“常に在り方を変え続ける『武』という教えが、なぜ不変である書物で伝える事が出来るだろうか“。
“剣は普遍なる生まれの者にこそ伝承させるべし。異能などという邪道を持つ者に伝承すれば、その剣の真髄は疎かとなりたちまちの内に霞み消えてしまうだろう“。
現代の言葉遣いに直せばそんな考えを持っていたらしいその剣の創始者は、相当な偏屈者であったに違いない。
そしてそんな偏屈者に師事した者たちもそんな人間だったのだろう。
『剣の伝承に書物は不要』。
『剣を継ぐ者は非
流派が始まって以来、数多の先人が研鑽を重ね、改良を加え、
そうして、始まりから4世紀と少し。
固まった格式や修練の厳しさ、不親切な教え方。
それらが時代との齟齬を生み、やがて消滅していく。
今代の当主の名前は
娘の名前は詠塚琉奈。
二天一流詠塚派は、そんな剣の世界ではありふれた結末を迎えようとしていた流派の一つだった。
心の傷でひねくれた子供に何度も会って、話をして、心の底まで割ってからお互いに心から望み合う。
書類などの手続き関係もそうだが、孤児院から子供を引き取るのは簡単なことではない。
そんなプロセスをすっ飛ばして引き取られたのは、仁狼にとって酷く現実味のない出来事だった。
『今日からお前は
詠塚叡二と名乗ったその男。
うまく歩けず不格好に跳ねる仁狼の手を引く彼は、そう言ったきり何も喋らない。
握られた手のひらから伝わるごつごつと固い皮膚の感触は、今も鮮明に覚えている。
引き取られた初日、自分の体質について教わった。
次の日から始まった訓練は地獄だった。
殴る蹴るがあったのではない。
歩く、走る、掴んで動かすなど日常的な動作の訓練を延々と続けさせられたのだ。
当然、うまく出来ない。
するとよくわからない専門的な事と共に激しい叱咤を浴びた。
普通なら出来ることがどれだけ頑張っても出来ないという事実は、身の回りの世話を院の先生に任せて麻痺しかけていた仁狼の心を容赦なく軋ませた。
難しい言葉を必死で解釈し、死に物狂いで身体を制御する。
叫び返したい言葉は片手の数では足りなかったけれど、思うように身体を動かせるようになっていく実感と、きちんと血の繋がっている“父親“の娘の皆で暮らす時間は嫌いではなかった。
……しかし、地獄は続いた。
何とか身体を動かせるようになってから始まった剣の訓練は、それまでの身体を動かす訓練が天国に思えるような責め苦と表現すべきもの。
全身が最大級の金切り声を上げ、父を相手にした稽古では容赦なく打たれ、骨を折り、時に血を吐いた。
実地訓練と称した実際の戦地への殴り込みでは、何度死神に触れたかわからない。
『お前は弱い』。『強くなれ』。
そう言われ続け、泣くことも許されず仁狼は剣を振り続けた。
───なぜ自分を引き取ったのか。
“父親“となったその
幼い仁狼には、寡黙な彼の心がわからなかった。
だから黙った。言うことを聞いた。
必死で修練を積んできた。
“家族“と共に暮らす時間。
機嫌を損ねたら、自分はまた捨てられるかもしれないのだから。
詠塚琉奈は母親の顔を知らない。
父が言うには、母親は生まれついて身体が弱かったらしく、自分を産んで間もなく空へと昇ったらしい。
幼いながらに片親の寂しさも感じていたし、父は寡黙な人だった。
それ故にコミュニケーションが下手ではあったが、しかしそれ以上に自分は大切に育てられてきたと思う。
そんな中、突然家族が一人増えた。
難しいことはわからなかったが、当時の自分は話し相手が増える事を単純に喜んでいた。
父の話によれば、かつては門下生がいた事もあるらしい。
だが、訓練の厳しさに堪えかねてその全員が辞めていったそうだ。
