漆黒の捕食者は窮地に陥っていた。
いたるところが抉れる地面と灰色の空の中、お気に入りのコートがずたずたになり、普段首に着けているネックレスも千切れて後ろの方へ落ちている。当然身体も無傷なはずはなく、素肌にも無数の傷が刻まれていた。
まずいな。声の乗らない呟き。裏世界で最近有名になってきた漆黒の捕食者は、正に今、敗北が目前まで迫ってきている。
「なんて力だ」
吐き捨てた台詞が、敵である男の表情を愉悦に染める。男にはほとんど傷らしい傷がついていなかった。金色の髪には欠片の土も付いておらず、上等な白のスーツは戦闘開始前と変わらずどこもほつれていない。
一目見れば誰もがわかる程の差が、そこには描き出されていた。
「くくく、貴様は確かに強いがな、所詮はガキだ」
「くそっ」
「中学生のお小遣い程度では、私の力を超えることは出来ない!」
なんの話かと言えば、敵の能力の話だった。
──『結界内の存在は所持金に応じて身体能力が高くなる』能力。
金が全てと言わんばかりの単純な能力ではあるが、しかしお小遣いが中学生相応のものでしかない漆黒の捕食者にとっては致命的な弱点へと変化した。それに対し、相対する敵はどこだかの財閥のトップ。漆黒の捕食者からすれば縁のない金額を収入として持っており、つまるところとにかくヤベー程男の身体能力は向上しているわけである。
「俺様の弱点を的確に付いてくる、憎らしいが流石と言わざるを得ない」
「ほう……敗北を前にして敵を誉めるとは」
「例えどんな相手だろうと、存分に力を活かして俺様に膝をつかせたことは素直に賞賛に値する」
「……漆黒の捕食者は真っ直ぐだな。だが、それではこの世界で生き残れない」
「生きてみせるさ、それが俺様の生きざまだからな」
「最初に手を抜き、無用に痛めつけたことを謝罪しよう。もしまた相まみえる時があれば、最初から全力を出す……次があれば、だがな」
もはや打つ手などなかった。満身創痍、能力も相手を視界と手の先に捉えてから発動する必要があり、そのラグの間に敵は人外レベルの動きをして逃げるついでに一撃を加える始末。
何故十数分も生き残っているのかと言えば、敵が痛めつけるために手加減していたからに他ならない。
しかし、その行為を男は謝罪した。矮小な身でありながら巨大な組織に盾突いた愚か者を見る目から、漆黒の捕食者を『一人の強敵』として認めた男の矜持。叩けば埃しか出ない場所に籍を置く身として譲れない一線。
見上げる漆黒の捕食者に対して、見下ろす男。足を一歩引いて拳を振り上げ、トドメの一撃を放たんと構える。
それを正面から見据える目に映るのは、諦めではなく決意。必ず、雪辱を晴らして見えるとの決意。
男が理解し、目を細め、
「見事」
動いた。
「──」
静寂。
「誰だ貴様は」
漆黒の捕食者を昏倒せしめんとしたそおの一撃。実際、そうなるはずだった。
しかしてそれは、招かれざる客の手の中にしっかりと納まっていた。
男が、闖入者に正体を問う。
「卯月家次期当主、卯月コウ」
「卯月家……だと!?」
「何故ここにいる」
漆黒の捕食者と男の顔が驚愕に染まる。それも当然、卯月家と言えば誰もが知る世界有数の企業。そこに名を連なる者となれば、男にとっては正面から打ち破られる──つまり天敵。
そして漆黒の捕食者にとっては、色々あるがとりあえず友人と表しても間違いではない相手だった。
それでも、思考が廻った男は落ち着きを取り戻す。卯月家の財力は確かに男にとっては抗えないものになろうが、現当主ではなく次期当主となれば、話は変わる。
「い、いや、あの卯月家と言えど、現当主でもなければ私には及ばないだろう!」
「やってみるか?」
「上等だ!」
局面は第二ラウンドへ──行くはずだった。
男が地面を蹴る。漆黒の捕食者は、それを目でとらえるのがやっとだった。一瞬の間、突き出された拳は、卯月コウが一歩だけ横に動いただけで避けられた。
それだけで男は解らされた。認めがたい真実。
「ばか、な……」
「父様は俺に力を貸してくれた。ちょっと人助けに行くと言ったら快く、な」
「だからと言ってこれ程の額を、軽々しく……!」
「知らなかったか?
