Fate/Fallen Craze -魔都の幻影-【現代中華Fate】 作:白木蓮之輩
プロローグ/骨喰鬼(前)
その日、目覚めた時から違和感があった。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ光景。
なのに……自分が、もうそこにはいないような感覚。
ごっそり世界から薄れて、やがて排斥されるような孤独感。
……いや。それは
だけど、決定的に違うのは————
わたしの全てが、今日、失われるだろうという予感だった。
*
【12月10日 朝】
「…………」
冷たい空気の中で目が覚める。
頭が眠気を訴えながらも、身体は半自動的にいつも通りの起床を繰り返す。冬場は温かい布団の中に籠っていたくても朝の少ない時間がそうさせてくれない。
今日も月曜日で、わたしは学校に行かなければならないのだ。
なのでだるさを感じながらも着替えを済ませる。普段繰り返している作業でも、こう手足が凍り付いていると面倒なこと極まりない。それでも生活の一部なのだから、スキップするわけにもいかない。
ベッドの横に置いてあるデジタル時計を見ると——時刻は六時四十分。この時間にもなれば、そろそろ起き上がらないと学校に間に合わない。
(ぐーーーーーー……っ)
おまけにお腹も……こうして食料を待ちわびているらしい。だがその前に、眠気をキレイさっぱり吹き飛ばさなくては。
わたしはふらふらとした足つきで洗面所へ向かった。
ダイニングへ出ると、テーブルには既にお父さんが座っていた。いつもならわたしより遅い時間に起きて、悠長に新聞——上海に住む
「おはよ、父さん」
「…………ああ。おはよう、
何かに集中しているのか、挨拶はそっけない。……でもまあ、いいや。
テーブル上の袋から
「お母さん、おはよ。卵焼き?」
「そうよ。———それが、何か?」
いつもなら喜んで味見させてくれるはずが、今日のお母さんはどこか顔色が悪い。体調が優れないのか……お父さんも同じような反応だったのと関係があるのだろうか。ひょっとして、夫婦喧嘩……それとも、わたしの成績——前回の試験結果がバレたからだろうか……?
けど思い当たる節もないので、気にせず朝食を続行続行。
そうして、朝の時間は過ぎていくのだった。
*
朝食と一通りの用意を済ませると、お父さんは出勤するのかと思いきや部屋に行ってしまった。
普段なら政治ネタでつまらないジョークを言って笑うお父さんなのに、今日のお父さんには表情というものがない。一度も失われなかったはずの
お母さんもそうだ。どこか、違和感。わたしに興味がないような、冷たい態度。まるでルーチンをこなすロボットみたいに。
弁当を作り終え台所から離れたお母さんが、わたしの視界から消える前に、
「あ……学校、いってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
玄関で挨拶をする。
けれど振り返ったお母さんの目は、人間味を感じないものだった。
……不可解だ。
粘りついたような不安が、ほんの少しだけを焦りを募らせる。
……けど考えたってどうしようもない。ただ日常を送るのが、今のわたしにできることだ。
だからそのまま、家を出ようとして———
ダイニングテーブルの上に紙束……無造作に置かれた、お父さんの仕事の資料らしきものに混じって、
古びて。ボロボロになったノートが、挟んである。
(なんだろう……?)
そっと抜き出して、手に取る。
薄い紙の表紙に、鉛筆のかすれた文字。
『聖杯戦争 記録』
……怪しい。
一瞬、そういう中学二年生的な趣味かと思われたが、この筆跡は違う。とても古そうだ。何だろう……背中に、寒気が走る。
(これを、お父さんが読んで……?)
