003
八九寺真宵は自らのことを蝸牛の迷子だと語ったそうだ。
五月十四日、母の日。彼女は離婚によって会えなくなってしまった母親の家に行くため父親に内緒で家を出た。というのも、母親の顔を思い出せなくなってしまったのだ。
——いや、正確には記憶の中の母親の顔と写真の中の母親の顔が一致しなかったから、か。
とにかく、彼女は大きなリュックサックにお泊りの道具とぬいぐるみを詰め込み、家を出た。
そして——怪異と会った。
迷子となっていた八九寺ちゃんを見かねた阿良々木が話しかけ、土地勘のある戦場ヶ原さんの協力の元に八九寺ちゃんの母親の家——綱手家を探したらしいのだが。
辿り着けない。
何度試しても——必ず迷う。
GPSを使おうとした瞬間に圏外となったことでいよいよ普通ではないと認識した。
そこで八九寺ちゃんは語ったのだ——絶対に辿り着けないと。いつまでも辿り着けないと。
自分は——蝸牛の迷子なのだと。
004
「迷い牛」
いつもの軽薄な喋り方とは全く違う、とても眠そうな低い声で電話越しの忍野さんはそう言った。推測するに昼寝をしていた忍野さんを戦場ヶ原さんが叩き起こしたのだろう。どうやら忍野さんは寝起きが悪いらしい。
「迷い牛だろ。そりゃ」
「牛?いや、違うだろ、忍野。今回はカタツムリだって——」
「漢字に牛って入っているだろう?それともなんだい、もしかして阿良々木くん、カタツムリって片仮名で書いちゃってる?渦巻きの渦の
「蝸牛——迷い牛、か」
「人を迷わせる怪異なんてのはそれこそ山ほどあるけどね。大した実害もなく尚且つ蝸牛だってんなら迷い牛で間違いないでしょ」
「それで——忍野。それはいったいどういう怪異なんだ?どうやったら退治できる?」
「おいおい。退治だなんて随分と乱暴な考えをするじゃないか。元気がいいねえ、阿良々木くんは。何か良いことでもあったのかい?」
眠気が覚めてきたのかいつもの軽薄な口調に戻りつつある。テンション低い方が楽だったな……。
「言ったろ?大した実害もないって。迷い牛は魑魅魍魎というよりは幽霊みたいなもんなのさ。阿良々木くんの時の忍ちゃんや委員長ちゃんの時の色ボケ猫みたいなのの方が珍しいんだよ。それにしても、鬼の次は蝸牛かい。阿良々木くんも節操がないねえ」
「いや、今回は僕じゃないよ。怪異と遭ったのは八九寺だ」
「はちくじ?」
「あれ、聞いてないか?迷い牛に遭った子だよ。八九寺真宵」
「なるほど。——八九寺真宵、ね。ん?なんだい、ツンデレちゃん」
どうやら忍野さんが戦場ヶ原さんに話しかけられたらしく会話が一旦途切れる。流石にそこまでは拾えない——というか。戦場ヶ原さんがこちらに聞こえないように話しているように感じた。
「はっはー。なるほどね。つながってきたよ。全く阿良々木くんは甲斐性なしだねえ。ダメじゃないか、女の子に気を遣わせちゃあ」
「いや、確かに自分の問題が解決したばかりに巻き込んだのは申し訳ないと思ってるけど——」
「そういうことじゃないさ。けれどね、阿良々木くん。立て続けに問題を解決してきて少し調子こいちゃってんじゃないの?だからね、一つ言っておくよ」
忍野さんはそう前置きしてから阿良々木に言った。
「自分の目で見たこと、自分で感じたことだけが、真実じゃないんだぜ。見えているものが真実とは限らないし——それとは逆に、見えてないことが事実であるとも限らないんだ」
それは——阿良々木だけでなく、俺にも言っているようで。
「……別に、今は僕の話はしていないよ。それより迷い牛対策とやらを教えてくれないか?」
「そこなんだけどね、阿良々木くん。どうやら認識の齟齬があるらしい。一宮くんがいるんだろ?少しかわってくれないかい」
忍野さんにそう言われたので阿良々木とかわる。その時にスピーカーモードを切って阿良々木には忍野さんの声を聞こえないようにしておく。……ある程度話の予想はできるからな。
「一宮くん。きみは彼女から怪異の存在を感じたのかい?」
「……ええ」
「なら何か見える?」
「何も、見えませんよ」
「いや、見えているはずだよ、きみには。それが真実であるかは別として。普通では見えないものが、ね」
「…………」
「ま、予想はついてるみたいだしいっか。今回はしょうがないっちゃしょうがないしね。うん、わかった。じゃあ、対処法はツンデレちゃんに伝えとくから」
そう言って忍野さんは電話を切った。相変わらず別れの言葉を言わない人だ。俺も阿良々木に携帯を返す。阿良々木には何を話していたのか、なんて訊かれたがどうせ戦場ヶ原さんが来るのだ。俺から説明する必要もないだろう。
ただ、納得いかないのは阿良々木と羽川さんにも見えていたことだ。俺が見えるのはわかる。だがなぜ二人にも見えていた?俺の推測は間違っているのか?
