Fate/Fallen Craze -魔都の幻影-【現代中華Fate】   作:白木蓮之輩

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プロローグ/骨喰鬼(後)

 

【 ------- 】

 

 

 

 空の上だろうか。

 果てしなく続く雲と澄んだ群青が、成層圏を水平に切り分ける。

 静止した時間の中で。私は、小さな窓越しに切り取られた空を眺めている。

 記憶の残滓。

 揺蕩う無意識の中で、再生される静寂の映像。それは何かを失った記憶で、失ったという感慨だけが、私という容器の片隅に残留している。

 乗客は私ひとりだけだ。

 両の手の平で覆い尽くせるほどの窓からは、翼さえ見えない。身体の輪郭が闇にぼやけて、境界をつかめない。……キャビンの中は暗く。周囲の構造は、利かない目ではよく見渡せない。

 水の無い水槽のように。飛行機のその空間は、どこまでも気が滅入るくらい、空っぽ、で———

 硝子に映る私の姿は、何か、違う物に見えて。

 だから、ずっと。窓の外の空を見続けた。

 

 

 *

 

 

 あなたはだれ。

 あなたはわたし。

 わたし()が死んで、

 あなた(ノゾミ)は生きる。

 そう。だって、この(からだ)は———

 

 

 *

 

 

【12月11日】

 

 

 痛み。

 そして、吐き気と頭痛。

 体の内側が空っぽになった感覚に耐えかね、ゆっくりと目を開ける。

「ここは……」

 知らない部屋。

 そこに在ったのは初めて知るものばかりだった。呼吸も、指先の感覚も、自分の存在も———まるでリセットされたかのように、初めてだ。

 虚無の中に漂っている。現実であるはずなのに、そうだとは信じられない。それは、何か……喪失した感覚のようで。

「っ——のぞみ……?」

 私の時計は、すぐ近くからの知らない声によって、動き出した。

 

 

(ウチ)の玄関の前で……血を流して倒れてた時は、本気で焦ったんだよ? ……傷口は、塞がってるみたいだけど」

 ベッドの脇。丸椅子に座った少女が語りかける。

 目尻を濡らして。顔は仄かに紅潮して、かと思えば安堵したように笑った。

「あの……」

 辺りを見渡す。……木製の家具。柔らかい色の天井。時計が音を刻む。私は困惑して、もういちど少女の顔を眺めた。

「あなたは……」

 誰ですか、と続けようした時。

 ——気のせいか。少女はまた、悲しそうな表情に戻る。凍りついたような。それも一瞬だけで、すぐ状況を理解したように小さくうなずいた。

 私には、その意味が……わからなかった。

「やっぱり……昨日の夜、何かあったんだ。午後も貧血で、医務室で寝なきゃいけないくらいだったんだし……うん。でも大丈夫だよ。心配しないで」

 少女の名前は、長月(ながつき) (かえで)といった。そして私の名前も教えてくれた。

 柚木(ゆずき) (のぞみ)

 それがこの体の名前。

 カーテンから漏れる光が、ちょうど少女の片方に影をつくった。それでも彼女は少しも笑顔を崩さず、私の記憶の手がかりを見つけようと、試みる。

 街。家族。通っていた学校。友人の名前。

 私にまつわる、ほとんど全ての情報を挙げられて……引っかかるものは一つとして無い。

 ほんの数分前に、私が始まったように。何もかも、記憶が無記名で空白。

「きっとショックだったんだよ。あたしは、望の記憶が戻るって信じてるから」

 震える声で、私を見つめる瞳。

 その奥には初めて知る、誰か()の姿が映っていた。

 

