二天の孤狼 ─落第騎士の英雄譚─   作:嵐牛

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よるはこれから

 

細く長い呼吸音が夜風に紛れて流れていく。

灯りも疎らな夜の公園、ぽつりぽつりと疎らに(たたみ)が立てられた広場の中心に、去原仁狼が静かに佇んでいた。

誰かが見ればその幽霊のような気配の無さに目を見開いた事だろうが、そもそも見るべきものがそこにいるとも気付かないかもしれない。

それ程までに己の気という気を全て殺しきっている仁狼だが、彼は己を中心とした周囲の全てを把握していた。

まるで殺しきって空っぽになった自分の中に、代わりに世界の情報を詰め込むかのように………今の彼に目隠しをしてみても、その後の動きに一切の影響はないだろう。

意識の全てを外に漏らさず、しかし広く遠くに(けん)を広げる。

その矛盾を理論で体現してしまうからこそ彼は強者なのだ。

今の仁狼の目そのものには、無人の公園に不自然に立てられた数枚の畳以外の何も映っていない。

目だけに頼ればそれで終わり。

しかし仁狼の感覚の前では、全てが丸裸だ。

 

「────────っ」

 

精神の揺らぎが完全に凪ぐと同時、仁狼は地面を蹴った。

瞬きも許さない速度で前へと進み、まるでそこに何かがあるかのように、何も見えない空間に向けて鋭く一閃。

仁狼の斬擊が通過した虚空から、とん、と小さな軽い音がした。

その直後にはもう彼はそこにはいない。

右、左、そして後方。

公園の中を辛うじて残像の欠片が網膜に写るかどうかという豪速で、ほとんど音もなく縦横無尽に駆け回り両腕を振るう姿は、まるで見えざる軍団と一人戦っているかのようだ。

仁狼が虚空を薙ぐ毎に聞こえる、板を軽く叩くような音。

気配が一つ一つ消えていくのを感じている彼の眼が捉えたのは、最後にぽつんと一枚残っている立てられた畳だ。

直ぐさま仁狼はそれに向けて吶喊、右腕を後ろに引き絞り───

 

「おっと」

 

直前で方向転換。

立てられた畳の数メートル横の何もない虚空を、十の字に切った。

とん、と音がして、触れられていないはずの畳が綺麗に割れて地面に倒れた。

───それで最後だった。

 

「………ふぅ」

 

息をついた仁狼の身体から大量の汗が流れ落ちる。

最大速度による運動もそうだが、それ以上に膨大な集中力を発揮し続けていたからだ。

 

「お疲れ様です。終わりましたね」

 

詠塚琉奈の声が聞こえた。

しかし仁狼には彼女の姿が見えていない。

消されているのだ。

能力によって。

 

「手応えはどうですか?」

 

「自信ありだ……評価といこう」

 

「わかりました。それでは」

 

かちん、と鉄を鳴らす音。

 

 

「《(うつつ)()らし》解除───閉じなさい、《水鏡(みずかがみ)》」

 

 

───その途端、仁狼が視えている世界が激変した。

仁狼の傍らには黒塗りの鞘に納められた懐刀───固有霊装(デバイス)水鏡(みずかがみ)》を握った詠塚琉奈が姿を現し。

公園の地面は、さっきまで見えていた畳の、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(うつつ)()らし》。

任意の相手が目で見ている景色を操る、琉奈の伐刀絶技(ノウブルアーツ)だ。

仁狼の視界をジャックして網膜に写る像を改変、地面に立てられた無数の畳を消し、閑散とした公園の光景に見せていたのだ。

 

これは敵の気配をより鋭敏に感じ取るための、仁狼の訓練の一環だ。

気配とは相手の視線や筋肉の微細な振動、それらから生じる衣擦れなどの音───その他様々な要素から導き出される、相手の意思を読み取る説明書だ。

しかし、ただの『モノ』にはそれらが無い。

動きもしない音も立てない何をしようという意思もない、さらに姿も見えないとなると、それを知覚する難易度は格段に跳ね上がる。

人間相手の方が遥かにイージーだ。

しかしそのレベルまで気配を絶つことができる相手がこの世界にいない訳がない───少なくとも仁狼はそれを()()