そのようなことを考えながら阿良々木、八九寺ちゃんと雑談をしていた。阿良々木はどうやら妹さんと喧嘩して家を出てきたらしい。ガキかよ。
——すると、この公園に阿良々木のマウンテンバイクに乗った誰かがやって来た。
対処法、とやらを伝えられた戦場ヶ原さんが戻ってきた。
005
「あなたがその子から離れればいいのよ。阿良々木くん」
あれ以来初めて会う彼女と軽く挨拶してから雑談が落ち着くと戦場ヶ原さんはそう言った。それが忍野さんの言うところの対処法——だって?
「い、いや、それじゃあ僕は迷わなくなるかもしれないけど、八九寺の問題は解決しないだろ。八九寺が遭遇したっていう迷い牛をどうにかしないと——」
「そのことなんだけれどね。阿良々木くん。私はあなたに謝らないといけないそうよ。忍野さんにそう言われたわ」
——謝る?阿良々木に?いったい、何を?
「そもそも、逆、だったのよ。今回の件は」
「何を言ってるんだ?謝らないといけない?逆?」
「忍野さんの言葉を借りると」
阿良々木の疑問に構わず戦場ヶ原さんは続ける。
「正しい事実が一つあったとして、それを二つの視点から観察して違う結果が出たとき、どちらが正しいかを判断する方法は本来ない——自分の正しさを証明する方法なんてこの世にないのだと」
「…………」
「でも、だからって、自分が間違っていると決めつけるのも同じくらい違う——んだって。本当、あの人は…見透かしたことを言うわよね」
嫌いだわ。
そう言った。
「——なあ、戦場ヶ原さん。いや、忍野さんか?さっきから何の話をしてるんだ?この状況に関係あるとは思えないんだけど」
「迷い牛から解放されるのはとても簡単なのよ、一宮くん。蝸牛についていくから迷うのであって、蝸牛から離れれば、迷いはない、だって」
蝸牛に——ついていく?
