飛ばしてやるぜ。
悲しき業を持って生まれてきた上条が本気でそう思ったのは今より30分は前のことだった。漕いでいた自転車のチェーンが突然切れてモニュメントのある噴水に突っ込んだ。携帯は壊れた。ケチって防水仕様にしなかったことがここにきて悔やまれた。
生まれてからこれまで被ってきた不幸の中でも文句無しで五指に入る不幸っぷりだ。3連コンボなのが技術点高い。
こんなのを味わえば暫く何が来ても大丈夫だろう。今日のことを思い出せば屁でもなくなる。
それはそれとして金が入用だ。携帯を買わなくてはだし、自転車も修理しなければならない。そんな理由でフラリとATMに立ち寄った。
それが悪手であった。
「ははっ」
思わず乾いた笑い声が喉からついて出てきた。ATMのタッチパネルを操作しようとした指が虚空を掻いて、震えている。背筋から嫌な汗が流れた。腹部で苦悶の塊がのたうち回って、胃が締め付けられるような鈍痛を訴えた。
理由は一つ。キャッシュカードを機械に飲み込まれた。3連じゃなくて4連コンボだった。
「嘘だああああ」
上条は諦めず懸命にあらゆる操作を行ったが、機械は腹立つくらいうんともすんとも言わない。
「おいコラ、お利口さんぶってんじゃねーですよ。なに優等生面してんだ、お前がわりぃんだろうが!」
あまりの理不尽さに怒りで機械に罵声を上げ始めた。傍から見れば痛い人にしか見えないが、本人は至って真剣だ。
あまりにもなんの反応もないのでゲシゲシと機械を蹴やった。
なぜか防犯のアラームが鳴った。こんな時だけは機械が動いた。
「不幸だああああああ」
防犯システムの作動により、ガラス張りの室内に閉じ込められた上条は最早言うまいと誓ったフレーズで悲鳴をあげた。
既に裏では警備員に通報がいっているに違いない。密室に閉じ込められた上条に出来ることはコンピュータ様に振るった暴力を懺悔しながら連行されるときをただ待つことだけだ。不幸コンボはとどまることを知らない。
しかし往生際が悪いのが上条。彼はこの窮地を脱そうと、こと逃避行動については極めて優秀な脳をフルスピードで回転させた。
そして、行き着いた答えは____ !
「誰か助けて!」
恥も外聞もなく叫んだ。他に打つ手はなかった。
しかし、周囲の人間は遠巻きに見つめるだけで動こうとはしない。傍から見れば失敗した間抜けな強盗だ、当然の成り行きだろう。
そもそもな話、上条程の不幸体質者が助けを求めて、それに手を差し出す人間がいるわけが
「なぁにやってんのさ、上条クン」
いた。一瞬、天使かと上条が錯覚したそれはよくよく見れば見知った少女のカタチをしていた。
御坂美琴。学園都市の誇るレベル5の一角であり、上条の知り合いの少女の知り合い。つまり上条の知り合いである。
「いい所に来てくれたな御坂!助けてくれないか、ATMに嵌められちまったんだ!」
「面白いことを言うね。気に入った。そこから出して進ぜよう」
手元で美琴がビリビリやると、あんなに堅牢だった扉が呆気なく開いた。喧しかったアラームも消えた。ついでにキャッシュカードも戻ってきた。
あなたが神か。上条は割と本気でそう思った。
*
「いやぁ、マジで助かったよ。もうダメかと思ってた」
「それよりどういう経緯であんな面白展開になったのかめっちゃ気になるんだけど」
「かくかくしかじかです」
「なるほど、かくかくしかじかね。ご愁傷さま。悪いんだけど、笑っていい?」
「笑いごっちゃあねえ!」
「いや、ははっ。笑うなって言う方が、無理だって。ぶふっ」
周囲の視線を気にして移動してきた、昼なのに閑散とした公園に少女の笑い声が響く。
上条は抗議するが、そこまで悪い気はしなかった。過ぎたことだし、こうやって笑い飛ばしてくれた方が寧ろ話の種になっていい。というか、下手に同情される方が対応に困る。
先程、美琴との関係を知り合いと上条は称したが二人の関係はそこまで稀薄というわけでもない。寧ろ割りかし頻繁に会うと言ってもいい。といっても、上条の友達の食蜂操祈と会うときに食蜂がよく美琴を引き連れてくるというだけだが(二人きりで会うことを恥ずかしがった食蜂が美琴を緩衝材に使っているだけである)。
上条自身、美琴のことを結構気に入っていた。美琴の裏表のない、竹を割ったような人柄は素直に好感が持てるし、女の子だが男の趣味に理解があって話が合う。よく特撮について熱く語り合っている。
「はぁ、まあいいや。それよりさ、御坂。この後暇か?助けて貰ったお礼に上条さんがなにか奢ってさしあげますよ」