「もう少し、眠る? 体が痛かったら教えてね」

 お粥で朝食とも昼食ともいえる食事を済ませて、私は起き上がれるくらいに恢復した。

 食事を作ったのは、もちろんのこと目覚めた時から付きっきりの少女だ。

「ううん……大丈夫。本当に、どこも痛くはないよ」

 楓は優しかった。何も知らない私に、ほとんど赤の他人のような彼女の存在は、心強かった。……だけどそれでも、私の空白が消える事はない。

「それじゃあさ、」

 まっすぐで、大きな瞳が向けられる。その、澄んだ黒水晶のような意志が私に訴える。

「散歩でも、しに行こうよ。たとえば、そう——あたしたちの思い出の場所に。そうすれば、思い出せる……かもしれないから」

 

 

 *

 

 

 午後一時に私たちは出発した。

 ……この街は広い。長い時間を地下鉄に揺られて、そして歩いた。舗装された道。むき出しの砂利道。坂を上って、緑が茂る林を抜けた。

 街の西側の、ずいぶんと遠いところだ。『虹橋』と呼ばれた郊外地区。高いビルのない、ほとんど田舎のような土地。そこには——

 校舎。

 そこには、学校があった。

 

「三年も前だっけなあ。望が転校してきた時のこと」

 校舎の外周をぐるりとひと廻りして、楓は言った。

「望は結構、人見知りでさ。あたし達は席が隣だったよね。その頃からの腐れ縁。結局、中学を卒業して高校に上がってから、望はあんまり遊んでくれなかったけど。あたしは、それで満足だった」

 楓は……語り続ける。それを私は聞いている。その柚木望はきっと私じゃない。私は他人の思い出を聴かされていることになる。けれど楓は本当に、楽しそうに笑いながら話していて。その姿に私も少しだけほころんだ。

「ミキっちもマホカちゃんも、日本に帰ったけど元気みたいだよ。なんだか懐かしいなぁ……」

 風が吹いた。雲が、遠くから流れてくる。冬の弱々しい陽の光は、すぐに灰色の雲の後ろに隠れた。すると瞬時に寒くなって、肌をぞわりとさせる。

「…………」

「そっか……まだ思い出せない、よね。でも大丈夫だよ。……きっと。きっといつか思い出せるって」

 ごめんなさい、と私は言うほかなかった。

 ……こんな、思い出に浸る笑顔を見せつけられて、私はどうすることもできなかった。この身体に入った私という魂が、無に塗りつぶされているだけだった。

「帰ろっか」

 

 

 また地下鉄を、帰りの方向へ下った。

 その途中。ついでだからと降りて、歩く。

「魯迅公園はあたしと望の中間地点なんだ。虹口にあるあたしの家と、望が住んでる外灘(バンド)近くのね。ここで少し休まない?」

「学校は……いいのかな。今日は平日なんだよね。朝から私の、面倒ばかりみてくれて」

「あっはは。学校なんてサボるものだよ! 今日が初めてだけどね。望は友達だからいいんだ」

「そう……」

 辺りはだいぶ、橙色に染まってきた。雲が出ているからよけいに赤い。

 私たちは空いているベンチに並んで座った。

 そこから、大きな池が見渡せる。水面には鴨が泳いでいる。なんて悠長なんだろう。でも眺めていると、どうしてか落ち着いた。

「そういえばさ。あたしもまだ、行ったことない所がたくさんあるんだよ。華の17歳だっていうのに、ぜんぜん遊ばないのは勿体なくない? 今年は遠足で豫園を巡っただけだし。外国書の本屋とか、新しくできたアニメショップとか……今度、望と行ってみたいなー」

「……うん。そうだね」

「約束してくれる? 記憶が戻ったら、一緒に行くって」

 その時私は、気づいていたのだろうか。楓を染めたのは、夕暮れの紅か、それとも。

「いいよ。約束、する」

 段々と薄暗くなって、表情もよく見えない。最初から人がまばらだった公園は、私と楓の貸切状態だ。でも彼女が、嬉しそうに笑っていることだけは判った。暗い空に一瞬だけ、雲間からオレンジ色が覗いたから。その笑顔は、初めて知るのに———なによりもまぶしくて。朗らかだった。

 