懐から取り出したのは通帳。そこに並べられたゼロの数を見て、男は遂に現実を認め、その先を悟った。
すぅと卯月コウが息を吸う。
「一発だ」
通帳を放り投げ、右手で正拳突きを一回。
空気を裂く音と共に、最後の一撃は、静かに重く。
漆黒の捕食者を苦しめた男はの意識は、一瞬で刈り取られたのだ。
「何故きた、いやどうやって知った」
「卯月家の情報収集能力を舐めるなよ、これくらいちょちょいのちょいだね」
「借りを作ってしまったのは一生の不覚だ」
得意気に自家の能力の高さを誇る卯月コウとは対照的に、苦々しくぼやく。この借りで何を要求されるかとか、今日の失態を他の仲間にバラされるかとかが不安であった。
意気揚々と宣言して仲間を置いて単独行動をしたのが今のザマだから、恥ずべき事だと理解していた。
「なに、その情けない顔だけで充分さ」
「こいつ」
「今日の勝情報、猪突猛進して返り討ち」
「やめろ」
「冗談はともかく、これは俺の土俵だった、それだけの話じゃねーか」
「それは、そうだけど」
戦闘など実働面は漆黒の捕食者が行い、それ以外……例えば政治面や資金面は卯月コウが担当する。それを決めたのは他でもない漆黒の捕食者と、卯月コウである。
ただ、今回の件に限って言えば卯月コウの得意分野だったと、それだけの話。それを割り切りれるほど、漆黒の捕食者は大人でないだけだった。
「今日の事は誰にも言わないから安心しろ」
「何?」
どういう風の吹き回しだ、と唸る。卯月コウとの関係は、お互いがお互いの上を取り合う関係。十重二十重にオブラートを包んで言えば、切磋琢磨し合うもの。今までの流れで言えば、卯月コウは仲間へ今日の事を言いふらし、漆黒の捕食者を恥辱に染めるはず。
しかし目の前の男はそれをしないと宣言した。何か、悪い物でも食べたかと心配してしまう程には常道を外れた台詞。
「それに、勝が一番知られたくないであろう相手にはもう知られているからな」
「あいつも、来ているのか……」
だが、その疑問も氷解した。嗚呼、どうやら卯月コウだけでなく、彼女にも知られてしまったらしい。卯月コウが言った以上、彼女も他の仲間に報告することはないだろう。漆黒の捕食者と卯月コウ、そして彼女の三人は仲間内で一番付き合いが長く、それに比例して連携の巧さも随一であった。
卯月コウが顔を向ける先へ焦点を合わせれば、そこには全身を黒装束に包んだ影が一つ。二人が片手を挙げれば、それに応えるように得物の筒先を天に向けてくれた。
「今度三人でメシな、もちろん勝の奢りな」
「仲間全員で弄れないからってメシの席で晴らそうとするのは勘弁してくれ」
卯月コウが一撃で倒した相手、それだって彼にとっては土俵であったから辛くなかった。負けたことと卯月コウに助けられた事実があったとしても、それは自分が不甲斐なかった、力がなかったからだと言える。
しかし、しかしだ。飯の席でそれをネタにされるのは。
「飯が不味くなる……」
「いいじゃないか」
「何が」
「俺ともう一人の飯が上手くなる。トータルで見れば一人分得してる」
「おい」
けらけらと笑う卯月コウ。それに対する自身の胸中は暗い。何が悲しくて三人分のメシの代金を払って不味いご飯を食べねばならぬのか。
漆黒の捕食者も、そんな暗黒の未来を喰らうことは出来なかった。