でも、八九寺ちゃんは別についていった訳では——いや。
八九寺ちゃんが、ではないのか。二つの視点——認識の齟齬。謝らなければいけないこと、か。
つまり……。
「蝸牛の場合、人間の方から怪異に寄っているらしいの。それも無意識じゃなく、確固たる意志を持って。望んでついていっているだけ。だから、阿良々木くんが離れれば、それでいいというわけ」
「でも、八九寺は望んでついていってるわけじゃ…。それに僕が離れたところで——」
「だから、逆なのよ。迷い牛は目的地に向かうのに迷う怪異じゃなくて、家に帰るのに迷う怪異——だそうよ」
——そう、だから。
妹と喧嘩し、家に帰りたくないと思っている阿良々木。家庭に問題を抱えている羽川さん。その二人は——望んだ。
迷うことを。だから——見ることができる。
「だから——私はあなたに謝らなくてはならないのよ、阿良々木くん。でも、それでも、悪気があったわけでもなかったのよ。私はてっきり、
「…………」
「だってそうでしょう?二年以上もの間、私は普通じゃなかったんだもの。つい先週、ようやく普通に戻れたばかりなんだもの。何かあったら——私の方が間違っていると思ってしまうのも、仕方がなかったのよ」
「おい……戦場ヶ原」
「私の時の蟹と同じで、迷い牛も理由がある人の前にしか現れないそうよ。だから、阿良々木くんの前に現れた」
「いや、だから。蝸牛が現れたのは僕じゃなくて、八九寺——」
「八九寺ちゃん、よね。つまりね、阿良々木くん。その子——八九寺ちゃんのことなのだけれど」
そう言って戦場ヶ原さんは八九寺ちゃんを指さした。
つもりなのだろうが。
その指は——全く違う、あさっての方向をさしていた。
「私には、見えないのよ」
006
八九寺真宵が死んだのは十年ほど前のことだ。母の日に綱手家に向かう途中に信号無視のトラックに轢かれ、死んだ。
そして——それ以来、迷い続けている。
阿良々木から見て戦場ヶ原さんがまるで八九寺ちゃんを無視するような態度をとっていたのは、文字通り、見えていなかったから。
だけどそれを。彼女は言えなかった。二年もの間ずっと重さを失くしていた彼女には——八九寺ちゃんが見えていない自分のほうが異常に思えたから。
それを聞くと、本当に、忍野さんは見透かしたことを言う人だ。
だからきっと。阿良々木がそれで納得しないこともわかっていたのだろう。八九寺真宵から離れて家に帰りそれで解決、なんてあの男は絶対に納得しない。それを知っていたから、裏技とも呼べる、一度しか通じない方法を用意していたのだ。
怪異に経験、知識は蓄積しない。約十年前に死んだはずの八九寺真宵の精神性が小学生のままであったように。だから、彼女はこの十年で新しくできた道を知らないのだ。ここら一帯で行われた区画整理。戦場ヶ原さんの家が道路に変わってしまうほど大規模なそれを。
裏技とはただ、その新しくできた道のみを通って綱手家に向かうという、文字にしてしまえば本当に簡単なことだった。いくら迷い牛でも、知らない道では対応もできない。だから俺たちは辿り着けたのだ。
八九寺ちゃんは——ただいま、と。そう言って消えていった。泣きながら、もはや更地になって何も残っていない土地に。それでも、そこに家が見えるかのように——帰っていった。
後日談というか、今回のオチ。
その後の戦場ヶ原さんの告白からの阿良々木とのイチャイチャはあまり見ていない。友人どうしの色恋沙汰ってのはどうしてあんな気まずいんだ。なんだよ蕩れって。
まあ、ともかく。八九寺ちゃんは成仏し、阿良々木と戦場ヶ原さんが付き合うことになったというのなら、この話はいい話だったのだろう。
……なんて、俺が綺麗にまとめようとしているのに。
「どうしてお前はここにいるんだ。八九寺ちゃん」
翌日、五月十五日、月曜日。学校に向かう俺の前に昨日成仏したはずの八九寺真宵が現れたのだ。
「どうしてとは酷い言い草ですね、
「数字が一つ多い。俺の名前は一宮だ」
「失礼。噛みました」
「違う。わざとだ」
「かみまみた!」
「わざとじゃない⁉︎」
楽しい。けどこれ周りには俺が一人で騒いでるように見えるんだよな…。
「で、どういうこと?ホントに」
「実は私、地縛霊から浮遊霊へとクラスチェンジしたのです。二階級特進とかいうやつですね」
「うわぁ……」
ドン引きである。そんなガバガバでいいのか、幽霊。
「まあ、なんだ。お前とまた話せるのは素直に嬉しいよ。そろそろ行かないと遅刻するから俺はこれで。じゃあな」
寝坊したせいで既に若干遅刻気味なのだが、少し見栄を張りそう言って自転車をこぐ。すると後ろから声がかかった。
「阿良々木さんにも言いましたが、私、しばらくはこの辺をうろうろしてますので、見かけたらいつでも声かけてくださいね!」
そんな嬉しいことを言ってくれる彼女に、俺は振り向かずに手を上げて返事をする。
今日は一日晴れやかな気分で過ごせそうだ。やはり、なんというか、今回は、いい話だったのだろう。——きっと。