 ……辺りは静かだ。このまま、ずっとここにいたい気持ちになってしまう。

 楓との距離は近い。直に体温を感じられそうなほどだ。指先をつつかれたような感触のあと、手と手が触れ合う。……鼓動が速く。見入るように楓は、私に顔を近づけて。

「………き」

 のぞみのことが、と。

 聞こえたような気がして。

 薄く開かれた小さな唇が、触れそうになり……

 

 

 それは。急速に暗転する周囲によって、阻まれた。

 

 

 *

 

 

 夜は訪れた。

 夜が来てしまった。

 夜になれば決まってそれは戦いと、暗雲のような異端たちの跋扈する地獄である。

 暗くなった公園。

 静まり返った公園。

 そこはすでに、街の人間を狙う———『魔』の足が及んでいた。

 

 

 *

 

 

【12月10日 襲撃後】

 

 

 現界後、何かが欠けていることに気づいた。

 視界はある。

 意識はある。

 感触がある。

 自我がある。

 だが足りないものは、肉体にあった。

「ご———が———ッ」

 この(れいき)は穴だらけだ。不完全な召喚だった。

 (あるじ)たる少女は心肺を貫かれたまま生存した。

 血統に植えられた呪詛が彼女を生存させた。

 刻印は右手の甲に。

 薄く烙印のような傷跡が刻まれた。

 ……だがその生命活動すら不完全で、魔力源が不安定だ。

 移動させねば。

 存続させねば。

「我に——ちカラ、ヲ……」

 我に力を分け与え給え。

 そう、自らの奥に棲む()()(ねが)う。

 これが代償か。

 馴染んでしまった魂魄が腕を脚を作動させる。

 既に少女を抱えたまま公寓(マンション)を飛び出し、携帯電話に記録されていた地址(アドレス)へ急ぐ。

 ……魔都の通りは異形と邪教徒の巣窟だ。

 それらを避けながら、ある家の前へ到達する。

「貌を……、繕わナケれば————」

 濁った月を見上げて睨む。

 恨んだのは神かこの世の輪廻か。

「———否——オレハ、アノ業ノタメニ———」

 だからこのような姿に成り果てたのか。

 ……歪な聖杯。

 そのカタチを暗く細い(あな)で垣間見た。

 これは正当な戦いではない。

 正しい闘争ではない。

 ならば、自らが喚ばれたのは———それを抑止せんが為か。

「タダ、求道アルノミ—————」

 それが目的だろう。願望だろう。

 行うべき業は、ここに於いて唯一つに決定した。

「聖杯ヲ———喰ラウ」

 

 

 *

 

 

【12月11日 宵】

【魯迅公園】

 

 

 ……寒気がする。

 辺りは静かなのに、騒がしい。

「何か……おかしくない?」

 楓が我に返ったように離れる。手を引き戻す。

 池にも緑にも生気はない。まるで、吸い取られている。

「——そろそろ帰らないと」

 お互い顔を見ずに、公園の出口をめざす。

 ザザ——と木々が不吉な雑音を奏でる。

「夜は怖い?」

 私は答えない。

 いや、()()()()()()

 なぜなら。

 なぜなら———すぐ後ろに。

「逃げてっ……!」

 叫んだと同時、茂みから黒い物体が飛び出る。

「きゃ——⁉︎」

 それは生物ではない。黒く淀んだ、ヒトの形をした化け物。

 目と思わしき白い穴がイカれている。口からは醜くよだれが垂れ、まるで……腹を空かせたケダモノ。

 だがそれを怪物と言うにはあまりに輪郭が整いすぎている。ぼろぼろに破れた服を着込み、しかしその躯体は黒色の霧に包まれる。

 ギョロッ——

 白い眼球が禍々しい蛍光を放ち、その中央に黒点が宿る。

 こちらを見ている。

 私の鼓動は止まりそうになり、体を思うように動かせない。

「何してんの、望…………っ!!」

 楓が腕を掴んで引っ張ろうとする。だが私はそれを、振りほどいてしまった。

 いつの間にか、化け物は一体ではなくなった。

 ……蜂の影のように集まる。ざっと目視しただけでも六つ。

 ヒト型の異形。

 そうとしか形容できないモノたちを前に、私の目は釘付けられる。

 醜いのに。

 汚いのに。

 だけどそれはどこか———親近感にも似た、

 