そんな敵を相手取るには、自身の感度を限界まで高めるしかない。

空気の流れやぶつかって戻る音の反響。

肌で感じるそれらのみを頼りに見えない敵を斬る。

己を知るそれだけでは足りない。

身に付けた力は即ち『脅威』。

薬に(たずさ)わる者が毒とそれを消す薬を必ず(つがい)で用意しているのと同じ。己の力に対する知識と術も共に身に付けて、初めてその力を掌握したと言えるのだ。

 

「全ての畳を消すのではなく、いくつか虚像(フェイク)を混ぜてみましたがどうでしょう」

 

「引っ掛かりそうになった。やっぱ視覚的な情報は影響がデカいな……次からもそうしてくれ………」

 

「わかりました。それでは畳の回収に移りましょうか」

 

「……これ全部か……?」

 

「当然でしょう。後始末という条件を含めて譲ってもらったものですし、それ以前に公共の場にこれを散らかしっぱなしは有り得ませんよ」

 

げんなりし出した仁狼にゴミ袋の束を投げて渡す琉奈。

仁狼が切り刻んだこれらの畳は、二人が宿泊している旅館から譲ってもらったものだ。

畳というものは処分に困る代物だ。

サイズが大きくて燃えるゴミとして出せないので、業者か役所に頼んで有料で処分してもらうことになる───旅館ほどの規模になると、処分する量もかかる金もそれなりにうざったい。

……しかしこれ、実は抜け道がある。

切り刻んで小さくしてしまえば、金を払う必要もなく普通に燃えるゴミとして出せるのだ。

『処分する畳を使わせて欲しい』。

『その代わりに無料で処分できるようにしておく』。

そんな交換条件で、「伐刀者(ブレイザー)の方の修行に使って貰えるなら」と快く承諾してもらった公園の地面を埋めんばかりのその残骸を、二人は今ゴミ袋に投げ入れている。

 

「まあ、それが道理だな……汗をかいてもう(ひと)風呂(ぷろ)と考えれば悪いものでもないか………」

 

「そうですよ。私もそれを楽しみに付き合ってるんですから。それに明日の予定もありますし、さっさと拾ってしまいましょう。

……ところでジンロウ、この旅館の温泉はこの時間から混浴になっていましてね……?」

 

「待ってそれ聞いてねえぞ」

 

ギョッとして振り向く仁狼だが、琉奈は「教えてませんもの」と澄ました顔で畳を回収している。

どこまで本気なんだよとぼやきつつまたゴミ袋の中身を満たし始めた仁狼の背中をくすくす笑いながら、琉奈は手近に落ちていた畳の残骸を拾い上げ、

 

「痛っ」

 

それに触れた人差し指に痛みが走る。

見れば絹のように白くきめ細かな柔肌に赤い血が一筋。

断面の角の部分で切ってしまったのだ。

自分の指と畳を交互に見た琉奈は、若干の八つ当たりを込めてその畳を仁狼の背に投げつけようとして。

 

投げつけようとしたその手を、動かす前に抑えられた。

 

自分に向けられた()を読み、敵が動くより速く動いて行動を封じる。

その速度とタイミングは完全に完成されていた。

しっかり真後ろに回り込んだ仁狼は片手で琉奈の畳を持つ手を抑え、もう片方の手を琉奈の首筋にぴたりと添えていた。

 

「………何のテストだ?」

 

「……お見事です。暗殺者(アサシン)の方が向いてるんじゃないですか」

 

「俺は剣士だ……」

 

お見事とは言ってみても、もはや仁狼の住まう次元は完全に琉奈の知覚の外なのだが……抜き打ちテスト(と彼は思っている)を済ませた仁狼はやれやれと再びゴミ拾いに戻った。

無駄に緊張の汗をかいた琉奈は、自分の指を切った畳をもう一度見る。

 

(畳。作りが柔らかくも頑丈で、銃弾や刀を防ぐ壁としても有能だったと言いますが)

 

残骸の一つを持ち上げ、しげしげと断面を眺める。

斬られた断面は滑らかで、編まれた藺草(いぐさ)にも一切のささくれはない。

角で指を切る程に鋭い切り口。

そう。

()()()()()()()()()()()()()───

 

 

(……素手で斬れるものなんですね、これ)

 

 

仁狼に触れられた首筋を指でそっとなぞる。

自分の手でバラバラにしたものを拾い集める仁狼の手には、いくつもの傷が痛々しく刻み込まれていた。

 

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