聖杯戦争……などという単語を聞いたことはない。ただ、聖なる杯と、戦争という言葉から———殺し合いを連想させる。
パラパラとめくっても知らない言葉ばかり。不可思議な単語の羅列。胡散臭いモノだと感じるのに、何故だか興味を惹かれる。
(どうしよう……)
近くに誰も見ていないか、ぐるぐる見回して確認。……よし。
わたしは、さっとノートをバッグに入れて家を飛び出した。
*
ブルル、とエンジンの音。
埃っぽくガスの混じった空気。
冷たく汚れた空気と曇った太陽の光が、この街における冬の朝だ。
「何……これ」
現地の人々の喧騒が響く
……けどその内容は、子供騙しにしては出来すぎていた。
*
——聖杯戦争。それは、
——聖杯とは、あらゆる願いを実現する願望機。七騎の英霊を従えた七人の魔術師が
——七騎の
——聖杯に選ばれた者には三画の令呪が顕れる。令呪は英霊との契約に必要であり、三度のみ英霊への絶対命令を可能とする。令呪を失えば、英霊との契約も失われる。
——聖杯戦争の基盤は日本の冬木にて発明された。そして1930年頃、何者かによってこの地に聖杯のメカニズムが植え付けられ、昨年の発見まで眠っていた。
——この地の聖杯は199*年に覚醒予定である。
——その刻限までに、■■■は何らかの準備をしている筈だ。
—19※※.5.4.—
*
……読み進めていくうちに、ますますわからない。
日本とこの街……上海に関係のあるものらしいが、どこか違う世界の出来事のようでとても信じがたい。……でも
そう思った所でノートを仕舞う。エンジンのうるさいバスに大きく揺られ、窓から外を眺める。
街ゆく人、車、自転車はせわしなく、道路沿いに連なった小さい店や、その背後にマンションらしいビルが時折見える。それだけでなく、取り壊されてもおかしくないような、木造の家が並ぶ風化しそうな景色も。
この街に引っ越してから三年で、改めて思う。幹線道路やオフィスビル——現代的な風景が生まれているこの街には、未だ古い町並みや生活が隙間を埋めるように残っている。
その様子は、どこか空しいように見えた。暮らしや価値観をすぐに変えることはできない。ならこの街の人間は、古きを保ちたいから固執するのか、それとも取り残されているから追われているのか。
……判らない。わたしには答えを出すのは難しいし、そもそも当事者たちが気にしているのかさえ不明だ。けどどちらにしろ、今は古いものと新しいものが隣人同士のように存在していて、少しずつ、時代に合うように変わっていっているのではないか。
*
とはいえわたしは、普通の学校に通っているのではない。普通の学校……とは現地のカリキュラムで授業を行う学校だと定義しよう。しかしわたしの通う所は、そうではない。わたしが所属しているのは語学学校の日本語科。そのうち日本では高校にあたる部分だ。〝国際部〟と銘打った外国人だらけの棟の一フロアで、人数こそ少ないものの、同じ日本人の学生が同じ教室で学んでいる。
「ねえ望ぃー、今日の国語どこやんのか教えてよーぉ」
そうやって首に巻きついてきたのが同級生の
「……古典の『論語』でしょ。この前の授業で先生が言ってたと思うんだけど」
上着を脱ぎながら席につく。楓はいつも一番乗りだから、わたしは二番目に来たということになる。
「それがさぁー、あの人気分で予習の抜き打ちチェックやるじゃん? 週末遊んでたから、すっぽりやり忘れちゃったんだよねー……」
……途端、楓は目を伏せながら笑う。短い茶髪が風でわずかに揺れた。
風———教室のドアを閉めているのに感じる風は、温かい。一番に来た楓が暖房を付けてくれたからだろう。
「ちょっと今からダッシュで予習スーパー特急するよ!」
そう言って楓は、わたしの後ろの席に座って教科書とノートを広げた。シャーペンでカツカツと書き込む音が、二人だけがいる白い教室に響き渡る。
「なんて素早くあざとい……」
それを呆れながら見届けると、わたしも自分の準備を始めた。
*
クラスの中でも地味なわたしは、そう愛想が良いわけではない。人と話す時は思っているよりもエネルギーを使う。だからひっそりと、当たり障りのないように生活してきた。他人といるよりは独りでいたほうがコストがかからない。
……それは、何度も引越しと転校を繰り返しているせいでもあるのかもしれない。
そんなもの、といえばそんなものだ。あれからまた転校して、同じような事の繰り返しだった。けれどしばらくしてからはもう、いずれ繋がりを絶ってしまうのだとわかっていたから。だから失うことを恐れなくなった。
……自分の性格、なんてものは好きではない。嫌いかどうかも、自分ではわからない。つまらない人生だろうか。こうして衣食住に困らず、環境にだけは恵まれている。それは普通と同じ生活があって、親の仕事の都合で今、ここにいるというだけ。