 ()()

 

「望……しっかりしてよ、ねぇってば!!」

 変わってしまったものたち。

 変えられてしまった者たち。

 衝動が引火する。

 何か、体の奥から———湧き上がる破壊欲求。

「…………アァ、うッ……」

 異形が迫る。背後では楓が叫んでいる。

 ……瞼を閉じて、また開いた。

 六体の頭部には———視える。人間の()()()が。

 そして、私の世界は狂い出した。

 

 

 /

 

 

 六つのヒト型が蜘蛛のように這いながら二人の少女に近づいた。

 一人は怯えて足がすくんだ。

 一人は髪を掻き毟り金切り声をあげる。

 ……周囲に魔力が撒き散らされる。六つのうち一つが飛びかかり———動けない少女の腹部を貫く。

 夥しいまでの血が空中を舞う。そうして地面に打ち付けられた音が響き、倒れたのは——怪物の方だった。

 

 そこで覚醒は済んだ。

 後に残されたのは一方的な蹂躙である。

 捕食されながらも少女の傷口は瞬時に癒え、代わりに怪物が絶命した。

 少女の眼には怪物の〝骨格〟が視える。それを片っ端から折って折って折って、「消滅」させていく。

 見事なまでの早業だ。行使する少女自身すら、この顛末を認識し得まい。

 手で触れずとも向こうから襲い掛かり、鋭利に変化した爪を少女の皮膚に食い込ませた瞬間に———事は済んでいる。

 その傍で。ただ恐怖と驚愕に打ちひしがれた観客()が、蹂躙者(ノゾミ)の破壊を目撃する。

 昨日までと、今日この瞬間の。

 友人だった者の、そうだと思われていなくとも友人と信じ続けた柚木望の、完膚なきまでに逸脱した姿に本能が拒絶して、

 六体目が破裂した時には、気絶していた。

 

 

 /

 

 

 終わった後は、痛みで全身が軋みを上げた。

 目の前で繰り広げられた——自分の体が繰り広げていたのは、凄惨すぎる光景だった。

「っ、あ————」

 見られた。

 楓に……見られてしまった。

 血の海から生臭い腐臭が漂う。化け物たちの臓腑は塵となって虚空に消え、身体中に魔力が満ちる感覚をおぼえる。……数秒前の興奮が、やっと手の中でリアルに伝わる。

「これは、ちが——」

 違う。こんなの違う。

 そう言い訳したい。私がこんな、バケモノじみたことをするなんて、違う。

 ……衝動が薄れる。また、無で空白な私に戻る。

 言い訳しようと、振り向いた時には、

「——————」

 楓の姿は無かった。

 

 

 *

 

 

「ハア———ハア———」

 夜の歩道を駆ける。

 公園を出ると暗闇が晴れ、街灯の明るさに目が慣れない。

「楓———どこに」

 がむしゃらに、路上の悪臭を放つ水溜りやゴミを避けながら走る。一本、一本と。街灯の影を踏み越えて、人通りの多い十字路に脱出する。

 ……ここはどこだろう。でもそんな事は構っていられない。

 一刻でも早く楓を見つけて、見つけて……どうするのだろう。

 自身の歪な衝動に釈明する?

 そもそも自分でもわからない自分の姿を、楓の口から告げてもらう?

