忙しかったんです。
004
猿の手。
それが神原の左手の正体だそうだ。
神原の包帯で隠された左手は人のそれではなかった。体に対して明らかに大きく、そして毛が生えていた。左手の肘から先がまるで獣のような——猿のような手になっていた。
最初は左手首から先しかない
神原の両親は彼女が幼い頃に交通事故で亡くなっている。
結婚を反対されながらも半ば駆け落ち気味に結婚したことで神原の祖父母とはあまり仲が良くなかった。だからその後祖父母に引き取られた神原の周りには両親との思い出と呼べるような物は残っていなかったそうだ。
事故に遭う数日前に母親から託された桐の箱以外は。
その桐の箱の中に左手首だけの木乃伊——猿の手が入っていた。それと共に母親からの手紙も入っていたらしい。いや、それは手紙というよりは取り扱い説明書のような内容だったそうだが。
持ち主の願いを何でも三つまで叶えてくれる。
そういうアイテムだと。
そして、神原が始めて木乃伊に願ったのは今から八年前、小学校三年生の頃だそうだ。両親と九州の方に住んでいた神原は方言がきつく新しい小学校で上手く馴染めなかったらしい。そこで近くに迫っていた運動会で良い成績を残すことでクラスの人気者になろうとした。
だから願った。一つ目の願いを。『足が速くなりたいです』と。
その時は彼女自身まだ半信半疑だったらしく、もし一つ目の願いが叶ったなら二つ目の願いは決まっていたらしい。
——それはきっと、両親に関する願いだったのだろう。
両親の生死に関する——そんな願いだったのだろう。
ともかく、木乃伊に願ったその夜、神原は夢を見たそうだ。自分に似た雨合羽を着た化物が、左手でクラスメイトを襲う夢を。
翌日、学校に行くと夢で襲われていたクラスメイトは全員欠席していた。彼らは、運動会の日に神原と共に走る予定だった。
そこで神原は調べた。そして行き当たった。猿の手に。
ウイリアム・ウイマーク・ジェイコブズの『猿の手』はあまりにも有名だろう。ここではあえて多くは語らないが。
曰く、猿の手は持ち主の願いを叶える。
——ただし、持ち主の意にそぐわない形で。
恐ろしくなった神原は木乃伊を厳重に保管した。そしてひたすらに走った。
願いがいつまで有効かわからないから。自分より速い人間がいたらいつあの化物が出てくるかわからないから。だから——走った。ひたすらに。
中学生になる頃にはバスケットコートで彼女に追いつける者はいなくなっていた。そして、そんな神原に戦場ヶ原さんが声をかけてきたらしい。非公式で良いから100mの競争をしようと。断るのは心苦しかったが断るしかなかった。それでも戦場ヶ原さんは神原に優しく、話すようになって三日目には好きになっていたそうだ。
戦場ヶ原さんと過ごすその間だけは木乃伊のことを忘れられたらしい。俺との話も楽しかった、なんて言ってくれたが俺と戦場ヶ原さんとじゃあ彼女の中での存在の大きさが全然違うだろう。
それでも、木乃伊を使ってしまいたいと思う時は少なくなかったらしい。友達と喧嘩をした時、バスケットボールの大事な試合の日、そして——戦場ヶ原さんに拒絶された時。
まだ戦場ヶ原さんが体重を取り戻していない時期、彼女は人を避け、拒絶していた。神原は阿良々木より先に戦場ヶ原さんの秘密に気づいた。でも、強く拒絶されて。
戦場ヶ原さんが望むならと——神原は忘れた。
彼女の秘密を。我慢して、忘れたのだ。
だが、見てしまったのだ。最近になって、教室で楽しそうに笑う戦場ヶ原さんを。その隣にいる——その笑顔を向けられている、阿良々木を。
嫉妬して、恨んで、だから、木乃伊に、猿の手に願った。
005
「それは——猿の手なんかじゃない」
神原と阿良々木からの説明を聞き終わり、実際に神原から左手を見せてもらった後、俺はそう答えた。
「は、え?猿の手じゃ、ない?」
阿良々木が動揺している。神原も声には出さないがその表情は戸惑っていた。
「なんだい、一宮くん。僕の話なんて聞き流しているのかと思ったけど。しっかり聞いてたのかい」
「俺は自分に都合が悪いことが起きるときは頑張るんですよ。忍野さんの話だってちゃんと覚えています」
そう。今回の木乃伊の正体を、俺は知っている。そういう怪異の話を忍野さんから聞いたからだ。
俺は自分の体質のせいで今後も怪異と関わっていくことになる。俺の意思に関係なく。だから、忍野さんから様々な怪異譚を聞いていた。言わば講義のようなものだ。知識が必要だったのだ。
