草むらが揺れた。桃太郎は腰の刀に手をかけた。その手は、震えている。おじいさん、いや、父から剣術は教わった。その修行、およそ二年。しかしその年月に対して、桃太郎は生き物を斬ったことが無かった。命をこれから奪いに行かねばならない身であるが、それでも、偽善めいてはいるが、殺したくなどない。桃太郎自身、命を拾われたようなもの。自分も、誰かの命を拾える人間になりたいと、そう願いながら成長した。その想いで剣を学んだ。
しかし、その願いは軽んじられた。桃太郎がそんな優しい子だと分かっていて、両親も彼に頼むほか無かった。桃太郎が暮らす村は、今の言葉で言うなら限界集落。平均年齢六十五オーバー。誰が村を脅かす鬼を斬り払うことができようか。歯を食いしばりながら、心の内では泣きながら、
「鬼退治は私に任せてください!」
と、桃太郎は言った。村人は桃太郎の勇敢さを拍手で讃えた。桃太郎の両親だけが少し離れた所で申し訳なく桃太郎を見ていた。
ガサリ、ガサリ、自分のものではない足音が、桃太郎へと近づく。拭う余裕のない汗が、地面に落ちた。喉が乾く。体から水分が失われていく。涙ですら惜しい。このまま乾いて果ててしまうのでは、という考えが桃太郎の頭に浮かぶ。首を振って、その考えを払う。鬼退治を成すまで、果ててはいられない。これが私の恩返しだ、と思った瞬間。
「ほぅ、なかなかよなぁ」
と草むらから声がした。
桃太郎は油断せず声のする方を見遣った。現れたのは、犬。立てば大人の身の丈を優に超えるであろう巨大な犬であった。毛は白。
「そないに緊張されても、何もない。もう合格や」
「合…格……?」
「おまえは……あー、名前!名前は?」
「………桃太郎ですけど」
「姓は?」
「………無いですけど。嫌がらせですか」
桃太郎の表情が鋭くなる。姓を持っているのなんて、それこそ領主か侍のどちらかだろう。なぜそんな愚かな質問を、城から遠く離れた僻地である道端でするのだろう。犬風情におちょくられるのは桃太郎としては我慢ならなかった。
「ちがうちがう。風体、構え、そしてその刀からして、そーいう人かと。気ィ悪くしたなら謝る」
「……そうか」
侍っぽい、と言われ桃太郎は手を天に掲げ「よっしゃー!」と叫びたい衝動に駆られた。なんとか耐えた。それは、無事に帰ってからでいい。勝利の報告と共にすればいい。そんな桃太郎の葛藤を知らずに、犬は厳かに告げる。
「忠義を果たしに行くのだろう?」
桃太郎は首を傾げ、はて、忠義とは?と考えた。桃太郎は村育ちである。大陸から渡って来た儒教に絡むだろう忠義の概念がよく分かっていないのである。いや、儒教など関係なくとも分かるだろうと思われるかもしれないが、どうにしろ武士が大事にするような概念なので村育ちの青年には手の届かぬ、難しいものである。
あ、コイツ分かってないぞ。と犬は察した。あまりにも桃太郎がキョトンとしているからである。その顔を見、あれ?と何か違和感を覚えたが、今はいいかと放り投げた。さて、忠義をどう説明したものか。犬も困る。夕飯の献立に悩む主婦のように困った。
その困ったさまを見た桃太郎は吹き出しそうになった。おばあさん、いや、母が井戸端会議で「あらやだ〜」とか言いながら近所の人とこう喋って居たのを思い出したからである。右腕を立てて左は右肘に添える型を、犬がやっている。現代ならインスタ映えすることであろう。その光景に吹き出さず、耐えることに成功した桃太郎は流石と言える。
笑われかけていることに、幸運にも犬は気付かなかった。もし気付いていたなら、桃太郎の旅はここで終わっていたかもしれない。それほど危険な橋だった。桃太郎は賭けに勝ったのだ。史上最もしょうもない賭けだった。
犬は頭上に豆電球を浮かばせ、言った。厳かに。
「桃太郎、今から誰かのために働くんだろう?」
そう。犬は忠義を噛み砕いて説明しようと思い立った。誰かのために動くこと、それこそが犬にとっての忠義の真髄であった。
問いを受け、桃太郎は考えた。村人、父、母……みんなの顔が頭をよぎる。メリーゴーランドよろしくぐるぐる廻った。廻って廻って出した答えは。
「いいや、誰かのためではない。ただ、恩を返す。つまり自分のためだ」
言い切った桃太郎を見て、犬は驚愕した。やはりどこぞの大名の息子かなんかなのでは無いだろうか。そう思いかねない、そう、迫力のようなものがあった。犬は、自分の犬生を走馬灯のように省みた。このように答えた者が、他に居ただろうか。………いや、居ない!この者、桃太郎以外には誰一人として居なかった!なんということだろうか。犬は自らの使命を想い、そして項垂れた。
その姿は、大名行列に姿勢を低くする農民によく似ていた。
桃太郎はその姿を見、「不味いこと言ったかな?」と不安を覚え、「いやいや、何も間違っていないさ」と一人ノリツッコミをしていた。しかし、犬が項垂れたのがなぜか全く分からない。やはり、桃太郎は村育ちなので、大名行列に対する農民行動を知らない。残念ながら、犬の現在の行動は、桃太郎の不安を掻き立てるだけのものであった。
桃太郎がそうであるとも知らず、犬は文言を練っていた。なんと言うべきかを悩んでいた。いや、言いたいことは決まっているのだが、いかんせん今までの長い犬生で口にしたことのない類の言葉なので、このような言い回しで正しいのか、などと勝手に困惑していた。もちろん、取り越し苦労である。
たとえ、そうだと知っていても、この犬は文言を練ったであろうけども。
「この犬めを、どうかお供にして欲しい」
「どうなったんだテメッコラー!」的な質問が来たら嬉しいなー。