冗談めいた口調で上条が言った。それに反応した美琴はわざとらしくニヤついて野次る。
「へえ、あの年中金欠の上条に人に奢るだけの甲斐性があったんだ?初めて知ったわ」
「うっせ。あ、でもあんまり高いのは勘弁してください死んでしまいます」
情けないことを平然と抜かす上条に、しかし美琴は少し申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「悪いね、今日はこの後人と会う約束をしてんのよ。また今度にしてくんないかな」
「あー、ならしょうがねえな」
思いの外上条はあっさり身を引いた。大抵の人間ならメンツを潰されたことに大なり小なり怒りを抱くものだが、上条は本気でなにも気にしていないようだった。
こういう所は好きだな、と美琴は思った。恋愛感情のような浮ついた好感ではなく、尊敬に似た感情だ。
上条は人間関係における最低限のラインというものを引いている。そこから先へは決して踏み込まない。だが決して冷淡というわけではなく、寧ろ積極的に他人を気にかける方だ。ラインを越えないのは人に興味がないからではなく、人には他人に触れて欲しくないことがあるという事を理解しているから。どこまでも人を慮った、適切な距離に身を置いている。純粋な優しさ。その絶妙な距離感が、美琴には心地よかった。
食蜂のように女の子が心を惹かれることも、まあ、あるんだろうなと思う。上条本人にその自覚はないだろうが。
だが、美琴は同時にまた別な感情を抱いていた。腹の中で燻る火種のような、もやついた感情。ともすればどうしようもなく目の前の男を貶めたくなる、そんな澱のように淀んだ陰湿な感情。
嫉妬心。
自分は、きっとこうはなれない。そんな確信が美琴に上条を嫉妬させていた。その嫉妬心を自覚して、再び自己嫌悪する。悪循環。上条の存在が鏡となって自分の薄汚さを自覚させた。
人は自分に無いものを羨む。それは嫉妬心であり、劣等感であり、また尊敬である。それらはまるで別な感情に見えて、その根本的な源泉は同じものだ。
美琴の中の嫉妬と尊敬が反比例する天秤が揺れて、やがて均衡した。
考えるのめんどくさ。やめだやめ。
逃避。逃げた。何が答えかも分からないことを考えていたってしょうもない。忘れた方がいい。
そうやって折り合いをつけた。
半年後、この日見逃した感情が後に二人の間で決定的な亀裂を生むことになる。
*
10学区、廃れた学区。ここを通るくらいなら迂回した方がいいとまで言われるほど治安が悪いとされるこの場所で、車が一台爆走していた。
法定速度をぶっちぎった走りを見せるソレはこの場所には不釣り合いな高級車だったが、やはりというか当然の如く盗まれたものだ。
中には男が二人乗っていた。
一人は運転席に座った、金髪で馬面のガラの悪そうな男。スピーカーから響く大音量に合わせて時折体でリズムを刻んでいる。
もう一人は後部座席に座ったオールバックの大男。はちきれんばかりの筋肉で全身を覆ったその男は一人だけでシート全体を圧迫していた。運転席の男の垂れ流す大音量にも目もくれずに目を瞑って何かに備えるようにじっとしている。
そんな寡黙な巨漢の様子を時々金髪の男がバックミラー越しに見やっている。
二人の間に会話はない。仲が悪いという訳ではなかったが、金髪の方が緊張して声を掛けられないだけだ。大男の方は元からこんな感じで、自分から声を掛けることは滅多にない。
「.........着いたぜ」
目的地まで着た所で金髪が初めて声を掛けた。大男の固く瞑られていた目蓋が持ち上がる。
「後は手筈通りに。一時間後、回収しに来い。俺が間に合わなければそのまま離脱しろ」
低く轟くような声で手短に大男が告げながらドアに手を掛けた。
さっさと行ってしまおうとする男に、金髪は何か言うべきか逡巡した。ドアが開けられたところで、慌てて声を張り上げた。
「俺は!」
体を半分まで外に出していた男は止まって、そのナイフのように鋭い視線を金髪に向ける。その威圧感にアテられて一瞬怯んだが、意を決して続けた。
「俺はアンタを信用してねえ。他の皆や、駒場さんはアンタをカミサマみてえに持て囃してるけどな、俺は違う」
金髪の独白を男は黙って聞いていた。気分が乗ったのか金髪は更に声を荒らげて続ける。
「俺達はスキルアウトだ。なんだってテメエみたいな糞の能力者にへつらわなきゃいけねえんだ?能力にあぐらかいてるだけの連中の一人に成り下がったテメエに」
そこまで言って気が付いた。
違う。俺はこんなことが言いたいんじゃねえッ!