「そうだな。さしずめ、レイニー・デヴィル。それが今回の怪異の正体、ってところかね」
「レイニー……デヴィル……?」
神原が呟く。
「そう、悪魔だ。まあ、忍野さんいわく低級の悪魔らしいけどな」
詳しいことはよくわからん。忍野さんの怪異譚というのはそれこそいくらでもあるのだ。一個一個完璧に覚えるのはなかなか難しい。
——ただ、分かっていることは。
「何て言えばいいんかね。あー、二人とも、『ファウスト』って知ってるか?」
「え?」
「うん、よく分かった。阿良々木は知らんみたいだな。神原は?」
「私も読んだことがあるわけではないのだが……。知識として物語の概要と粗筋くらいなら知っている」
「まあ、俺もそんなもんなんだけどな。えっと、なんだったっけ」
頭の中で情報を整理する。正直言ってかなり話しづらいのだが……。
「『ファウスト』ってのはまあ、そのまんまファウスト博士が主人公の物語でな。悪魔メフィストフェレスに魂を売ることで全ての知識を得ようとするって感じだ。てかそれくらいしか知らん」
そんな大雑把な説明を見ておしゃべりの血が騒いだのか、忍野さんが『ファウスト』について話を広げていく。作者とか元になった伝承うんぬんとか本当よく覚えてるよな。そこらへんは流石ってところか。
そんな話に痺れを切らしたのか、阿良々木が問いかける。
「それはわかったけどさ。なんだか話が脱線してないか?願いを叶えてくれるって分には猿の手と似た部分はあるようだけど……。まさか木乃伊は悪魔のもので、猿の手ならぬ悪魔の手だなんて————」
「なんだい、今日は随分と察しがいいじゃないか、阿良々木くん。ご明察の通り、こりゃ悪魔の手さ」
いや、俺がさっき悪魔だって言ったじゃん。信じてなかったの?まあいい、話を進めよう。
「さっきも言ったけど、メフィストフェレスなんていう別格の悪魔じゃあない。低位の、階級すらつけられてないような使い魔みたいなもんだ。そうなると特定は難しいんだが——猿の手を持つ雨合羽の悪魔、更には持ち主と一体化する、とくればレイニー・デヴィルだろ」
レイニー・デヴィル。
雨降りの悪魔。
「だから言ったんだ。猿の手なんかじゃあないって。それは悪魔の手だ。そして悪魔は魂と引き換えに契約を結ぶ。そりゃ願いも叶うさ」
俺が一通りの説明をすると忍野さんが話しだす。
「だいたい猿の手ってのは右手だしね。持ち主と一体化するなんて話も聞いたことないし。にしても悪魔か」
忍野さんが少し呆れたように、面白そうに呟く。
「委員長ちゃんのことといい、ツンデレちゃんのことといい、迷子ちゃんのことといい、おかしな町だよ。本当に。挙げ句の果てには閻魔大王でも召喚されるんじゃないかい?——その木乃伊、お母さんから貰ったんだろう?お母さんの旧姓はなんていうのかな」
その問いに神原は少し迷うように考えてから——こう答えた。
「えっと、たしか——。『臥煙』だったと思う。臥薪嘗胆の『臥』に、煙幕の『煙』だ。それで、臥煙
————何?臥煙?
え?臥煙ってあの臥煙?いや、こんな珍しい苗字あの人以外に居なさそうだし……。
いや、あ、なんか前に姉がいるって言ってた気がする!姉には娘がいるとも言ってた気が!え、まじ?じゃあ神原のお母さんが伊豆湖さんの姉ってこと?神原からしたら伊豆湖さんは叔母さんってこと⁉︎おばさんってことなのか⁉︎
忍野さんが「なるほど、臥煙か」なんて呟いているが頭に入ってこない。割と衝撃的事実。あの人マジで何歳だよ……。
となると、なるほど、神原の母親が悪魔の木乃伊なんてものを持っていたのにも合点がいった。あの人の姉だもん。絶対タダモノじゃない。
そんなことを考えているといつの間にか話が終わっていてめちゃくちゃ重苦しい雰囲気になっていた。あ、なんかシリアスに乗り遅れた気がする。
006
「やっほー、さくまん。どうやら私の姪が随分と世話になっているみたいだね」
夜、学習塾跡にて。あの後なんとか解決策がまとまったらしい阿良々木たちは準備を進めていた。俺は完全に置いていかれてる、というか手伝えることなんざ何もない。待つだけだ。
そんな風に暇していると見透かしたようなタイミングで伊豆湖さんから電話がかかってきたのだ。何で知ってるんだよ。俺は連絡してないし忍野さんもケータイとか持ってないぞ。なんか謎のお札で交信でもしたのか?