これといった信条、目標もなく。ただ、目の前で流れる時間がわたしに与えられた全て。それを甘受しているし、
*
「『
四時間目の国語の授業。数人しかいないクラスの、がらんとした教室の中。教科書を片手に、
この話は、孔子が弟子の子路に、畑を耕している隠居人……長沮と桀溺に渡し場の場所を尋ねさせる場面から始まる。
しかし長沮と桀溺は孔子を、人を避ける者だとして批判する。長沮と桀溺は孔子とは真逆の、世を避ける者として生きているのだった。孔子に従っているのは間違いだ、孔子などより自分たちに従ったほうがいい——と、彼らは子路に言う。子路を通じてそれを聞いた孔子は、残念そうにするのだった。
「『……
「……『私は人間という仲間と共に生きないで、誰と生きようか、いや人間と共に生きる』」
「はい、正解ですね」
人と共に生きる……か。
孔子は思想家、そして政治家として、世を変えるため魯国に仕えた。しかしその理想——仁をもって世を治める徳治主義は理解されず、とうとう職を辞し、自らの理想の在り処を探すために各地を放浪した。
孔子はそのあまりに規模の大きい理想を抱いていたが、長沮と桀溺は孔子の、仕える主を選ぶような態度が気に入らなかったのだ。孔子にとっての「人」とは、万人ではなく己が求める一部の人間でしかない——と。
……人を選んで生きる、というのはわたしにも言えることなのかもしれない。理想……はさしてないけれど、自分が傷つかないために、そして都合のいいように生きるために……わたしは、進んで人と関わる事をしないのだ。
*
「——————」
四時間目終了のチャイムが鳴る。
なんだかいやに疲れたな……なんて思いながらボーッとする。
……眠い。
それも限りなく。
でもこれは、眠いというより……。
「望っ! 今日のお昼さ……って、どう……たの?」
頭が重い。
なのに手足に力は入らない。
意識がふわふわ。
軽くて羽毛のように飛んでしまいそう。
「だい……うぶ? ちょ……と、……しつ……いこ……か?」
声がする。
声はわたしを一度ゆすって、そして持ち上げる。
つた、つた。
浮いているような足取りと、ぐらんぐらんと揺らぐ身体。
白ばんだ視界が、落ちる寸前の電源のごとく点滅して……。
「ひん……つで……ね。しば…………ていれ……おる……しょう」
今度は違う声。
いつの間にか違う場所で、横たわっている。
感じ取れるものは少ない。
真っ白な世界と、砂のような意識。
時間も空間も、自分の感覚さえ掴めない。
……そして、そのまま。
消えるように、思考が途絶えた。
*
「………………っ」
灰色の天井と白い壁。
起きた時には、すでに授業が全て終わっていた。
夕暮れを映す間もなく空は深い藍に染まる。窓から雲が流れるのを視認すると、ようやく自分のいる場所を理解した。
「やっと起きたね。よかった……」
ベッドの隣に座っている楓が心配そうに言う。ぎこちない笑顔で、スカートをギュッと握りしめている。
「医務の先生は貧血だって言ってたけど、あたし、一時はどうなるかと思っちゃった」
「……そうなの。迷惑かけて、ごめんね」
「う、ううんっ! その……望にしては珍しいから、びっくりしたんだよ」
「そっか。でも……」
「んーと、どうかした?」
「もしかして……授業、抜け出してきたの?」
「えっ、そ、そんな事ないよっ! ほんと、全然っ!」
「……見ていてくれたの、ありがとね」
「っ…………!」
「それじゃ……わたし帰るから、また明日ね」
布団から起き上がる。籠った熱がふわりと発散されていく。
「あ、待って、まだ先生が———」
「ごめん……今日はレッスンなの。あともう少しで始まるんだ」
脇に置かれた荷物——おそらく楓がまとめてくれたものだ——を背負う。
「うん……また、ね」
楓の弱々しい声が、背後から聞こえる。
……少し、後ろめたい気持ちになる。けどわたしには、こうやって現実から目を背ける事しかできない。
振り返ることなく医務室を出て……そのまま、国際部棟の出口へ向かった。
*
学校から少し離れた場所に位置する、外国人向けの英語学習教室からの帰り。
地下鉄を使って帰宅する。
……今日は、なんだかおかしい。
気のせいか地下鉄駅構内の青白いライトが、痛まない頭痛を助長させている。
周囲は静かで、人はいない。無機質で不気味なのは元からだが、今日はやけにそれを意識してしまう。
まったく、お化けを恐れるような年齢じゃないんだし……。
まとわりつく夜の不快感を必死で追い払って、ガラス張りのドアの先にある地下鉄に乗り込んだ。
……時々、酷い空虚感に襲われる。今がまさにそれが起こっているんだろう。その違和感は上海に来て一年で平気になったから、かなり久しぶりだ。この街の……妖しさの漂う雰囲気のせいで、最初は慣れなかったのだ。
