篠ノ之束の生活は、以前とは比較にならないほどに充実していた。
数ヶ月前の死んだような絶望的な生活とは違う。
自身と同類である”人間”が存在すると分かったのだ。これが生活を一変させないわけがない。
頻繁にウェルズ博士とプロジェクションを応用した同時会話をしているらしく、毎日ノロケ話のように織斑千冬へと聞かせている姿が学校内で目撃されていた。
話している内容は、千冬に理解できる領域を超えていたものの、あのメールを送ってきた相手が、あの束が楽しそうに、そして本気で会話してもついてくることが出来る人間であったこと、また束の天才的な頭脳かつ興味を持った研究材料に対して後先考えない発見や発明をする性格を悪用しないだけの良心を持った善人であったことが、千冬にとっては何よりも嬉しかった。
千冬自身、この異常とも言える身体能力で悩んだことも多かった。だが、そのたびに周りに居た束(や一夏達)に助けられてきた。頭脳的な面で、知能的な面で千冬は、束の力になれなかった。そのことがこれまでずっと気がかりだったのだ。
千冬がこの呪縛から解放されたことによって、剣道における実力をもう一段上のものとするのは別の話である。
*
けたましく鳴る目覚まし時計のような警告音。この音は、ウェルズの付けている――ウェルズと束の持ち物を普通のモノで例えると――スマートウォッチのような代物から発せられている。
この音は、いつも束とウェルズの会話の終了を告げる合図ともなっていた。
『……おっと、もうこんな時間だ。ミス・タバネ。会話の途中で申し訳ないが、抜けさせてもらうよ。マルチバースにおける量子考察論については、またの機会に』
ウェルズは、早次にそう言うと、早急にプロジェクションの電源を落としたようで、束の眼の前には固まったウェルズのプロジェクション投影が残っている。
「ハリーの奴、忙しいとはいえ、突然会話を切るなんて!」
あの警告音に会話を遮られることを束は嫌っていた。確かに、社会的地位のあるハリーに十分な時間があるとは言えないのも確かだろう。
でも、それは私と有意義な会話をするよりも必要なことなのだろうか。なんて、考えてしまう自分が嫌にもなって。年齢相応の悩みを抱えることとなった私にその解決策は、自身の頭脳を持ってしても分からなかった。
日本に住む一女学生でしかない自分と対等に話をしてくれる著名な科学者。
一体何故彼は、私との会話<暇つぶし>にこれだけ付き合ってくれているのだろうか。
気になった私は、ハリーについてもう一度いちから調べなおすことにした。一体彼がどんな人物で何をしている人物なのか。上辺だけしか分からないような、概要だけじゃなくて。
彼の書いた論文、技術書、公演、全てに彼の何かが詰まっている。そしてそこから導き出すのだ。
彼が一体何故私に付き合ってくれているのかを。
*
「……どうするべきか。それに……こいつは一体なんなんだ」
ウェルズは、自身がタイムボルト<時の保管庫>と呼んでいるスター・ラボ内に存在する/しない部屋に居た。
一人で佇む彼は、以前同様台座に手を置き、プロジェクション映像を見ていた。
映されていた映像は、超高速で移動する赤い閃光の黒い物体。
一瞬しか映っていないそれを見ても、さっぱりと分からないといった様子。
「スーパースローで再生してみてくれ」
ウェルズが虚空に話しかけると、映像がスーパースローへと切り替わる。
映っていた映像は、謎のコスチュームを着たゾンビらしき何かが赤い閃光を纏いながらに走っている姿だった。
映像を見てウェルズは、困惑し焦り始めた。これまで束との会話で一度たりとも余裕を崩さなかったような人間が、だ。
「GIDEON、こいつの骨格をスキャンして、一体誰と一致するのか、該当者を割り出してくれ。もってきたデータも全てでだ」
『了解しました、Dr.ウェルズ。検索完了まで25.36秒』
25秒と少し、普段であれば一瞬で過ぎ去るような時間も、ウェルズには、永遠のように感じられた。
彼のズボンのポケットに入っているスマートフォンのバイブが震える音がする。
きっと束からだろう。彼は思った。出なければ、より面倒な事態に陥るだろうし、また私がここに来た意味が分からなくなる。
そう思い、ウェルズは、スキャン結果が出るのとほぼ同時に電話へ出た。
「どうしたのかね。ミス・タバネ」
その声に動揺はない。だが、その視線の先には、通常ありえない答えが出ていた。
『99.84%の確率:ハリソン・ウェルズ/男:2015』
*
休日であるはずの日曜日、織斑千冬は、突然のインターフォン音で起床した。
まだ朝の5時頃だというのになんだというのか、千冬は少し頭にこないこともなかったが、しようがないと思い、顔を洗う。
こんな音がなった後でも、気持ちよく眠っている一夏<弟>の頭を少し撫でてから、玄関のドアを開ける。
小さなアパートに兄弟で住んでいる二人にとって、押し入り強盗などという犯罪は、死活問題だった。
そのため、呼び鈴に出る際、千冬は後ろに竹刀を隠し持っていることが多かったし、一夏は防犯ブザーを持っていることが多かった。
この日も、千冬は最低限の身だしなみを整えた後、竹刀を後ろに隠し持って、玄関のドアを開けていた。
ドアの先では、メルヘンチックな洋服に身を包み、メカメカしい謎のウサギ耳を付けた千冬の親友、篠ノ之束が立っていた。
千冬に見えた束の顔は、満面の笑み。彼女にはそんな顔の束に覚えがあった。
以前、未知の素粒子を発見しに行こうとした時も、ハリーのことを見つけた時も、こういった顔をしていたように、千冬は記憶していた。
束は、千冬が開けるのが待ちきれなかった様子で興奮を隠さずに言い放った。
「ちーちゃん!開けるのが遅いよ!!!さあ!アメリカへ!スターラボへ行くよ!」
突然馬鹿なことを言い放った束の頭に、千冬の竹刀の一撃が炸裂したことは言うまでもない。
プロローグ1話とプロローグ2話の間に入る1.5話になります。
微妙に収まりが悪かったので短いですが、投稿させて頂きます。