 ———そんなのは、恐い。

 嫌われるのが恐い。

 拒まれるのが恐い。

 だから歩調が緩慢に、歩幅が小さくなる。肩から力が抜けて、言いようのない絶望感に吐きそうになる。……遠くの灯りが、霞んで網膜に染み付く。

「私は、どうすれば」

 やがて止まった。行き場所を見失った。楓——かえで。私から離れてしまった彼女を想う。しゃがみ込んで、通行人の視線を受けながら俯くしかなくなる。もう、私には残されたものなんてひとつもない——そんな事を、考えていた時。

 

 ……い、た。

 楓の姿が、二つの交差点の先に。しかしその横には、屈強そうな黒服の男たち。

 ——眠らされている。

 通行人が誰も目に留めないのか。腕をだらりとぶら下げた楓が、三人の男によって堂々と大型の自動車に乗せられる最中で、

 それと同時に、左の方からバスがやってくる。目の前には丁度、電光掲示板付きの停留所がある。

 これに乗るしか……そうしなければ、あの、既にエンジンの掛かった自動車には追いつけない!

「迷うな……ぜったいにッ!」

 頰を叩いて立ち上がる。

 ドアが閉まる直前———私はバスに飛び乗った。

 大きく前後に揺れながらバスは発進する。その前方、数台の車を挟んだ先に目標の自動車が見える。

 おおよそ同じ距離を保って……しかし、それも束の間だった。

 自動車は。まるで闇にかき消されたように、突如として消えた。

「う、そ————」

 目を凝らす。数台の車両の間に生じた空間。街灯に黄色く照らされ……道路に映されたのは、自動車の()

 原理はわからないけど……とにかく追うならこの影だ。

 予想はしていたものの、やはり自動車の影は次の交差点で左へ曲がり———

 そのすぐ近くには停留所。バスが、減速しながら停まる。

 私は前方から踵を返して後方の降車ドアへ向かおうとして——代金も払わずに——けど先に降りる乗客にぶつかって転倒する。

 背中から衝突し、一瞬だが激しい痛みにむせ返る。再び起き上がろうとした時には、

 既に扉が、警告音と共に閉まっている。

「まずい……!」

 急いで運転手の方へ。すぐにバスを停めてください——と。伝えようとしたが、

「 あ  ————」

 出て、こない。

 喉元で息が止まって、みっともなく呻き声を詰まらせる。それもそのはずだった。……ここは、私の知らない街。言葉も通じない街。私が何かを言おうと、私と同じ言語を話す誰かがいなければ会話すら不可能なのだ。

 乗客の奇異な視線が痛い。近くに座る中年のおばさんが何やら喋っている。その声は次第に怒鳴り声に変わる。次の停留所で降りろ、との事なのか。……この街は全然、優しくない。理解できない言葉がよけいに思考をかき乱す。バスがようやく停まって降りる頃、私にはもう———同じ道を逆戻りして、あの自動車の影を追うことしか、頭になかった。

 

 

 /

 

 

 暗闇に溶ける「彼」には予感がある。

 魔の苗床となった上海。それらを狩る者。監視する者。生み出した者。

 此度の戦いの、遥か以前より定められた筋書き。その状況から己を喚んだ存在も、また知らずのうちに関係した者だ。

「———グルゥ——」

 既に仮初めの生を受けて、一日。

 この魔都の夜に時間の区別はない。ただ聖杯戦争が進行すれば明ける夜だ。

 その間。街を彷徨い真相への手掛かりを捜した。……だが成果は乏しい。解った事といえば、街には奇妙な魔力が充満しているという現状だけだ。

 一日も経てば、自身の魔力量にも底が見える。

「……頃合いであろうな」

 であれば。一旦捜査を停止し、召喚者(マスター)と合流するべきなのだが———

「  ————ッ!」

 ——呼び声。

 頭部(のう)の奥へ魔力が流れる。それも膨大な。遠距離跳躍・大質量攻撃などを可能とする絶対命令権による、回帰指令。

 前奏は終了だ。これより始まるのは人と異端の戦い。魔と使い魔の戦争である。魔力が霊基を満たし、鬼気みなぎる全身を薄赤い光が包み込んで、

 一瞬後。戦場に、飛翔した。

 

 

 /

 

 

 数歩走った足が重い。背後でバスの発車音が轟き、遠ざかる。いつの間に人は少ない。車通りも皆無だ。これなら——これなら。公園で一度味わった、鼻先の粘ったい感覚から見つけ出せる……!