「俺は何もしてないっすよ。阿良々木が色々やってるだけです」
「ああ、阿良々木くん。阿良々木暦くん。例の吸血鬼の少年だね。メメから話は聞いているよ」
うん、なんかこの人だと忍野さんから聞いてなくても知ってそうだな。
「で、今日はどうしたんすか?言っときますけど、俺たちにできることなんか特に無いですよ」
「そんなことは知っているさ。ただ久し振りにさくまんの声が聞きたくなってねえ。おねーさんとしては心配なのさ」
「あー、そっすか。嬉しいなあ、伊豆湖さんに想ってもらえてー」
タイミングがタイミングなだけに素直に受け取れねえよ。
「それで、最近調子はどうなんだい?」
——ただの世間話、ではないのだろう。
「別に、なんもないっすよ。怪異関係の問題は色々ありますけど、それは俺じゃなくて他の奴らですし。俺自身が怪異に遭った——なんてことは起きてないです」
「うん、そっか。なら良かった」
そんな話をして通話は切れた。そんなこと伊豆湖さんなら聞かなくてもわかるだろうが——案外気にかけてくれてんのかね。
にしても、調子、か。俺の体質に調子もなにもない気はするんだが、気になることもあるし忍ちゃんとおしゃべり——かなり一方的なそれをおしゃべりと言うのかは知らんけど——でもしてくるかね。
007
後日談というか、今回のオチ。
結局、神原の左手を元に戻すのは失敗した。
だが、悪魔に願いを叶えることを諦めさせることには成功したらしい。
悪魔というのは人間の本心での願いを叶える。
足が速くなりたい、という表の願いの裏にあった、同級生をぶちのめしたい、という神原の裏の願いを叶えた。
戦場ヶ原さんとまた仲良くしたい、という表の願いの裏にあった、阿良々木を殺したい、という裏の願いを叶えた。
それを神原は、猿の手に、持ち主にとって不本意な形で願いを叶えるというアイテムのせいにしたのだ。都合が良いものだったのだろう。それ自体は悪いことかもしれないが、糾弾できることではない。
今回は裏の願い、つまりは阿良々木を殺したいという願いを諦めさせるため、ギリギリまで吸血鬼化した阿良々木が悪魔を圧倒することで殺せない、と思わせる作戦だったらしい。
だがまあ結局、見事にボコボコにされた阿良々木の下へ忍野さんが呼んだ戦場ヶ原さんが駆けつけ、悪魔の、神原の目の前で「阿良々木を殺したら神原を殺す」と宣言したことにより収束したらしい。あの娘アグレッシブすぎでしょ……。
裏の願いが本心だというならば表の願いも当然本心だ。これで悪魔は阿良々木に手を出せなくなった、という訳だそうだ。
だから左腕は元には戻らなかった。中途半端に契約が終わったから。それでも戦場ヶ原さんと仲直りもして、阿良々木を殺さずに済んだ神原は満足そうだった。
「残念ながらバスケはこれで引退となったが、この腕もなかなかパワフルで使い勝手が良いぞ」
あれから何日か経った後、学校の廊下で会ったため雑談をしていると神原はそんなことを言いだした。笑いづれえよ。
「まあでも、戦場ヶ原さんや阿良々木とも仲良くやってるようだし、オジサンとしては嬉しい限りですよ」
そんな風に茶化して返す。
「ああ。それに、一宮先輩ともまたこうして話せるのだからな、また三人でなかよく猥談ができると思うとムラムラしてくる!では、私はこれで失礼しよう!じゃあな、一宮先輩!」
そう言って笑顔で走っていく神原を見ていると、なんというか、可愛い後輩を持てて幸せだよと、そんなことを感じるのだった。
これが父性か…………。