怖い、とは少し異なる。路地裏に幽霊が出てきそうな恐怖感よりも、自分が、乱雑で理解の及ばないものに埋没してしまうような錯覚。それをこの街の夜を濁す街灯を見ると、感じてしまう。
文化も。生活も。この街の空気も。なるべく慣れようとしているのに———どこか、障壁がある。
それが排斥。それが孤独。すぐそばにあって引きつけられるのに、決して触れられぬ隔たり。
ひと言でいえば、
……そんな曖昧模糊な異常を感じながら生活しているのだと、今になってようやく思い知る。
だから、自身が何か暗い穴に吸い込まれて消えていくような感覚も体験する。自我という概念を、この街では実体化しない不安が平坦にする。
こうやって家の鍵を開ける時すら、帰ったという感触がないほどに。
「——————?」
家の鍵は掛かっていない。疑問に思いながらも、一応はノブを回して開ける。だが———家の中は電気すら点いていない。
「ちょっと、なに……」
スイッチを押しても電気は点かない。冷たい空気が廊下から吹き抜ける。
仕方が無いので、携帯電話のライトをつける。とりあえず母さんと父さんは———
と、思った。その時。
「—————」
……気配。いや、これは気配ですらない。
蠢いているのではない、何か、
(ねえ、やめてよ……)
あの二人は、父さんならともかく専業主婦の母さんなら家にいるはずだ。いないとしても連絡をくれるはずなのだが、それもない。
けれどこうして暗闇で突っ立っているわけにもいかない。
部屋にいるかもしれないと思い、そこへ行くと、
————ふたつのヒトガタ。死体。
両親は鮮血を撒き散らしながら倒れていた。
「っ————」
眼前の光景を受け止められない。
脳が理解を拒絶する。
見たくない。
見てしまう。
二体のオブジェ、その胸には穴の空いたような刺傷。
そこから血が出ている。
そして、音もなく呼吸もない。
———ドクン。
異常。理解不能の恐怖。
———ドクン。
身体が崩れる。呆然とただ叫べない喉で叫ぶ。
———ド ン。
逃げないと。だが意識は倒壊してパニック状態だ。
——— 。
音か、それとも声か。
けど違う。
これは、こんな悪い予感は……
鼓動が凍結する。
時間が静止する。
見えない影が、首の後ろを舐めるように狙っている。
ここは危険。
そう、頭の信号を切り替えた———瞬間。
「何が、どうなって—————」
状況を掴めない。自分が何をしているのか、何を見ているのかわからない。
暗い部屋の中で唯一、携帯の明かりが照らす男の像が顕になって———おぞましい殺気に、心臓を握り締められたように苦しい圧迫を覚える。
「……やはり、帰って来たか。なに、
そう言って、男——人間の形をしたそれは、手にした得物を軽く構える。
…………ズキリ。ズキリ。
右手の甲が痛みを発する。突如訪れた痛覚に意志のない悲鳴をあげる。
……この痛みで、ようやく理解出来た。
わたしの両親は、殺されていた。
そしてわたしは、無防備にもそれを見てしまった。
…………ああ。それなら。わたしもきっと、ここで殺されるのだ。
「小娘の命を取るような男が儂だとは……あまり思われたくないが」
感情のない声。だがその奥には、命を奪う宣戦布告。
「しかし———
「っ…………!」
一瞬で突き出される。
音も空気も切り裂いて、得物は一直線に突き刺さる。
———ぐちゃ。
心臓が抉れた音。
痛い。
動けない。
心臓を貫通して、再び抜かれる。
「…………————」
失われていくのを知る。
痛みに耐えられず精神が飛んだのか、枯れた痛みだけが脳と心に残響する。
———どうして。
———どうしてだろう。
———どうして死ぬんだろう。
———どうして生きていたんだろう。
———どうしてここで終わってしまうんだろう。
———どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。
———どうしてこんなに、何も、何も何も何も感じないんだろう。
……薄まっていく。
暗闇に誘われるように、わたしの人生——自分でもよくわからなかったわたしという存在が、幕を閉じる。
生と死の狭間で漂う。
……薄まっていく中で。
右手の模様が赤く光ったと同時に、後ろから眩い光が差したように見えたのが、最後の視界だった。
*
醒めない奈落の夢を視る。
それは深く裂かれて、閉ざされる記憶。
異物に満たされたように、暗闇に沈んで———
このとき、
死んだ。
*
戦いの緞帳は上がる。
願望を抱いた者も、そうでない者も。
否応なく選ばれ、その運命の中でもがき続ける。
もはや夜が明けることすら、上海ではおこがましい事の一つになる。
幻影が膿まれ、伝染するまでの間。
魔都の夜は、長く、長く、続いてゆく————