 

 広い路を信号さえ無視して渡る。最短距離でなければまた取り逃がす事になるだろう。あと一つ、あと交差点を一つでも渡れば見つかるはずだと信じて走る。湧き出した汗が冬の冷気に触れて凍りそうになる。身体中重苦しいのもそのせいで、だけどきっと気持ちにもとっくに陰りができている。

 それでも、それでも追わないと。吐く息に鼻水が交じっていく。限界なんて見えない。そんなものはない。ただあの校舎で、あの公園で———つい数時間前に楓が語ったことが、脳裡に流れては泣きそうになる。……昨日までの私は。記憶を失う前の私は、ちゃんと向き合っていたのだろうか。自分は一人なのだと自分で自分を辱めて、距離を置いていたのではなかろうか。……それは今だって同じだ。ぜんぜん変わらないんだ。勇気を持てずに、失うことを恐れるばかりで——ちっともなにも、誰か(たにん)のために考えていないじゃないかっ———!

「あぁ………ぁああっ——————!」

 だから苦しいんだ。寂しいんだ。こんなに、あの優しい楓に会いたいのに現実が変わってくれない。傷つけてしまったのではないかと後悔する。でもなにより、離れていくのが連れ去られていくのが不安で不安で———助けなければと、歯を食い潰して前を向く。

 すると。

 また、一つ先の交差点に———見つかった。

 大きな黒塗りの外車。そこからドアが開け放たれ、まるで私が来ることを予測していたように……二人の男がこちらを向く。車の中の一人が、おそらく楓を抱えている。

 もう我慢なんてできない。ただ頭に上った憤りに任せて突進して——、しかし。

「え——」

 男たちの手から光。口にはブツブツと何かを唱える。まずい……これって。私を、始末(ころ)しに来て、

 ———そこで、ふと。自分でも驚くほど自然に、右の手を眼前に掲げた。

 

 手の甲には——初めて気づいた、何かの模様。

 (つるぎ)のような。その周りには……気体が蒸発するように妖しく込み入った、歪な曲線の束。

 ……無意識が訴える。それを使え、誰か(助け)を呼べ、と。

「なら———」

 (それ)を、空高く突き抜けるように振り上げる。

 男たちから目を離さず。光の奥から球のような質量が迫り、時間がコマ送りのように感じられゆっくりと引き伸ばされて流れるなか。

 ありったけの願いと祈りと、誰にも負けない意志を込めて叫ぶ。

「来て———私の———」

 

 

 /

 

 

 暗がりに潜む「彼ら」は遠くから眺めている。

 少女が黒衣の邪教徒に立ち向かう場面。乱入の隙を窺っている。

 閃光の発動を合図とし、男たちの背後を獲る。少女から目を離さず。建物の陰から舞い出て、三十メートル斜め前方を狙う———だが異変がある。

 着地した時には既に遅い。一瞬赤い光が輝いて、その眩しさに視界を奪われそれでも二秒後に目視したがすでに、

 少女と男たちの間には長い()()で閃光を斬り、有り得ぬほど「妖鬼」の気を纏った、

「サーヴァント————」

 

 

 /

 

 

 目の前で何者かが現れた瞬間、それが私の救いなのだと判る。

 流浪の武者のような出で立ち。だけど何かがおかしい。その、よれよれの衣服から伸びる屈強な腕が、腰に付けられた長物を掴み———()()する。

 巻き起こったのは旋風。それとも嵐。黒い霧のような爆発が雷鳴とともに広がり、

「鬼神、招来」

 そう聞こえた、直後。

 剣士——男の姿が()()()。禍々しく鎧にも似た、けどそれにしては蠢く様子が布を思わせる胴体四肢。その上にある面は黒く———眼窩の無い、阿修羅か般若に見紛う形相。到底人のそれとは思えない(ソレ)が握るのは、剣——いいや。腕と同化して爪のように、異形の刃へと変化して——自動車と男たちを寸分違わず無力化(スラッシュ)する。