そんな事を何度か繰り返して、最後に残った……というか連れてきたのが仁狼だった。
『どうにもならない自分の性質で一人きりになっている姿が自分と重なったから』。
“
仁狼を引き取り流派の根底とも言える前提を覆した理由を、自分は父からそう聞いた。
あれほど食らいついてくる奴は初めてだ。
あいつには才がある。
本人に聞こえない所で何度も彼を褒める父に、何度苦笑いを浮かべたことか。
訓練は時折傍目から見ても恐ろしいものだったが、そんな不器用な父が好きで、それに必死で着いていく愚直な彼が好きだった。
息も絶え絶えな彼を励まして、そして皆で食卓を囲んで。
幸せな時間だった。
そう思っていたのは、父と自分だけだったのかもしれない。
それが起きたのは、自分たちが中学生に上がって一年が立とうとしていた時だった。
『─────────っっっ!!!』
階下にある道場から聞こえてきた衝動の全てを叩きつけるような叫びに、琉奈は慌てて階段を駆け降りた。
まず目に付いたのは、床に打ち付けられへし折られた木刀。
こちらからは背しか見えないため、父の表情は見えない。
仁狼の表情はボロボロだった。
顔をグシャグシャに歪ませている感情の正体は、来たばかりの琉奈にはわからない。
『……もう、限界だ』
わななく唇が、最初にそう溢した。
『俺ぁ何で剣を振り続けてんだ。身に付かねえ事をずっと続ける意味は何なんだよ。なぁ』
『何を言っている』
『あぁ!? もう出来もしねえ事をやりたくねえっつってんだよ!! どんだけやっても弱い弱いって俺に言い続けてきたのはアンタじゃねえか!!』
叡二の声を掻き消すような声量で仁狼は怒鳴る。
怒りも悲しみも悔しさも、澱のように溜まっていた全てを吐き出すような咆哮だった。
『なぁ、当てが外れてガッカリしてんだろ? 俺を引き取ったの後悔してんだろ?
いつまでたっても褒める所の一つも出来ねえもんなぁ……どう考えたって俺ぁ剣を継げる器じゃねえもんな!!
何の益も生まねえタダ飯喰らいだもんなぁ!!!』
『仁狼』
『アンタはただ後継者が欲しかっただけなんだろ!?
流派の鉄則を破ってまで
もう俺なんか要らねえって、こんな落ちこぼれなんかよりもっと才能のある奴を選べば良かったって、そう思ってんだろ!?
───何とか言ってみろよ、なぁっっっ!!!』
静寂の帳が降りた。
荒く息を吐く音以外に、聞こえるものは何もない。
血液の代わりに悪心を巡らせているような心臓の音が耳に五月蝿かった。
2秒。5秒。10秒。
口を開かない叡二を睨む仁狼の目が、段々と力を失っていく。
やがて全てが抜け落ちたように虚脱した仁狼が、ふらりと叡二に背を向ける。
『どこへ行く』
『うるせぇ。もう何の関係もねえだろ』
投げ遣りに吐き捨てた言葉はひどく冷たい。
歩いていく足取りは力無く、支えを失ったかのように頼りなかった。
それでも、その言葉ははっきりと口にした。
あるいはそれは、父親に対する初めての反抗と言えたのかもしれない。
───血の繋がりという、水よりも濃い絆の鎖があれば、だが。
『……出ていく。…………二度と帰らねえ』
足元が崩れていく感覚がした。
追いかけて全力で引き止めなかったのを、琉奈は今でも後悔し続けている。
その時の父娘は、道場から出ていき消えていく背中をただ見ている事しか出来なかった。
何も持たずに出ていったのだ。帰ってこないなんて事はない。
また、いつもの日々が戻ってくる。
そう信じてから数ヶ月。
修練の妨げになるかもしれないから仁狼にはまだ言うなと言われていた病気の容態が一気に悪化し、あれだけ強かった父、詠塚叡二はあっけなくこの世を去り。
そして、仁狼は帰ってこなかった。