男は胸の内で燻っているその感情を言葉にしようとして、空回りしていた。
複雑な心情を言語化できるだけの語彙がないのではなく、金髪自身それを整理して呑み込めていない故に感情を滅茶苦茶に垂れ流してしまった。
金髪の男が言ったことは本心ではあるが、それだけじゃない。その本心を装飾する考えがある。しかし、それを一部を切り出して言ってしまったことで、ただ大男を罵倒する言葉に成り下がってしまった。
「わりぃ。やっぱなんでもねえ。忘れてくれ」
声を掛けるべきじゃなかった。こいつはこっからが大変なのに、変に気を揉ませちまった。くそっ。
俯いて自己嫌悪に声を萎ませた金髪に、大男がゆったりと口を開いた。
「信用してもらう必要はない」
冷たい声音に、金髪は弾かれたように顔を上げた。しかしそこにあったのは、静かに金髪を見やる男の双眸だった。
「俺は俺のやりたいようにやる。付いてきたいなら勝手にしろ。来る者は拒まないし、去るなら好きにするといい。そこに信用だとかそんな高尚なものは要らん。お互いに、行動で示すだけだ」
それだけ言うと、男はさっさと行ってしまった。呆然とそれを見届けて、思わず笑ってしまった。
変わらねえ。相変わらず、変に斜めに構えた物言いばかりしやがる。言ってることも、全然的射てねえんだよボケ。
だが、幾分か気が楽になったぜ。
「死ぬんじゃねえぞ、佐藤」
車を再び走らせながら、誰に言うでもなく一人でそう呟いた。
*
午後18時37分。十学区の端に位置する細胞工学研究所の閑散としたエントランスに男がフラリと現れる。
大きい。背丈が2mはあり、全身ががっしりとした筋肉で覆われていた。ゆうに150kgある。丸太のように太い両腕の筋肉がはち切れんばかりに膨張して、青く太い血管がはっきりと浮かんで見えた。
あまりに場違いな男は当然研究所の人間ではない。既に外来の受け付けを閉め終えた今、男は部外者で不審者だった。
先ず、警戒した警備員が警告した。男はそれを無視してずんずん奥へ進んでいこうとする。
再度、今度は拳銃を向けて警告。男は立ち止まらない。
威嚇射撃。銃声に男が一瞬立ち止まる。それから警備員へ向き直ると、ゆっくりとした足取りで男は警備員へ接近した。
恐怖に駆られた警備員がニューナンブM60を男に向けて発砲。弾丸は男の肩に吸い込まれるように命中した。男の体が弾かれたように撃たれた肩から揺れる。
だがそれだけだった。突き刺さった筈の弾丸が男の皮膚からポロリと自然に落ちた。それから男は何事も無かったように再び歩いて近ずき出す。
一回撃ってタガが外れたのか警備員は男に向かって何度も発砲した。その度に男は立ち止まったが、再び歩き始める。
それを3度も繰り返すと、警備員の命運と共に弾が尽きた。カチカチと狂ったように空回りする引き金を引く警備員に飽きたのか男は蚊でも払うかのように平手で軽く警備員の頭を叩いた。
メキリと軽い音を立てて、男の首が有り得ない角度に曲がって肩に張り付いた。
可動域を超えた首の付け根が半ば程まで千切れて、一瞬胴体から伸びた白い頚椎が覗いたと思ったら、頭に送られるはずだった血液が勢いよく噴き出した。
首から赤い飛沫をあげながら崩れるように膝から地面に落ちた警備員だった肉体は数度痙攣すると、それっきりもう動かなくなってしまった。
男はそれを見届けると、口を愉快そうに歪ませ、再び奥に向かって歩き出す。
開戦の狼煙が、今あがった。
佐藤て。もうちょい捻った名前にすりゃよかった。
それはそれとしてやっとこさ戦闘シーンを書ける。いい加減 、日常会話シーンは飽きてたんだ。まあ、オリキャラなんですけどね
次話アイテムが出ます(ネタバレ)