 ———でもその向こうに。

 紅い服を着た女と、白髪の男。おびただしい魔力の吸入に吐き気を催して、

「…………双刀使いッ………!」

 人間の体に姿を戻した剣士——貌の無い青年が楓を抱きかかえてこちらを振り返る。

「———逃げるぞ!」

 私は青年に背負われ、向こう側の女と白髪(ふたりぐみ)の乱舞が虚しく空を滑ったのを見届けて、

 

 突風に吹かれながら。混沌と化した、無人の交差点を離れた。

 

 

 *

 

 

【長月 楓 宅】

 

 

 交差点に現れた剣士の青年に連れられ、楓の家に到着する。

 リビングに慎ましく置かれた、小さな一人用のソファに寝かせたあと。身体の状態を確認する。……幸い、傷はどこにもない。

 楓は安らかに寝息を立てていて、生きていることに安心する。

 ……けど。それも気休めだ。

 どうか覚めないで欲しいと、思ってしまう。私の胸にはそんな畏れがある。短く強く……チクチクと。後ろめたい気持ちが、砕けた容器から絶え間なく流れるように起こる。

 もう———合わせる顔がない。

 だって知られてしまったから。怖がられてしまったから。変わってしまったんだから。楓の中にいた私はもう、この世の何処にもいないんだから。だから……一緒になんていられない。私から離れなきゃ、いけないんだ。

「……最低だ」

 そんな理由で?

 あの、死ぬかもしれない夜の戦いから、巻き込みたくないからじゃなく?

 自分に怒りを覚える。どこまで私は、空回りなんだろう。嫌気がさして、これからどうすればいいのか、わからない。

「……っ」

 涙を堪えようとして、顔を上げる。……調度品の棚が目に入る。写真。幸せそうな家族の集合写真に、とびっきりの笑顔で笑う幼い楓の姿。

 でもそれは。その横には。

「ぁ————」

 それは……仏壇だった。消えた線香といっしょに、小物と缶入りの食べ物が供えられている。

 ……そこで悟ってしまった。写真の日付は遠く昔。この家には楓以外、誰一人住んでいなくて——思い出の品物だけが、白い壁と天井にせめてもの彩りを与えている。

「なんて、こと」

 楓は、独りだった。

 ずっと前から独りで、孤独に生きている。あの窒息するような空白を抱えて、それも家族と呼ばれる存在に守ってもらえない世界で、それでも無理して笑っていたんだ。

「私は……」

 

 私は、背後に佇む剣士へ振り向いた。

 貌を面に覆われた逞しい体格の男。私の知らないうちに、召喚してしまった英霊(サーヴァント)

「私に———できる事を。教えてください」

 迷いなんてきっと、山ほどあった。握った拳が震えて、堪えていたものが溢れそうになる。真っ白な胸の中に赤い筋が入ったような痛みが、かろうじて私という容れ物を自認させる。

 聖杯戦争。マスター。殺し合い。願望———

 ……奇跡なんて、欲しくはない。それでも私が……この私が虚無に生まれたのは、運命以外の何だっていうんだろう。

「オレとの契約は、既に破る能わず。選択肢は一つしか有り得ん。その凶星から逃れる事も、命運を覆す事もできまい。令呪を棄てる気がないのなら……全てを賭ける、覚悟があるのならば——(こたえ)は自明なり」

 戦わなければならない。

 生き抜かなければならない。

 それが孤独で、報われないものだとしても。

「あなたと、戦います」

 私は、ここにいるのだから。

 

()い。

 我がクラスはセイバー。ノゾミ———汝の剣となろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

/次章へ続く

 


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